自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

号外編(2)愛子様のお言葉の補足

2022年03月20日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

天照大神からの皇室の使命”国民を一体になって・・・” 

2022年3月20日

************************

 

3月19日のブログに、愛子様の公式会見の、皇室

の一員としてのご自覚と 天照大神の天皇としての

国民への役目をご紹介した内容を、書きました。

その後、友人から、愛子さまの記者会見の全模様のビデオが

届きました。

そこで、具体的に、19日と関連する、その部分のお言葉を、

補足いたします。

 

皇室の一員として、どのような在り方を考えて

いらっしゃるか?”という記者からの質問のお答えの

一部にそれがありました。


以下、成人式の、愛子様初めての正式記者会見の

中での、その皇室一員としての在り方についての

お考えのうちの、一部ですが、ブログ記事に

関連ある部分を、ここに文字にいたしました。

 

****************

”皇室の一員としての在り方をどのように学んで

いるかと言いますと、私は 幼い頃より天皇・皇后

陛下、上皇・皇后陛下、をはじめ、皇室の皆さまが

国民に寄り添われる姿や,真摯にご公務に励まれる姿を

拝見しながら育ちました。

 

そのような中で、上皇后陛下が折に触れておっしゃって

おられて、天皇陛下にも受け継がれている、皇室は 

国民の幸福を常に願い、国民と苦楽を共にしながら

勤めを果たすということが、基本であり最も大切に

すべき精神であると、わたくしは認識しております。

 

国民と苦楽を共にするという意味には、皇族の皆さまの

ご活動を拝見しておりますと、被災地に心を寄せ続ける

というようなことであると思われます。


先週で東日本大震災から、11年経過しました。

街には徐々に、活気が戻ってきているように思われます

けど、いまだに2500人以上の方の行方がわかっておらず、

4万人近い方が今もなお、避難生活を続けていらっしゃいます。 


被災された方々の心の傷が癒えるのは、容易なこと

ではないと思いますし、時間を要するものと想像されます。

 

そのような苦難の道を歩まれている方たちに思いを

寄せ続けるということも、大切にしていきたいと

思っております。” 

 

 

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号外編:愛子様の公式記者会見から

2022年03月19日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

天皇制が存続しなくなる~ときは、いつか?天照大神の言葉

************************************** 2020年3月19日

三種の神器イラスト/無料イラスト/フリー素材なら「イラストAC」

昨日のニュース(3月17日)で、愛子様の成人式の

記者会見の模様が、映っていた。


その中で、印象的だったのは、国民に寄り添って、

国民の幸福も不幸もともに、分かち合ういう態度

こそ、皇族としての務めだと思うという内容の

お言葉だった。


ここで、私は、ホツマツタヱの24綾の天照大神の

言葉を思い出していた。

 

今日は、番外編として、皆さまに是非、このあたりを

ご紹介したいと思う。

 

ホツマツタヱの後半24綾の中での天照大神のお言葉

が以下だ。

場面は ニニギネの尊(天照大神の孫)が日本国

津々浦々に出かけ、視察をしてくる勅命を受けて

その旅立ちのとき、天照大神から三種の神器を、

その一行に受け渡されるという場面である。

 

”大神がもうされるには、’これらの三種の神器は、

オシヒト(忍仁=オシホノミミの尊)にはじめに

授けられ、次にその子の照彦(ホノアカリの尊)

に授けた。


その節には、フトタマとカグヤマが左大臣・右大臣

となり、両翼となった。

 

ニニギネの尊にとっては、アメノコヤネと、大物主

のミホヒコ(三穂彦)の両大臣が両翼である。

天主と両大臣が心を一つにして国を治めよ。


この両翼を持つ鳥は、全体は、民の姿である。

首は天守(君)、鏡は左の羽、剣は右の羽、足は

物部(もののべ)である。


鏡の臣の子孫が滅ぶと、民は離れていく。

民が離れれば、天孫に継いでいくことが難しくなる。


また、剣臣の子孫が滅びると、物部は分裂する。

ヤタの鏡を持った臣は、春に湧く害虫のような

邪心が民衆の間に、はびこるのを監視する役目だ。


八重垣の剣を持った臣は、邪よこしま)が

はびこるのを防ぎ、物部の役目が発揮できるように

する力を守ることだ。’“

 

