自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

小笠原礼法とホツマツタヱ

2023年05月05日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

・・・2023年5月5日

 

一方、なぜ、ここで、聖徳太子という、純粋なる、

日本の皇族の血を引いた方こうした事

(ホツマツタヱ隠蔽)を黙認されたのか・・・

それには、深い理由があるようです。


このとき、顕れた聖徳太子のメッセージは、

聖徳太子が摂政時代に、’やむを得ず’に’秀真伝え’を、

蘇我馬子がしたためた古書と、差し替えなければ

ならなかった~ことへの複雑な想いが伝わって

きました。


太子の声なき返答はこうでした。

”大和(やまと)を守るため”。 


当時の富国強兵対策の鏡となる大国は、日本の

対馬海峡を隔てたすぐ傍の、大陸にありました。


それらの国々と、どこかで、妥協しながら、

共存する道を選ばなければ、きっと、日本は、

大陸から、植民地的な属国として、攻められ、属国に

成り下がる可能性ももしかしたら、あったの

かもしれません。


聖徳太子は、帰化人である、蘇我氏を政治の

執務者として容認し、共に働きながら、その動向

をうかがい、日本を守るという極めて、戦略的な

立ち位置をバランスをとりながら、保持して

いたのだろうと推測しました。

 

こうして、現代、さまざまな角度で多くの研究者

が、”秀真伝え”を研究できる時代になりました。

それまで、秀真伝えは、前にも述べたように、

密に、隠されて守られ続けてきました。


たとえば、徳川家の血をひく、四国小笠原家

蔵に、あるいは、滋賀県の琵琶湖湖畔の

田中神社という、小さな神社の奥宮で・・・

 

小笠原家は、’小笠原流礼法’として 日本伝来

作法流儀を現代人にも伝え続けています。


こうして、’秀真伝え’を守り続けながら日本精神

の奥深さを忍ばせる所作を世の中に知らしめて

きた背景には、小笠原家の御蔵に大切に保存

されていた、ホツマツタヱの存在が影響を

与えていたかもしれません


一つ一つの、伝統作法の裏に、我々、日本人の

心を軸に、ご先祖様たちが守り通してきた

”謙虚”さと、”相手へ尊敬心”と、”ものの大切さ”

を示し合わせた古代日本精神が、脈々と

息づいていることを、とても、尊く

感じます

 

後添え)

Wikpediaによると、小笠原流礼法(総領家系)

とは昭和期に、小笠原総領家(旧小倉藩主家)

第32代の小笠原忠統は、『小笠原流礼法伝書』

(東洋文庫)等を出版し、家伝の古文書や

教えをもとに一般へ向けて礼法の普及に努めた。

忠統は、糾法・弓馬礼の内、一般生活に関わる

「礼」に特化し教授した。

武家故実の中核である弓馬術の教授・実践は

していないが、忠統の流れを

汲み弓馬術を実践している。


「小笠原流 流鏑馬」(宗家 源長統)という組織もある

現在は、三十一世宗家 ・小笠原 清忠氏が弓馬術礼法他、

「時、所、相手」に応じた正しい生活態度として

現れる礼法や、礼法の歴史を、多数の著書の中で

伝書をもとに、詳述している。

 

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聖徳太子の葛藤(3)

2023年05月03日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

大化の改新の必然性 2023年5月3日

*********************

前回の続きです。

ある日、私の目前でメッセージを伝え始めた

聖徳太子は、続きを語った:


なぜ、女性天皇の擁立が必要で

あったか?・・・”

言い変えれば、それは、誰にとって、

メリットであったのか?


