ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

山形新聞日曜随想9月

2015-10-05 12:33:28 | 地域文化

 だいぶ時間が経って、話題としては旬を過ぎてしまったけど、まず、読んでおいてもらいたい記事なので載せておこう。終日出掛けていたこともあって、今日のアップをなんとか乗り切るための方便でもある。ご容赦!

 

 米沢市芸術文化協会ステージフェスティバルの作・演出を担当した。今年はいつもと違って県民芸術祭の開会記念公演。県内各地から一杯お客さんも来るって言うし、こりゃ目一杯頑張らなくちゃ。

 まず考えたのは、ステージから飛び出すってこと。ステージフェスティバルなのに?そう、会場前ではエイサークラブの華やかな演舞、ロビーの特設舞台ではフルートの演奏がお迎えし、能舞台では子どもたちが狂言を披露した。休憩時には、米沢市職員による「鷹山コント」まで上演するという、とことんサービス、熱っついおもてなしを実現した。そりゃそうだ、テーマは『おしょうしな=染めなして愛』だもの、米沢の人たちの優しい思いやりの心を、存分に感じ取ってもらえる演出にしなければ。

 ステージの方もこれまた多彩だ。幕開けは、毎春、米沢市民総出で踊る米沢民謡流し、客席にまで溢れ出た踊り手が賑やか祭りを再現し盛り上げる。踊りに込めた祈りは子ども獅子踊りに引き継がれ、健気に舞い納めてくれた。高校生の勇壮な太鼓に乗ってモダンダンス教室の子どもたちが可憐に舞台を飛び、高校ダンス部が琴と尺八の調べに合わせ優雅に舞った。

 このステージのために作られた新曲も盛りだくさん。新民謡「四季めぐり米沢」は日本舞踊のグループのあでやかな踊り、ポップス「二人だけ米沢」は若手の歌い手とダンサーたちのコラボレーション、市内合唱団総出の演奏には「あなたへ米沢」と、米沢とオリジナリティにこだわった構成となった。

 シーンとシーンの合間は、劇団若手二人のコントと、語り部さんの昔話でつなぎ、旅人の青年が米沢の人や歴史、文化に触れておしょうしなの心を理解していくという筋立てにした。心和ませるやり取りと話術が会場の雰囲気を暖めてくれた。最後は出演者全員、小学生の指揮で「僕たちのまち米沢」を大合唱し、終われば外に出て、おしょうしなの言葉とともに観客をお見送りした。すべてに、もてなしの心、感謝の思いが溢れたフェスティバルとなった。

 出演団体を見て思ったのは、伝統芸能系の文化芸術団体って高齢化してるよなぁ、ってことだった。日舞しかり、邦楽、吟道、書道、華道、茶道、いずこもシニアの一人勝ち、いやいや、そりゃ勝ちとは言わない。色合いは違っても合唱だってそうだ。かく言う我が菜の花座も今やシニアの勢いに飲み込まれつつある。

 この光景、どう見るか?シニアの元気万歳!を叫ぶのか?文化のじり貧現象極まれり!と見るのか?たしかに高齢者が元気に文化芸術を引っ張って行くのは悪くない。伝統系など歳を重ねなければ到達できぬ高みってものもある。だがね、次の世代への伝承とか、今の青壮年世代の行く末ってこと考えると、いいんかい?これで、の感は否めない。

 同じことは、男女の文化度格差についても言える。今回のグループ構成員を見ても、ダンスと舞踊はほぼ100パー女、邦楽、合唱でかろうじて男2割。さらに驚きは、高校太鼓部の新入生全員が女だったことと。以前は女人禁制だった獅子踊りも、今や主力は女子。そうそう、高校の部活でも、文化部はどこもかしこも女系サークルだ。

どこまで行くのか?女の文化占領!いや違う、占領なんかじゃない、男はとうの昔に文化という領土を放棄しちまってるわけだから。文化?芸術?そりゃ女子どものものでござんしょうってとこだ。男だったら、仕事一筋どんと来い!スポーツ根性ファイト一発!やる気満々賭け事勝負!だがなぁ、いいのかこれで?

