長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等に出掛けたものだったが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。息子達が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していたことを、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んだり、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その「デジブック」が終了したことで写真がブログから消えてしまったこともあり、改めて、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)してみようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。
古い写真から蘇る思い出の山旅・その36
「茶臼岳・朝日岳・三本槍岳」
(1)
もう24年も前になる、1999年10月に、当時一時所属していた山の会の仲間と、那須岳の「茶臼岳・朝日岳・三本槍岳」を、訪れたことが有った。
当時は、まだ、バカチョンカメラ(手の平サイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、フィルム代を気にしながら撮った写真は、その都度、同時プリントし、アルバムに貼っていたものだったが、数年前に、そんな拙劣写真をスキャナーで取り込んで、「デジブック」にし、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めたりしたが、その「デジブック」が廃止されたため、ブログで、写真を見ることが出来なくなってしまった。そこで、改めて、外付けHDから、写真を引っ張り出して、リメイク、再度、書き留め置くことにした。
写真やメモを見ると、あの時、あの場所の情景が蘇ってくる。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところと自嘲しながら、・・・。
あの頃はまだ、出掛ける気力、体力、多少は有ったんだな・・・、つくづく思ってしまう。
深田久弥著 「日本百名山」
「那須岳(なすだけ)」
(一部抜粋)
那須の歴史や伝説を書きだしたら、この短い文章には入りきらぬだろう。それほど古くから広く知られた地名である。もちろんそれは那須野の方だが、その広々した量を除外して那須岳は考えられない。那須岳はその裾野によって生きている。
おそらく那須という名前を知らぬ人はないだろう。それはいろいろな話や文章から私たちの耳に入っている。日本には火山が多いが、関東から奥羽を縦断して北海道・樺太へ走る火山脈に、那須の名が冠せられているのをもっても、これが代表的な火山であることが察しられる。
(中略)
しかし私たちに印象されているのは、ナスの発音よりも那須という文字によってであろう。すでに景行天皇の時代に那須国と呼ばれ、国造(くにのみやつこ)が置かれたと伝えられている。文武天皇四年(700年)に没した那須直韋提(なすのあたいいいでい)のために、那須国造碑が建てられ、それが今でも現存し国宝に指定されている。文章を彫ったものでは日本最初の古碑だという。
誰でも知っているのは、那須与一(なすのよいち)であろう。この屋島の戦いの弓の名手は那須野出身である。
(中略)
さらに那須を一般化したのは殺生石(せっしょうせき)の伝説かもしれない。西域の美女褒姒(ほうじ)が日本に渡来して玉藻前(たまものまえ)と呼ばれ、時の帝の寵を一身に集めたが、実は白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)という狐であった。その本体が暴露されたので、那須野へ飛んでその怨念が殺生石に化したのだという。この伝説は、謡曲に、琴曲に、芝居に取り上げられて、文学的な材料となった。「奥の細道」で芭蕉はわざわざその殺生石を見に行って、
野を横に馬牽きむけよほととぎす
の句を残している。
(中略)
まず正面に大きく現れるのが茶臼岳(ちゃうすだけ)である。これは那須連山の最高峰であるのみでなく、盛んな噴煙をあげているので、一偉観である。現在唯一の活火山である。那須五岳と称えられるのは、南から、黒尾谷岳、南月山、茶臼岳、朝日岳、三本槍岳を指すが(異説もある)、その中枢部の茶臼、朝日、三本槍を、いわゆる那須岳とみなしていいだろう。
(中略)
那須七湯(湯本、北、弁天、大丸、三斗小屋、高雄、板室、現在はこのほかにも、旭、八幡、飯盛、新那須野の四つを加えて十一湯となっている)は、この火山脈のおかげである。那須野温泉郷とはいうものの、湯本のような高級ホテルが並ぶのから、三斗小屋のように今でもランプで粗末な宿が二軒きりというのもある。そしてそれらの温泉を根拠として登山の出来ることが、那須岳の大きな特典であろう。
山行コース・歩程等
1日目 那須ロープウエイ山頂駅→茶臼岳山頂(標高1,897.6m)→峰の茶屋→延命水→
三斗小屋温泉・煙草屋(泊) (標準歩行所要時間 約2時間)
2日目 三斗小屋温泉・煙草屋→隠居倉→熊見曽根→朝日岳山頂(標高1,896m)→
熊見曽根→清水平→北温泉分岐→三本槍岳山頂(標高1,916.9m)→
北温泉分岐→(中の大倉尾根)→北温泉→北温泉入口駐車場
(標準歩行所要時間 約5時間30分)
(朝日新聞社の「週刊・日本百名山」から拝借)
1日目
午前11時頃、JR黒磯駅改札口に集合した仲間、タクシーに分乗して、那須ロープウエイ山麓駅に向かったが、紅葉シーズン真っ只中とあって、途中は大渋滞、地元のドライバーならではの抜け道を迂回しながらも、1時間30分程掛かってしまい、那須ロープウエイ山麓駅(標高1,420m)に到着したのは、12時30分頃だったようだ。
ロープウエイも、行楽、観光客、ハイカー等、老若男女、乗車待ちの長い列が出来ており、乗車待ち時間は、約1時間、その間に、立ち食い状態で昼食をとり、
結局、那須ロープウエイ山頂駅(標高1,690m)を、歩き始めたのは、14時過ぎだったとメモが有る。
14時40分頃、茶臼岳山頂(標高1,915m)、三角点(標高1,897.6m)に到着、
山頂付近、行楽観光客、ハイカーでごった返しており、長居は無用、
10分程休憩後、出発、峠の茶屋方面に下ったようだ。
峰の茶屋付近で振り返り見た、噴煙上げる茶臼岳、
峰の茶屋からは、避難小屋、無間谷橋、延命水、沼原への分岐を経て、
砂礫帯から、樹林帯に進み、
16時30分頃、宿泊先の、三斗小屋温泉・煙草屋(標高1,500m)に、到着した。
確か、当時、露天風呂は、男女交互時間制で、17時までが女性専用で、その後、入ったような記憶が有る。
夕食後、仲間数人と、冷え込み厳しい小屋の外に出て、満天の星空を眺めながら、しばし語り合い、翌日の好天を予想しながら小屋に戻り、布団に潜り込んだが、冷え切った身体があたたまらず、寝付けなかったことが思い出される。
三斗小屋温泉(さんどごやおんせん)
那須では、那須湯本温泉、板室温泉に次ぐ古い湯治場で、始まりは平安時代末期とされている。現在では、登山者の山小屋として、大変人気が有るが、「湯」だけをを目当てに訪れる人も多い。「煙草屋旅館」「大黒屋旅館」の2軒が有り、いずれも明治44年創業、それ以前は、5軒有ったのだという。
山小屋の灯
(つづく)