このお言葉の中で 

”この両翼を持つ鳥は、全体は、民の姿である。”

に、その鳥の首が天皇たる、君の象徴である一方、

その首は国民を幸せな生活へと導く先頭に立って

いることを示している。


まさに、国民とともに一心同体になって、苦楽を共

にするという意味が含まれる。

 

では、君主(君)が一番偉いのか?といえば、そう

ではない。


それが、民が離れれば、天孫に継いでいくことが

難しくなる。”


という大神(天照大神)の言葉に現れている。

 

つまり、国民がバラバラになって方向性を失う

ような、そして、鳥としての一体感をなくすような

事態になったときは、天皇制における後継者が

いなくなるというのだ。


国民が鳥として一体になってこそ、天皇の存続が

可能になるという。


ここは、三種の神器が、ニニギネの尊に渡される

場面でもある。

天照大神のお言葉に、引き続いて記されている。

 

ミハタオリトメの御綾をニニギネの尊に、

大神自ら手渡されて、中宮のセオリツ姫は 

ヤタの鏡をアメノコヤネの命に、


そして、后の一人、ハヤアキツ姫は、

八重垣の剣を子守神に授けました。


それぞれを三神が、三度、拝し敬い、

それらの神器を受け取られたのでした。”

 

御機織綾(ミハタオリトメ)というのは、

天皇とその側近たち、そして、国民が和して

祭りごとをするための法則が書かれた御綾で、

これは大神より、ニニギネの尊に手渡され、

ヤタの鏡と、八重垣の剣が、それぞれ、側近

の臣に手渡されたことが記されている。

 

そして、鏡の役目は、社会の邪道や、人民の心の

乱れなどを映し出して、本来の姿に戻す役目、

の役目は、そうした悪が、はびこらないよう守る

役目をする一方、物部(もののべ)、つまり、

武士たちの働きを円滑に行うための力を発揮する

神器とした。

 

剣(つるぎ)というのは、斬るのみでなく、それが

放つ威力によって、浄化の力が発揮できるだろう。

神代から、すでに、’もののべ’という言葉が使われて

いることは、武士の役目は、この頃から社会的に

認められていたのだろう。

 

話が飛躍してしまったが、神代の時代から、天守(君

は、親のように国民に寄り添ってこそ、国が安泰に

平和に発展するということは、天照大神の言葉

に伺われる。

 

最後に、次の言葉は、ホツマツタヱ7紋にある大神の

和歌であるが、若き素戔嗚尊(スサノオノミコト)

の暴挙に兄上としての立場から、天照大神が教え諭す

ように詠まれた歌である。

 

”天が下(あめがした)  

和(やわ)してめぐる

日月こそ 晴れて明るき

民の両親(たら)なり”

 

意味は、”この天界における、月と太陽こそ、陰陽

一体となって、和して天をめぐっているから、

明るい晴れやかな日を迎える国民の、両親と言える。


我々、’君’と呼ばれる立場のものも、月日のような

調和した心を大切に、民とともに在る存在なのだ。”

 

まさに、こうした皇尊(すめらみこと)としての

精神的遺産は、太古の昔より、綿々と受け継がれ

ているようだ。

日の元の国、日本は、他国と異なる大きな精神文化を

持ち、和の精神をもって、混沌とした現代の中で

大きな役割をこれから果たしていくのではないのか?

と感じる次第だ。

 

 

 

 

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ホツマツタヱ 6綾

2021年11月30日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

日の神12后(きさき)の綾                  2021/11/30

*********************

今日は天照大神の妻たちのお話です。

120万7618年(*1)の5月1日、

天照大神は、玉杵尊(たまきねのみこと)

がお住まいになる、日高見

(東北地方にある)ヤマテの宮より、

天成神道を学び終え、原見山(富士山)

の山麓にある新宮に戻られました。

 

ご両親の伊弉諾・伊弉冉尊

(イザナギ・イザナミのみこと)は、

12人の御后(おきさき)を決められ

ました。

東西南北の4つの局(つぼね)に

それぞれ、3人の后を置きました。

持子を北の典侍(すけ)、

妹の早子を内侍(うちめ)、

曽賀姫を御下(おしも)というように、

それぞれの局に三人の后を置いたのです。

 