それは、当時の権力者、帰化人である、

蘇我一族にとっての 権力を堅固に

するための悲願であった。


私(聖徳太子)亡き後、曽我氏の権力が肥大し、

祖国への立憲を守るため

”大化の改新”が中大兄皇子中臣鎌足

よって為され、曽我氏をたおしたのも、

意味があることでした。


日本人の魂と精神を守るためにあの反乱は、

必須だったのです。

蘇我家を滅ぼし、日本古来の天皇制国体

に戻すために


が、私(聖徳太子)の時代は、仏教伝来を

奨励して、異国の精神文化を

日本人本来の精神文化に融合させることも、

国策として必要だった。


仏教を積極的に受け入れることで、

民衆の異国への関心と畏敬が進むこと

になり、近隣国との友好を保つ良い

きっかけでもあった。


それまで日本の精神的支柱は、神道一筋

だったが、精神文化を取り入れる

ことで、次第に、様相が変わってきた

のでした。”


”それでは、なぜ、そうした大陸文化

重きを置いた政策が必要だったのか?


私(聖徳太子)が仕えた、推古天皇は、

蘇我一族の純粋の血統を引き継いて

母上は、蘇我稲目の女。


当時、私とともに、政治運営の実権を

握っていた、蘇我馬子は、推古天皇の

叔父にあたる。


大陸文化に重きを置くことで、外交の重要性

を確立すること。


そのためには、蘇我氏の権力を活用する

意味がありました。

そして、曽我氏の権力が充分ふるうため

には、それまでの、天皇血筋の

純粋な系統図と日本人が古代より拠り所

にした行動基盤(風習)などを書きした

ホツマツタヱは、それを推奨するときには、

精神的支障でした


何故なら、天皇が神であり、由緒正しき血統で、

古来よりの文化を引き継いでいるという日本人

誇りは、他国への文化を受け入れるには純粋

すぎたからです。


そのために、蘇我氏の勢力拡大都合の良い、

新しい、日本古代文化史を編纂する必要が

あったのです。


こうして編纂された曽我馬子の二冊の

天皇系図と、風儀書は、古事記

として、正式な古文書として認められ

伝えられるようになりました


その本源は曽我氏とともに、摂政の座

にいた、私の決断によるところ

もあったのです。”

 

古事記編纂は、712年。

聖徳太子、蘇我馬子が活躍した時期は、

600年前後。


古事記の誕生までには、馬子が監修した

2冊の書をもとに100年の歳月が

流れていた。

(続く)

 

 

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聖徳太子の述懐(2)

2023年04月29日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

2023年4月29日

曽我馬子の二冊の改ざん書

*********************

昨日4月28日からの続き・・・

ホツマツタヱの隠蔽にご自分(聖徳太子)が

かかわったことを、そのメッセージでは伝えていた。


ところで、秀真伝え(ホツマツタヱ)の勉強会

では、”古事記、日本書紀など、日本には、多くの

古文書が存在するが、いったい、’秀真伝え’とは?”、

”古事記とどのように異なるのか?”、

というような疑問が出る。


この答えを、この時、聖徳太子と名乗る霊魂

が語ってくれたように思う。


それは、古事記がどのように編纂され、

当時の政(まつりごと)政策と

かかわっていたということだ。


ホツマツタヱは、当時も現存していた。

が、ある理由から 文字どおり、”お蔵入り”になり、

それ以後、蔵の中で、隠蔽され続けてきた。


おそらく、伊勢神宮でも、保存されている

のではないかという話も聞く。


ホツマツタヱが隠蔽された大きな理由は、

ホツマツタヱが当時の施政には、

好まらしからぬ、内容を含んでいたからだと思う。

逆にいえば、古事記や日本書紀には、そうした、
内容は含まれていなかったから現代にいたるまで、
陽の目をみていたといえるだろう。

たとえば、秀真伝え全編40綾(あや)の中に
流れる日本独自の”和と愛”精神文化は、
古事記や日本書紀と違い、論理的かつ哲学的でもある。

この物質世界を創り出す、五大元素の明記と 

その元素がどのように、宇宙創造にかかわっていたか、

古代文化の出現と、地球文化の始まり、

日本だけに目をむければ、イザナミイザナギの命

から始まる国興し、御子の天照大神無私の皇尊

(すめらみこと)としての国民への向き合い方と 

それに対する民衆の守るべき和の道、


施政者の、罪や悪業者への許しと理解、

”ヒトは神なり”というホツマツタヱ根本に

流れる思想が、あますところなく、

超古代日本の、歴史的変遷を通して、全40章の中に、

描かれている。


が、ある時、ホツマツタヱの誇り高き日本文化の

純粋性を保つには、不都合が生じる事態が起きた。


聖徳太子はそれについて、霊的言葉で、私に、

こう、述べられた。(青線部分)


