たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

10月第4水曜日は、バタフライ中心レッスン、

2023年10月25日 21時36分18秒 | スイミング

当地、今日の天気予報は、「晴のち曇、ところによって一時雨」で、
畑地の野菜に、雨を期待していたが、
結局、夕方までは、雨は降らず、
西の空、夕焼けが見えていた。
早朝散歩・ウオーキングも休んで(サボって)、
1日中、グテグテ過ごし、
体調イマイチ、身体、重ーい、怠ーい、だったが、
こんな日こそ、泳いで来るべし・・、
やおら、重い腰を上げ、
19時~20時、スイミングクラブ成人クラスレッスンに出席、
先程、帰ってきたところだ。
若い頃からの持病の腰痛対策、リハビリ的運動と決め込んで
続けているスイミング、 
細くても、長ーく、続けるべし・・・。



今日は、10月第4水曜日、
ベテランのN指導員によるバタフライ中心レッスンだった。
どちらかというと、がんがん距離を泳がすタイプの指導員、
レッスンの締めも、
4種目混合、
25m,50m,75m,100m、75m,50m,25m
最後は、バテバテ、
レッスン終了後の居残りスイムも、
50m✕5本で止めて、引き上げてきた。
アップ、ダウン 含めると
トータルで、1,000m位は、泳いだのかな?
泳いで帰って来れば、心地よい疲労感と
それなりのスッキリ感、
遅い夕食に、梅酒水割1杯
今日も、バタンキューで、熟睡出来そうだ。


炬燵、火鉢、湯湯婆、行火(再)

2023年10月25日 15時37分12秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、7年前の2016年2月に、ブログ・カテゴリー「M男のあの日あの頃」に書き留めていた記事、「炬燵、火鉢、湯湯婆、行火」に、アクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクしてみた。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


炬燵、火鉢、湯湯婆、行火(再)

昭和20年代、30年代、M男は、地元の高校を卒業するまで、北陸の山村で暮らしていた。
身体は、丈夫な方ではなく、しょっちゅう風邪を引いたり、扁桃腺炎で高熱を出したりして、年に、何日かは、学校を休むような、ひ弱な児童生徒だった。
M男の通っていた1学年1クラスの小学校中学校併設校では、当時、3月の卒業式に、無遅刻無欠席の児童生徒に対して、「皆勤賞」なる表彰状を授与していたが、斯々然々で、9年間、1度ももらったことが無かった気がする。
毎年、冬になると、血行が悪い体質だったM男の手の甲、指、耳たぶ等は、必ず、赤く膨らみ、痛痒くなる、「霜焼け(しもやけ)」になり、憂鬱だったものだ。熱いお湯に唐辛子を砕いて混ぜ、手、足を浸けると良い等と言われ、繰り返したが、全く効果は無かった。
当時の農家の家は、24畳、18畳等の座敷や茶の間を持つ、大きな家が多かったが、M男の家は 終戦後、緊急避難的に建てた狭い家で、10畳の座敷、8畳の茶の間、2階に6畳の寝所、囲炉裏の有る板の間の台所、そして、作納屋という間取りだった。冬期には、そんな建て付けの悪い小さな家に、日本海から吹き付ける北西の季節風が容赦なく襲い掛かり、ヒュー、ヒュー、隙間風が入ってくるのだった。
当時は、暖房設備等は皆無であり、一応、常に暖かくしていた部屋は、8畳の茶の間、1部屋に限られていた。
茶の間には、「囲炉裏(いろり)」が有ったが、晩秋から春先までは、囲炉裏枠に「炬燵」を設置し、木炭をおこした炭火を絶やさなかった。後に、「掘り炬燵(ほりごたつ)」と呼んだが、当時は、炬燵と言えば、そういうものだと思い込んでいたものだ。屋外から冷えて、濡れて帰ってきた時等には、最初に炬燵に飛び込んだものだ。
茶の間の隅には、真鍮製の大きな「火鉢(ひばち)」が置かれており、やはり、木炭をおこした炭火を絶やさず、「五徳(ごとく)」には、必ず、大きな「薬缶(やかん)」が、乗っていた。
常にお湯を沸かしており、今日で言う、加湿器の役割を果たしていたとも言える。
火鉢は、餅(もち)や、鯣(するめ)を焼く時にも便利だった。