近頃話題の結婚できない症候群、これって女と男の文化度格差の現れじゃないのか?リタイア後に粗大ゴミの男たち、そりゃぜったい、文化度の低さが原因だ。いいのかな?このままで。

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またまた、また!台本書き!菜の花座12月公演は『不幸せくらべ』

2015-10-05 09:25:31 | 演劇

 6月に『お遍路颪』書き上げて、8月盆明けにはシニア4期生公演『シェアハウス ブルース』、それから4日間でコント大会用コント台本3本仕上げ、間休憩1週間足らずで、菜の花座12月公演の台本書きだ。質を問わなければ、売れっ子作家並みのハードスケジュールだ。

 アイディア、よく続くもんだなぁ!って我ながら感心する。もうダメ!もうネタ切れ!もうお終い!って書き終わるたんびに思うんだけど、やらねばならぬ、書かねばならぬ、と必死で脳みそをこねくり回すと不思議と、それなりのもの、本当に”それなり”か?が浮かんでくる。まっ、叩けよ、さらば開かれん!って奴?意味違うか。

 そんな苦労して創作にこだわることないじゃないの、って声もちらっとは聞こえて来る。が、僕に言わせれば、既成の本を選ぶ方がよっぽど難しい。役者の年齢、性別、持ち味、力量、・・・諸々の事情を勘案しつつ、しかもやりたいもの、演じる価値のあるものを探すとなると、これはもう、駱駝と針の穴だ。さらに、土地柄って問題もある。

 菜の花座の役者の場合、どんな役柄でも演じきれるって力は持っていない。舞台に上がってせりふしゃべるだけなら、やってやれないこともないが、とてもとても作品の深みを突く仕上がりには達せられない。演技力だけのことではない。素養のあるなしだったり、身ごなしの自由度だったり、別人生を生きるに欠かせないいろんなものが不足している。それは他の劇団が著名な作品取り上げたときにも感じることで、その役、その人に無理でしょ、とか、まあやりたいことはわかるけどね、的な感想を抱くことがほとんどなのだ。特に過去の名作となると、越えなきゃならない山や壁が多すぎて、今時の若者じゃ無理、無理、無理ぃぃぃ!

 それと、僕には恐れがある。全員舞台に上げておかないと、団員がいなくなるんじゃないか?なんとも寂しい懐疑心なのだが、役が付いていれば、稽古にも出て来ざるを得ない、休みがちでもともかく出てきてさえいれば、辞めにくい、そうやって団員を手の内に残しておきたい。それって、劇団員を信じてないからでしょ?って反発くらいそうだけど、以前は、これが現実の劇団運営を続けてきたのだ。てことは、今は少し違うが。人間の意欲なんて儚いもんだ!夢なんて持つのも易く、失うのはさらに簡単だ。まして、若手の場合、遊びがある、恋がある、仕事がある。大人ならばさらに家庭もある。舞台に掛けた情熱なんて、一公演分の月日で消し飛んでしまうのだよ。

 自分で書けば、ともかくその時いるメンバー全員に役を張ることができる。全劇団員に役を与える、これは、既成の本ではほぼ叶えられない要求だ。だから、書くことにこだわる。創作で行く。

 さらに創作だと、役者の力量や、持ち味に合わせて書き分けることができる。そう、年齢、顔立ち、姿形、演技力から、記憶力とか、仕事の忙しさとか、演劇への熱とか、あらゆるものを考慮して書くことができる。ここら辺、弱小劇団の座付き作者は会社の人事担当なのだ。例えば、シニアとかになると、せりふの数や出番の量も調整しなくてはならない。人にもよるが、70歳を越えると、わずか数行のせりふも覚えきれない、なんてこともごく当たり前にある。それでも、みんなと一緒に出たい、そういう人の意欲を汲むってことも大切なことなのだ。地域劇団の役割でもあると思うのだ。高齢者に向く役で、せりふは数行、出番は1カ所なんて、既成の本があると思うか?

 てことで、今回もまた、書く。またまた、書く。タイトルは仮題だけど、『不幸せくらべ』、なんとなく中身が透けて見えるよな。どんなもの書こうとしてるか、それは次の機会に書こう。そう、なんたって、12月の公演まで、何度でも書いて記憶に擦り込んでもらわなくっちゃならないからね。む

 

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