天照大神の御所のある日の山の

名前を大日山、略して大山と名付け、

宮殿は、大日本日高見の安国の宮

(おおやまとひだかみのやすくにのみや)

と称えました。

東西南北の4つの局(つぼね)に

います、12后は、交替で天照大神に

お仕えしてましたが、その中で特に

素直で美しい、南の典侍の瀬織津姫

(せおりつひめ)に大神は強く心

を惹かれ、内つ宮(中宮)に

抜擢されました。

 

天照大神の弟君の月読尊

(つきよみのみこと)は、

大神のそばで政(まつりごと)

を補佐していました。 

大神は、月読尊を伊予(愛媛県)

の二名島で反逆者が出たので、

鎮圧に送りました。

また、細矛千足の国

(さほこちたるのくに)(*2)

では益人(ますひと)という

職位にある胡久美(こくみ)が

政務を怠り、国が乱れてきていました。

 

そこで、豊受神らとともに、

細矛千足の国を治めるため、宮津

(京都府、宮津市)にある宮に

とどまり、そこで政務を行われました。

月隅(九州)は宗像命

(むなかたのみこと)が補佐し

収めました。

このように、天照大神の御世は、

国も平穏でありましたが、8万年

経た129万301年に、祖父の豊受神

おられる、宮津の宮より、

大神のもとに使者が遣わされました。

 

豊受神が、お隠れに(お亡くなりに)

なる御覚悟を伝えにきたのでした。

そこで、天照大神は、急いで

眞名井に行幸され、出迎えた

豊受神は、大神に、

"昔、汝に日高見の宮で、道奥(天成神道)

の教えで言い残したことがあったので、

待っていたのだ”

といわれ、最期の教えを天照大神に

伝えたのでした。

 

’君は幾代の御親なり” という

一言でした。

’天日尊よ、幾世にもあなたは、

臣や民にとって、御親の存在で

あるのだ”(*3)

といわれ、無視無欲の親心で民を治め、

民は親に対する孝礼を忘れることなく、

祖神として使えよという、

豊受神の遺言を残され、そのまま、

洞(*4)の入り口を閉ざして、

お隠れになりました。

 

天照大神は、その洞(ほこら)

の上に朝日の宮を建立されて、

豊受神の御霊をお祀りされました。

鎮魂の儀式が終わると、天照大神

はご自身の御宮のある、原見山

にお戻りになろうとされたの

ですが、群衆が大神の鳳車を

囲み、大神に、まだこの地を

離れずに、政事を続けていただきたい

と乞い願うので崩御された豊受神

の代わりに、しばらく細矛千足の

国(さほこちたるのくに)を

見守るために、留まることに

なさいました。

 

宮中でも、豊受神のお隠れに

際して、いろいろな動きが

ございました。

内宮の、瀬織津姫は、日高見の

国を守る、豊受神のご子息に訃報を

伝え、その地に豊受神を祀らせました。

 

また北の局の、持子、早子、味子姫

の三名を眞名井の原に向かわせて、

豊受神の御霊を弔いました。

そして、天照大神は、三人の北の局

の后たちを、眞名井の原に残し、

ご自身は、弟の素戔嗚尊

(すさのおのみこと)と、

天道根命(あまのみちねのみこと)

と共に、原見山へとご出発されました。

 

ひと月かけて、4月15日に、原見山

の安国宮にご到着されると、

天照大神は次のお仕事に着手し

始められました。

日速彦命(ひのはやひこのみこと)(*5)

をお呼びになり、国中を津々浦々

周り、国の絵を作るように

命じられました。

その出来上がった絵図をご覧に

なり、国の中央に都を移そうと

決意され、思兼命(おもいかねの

みこと)に伊勢の伊雑(いざわ)に

伊雑の宮を造営させたのでした。

 

こうして、原見山から伊勢へと、

遷都されたのでした。

この新しいお宮で、中宮の

瀬織津姫は御子を御生みに

なられました。

忍穂井の産屋の耳(隅)で

お生まれになったので、お名前

が忍穂耳尊(おしほみみのみこと)