”私(聖徳太子)のお仕えした、天皇推古天皇、

女性天皇であった。

蘇我馬子の姪御にあたる方です。


その際、日本初の女性天皇、推古天皇

擁立するためには、それまでのこの国に

ない、新しい規範と それを裏付ける

歴史書が必要でした。


ホツマツタヱのように、天照大神を男神と

している歴史書は、女性天皇誕生を

推し進めるには、不都合でした。


また、ホツマツタヱの中に明記されている、

超古代日本の進んだ、文明史や精神史を

知ることで、日本国民の誇りは助長されても、

異国分化を受け入れることには消極的に

なったことだろう。


我とともに、施政責任を持った、曽我馬子は、

秀真(ほつま)伝えと異なる内容で古代史を

語る、二冊の改ざん書を記しました。


これが後の古事記の原型となるのです。”


馬子の 古事記の元になった改ざん書とは?

そして、それをした理由とは?

次回に続きます

 

 

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聖徳太子の葛藤

2023年04月28日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

聖徳太子のメッセージとホツマツタヱの関連性(1)2023年4月28日

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来月以降、アートマセラピーサロン開けて、

秀真会(ほつまかい)を開こうと企画しています。

時期など改めて、このコーナーでお知らせして、

希望者を募りたいと思います。


ホツマツタヱの原文をもとに、とにかく40紋に

わたる原文を読み進め、内容を理解すれば良し

する程度の掘り下げ方で、月に一度を

企画しています。


そのまえに、今日から短い期間で、数回の、

冒頭タイトルで、ブログに記事を発表させて

いただきたいと思いました。

ホツマツタヱの概観を知っていただくためにも、

無駄ではないと思います。

************

 

知り合いの宮司様の中に、ホツマツタヱの

存在に重きを置き、信ぴょう性を

確信している方がいる。


しかし、現代の神道界では、古事記が宗務庁で

聖典と認めている以上なかなかホツマツタヱ

について、語るのは、難しいようだ。


ホツマツタヱと古事記の関係は??

ホツマツタヱを紐解くと、細部において、

古事記の神話とは異なる描写が出てくる。

例えば、天照大神は、古事記では女性神だが、

ホツマツタヱでは、男性神だ。


どうして、天照大神は女性神として描かれ

古事記が主流となり、ホツマツタヱが

隠蔽された背景には、時の事情などがあるようだ。


以前、このブログで、聖徳太子とのリーディング

を行ったこと書いた。

その詳細は、以下でホツマツタヱの隠蔽には

政治的事情があったと、理解した。


今から10年ほど前の或る日、セラピーが終わり、

談笑しているときに、突然その時がきた。


その場にいらした霊能的力を持つかたが、こう、呟いた。

”須田さん、このかた、あなたの前に現れて、

何かを、謝っている素振(そぶり)しているのけど。。。”


謝罪している風情というのは、その時の心象
であったと思う。

実際には、きっと、”悔やむ”か”良心に咎める”
心境を、ホツマツタヱに縁がある私の前に、
その霊が現れたのかもしれない~と感じた。

その方が、霊能力者とともに、結論したのだが、
聖徳太子だったようだ。

次回に続く・・・・


 

 

***********************

 

 

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神話は実在の話か,おとぎ話か?

2022年07月06日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

正道の神代時代から、権力を争う闘争世界への移行         2022/7/6

**************

超古代文明が栄えたところ、例えば、

日本の秀真伝えに書かれている

数十万年前から数万年前の時代は、

単なる

神代の神話と、現代人は思っている

ようだが・・・

 

私の師から聞いた話をもとにして

お話させていただく。

20万年前に都市があったか?

