たけじいの気まぐれブログ

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わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

2023年10月29日 09時49分56秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その33

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

出典
後撰集(巻十三)

歌番号
20

作者
元良親王

歌意
あなたに逢えず、苦悩の底に沈んでいますから
今となってはもう、この身を捨てたのと同じことです。
いっそのこと、難波に有る「みおつくし」の言葉のように、
身を尽くして(身を捨てて)もいいですから、
お逢いしたいものですよ。

注釈
「わびぬれば」は、「相手に逢えず、つらく寂しい気持ちなので」の意。
「今はた同じ」は、「今となってはもう、身を捨てたのと同じ」の意。
「はた」は、「もはや」「やはり」と訳す副詞。
「難波(なには)なる」は、「難波潟に有る」の意。
「みをつくしても」は、「澪標(みおつくし)」と「身を尽くし」の掛詞。
「澪標」とは、「舟の進路を示す杭」のこと。
「逢はむとぞ思ふ」の「む」は、意志の助動詞。

「詞書(ことばがき)」には
相手の女性との秘密の恋愛関係が露見してしまった後に
その女性に送った歌であることが、記されており、
周囲から抑圧され、絶望状態の中で、
例えこの身を滅ぼしても構わないから逢いたいという、
一途な男の愛情が歌われている。


元良親王(もとよししんのう)

陽成天皇の第1皇子。
兵部卿であったため三品兵部卿とも呼ばれた。
平安朝随一のプレーボーイだったと言われており、
多くの女性との贈答歌は、
「元良親王御集」に収められている。
因みに、「わびぬれば」の相手の女性は、
宇多上皇が愛した女性だったと言われている。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

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