なりました。

 

ほかにも天照大神の御子は、

北の局の持子が御生みになった、

穂日尊(ほひのみこと)。

そして姫君は、早子が眞名井

で御生みになられた、

三つ子の姫君たちがおられます。

沖津島・竹子、江の島・瀧子、

市杵島(いちきしま)田奈子の

三女です(*6)

 

ほかの局の后たちも御子を御生み

になられたので、天照大神の御子

たちは、5男3女でございました。

 

さて、話の舞台は、熊野に変わります。

天照大神の母上の、伊弉冉尊

(いざなみのみこと)の御霊を

祀るために、熊野にその社を作り

熊野神という名称で、お祀り

されました。

そのとき、鳥たちが群れて

集まってきて、色が黒い鳥

だったので醜女(しこめ)

(*7)にちなんで、

’魂のしいを枯らす鳥’、と

いう意味で、カラスと名付けられ

ました。

 

その後、天照大神の父上の、

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)も、

淡路の宮(兵庫県津名郡一宮町多賀)

にて、お隠れ(逝去)になりました。

 

 

*1)ウビチニ尊の御世から数える。

*2)- 山陰地方 

*3)-伊勢神宮の内宮と下宮には、豊受神と天照大神が祀られ、古来より、

最高の神社として祀られている所以といえるだろう。

*4)-眞名井が原の洞窟をさす 

*5)-武ミカヅチ命

*6)-それぞれ、現在では、弁天様のお姿で、竹子姫は、琵琶湖の島に

瀧子姫は、江の島に、田奈子姫は広島の厳島神社に祀られています。

*7)-5綾参照。夫イザナギの尊が、妻のイザナミ尊の亡骸を

こっそり見に行ったその帰り、醜女たちが現れて、イザナギ尊を追い払おう

と追いかけてきた。

 

上段が秀真文字

下段がその現代語表記

 

*********************************************

 

 

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ホツマ伝え5綾

2021年11月13日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

和歌の持つ、精神的意味~黄泉平坂(よもつひらさか)の巻     2021/11/13

***************************************************

俳句や短歌は、いまだに日本人に愛されている、
日本文化の一つだろう。

5・7調の限られた文字数の中の行間に込められた、
深い情感を季節感とともに味わうその繊細で、優雅な
感覚は、日本精神の美学に通じるものかもしれない。

秀真伝え5綾の中に、和歌の持つ意味が語られている
ので、ご紹介したい。
***************
5紋(あや)には、は大物主(奇杵命=くしきねのみこと)
思兼命(おもいかねのみこと)、花杵尊(はなきねの
みこと)(*1)、そして
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)
が登場する。

この5綾の秀真伝えの中でのタイトルは、
”和歌の枕詞(まくらことば)の紋”となっている。

どうして、枕詞が発生したか?という疑問を、
奇杵命が、思兼命に尋ねるシーンから始まる。

この謂れ(いわれ)は、その昔、伊弉諾・伊弉冉尊
の両ニ神の時代に遡る(さかのぼる)と、思兼命は話
を始めた:(以下そのお話し)(傍線部分は、
神のお名前:便宜上カタカナで記す)

”その昔、近江の国で、国造りを始められた、
イザナギ・イザナミの尊は、民の言葉を整えようと、
アワの歌48音(*2)を造られました。

上半分の24音を、イザナギ尊が、下24音を、
イザナミ尊が詠い連ねて、民に教えていくうち、
そのアワ歌の持つ言霊の力で、人々の音声の路が開き、
言葉も正しく整わせることができました。

それから、二神は、筑紫に行幸されて、そこで
常世の国の象徴である、橘(たちばな)の木を
植樹され、御子を産みました。


 
生まれた御子が、ツキヨミの尊(*3)です。

それから、熊野に行幸されて、そこでも、橘の木を
植樹され、そこで再び皇子を御生みになりました。


 
ハナキネノ尊(花杵尊=スサノオ)と名付けられ
ましたが、この皇子の気性は荒々しく、成長するにつれ、
その悪戯も度を超えていき、ついに、母君である、
イザナミ尊は、自ら息子の汚れ(隈)を我が身に
受けようとして、隈の宮(くまのみや)
(現在の熊野神社)を御建てになりました。