といえば、あったという。

現在は、土の下に埋もれている

かもしれないが、当時は、

美術や学問が盛んで、そこに

寺院も建られた。

が、その寺院の役割は現在と

少し異なる。

現在のような礼式にのっとった

礼拝場所というより、そこを

人々は通り過ぎるときに、

自分自身の中に住む神との対話に

意識を集中できるような

役割をしていたらしい。

 

この超古代都市の人々は、

現代よりはるかに高度の哲学を

持ちながら、生命力は強く、

今よりはるかに長い、寿命を

保っていた。

数千年というのは、驚くべき

寿命ではなく、数百年から

現在のように百歳を待つ前に、

平均寿命の年を迎えると

いうことは、考えられなかった。

 

古代人の信仰は、儀礼に満ちたもの

ではなく、むしろ、

生活の中の生き生きとした生命を

瞬間瞬間感じ、大切にして、

生きていくという、生命力の尊重

と、生命力を健全に生かす

智慧そのものだったようだ。

 

そうした生き方は、自分の生命力が

どこから与えられたかを、

承知だったから、その大元を十分

理解しその根源とつながる

ことができて、そこから無限の

富や物質的繁栄が 自然と

もたらされていった。

 

寺院は、そうした生命観とともに

発達した、科学や文化、

技術や歴史・遺産となる習慣など

後世に繋いでいくための

役割を果たすところだった。

寺院で人々は、そうしたことを、

記録を残し、保存しておいた。

また、集会場の役目をして、

専門家が集まり、研鑽したり、

当時の(現代よりさらに進んでいた)

科学的な議論をする場所

でもあった。

 

建築技術は進み、必要な金属の製造も

おこなわれ、農耕も行われ、

その都市に住む人たちは、一人ひとり

が自分の本質を生かした

仕事に従事し、賢明な智慧者が

数人いれば、穏やかに町の生活は

保たれた。

そこでは、法律はまだ作られておらず、

社会の調和は、健全に

保持されていた。

 

時が流れた。

人々の数は膨れ上がり、多くの

価値観が生まれ始めていた。

過去から引き継いて、当たり前と

されていた”正道”がいつの

間にか、無法の道を歩む者たちによって、

乱され始めた。

 

支配志向のあるものや、正直者たちを

利用しようとする連中も現れてきた。

こうして、次第に人々の間に分離

が始まり、統治するものと、

されるものという、区別が出てきた。

 

正直で正道を歩く人たちの一部は、

こうした風潮に、批判的になりながらも、

一線から身を引いて、隠遁的生活をしながら、

自分たちの信じる智慧と、正道の道を

同胞に訴える努力を試みた。

この隠遁生活をした、智慧者たちが、

現代に続く、原始的な

僧侶団の源流になった。

 

表舞台で権力を大きくしていく

統治者は、王と呼ばれるように

なり、行政的集団をつくり、

政治を形造っていく。

その時には、古代の、生命力の源

と意識をつなげ、生活の中に

実践していきながら、豊かな

バランスの取れた生活をしていった

先人たちは、完全に過去の時代

のものとなり、煩雑で人間の

こざかしい知恵を使いながら、

苦労とともに生活を送るという

現代のパターンの基本が、できていった。

寿命は短くなり、支配者に年貢や、

労働義務を果たす生活苦が

生まれ、その生活の苦しさ

忘れるための、肉体的快楽

(飲酒や肉体的欲望のはけ口)に

溺れることも覚えていった。

 

寺院は、古代の本来の、人々が

文化や技術・科学的発達のために

使われていたところではなくなり、

権力者たちが自分たちを守る

ために雇った、司祭により、

人々の罪深さを説き、

救われるためには寺院に寄進をし、

僧侶たちを大切にして、

そこに祀られた神々に帰依する

必要があると、教える場所に変った。

 