火鉢
(ネットから拝借イラスト)


炬燵や火鉢の炭火をおこすのは、台所の囲炉裏と決まっていて、炬燵や火鉢の火加減が弱くなると、その都度、炭火奉行(?)の祖母が、「十能(じゅうのう)」で運んで、補充していたが、1日に、1回~3回、手間がかかる仕事だったと思う。
程よい熱さに調整するには、「火箸(ひばし)」で、灰を被せたり、除けたり、小学校高学年ともなれば、M男等も自ずとやっていたような気がする。
昭和30年代後半位には、火持ちする「豆炭(まめたん)」等が普及してきて、木炭の出番は無くなっていった気がするが、現在になって、「炭火焼き肉」等と、木炭が再び表に登場してくるとは、その頃は思わなかったような気がする。

そんな具合で、茶の間は、なんとか暖かい部屋となっていたが、茶の間以外の部屋は、板壁、土壁から隙間風も入り込み、外気とそれほど変わらなく冷え切っていたため、就寝する以外は、家族全員が、茶の間の炬燵を囲むしか考えられなかったのだ。
当時は、まだ、ラジオしかない時代、しかも電波が極めて届きにくい山間部で、唯一、NHKラジオ第1放送が、雑音混じりでなんとか聞える環境だったが、夕食時間等は、家族全員で、そのラジオに耳を傾け、娯楽番組を楽しみにしていたものだ。
茶の間も、座敷も 寝所となるため、就寝時には、一斉に各部屋に散らばるが、茶の間以外の布団には、あらかじめ「湯湯婆(ゆたんぽ)」を潜らせ、温めておく必要が有り、M男もよく手伝わされた気がする。湯湯婆の他に、炭火を入れる土製の「行火(あんか)」も有ったが、子供には危険ということで、祖父や父の布団を温めるのに使っていたように思う。

行火
(金沢くらしの博物館ホームページから拝借画像)


茶の間では、炬燵を中心に、十字形に布団を敷き、足を伸ばせば、炬燵から暖を取れるという具合で、主に、M男と弟、祖母の寝所となった。
当時は、現在のような防寒着類等、普及しておらず、大人も子供も、衣類は、メリヤス等の厚手の重ね着、「綿入れちゃんちゃんこ」等が当たり前、赤いほっぺ、コロコロした格好だったことが思い出される。

僅か、70年程前の話であるが、遠い昔話のような気がしてしまう。
ほとんど、死語化しているような物の名前、言葉、
平成、令和の若者からは、「ナニ、ソレ?」と、言われそうである。


長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは 物をこそ思へ

2023年10月25日 09時15分06秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その32

長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れてけさは 物をこそ思へ

出典
千載集(巻十三)

歌番号
80

作者
待賢門院堀河

歌意
末長く変わることなく、愛して下さるかどうか
あなたのお心のほどは分かりませんので、
昨夜の寝乱れた黒髪のように、私の心も乱れて
今朝は、物思いに沈んでいますよ。

注釈
「長からむ心」は、「末長く、女性(私)を忘れまいという
男性(あなた)の心」の意。
「知らず」は、「あてに出来ない」「期待出来ない」の意。
「黒髪の乱れて」は、「私の黒髪が乱れているように、
心を取り乱して」の意。
「物をこそ思へ」は、「物思いをすることだ」の意。
「こそ」は、強意の係助詞。

「千載集」の詞書には
「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる」
(百首歌を差し上げた時、「恋」の題の趣を詠んだ歌)
と有り、
恋人と一夜を明かした後、朝の別れに、
黒髪を乱して、ただ一人思い悩む女性の情感が
しみじみと伝わってくる作品。


待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)

神祇伯(じんぎはく)源顕仲(みなもとのあきなか)の娘で
前斎院令子内親王に仕え、「六条」を呼ばれていたが、
後に、崇徳天皇の生母待賢門院(たいけんもんいん)に仕え、
「堀河」と呼ばれ、当代の代表的女流歌人の一人だった。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)