しかし、母君の痛むお心を傍らに、ハナキネノ尊は、
その周辺の民の大切な生活のよりどころであった、
御山木(みやまぎ)まで、焼いてしまわれたのです。


 
その時、母君(イザナミ)は、大きな山火事になりそう
になるのを恐れ、発火を抑えるため、火の神である、
カグツチの神を召喚しました。


 
しかし、その火の神の勢いは余りあるものがあり、
母君の御身が焼かれてしまい、
瀕死(ひんし)のお体になりました。

その時に、イザナミ尊は、最後の力を振り絞って、
召喚された神々がいました。
土の神である、ハニヤスメの神(4)、
水の神である、ミズハメの神(5)でした。

さらに、この時、ハニヤスメの神は、ワカムスビの神(6)
を呼ばれました。


 
こうして、これらの神々は、うけの御霊(みたま)
と呼ばれる、神々となり、ワカムスビの神は養蚕、
農耕を司る神として、世の人達に、それらの技術を
お広めになりました。

そして、イザナミ尊はこれらの神々を召喚されて、
ついに命が絶えました。


 
(須田注;現在の稲荷神社に祀られている神でも
あります。ほかに、荷田神も、祀られています


 
さて、妻の死の知らせを受け取った、夫君のイザナギ尊
は、イザナミ尊の亡きがらを一目見ようと、遺体の
置かれた山の洞に、向かったのです。


 
向かう前に、”お兄様、イザナミ様のご遺体は、決して、
ご覧になってはいけません”と、妹のココリ姫に
箴言されたのですが、それに耳を貸しませんでした。

妻の亡きがらが安置されているところに、到着しました。
遺体をご覧になると、そのお体には、蛆(うじ)が
たかり、腐敗が始まってました。


 
あまりの変容に悲嘆にくれて、御帰りになったものの、
まだ、未練が残り、その夜再び、遺体が安置されている
洞窟に行かれたイザナギ尊でした。

ところが、その時、亡くなったはずのイザナミ尊が、
面前に顕れて、夫のイザナギ尊に言いました。

’あなた様は、わたしの醜い姿をご覧になって驚かれ、
その上に、またいらして、私に恥をかかせるのですね。
あなた様を恨みます’

と、えらくお怒りになり、仕えていた醜女(しこめ)
8人に、イザナギ尊の後を追わせて、その場から
追い払おうとなさりました。(*7)


 
イザナギ尊は、這う這う(ほうほう)の体で、
ご自身の宮に戻られると、その穢れをとるために、
熊野宮の傍を流れる、音無川で禊(みそぎ)を
されました。

そして、自ら、ヤソマカツヒの神、カンナオヒの神、
オオナホヒの神、を召喚なさり、加護をお祈りされました。

次に、筑紫のあわきに行かれて中川で禊されると、
ソコツツヲ命(みこと)、
ナカツツヲ命、
ウハツツヲ命を招き、
この三神は、カナサキ命に祀らせることにして、
自らは、アツ川に向かわれました。

そこで禊をしたのちに召喚した、ソコ、ナカ、ウハ
の海神(わたつみ)命は、ムナカタ命(宗像命)に
祀らせました。

これらの神々を招来されてからは、国(やまと)
は栄え、葦原(あしはら)に生えていて葦(あし)
を引き抜いて、イザナギ尊は1500以上の田
を増やし、秋になれば、稲が生育して穂が成り下がる、
明るい国造りを為し得たのでした。”

と、思兼尊(おもいかねのみこと)は語ると、さらに
話を、本題である和歌の本髄、枕詞の話へと続けました。

”さて、枕詞(まくらことば)の最初の質問に戻ると、
こうした古き神代の時代で起こった背景を知った
うえで、お答えできます。


 
’足引きの’という枕詞は、’山’にかかります。
それは、イザナギ尊が、黄泉平坂の山から、
醜女(しこめ)達に後を追いかけられ、一目散で逃げて、
足を引き引き帰ったことに由来します。