人々は、自分たちの力の微小なる

ことを自覚し、その上に罪と

いうレッテルを貼られ、恐れ

自己(生命力につながっている

存在であるという意識)喪失感を、

受け入れた。

寺院では、本来の生命の源への

賛歌と喜びをたたえる場所から、

儀式的で、生贄を捧げて罪とが

への許しを請う場所となって

しまった。

 

そうして時代は過ぎ、生命の源へと

再び、心を回帰させることを

目的とした、魂のルネッサンス

訪れたのだ。

西洋社会には、イエスキリストが、

東洋社会には、仏陀が、その役目

をになった先人として出現する

ことになる。

 

二人の先駆者は、古代の人の実相を

謳歌していた智慧を、

失い、罪と死老病苦で苦しんで

いる人たちの、光から遠ざかった

意識を、解放させ、再び、古代の

光に満ちた精神に回帰

させるために表れた。

 

”我はすべての者の道なり、真理なり、

生命の光なり”という

キリストの言葉が、それを表している。

真理とは、特別な宗教の教えではない。

生命の実相に回帰したとき、

その生命の光に心身を照らし

合わせたとき、真理を知ったと

いうのだ。

真理にくみする者は、わが声を聴く~

というわが声とは、

特定の宗祖の声ではない。

誰もが心の奥に持つ、真の我、

つまり、光の我の声と、

繋がるということなのだ。

 

さて、このお話のジャンル区分けは、

”ホツマツタヱ”とした。

それは、どうしてかというと、

日本の超古代史と言われる、

この書の中に記載されている人の

寿命や天皇の即位の期間が、

常識からはるかにずれて、途方無く、

長いのである。

 

何十万年という単位すら出てくる。

超古代史とするのならば、ヒトが

何千年も命を有して生きて

いる時代が、日本には確実に

あったことになる。

このあたりは、研究者によって、

いろいろな考え方があり、

時には、自分なりの計算方法

使って、現代常識に当てはまる

ような数字に、入れ替えて解釈する

人がいるくらいだから、

この常識を逸した寿命の計算

には多くの人たちは、素直に

理解したとは言えないとは思う。

 

私は、シンプルにこう考える。

天照大神より、さらに昔の時代、

ウビチ二・スビチニという

初めて、男神、女神が婚姻して

家族を作り始めた神代の時代は、

現代とははるかに異なる、

ヒトと神とは、ほぼ一体で生きて

いた時代ではないかと。

 

先に大師が述べていたように、

神話の世界とは、実在する世界の

映し図であり、当時は人が天と

自由に心を使い、行き来できて

いた時代なのかもしれない。

つまり、我々が縛られている

肉体的次元の、時間や、空間の

束縛が、ほとんど無かったのだろう。

 

このような形で、時空を超越

しながら生きていればヒトは

年を取らない。

すでに何度もこのブログでご紹介

していて恐縮であるが、

ヒマラヤのヨギ、ババジはすでに

有身体の姿で、千歳の齢は

過ぎて生きていて、時々信者の前に、

姿を現していらっしゃる。

 

このヨギは、ガンジス川の大岩の奥

に潜んでいた、姉君に呼ばれて、

その身体は維持して、幽体、

つまり、三次元の世界から

消えないでほしいと、懇願された。

その理由として、今、肉体を

もって生きている人たちも、

そうしたババジの肉体の姿を

有しながら、肉体にとらわれず、

心の赴くままに千変変化しながら、

ヨギとしての務めを

果たしている姿を見せることで、

真の人間の姿を認識できるように、

という姉君の想いがあった。

 

この時代に生きていた、神人合一

ともいえる我々の遥かなる

祖先たちも、このような、

ヨギのように、正道を生き、

神の御心と一体になりつつ、普通に

生活をしていたのではないだろうか?

そして、生命の大源と常に、繋がっていた。

 

はるかに、いまの世の、精神性の

暗黒時代とは異なる、光の世界

であったのだろう。

時代は変化していく。

きっと、当時が、真の黄金文化であり、

現在が精銅時代であったとしても、

また、このような黄金時代が、再び、

やってくる方向で、動いていると

信じたい。

 

 

 

 

 

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