昨年からずっと続いているコロナ禍の暮らし、もう1年以上は、基本、家籠もり、遠出、旅行、山歩き等を控えてきたが ここに来てまた感染第三波に歯止めが掛からなくなっており、緊急事態宣言が発令されている始末。新型コロナウイルス収束はいつのことやら、まだまだ当分は 元の暮らしに戻せそうに無い。
最近のテレビ番組でも 過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきており このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。
数多のブログ拝見していると、何事においても 緻密に計画を立て、強い意思をもって実行し、成し遂げておられる方々のなんと多いことか、かたや 突然思い立って あれやこれやに手を伸ばして、とりあえずやってはみるものの、中途半端、尻切れトンボ、三日坊主、気まぐれな性分の爺さん、物笑いの対象だなと自嘲もしている。「中山道を歩く」も その限りだった。
もう 17~18年前頃のことだが、突然 「街道歩き」に興味関心を持ち、思い立って 「日本橋」から「中山道」を 歩いたことがある。もちろん 仕事の合間、忙中閑をひねり出してのことで 細切れ、日帰りの繰り返しで歩き継なぐ方法ではあったが、それでもなんとか 2~3年掛けて、「高崎宿」の先 「板鼻宿」まで達した。しかし それ以上続行するには 日帰りが困難となり、まとまった休日等取れない自営の仕事に支障をきたすため あっさり 中止してしまった。もともと 始点「日本橋」から終点「三条大橋」まで 「中山道六十九次」を完歩するつもり等さらさら無く、とりあえず、行けるところまで行ってみよう位の 軽い気持ちだったので、「中山道」のほんの一部、関東平野を縦断しただけで終わった分けだが、残念というよりは 十分、いい体験をしたものだと満足したものだった。現代においては、数十キロ、数百キロ先の地点に移動する場合 鉄道や車を利用するのが当然の時代、敢えて 自分の足で歩いて移動してみると、本当の距離感というものを 実感することが出来る。考えてみれば わずか100数十年前までは どんなに 遠い地であっても、人は 草鞋(わらじ)を履いて歩いて移動するしか 手段が無かった分けで もしかしたら 4代、5代前の先祖が歩いていたかもしれない 同じ街道を歩いているという妙な気持にもなるものだ。
「中山道」は 「中仙道」とも書かれたりするが、徳川家康による宿場制度整備計画の一環で出来上がった街道。江戸と京都を結ぶ533kmの街道で、「東海道」に次ぐ幹線道路だが、江戸時代以前の「東山道」の道筋と重なるところも有る。今では ほとんど国道になっていたり、複数の道筋が出来ており、旧街道そのままを歩く等は無理な話になっているが、ところどころに 当時を感じさせる旧道跡や遺構等が残っており 当時の旅人がどんな思いでそこを通過したのか思い馳せる楽しさがある。
当時のブログにはまだ 「たっぷり時間の有るご身分になった暁には さらに 信濃路から木曽路、そして 美濃路、近江路、京都三条大橋まで 「中山道」を 歩き通してみたいものだ」等と 思いを書き込んでいたが、今となっては、気力的、体力的に無理、夢の話になってしまっている。
先日 浅田次郎の長編時代小説「一路」を読破したが 中山道が舞台だった。美濃路、木曽路はともかく、「安中宿」辺りから「日本橋」に掛けての描写では 「あの辺りか・・」等と場面を想像、記憶を重ねたものだ。
近年、「東海道(日本橋~京都三条大橋)を歩きました」とか、「五街道を全て踏破しました」等という人が やたら大勢おられ、現在進行中の方々もおられる。
ブログをやるようになってからは、自分では出来ない「街道歩き」の記録や写真を拝見拝読し楽しんでいるところだ。
横山正治・安斎達雄 著 「中山道を歩く」(上)(学研文庫)から拝借「中山道六十九次」
「日本橋」から「板鼻宿」まで歩いた時の紙焼き写真が有り、スキャナーで取り込んで 改めて 「中山道を歩く記」に してみることにした。
(つづく)