そして、もう一つの ’あしびき’ つまり、
’葦引き’ は、’やまと’ にかかります。
これは、葦を引き引き、沼地を開墾して田んぼをつくり、
大和の国をつくったからです。”

と思兼命が”足引きの”の枕詞について語ったあと、次の
枕詞の話に、進みました。

”’仄々(ほのぼの)’という枕詞は、’明け’にかかり、
’鳥羽玉(ぬばたま)’という枕詞は、’夜’にかかります。


 
これは、ワカ姫が、きしいの国で、オシ草を振って、
害虫を掃った話(*8)から来ています。


 
仄々(ほのぼの)という枕詞は、オシ草の
’黄色の花’を意味します。


 
漆黒(しっこく)の、鳥羽玉(ぬばたま)の花は、
赤い斑点をもつことから、害虫被害で、闇夜と化した、
きしいの国に、再び、稲をよみがえらせたという、
ワカ姫の功績をも、象徴しています。

’島つ鳥’という枕詞は、’鵜(う)’にかかります、
これは、川の流れの中、朽木(くちき)に止まる
鵜を見て、筏(いかだ)を発明した、シマズヒコの命
(*9)の’鳥’を意味しているのです。

又、’沖つ鳥’という枕詞は、’鴨’と'舟’にかかります。
これも、シマズヒコ命の子、オキツヒコ命が、
鴨の泳ぐ風情をみて、櫓(ろ)の舟を考案した事績
からきているのです。(*10)


 
このようにしてみると、この綾に書かれている
神の歌(*11)の背景にある教えを、真摯に学べば、
鳥羽玉(ぬばたま)のような夜のように暗い心でも、
悟りに目覚めて、心が明るくなることがわかります。

心を清めるためには、歌にしたがって浄め、身を
清めるためには、禊(みそぎ)を行って、清めるのです。
これが、’やまとの道’といわれる、’歌の道’でもあるのです。”
(以上オモイカネ命の言葉)

黄泉平坂(よもつひらさか)は、生と死を隔てる
幽界の境界線でもある。
死が忌むものという発想は、遺体に蛆がたかり腐敗している、
イザナミ尊の姿をここで登場させることで古代から存在
していたのだろう。

そこで、その境界線から、這う這うの体(ほうほうのてい)
で生還したイザナギ尊は、禊(みそぎ)を三度、毎回、
異なる川で行い、天から守護の神々を呼び、身を清め、
やまとの国を、もっと、栄えさせたことがわかる。

歌の道の中で、こうした、超古代に残されている
神の話に因み、”枕詞”が生まれたことも、興味深い。


 
**************************

(*1)素戔嗚尊(スサノオノミコト)の幼少の名前
(*2)”あかはなま いきひにみうく ふぬむえけ へねもおこほの 
もとろそよ をてれせえつる すゆんちり しいたらさやわ” の歌
(*3)ツキヨミ尊は天照大神の弟君にあたる
(*4・*5.*6)人型を持った神ではなく、精霊としての
神体を持つ
(*7)このあたりが、黄泉平坂(よもつひらさか)の
下りとして、古事記でも有名はお話しになっている
(*8)詳細は、秀真伝え1綾-10
(*9)詳細は、秀真伝え27綾-12
(*10)詳細は、秀真伝え27綾-12
(*11)5・7調で、秀真伝え原文は、歌形式として
書かれているので、このような表現をする

 

 

 

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ホツマツタヱ4綾

2021年11月01日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

御機の紋みはたのあや)-天照大神と豊受神   2021 10/28

*****************************

前書き)

ブログカテゴリー”ホツマツタヱ”内

にある最新記事は、第三紋で終わっている。

今日は、第四”綾に進ませていただきたい。

 

この紋の主人公は、天照大神で、そのご誕生前後から

物語が始まる。

まず、天照大神のお生まれになった宮は、富士山の

ふもとにあった。 

この富士山は、いくつかの呼び名がホツマツタヱに

見られる。

 

4紋の出だしには、原見山(はらみやま)・香久山(かぐやま

という名称が出てくる。


その根源は、その昔、天照大神がお生まれるになるはるか前、

国常立尊(くにとこたちのみこと)の八下り(やくだり)で

この世に誕生した、


ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの八神の時代にさかのぼる。

 

