自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

和歌の由来と和歌山県/お宮参り:

2017年05月15日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

”あかはなまの歌”の影響  2017.5.15

********************************************

 

最近若い人達の間で、俳句が親しまれる

ようになっていると聞く。

俳句は五七五の字数を使うが、

元々は短歌が本源といわれる。

 

短歌は五七五に加えて七七文字、

合計、31文字が使われる。

ホツマツタエ第一綾によると、

この短歌は和歌と呼ばれ、

イザナギ・イザナミの尊の間に

生まれた若姫が、和歌をよく読まれ、

”あわの歌”は幼少時より、唱えて

おられたので、身心の順気が

十分にみなぎり、言霊の浄化を

発揮したと書かれている。

 

中宮 向津姫(ちゅうぐう むかつひめ)

は民の歎きを聴(きこ)し召し、

若姫の神と供に急ぎ伊勢より紀志伊国

に行啓をなし” と原文にある。 

 

中宮とはアマテラス大神の妃であり、

姉妹にあたる若姫とともに、

紀志伊国(きしいのくに)に、

当時、稲の害虫により不作が続いている、

現地の水田の害虫を祓い、清めるために、

お出かけになった。

 

“中宮は田の東(き)に立(た)ち玄(おし)

参(くさ)を持って扇(あお)ぎ、

若姫の神は、歌を詠(よ)みて祓(はら)

給えば、蝗虫は忽(たちま)ちに

去(さ)れり” とある。 

 

この時 祓いの言葉として、

うたわれた歌は

 

たねはたね  

うむすぎさかめ 

まめすめらの

ぞろはもはめそ 

むしもみなしむ

 

意訳は、

田(た)種(ね)畑(はた)種(ね) 

大麦(うむ)小麦(すぎ)栄(さか)

芽(め)黒豆(まめ)小豆(すめ)等(ら)

(ぞろ)葉(は)も喰(は)めそ 

蝗(むし)も皆(みな)鎮(し)む」

と漢字を当てはめることで、

なんとなく意味が

掴みやすくなる。

 

これを360回続けて歌い、祓うと、

稲虫は去り、稲は以前のように”、

青々とよみがえったとある。

 

“繰返し三百六十回詠い響(どよ)

ませば、蝗虫は西の海に

ざらりと飛(と)び去(さ)り、

汚(お)穢(え)を祓(はら)えば

稲はやはり若やぎ甦(よみが)えるなり。

 

こうして、この歌は祓いの効果を持ち、

害虫は皆、飛び去って行く

ことが記されている。

 

この時の若姫の功績が、アマテラス大神

の中宮に認められた。

 

歌の徳により枯れたる稲の

若返(わかかえ)る故、歌(うた)

和歌(わか)と名付け

紀(き)志(し)伊(い)国(くに)

和歌(わか)の国(くに)と稱す。” 

 

つまり、この時に詠われた歌が 

現在まで続く和歌の由来となり、

それまで”きしいの国”と呼ばれて

いた国を 和歌国と称するようになった。 

和歌山県の云われである。

 

さて、なぜ、五七の音数の

組み合わせでできているのか?

それを物語るのが以下の引用文である:

 

或日、花(はな)杵(きね)尊は姉の

下照姫に問う 

「歌は五と七言を綴(つづ)るは何故なるや」。

 

姉姫の答(こた)えて

「これは阿倭の歌の音の節なり」

と曰す。

 

また花杵尊の問う; 

「祓いの歌は三十二言なるに、

今三十一言に定まるは何故なるや」と。

 

 現代的に訳せば、なぜ五七音が

歌で使われるのか?という弟君の問いに、

あわの歌’(~注1)に倣い、

五七音を取り入れていると姫は答える。

 

すると、皇子は、あわの歌は

32音なのに、なぜ、和歌では31音になって

いるかと、さらに聞く。姉君が答えるには:

 

姉姫答えて

太古(いにしえ)天神は天(あま)

周(めぐり)の度数を算え、

三百六十五と定むなり。

これを四季上・中・下に分ける時、

三十余りの一となれり。

 

しかし、一月を見れば

二十九余(あま)りなり。

これは月の遅く巡るに因(よ)る。

故に三十一を本数に定(さだ)むなり。

 

意訳すると、姉君のいうことには、

”太古の昔、天の神は、一年を365日

と定めたが、それを月に

平均すると、30より多く、

月によっては、29プラス@ 

となるので、

31を定数として決めた”という。

 

余談だが、なぜ、お宮参りに

女の子は生まれて32日目に行くのか?