トの神は、原見山で政務をとられた。そのとき、今の東北地方

にある、日高見の国を、高見産霊尊(たかみむすびのかみ)と

ともに、治められた。


その折、香り高い、香久橘(かぐたちばな)の苗を、原見山に

植樹されたのが、富士山を香久山と、呼ばれるようになった

由来であると、4紋に書かれている。

 

5代目の高見産霊尊(たかみむすびのみこと)は、

お名前を、玉杵尊(たまきねのみこと)といい、天照大神の

祖父である。


天成神道(あまなるかみのみち)と呼ばれる、天皇として民を

収めるための心得をはじめとして、大和の国の骨格をなる

精神を、天照大神に教えられた師でもあった。

 

それでは、ここからは原文に忠実に、現代訳で、要点を

まとめ、物語を始めさせていただく。

 

口語訳)

神々は、日高見の宮中で、政事を議論なさっていたとき、

大物主(おおものぬし)(-*1)(-*2) が天照大神の

お名前の由来を、お尋ねになりました。


大山ヅミの命が次のように、お答えになります。

 

”昔、トの神が秀真国(ほつまのくに)の原見山と、

日高見の国を治めておられたとき、平和の象徴である、

香久橘(たちばな)を、原見山に植えられました。


そして、この山を香久山と称されたのでした。

それから時代を経て、第五代の高皇産霊(たかみむすび)、

玉杵尊(たまきねのみこと)は、49神(よそごのかみ)、

トホカミエヒタメの8神、アイフヘモヲスシの8神、32神

(みそふのかみ)の神々を、初めて地上の高天原(*3)に

お祀りになりました。


こうして、国は栄え、豊かになり、人民は、玉杵尊を

豊受神(とようけのかみ)と称えました。

 

時は、120万7520年になりました。

豊受神は、このまま、天の道の後継者にふさわしい神が

おらず、だれが跡取りになるものだろう、と憂慮されて、

原見山(富士山)に上られました。


そこで下界をご覧になると、指針を失いつつある民が

右往左往してうごめいている様をご覧になり、日高見の

宮にお帰りになりました。

 

時を同じくして、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)も、父の

豊受神と同様、後継ぎの誕生を強く希望して、豊受神に

その意思をお伝えになると、豊受神は、月葛城(つきかつらぎ)

のイトリ山に、世嗣社(よつぎのやしろ)を建立されて、

天御祖神(あめのみおや)に、御自ら、禊(みそぎ)をされ、

ふさわしいお世継ぎの御子が生まれるように、1000回の

祈願の祈りをそこでささげたのでした。

 

一方、伊弉諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)尊のご夫婦は、

原見山に上られて、豊受神と同様、日の神と月の神に、

後継ぎになる男児が授かるよう、深いお祈りを捧げました。

 

そして、豊受神の祈りは天に通じて、ある日、伊弉諾・

伊弉冉の両神が千回の祈りを終えようとした頃、

お子が授かる前兆のお印がありました。


それは両神の前に、拝んでいた朝日から、その内霊が

お二人の面前に落ちてきたのです。”

 

さらに、原文では次のように描写

されています。

”月の汚血(おけ)流れとどまり、三日(みか)の

のち、身も清ければ日 待ちす”


この言葉は、伊弉冉(いざなみ)尊から、夫の伊弉諾

(いざなぎ)尊に

”(今月の)月経がとまり、三日たち、

身も清まったので、日(世継ぎ子)をまっております”-

と伝えた言葉です。

 

このことを察した、大山ヅミの命(みこと)は、

お二人に、床神酒(とこみき)の儀式にのっとって、

夫婦の証をされて、伊弉冉尊にはお子が宿ったので

ありました。

 

しかし、10か月を経ても、まだ産気づきません。

一年たっても、まだ徴候がありません。

96か月目たち、やっとお生まれになったのが、天照大神

でありました。

 

さらに驚いたことには、その御子は、丸い卵のように、

殻に包まれるように誕生しました。

大山ヅミ命は、それを見て、次のような歌を贈りました。

 

”むべなるや ゆきのよろしも

御世継(みよつぎ)も、 世々の幸い

開けり”

 