日本古来行事の所以がここに書かれている。 

 

姉君はさらに続けて、弟君にいう。

“季節によりては、前後の半日を

算(かぞ)え合(あわ)せれば

三十二日となれり。

 

この故に邪神の其の日(ひ)間(ま)

窺(うかが)いて障碍をなし、

病を発し、蝗(いな)虫(むし)を生じ、

蒼生を障害する故に

余声を詠うなり」。

 

人は敷島の上に生まれ、

其の日より三十一日に至ると

産土(うぶすな)神(がみ)に詣で

其の恩を謝す。

 

女子は魔を恐れる故に、

三十二日に至りて産土神に

詣で恩を謝す。

これは地神に感応するためなり。

故に和歌の音数と同じ故に、

敷島の和歌の道と稱するなり。“

 

つまり、季節の運行によっては、

一月が32日となる場合があるという。 

すると、この余白の部分に邪神が

漬け込み、災いや病が起きやすくなる。

 

よって、男の子は31日めに、

産土神に無病息災を祈り、

女の子は魔が入るのを避けて、

32日めに同様 産土神社に詣でる

という。 

 

和歌の道、31音と、あわの歌32

に隠された深い日本独特の数に対する

こうした感性が ホツマツタエ1

に綴られていた。

 

注1)あわの歌とは、

“あかはなま、いきひにみうく、

ふぬむえけ、へねめおこほの。

もとろそよ、をてれうせえつる、

すゆんちり、しいたらさやわ”

という歌である。 

 

え音、お音が この歌に二つずつ、

含まれているが、

いわゆる、昔の表記文字でいえば、

”お音”が現在も 

“お” と “を” の両方が

使われているように、

二つずつ同音異表記の文字があった。

 

 

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花祭りと観音経:観音様は実在人物?

2017年04月10日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

観音様(西王母)は神代の日本で天成道(

あまなるみち)を学んだ・・・ 2017.4.10

**********************************************************                          

亡き父は毎朝 仏壇に手を合わせ、

般若心経と、時々、長い、

観音経を挙げていた。この記事を書いた、

4月8日は花祭り、

甘茶を像にかけて仏様の誕生を祝う日だ。、

父が葬られている霊園の寺に出かけた。   

          

桜の花びらが舞う中、久しぶりに、

お焼香の間、僧侶が唱える

観音経を拝聴できた。亡き父も私と

ともに、この場にいるのだろうなあ

と何となく無姿の存在を感じながら、

父の在りし日を思い浮かべた。

 

さて、観音様とは どなたをさすのか?

というのが今日のお話。

仏教では、観音経はすでに5~6世紀

には中国に伝わっている。 

菩薩様のおひとりとみて良いと

いうのが大方の学者の一致する意見だが、

私の少し異なる意見を皆様に聞いて

いただきたい。

 

まず、観音様という方が実在か、

あるいは、他の仏教の菩薩様や

如来さまのように、擬人化された

仏様の一つかという点だ。

以前 拙ブログで観音様が太古、

日本に海を渡り中国から来られ、

”天成神道”(*注1)を勉強に来た

というお話を書かせていただいた。

 

時は、アマテラス大神がまだ、

大叔父の玉杵尊(たまきねのみこと)

に師事して、まつりごとの道を

勉強されていた次代にさかのぼる。

アマテラス大神は、ふじの宮の

御殿で生まれ、その後 大叔父の

玉杵尊の住む仙台で勉強されて

いたとホツマツタエにはある。

 

仙台は、現在の宮城県。 

みやぎ(けん)と呼んでいるが 

漢字字体は、宮城(きゅうじょう)

と書く。 つまり、ここには、

神代の昔、アマテラス大神の父上、

イザナギ尊の叔父上にあたる、

玉杵(たまきね)尊が住んでいらっしゃる

宮城があった場所だ。 

 

さて、アマテラス大神の学んだ

天成神道を 外国から留学にきて

勉強された方がいらした。

それは、当時 ”カ(ka)” と呼ばれる 

中国(現代の)にある、

”くろづみこく”国王の姫であった。

 

秀真伝えでは 以上のことは次のよう

に書かれている;

 

“其の中の一子は玄圃積国(くろずみこく)

を治めしむ。

玄圃積国は元「力国」に当る故(ゆえ)

赤県神洲と名付けり。”

 

此の時承(うけ)洲壹(すて)王(きみ)の

女(むすめ)は海を渡りて、

我が国の白山根(しらやまねの)国(くに)

に来たりて玉杵尊に良く仕えたり。

 

東王(ひがしのきみ)は感じ給いて 

菊桐(ここり)姫(ひめ)の妹と為して、

神仙の秘法(注2)を授(さづ)けます。”

 

菊桐(ここり)姫(ひめ)とは、イザナギ尊

(アマテラス大神の父上)の姉君である。

その妹分として カの国の王女を、玉杵尊は

受け入れ、教育を与えたとある。

 

当時、中国は カの国 と呼ばれていた。 

(今、中華(か)国と、中国を呼ぶその

”華”は そこから来ているのかもしれない。)

 

さらに、この方が、いわゆる後世、

観音様としてのモデルになっている

と言う。ではなぜ、この承(うけ)洲壹(すて)

王(きみ)の女(むすめ)が 観音様

と言えるのかといえば、次の下りから

察するのである。

 

 王女は 天成神道の教えを受け 

嬉々として、帰国するが、

結婚して、国を統治する身になり、

天成神道に従い、収めんとするが、

思うようにいかず、自国の現状を憂い、

再び、日本に来て、アマテラス大神に

次のように嘆く。

 

秀真伝意訳では次のように描写される。

 

“喜び帰る承洲壹王(うけすてきみ)の女は、

後に崑崙(こんろん)王(きみ)に嫁(か)して

一子を生み、玄圃(くろその)積王(つみ)と

名付くなり。

 

其の後、西王母は再び海を渡りて来朝し、

歎(なげ)きて曰く、

「我が崑崙(こんろん)山本(やまと)

国(くに)の人々は、天成道

教えんとすれども遇(おろ)かにして、

獣肉を嗜(たしな)み

過半の民は穢食に堕(お)ちて、

万民は日夜殀殕(はやかれ)するなり。

 

故に百歳や二百歳の寿命に短縮し、

稀には千歳・万歳の寿命を得る

者あるも、平均千歳を保たず。

西王母はこれを歎(なげ)きて警(いまし)

むるも、日々肉(しし)を食(く)いて止まず、

然れども支那(しな)王(ぎみ)

と云う者在りて、千代見草の如きものを

尋ね求むと云えり。

 

朕が心身もこの愁(うれい)話(ばなし)

を聴くも耳(みみ)垢(あか)つきて

穢れたり。よって潮(うしお)に

洗い滌(すす)ぎて禊(みそぎ)をなすなり。

 

寿(ことぶき)を観(み)て歓(よろこ)ぶ

も天道にして、また殀(かる)を

聴(き)きて、哭くも地(つち)の理

(ことわり)なり。“

 

西王母 とは 今では、観音様の

別名として使われている。

ホツマツタエには、

承(うけ)洲壹(すて)王(きみ)の

女(むすめ)は 

日本から帰り、嫁いで西王母

呼ばれたことがこうして記されている。 

 

この節の現代訳は、

 “中国の崑崙山のふもとにある、

カの国の国民は 

玉杵尊から伝授された

天成道(あまなるみち)を教えたが、

獣肉を好み、そうした穢れ多い

食生活がもとで天命をまたず 

寿命に満たず、死んでいくもの

が多いと 天照神に嘆く。“

 

という内容だ。 

ちなみに 千代見草とは 富士山に

生えていた薬草で

アマテラス大神が好んで召しあがった。

 

有名な史記には 

“秦の始皇帝は斉国の人、

徐市(じょえつ)に命じて

東海の三神山に不死の薬草を

取りに行かせた”と ある。

 

不二山(ふじさん)は、不死(ふし)

の山でもあった。

不二の山に生えていた、始皇帝のいう

不死の薬草こそ、”不二見草” ではないか

という学者もいる。

 

本論に戻ると、西王母が観音様

呼ばれる由来は 道教の中にある。 

たとえば上記ホツマツタエの中に

ある、中国の崑崙山(こんろんざん)

から来た王女とあるが、道教の

“抱朴子”の 仙薬篇に 次のような 

文章が出てくる。

 

“金を服用するものは齢(よわい)

金のごとく、玉を服用するものは 

齢、玉のごとし”

 

“玉とは崑崙山脈から多く産出され、

玉のように美しい仙人の

西王母はこの山に住んでいた”とある。

 

西王母 と縁ある 桃源郷(とうげんきょう)

と呼ばれる理想郷が 実際、中国にあるが、

ホツマツタエには 二度目の訪日の際、

その土産として、不思議な桃(もも)

の木を西王母に与えられたとある。

 

この桃木が成木して繁樹して、

桃源郷になったのではないか。。。

これだけでは まだ仏教の観音経と、

ホツマツタエに出てくる、西王母の

関係性がしっくりこないかもしれない。

次回に少し話を残して、続きを

書かせていただきたい。 ^~ 4/15日に続く

 

 *注1) 

天成神道 とは、あまなる道 

とも呼ぶ。ホツマツタエの中で、

スメラ尊(みこと)が天の意

に沿ったまつりごとを行うため、

また、人民が人間として

いかに生きるためのモラル

や実生活(衣食住)

の法を説いた教えとして

全編(綾)を通じ、

一貫して説かれる。

のちの日本人特有の大和心

につながる超古代日本人の哲学観でもある。

*注2) 

神仙の秘宝 とはここでは

具体的には述べられていないが、

観音様を仰ぐ道教では 

神仙の教えは、タオイズムの中核の一つと

なっている(次回4/15のブログ参考)

 

 騎龍観音

 画像;イラストAC

 

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菊の花が皇室のご紋章として使われている背景は?