意味は ”子宮の胞衣をまとったまま、お生まれになった

ということは、神の御子として意味があることよ。

 

胞衣のままということは、幸先(さいさき)がよろしい

ことであるよ。

この御子こそ、世の民の幸福を、開く(胞衣を開く

ということで)神であるということだ”の意味が歌に

こめられています。

 

一方、そのご誕生を、一番待たれていた、豊受神は次の

ように仰せになりました。

 

”災いをもたらす、朝敵の憎しみの波動や穢れを守るための、

禊(みそぎ)を私は、1000回行い、この御子が生まれてきた。


それらの穢れから、この胞衣により守り、天地が開ける

象徴として卵の形をもって生まれてきたのには意味がある。

 

卵で覆われたその岩戸を開けて、光あふれる世の中へと、

この御子が幸いをもたらすことだろう”と。

 

この卵の胞衣を、櫟(いちい)の木の枝でこしらえた

笏(さく)(*4)でお開きになり、御子は96か月振り

にその光輝くお姿を現しののでした。

 

そのとき、周りを囲んで、お誕生を祝福されたご親族

のおひとりに、御子の叔母君にあたる白山姫

(しらやまひめ)がおられました。


生まれたばかりの輝く御子に産湯をつかわせると、

その年の9月15日に、御子はやっと、目を開けられ

ました。

 

この胞衣を割くために使われた、笏は、現代にも受け

継がれ、神に仕える神職はこれを持つ習わしが、

天照大神のご誕生に際して作られたのであります。

 

産湯をつかわせて差し上げた白山姫は、別名、菊桐姫

(きくきりひめ)とも呼ばれてます。

その所以は、泣かれるている最中に、その泣き声の

中に、はっきりと,その行間に発せられる天照大神

(赤子時代の)言葉を聞き取ったということから

来ています。

 

御子は”あなうれし”と、言葉を発せられました。

”ああ、嬉しいなあ”という意味です。 


そして、ほかの神様が御子のお名前は?と聞かれると、

”ウヒルキ”と御子がお答えになりました。

しかし、そのお答えをはっきりと聞き取られたのは

この白山姫おひとりでした。

 

言霊でいえば、

ウとは大いなること、

ヒは、日輪つまり、太陽、

ルは、その太陽の内霊、

キは男性の名前につける

杵(きね)の意味です。


この時から、御子みずからお答えになった、ご自身の

お名前どおり、うひるぎの尊=大日霊杵尊と呼ばれる

ようになりました。

 

そしてそのお名前を聞き取られた、白山姫を、よくきき

とったという意味をこめて、菊桐(きくきり)姫

とも称されるようになったのです。

 

さて、大日霊杵尊は16歳となりました。

天成神道(あまなるかみのみち)を、東北の日高見の宮

におられる豊受神から学ぶために、富士山のお生まれに

なった宮から、ご両親である伊弉諾・伊弉冉尊のもとを

離れて、旅たちをされました。

 

そして、この4綾には、天照大神が豊受神にこんな

ご質門をされたことが、記されています。

 

”姉上の昼子は、ひ・る・こと三声で、男子の名前は、

う・ひ・る・ぎと4声であるのは、なぜでしょう?”

豊受神は次のように、お答えになっています。

 

”男子の名前には、親からとった2声と、世嗣ぎとしての

2声をつけるから4声となるのだよ。


天つ君(天皇)は、天の道の初めから終わりまで、つまり、

1(ひい)から10(と)まで、よく習い学習することから、

ヒト(仁)を名前の最後につけるのだ。


杵や、彦、大人(うし)という呼び方を一般の男子の

名前には最後に、つけるのものだ。

 

だから 男子の名前は、4声になる。

女子の場合は、親の2声と、嫁いで子供をもうける

ゆえに、子を最後につけるのだよ。~子姫と呼ばれる。 


このように女子は名前は3声、男子は4声の名前がつく。”

 

現代では、子供の名前はとてもバラエティーに富んで

いますが、それでも基本的に、女子が三文字、

男子は4文字が多いことや、女子には”~子”とつけられる

のは、日本超古代の昔からの伝統と豊受神のご説明に、

のっとっているといえるのかもしれません。

 

 

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