2016年08月20日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

815日の戦没者追悼式の檀上一面に

飾られていた黄色い菊の花にちなんで

*******************************   2016820

 菊の花イラスト に対する画像結果菊の花イラスト に対する画像結果

今、自然治癒力セラピー協会で

続けている"秀真(ほつま)伝え輪読会" 

は早一年半を迎えている。 

この頃は原文も読みながら、

第15綾に入った。

以下、須田真紗子女氏の 

”超古代史秀真伝 上”からの意訳を読むと、

 

“楠日(尊)よく聴け

菊桐(ここり)姫(ひめ)の語ることあり。

国常立尊(くにとこたちのみこと)

は千万歳の間、尽(ことごと)く

地球八面(やおもて)を巡りて、

睹(と)補(ほ)珂(か)味(み)柍(え)

微(ひ)汰(た)佲(め)の八神を生み給う。”

 

国常立尊(くにたちとこのみこと) 

は 地球のあらゆるところを

廻って、それぞれの地を治めるべく、 

ト ホ カ メ ミ エ 

ヒ タ メ とそれぞれ呼ばれる

8神を生み、地球上各地に配置した。

 

それぞれの神々は、いわゆる、

古代における文明の栄えたところ、

たとえば、メソポタミアや黄河

などのそうした地域ゆかりある

神たちだろうということを 

姑は話していたが、15綾では

その延長線で

考えるとわかりやすい。

 

つまり”カ”の神が統治した、

中国(現代の)では、”くろづみこく” 

と呼ばれる国が秀真時代に

存在し、その国からその国王

の娘が日本に渡り 天照大神

の祖父で師でもある、

玉杵(たまきね)の尊(みこと)

に 師事したと書かれているのだ。

 

玉杵の命(たまきねのみこと)は 

トの神、別名、国狭土

(くにさづちの尊)の5代継承者、

子孫にあたり、別名 豊受神

(とようけのかみ)と呼ばれて

いる。

その神様は、天照大神が若かりし頃、

現在の仙台付近の多賀の宮で、

天成神道(あまなるかみのみち)

を教えた神でもある。

 

その道は奥が深い、天なる君

として人民を統制する心構えから、

ヒトとしての道を説いたもので、

ここから、東北地方を、”みちのく”

つまり、”道奥と、呼ばれるよう

になったといわれる。

 

”カ”の国は、”華の国” と漢字で

書かれ、中華人民共和国の華も

その由来からきているのではないか

と思える。

 

さて、このあたりを、秀真伝え

では次のように記述している:

“其の中の一子は玄圃積国

(くろづみのくに)を治めしむ。

玄圃積国は元「力国」に当る故

赤県神洲と名付けり。”

 

さらに、

“此の時承(うけ)洲壹(すて)王(きみ)

の女(むすめ)は海を渡りて、

我が国の白山根(しらやまねの)国(くに)

に来たりて玉杵尊に良く仕えたり。

東王(ひがしのきみ)は感じ給いて、

菊桐(ここり)姫(ひめ)の妹と為して、

神仙の秘法を授(さづ)けます。”

 

東王とは、玉杵尊(たまきねのみこと)

をさし、白山根国には 玉杵尊の

従弟 アワナギ尊が住み、その長男

が天照大神の父上にあたるイザナギ尊

である。

ココリ姫は、イザナギ尊の妹である。

 

玉杵尊は、海を渡って天なる道を

学びに来た、”カ” の国の王女を、

ココリ姫の妹の立場を与え、教え

を授(さず)けた。 

王女はその教えを受け 嬉々として、

帰国するが、再び、日本に来て、

次のような相談をする。 

秀真伝意訳では次のように描写される。

 

“喜び帰る承洲壹王の女は、後に

崑崙(ころひん)王(きみ)に嫁(か)して

一子を生み、玄圃(くろその)積王 

(つみおう)と名付くなり。

 

其の後、西王母(さいおうぼ=

王女が嫁いでからの称)は再び海を

渡りて来朝し、歎(なげ)きて曰く、

 

「我が崑崙(ころひん)山本(やまと)

国(くに)の人々は、天成道を

教えんとすれども遇(おろ)かにして、

獣肉を嗜(たしな)み、過半の民は

穢食に堕(お)ちて、万民は日夜殀殕

(はやかれー早死)するなり。

 

故に百歳や二百歳の寿命に短縮し、

稀には千歳・万歳の寿命を得る

者あるも、平均千歳を保たず。

西王母はこれを歎(なげ)きて

警(いまし)むるも、日々肉(しし)を

食(く)いて止まず、然れども

支那(しな)王(ぎみ)と云う者

在りて、千代見草の如き

ものを尋ね求むと云えり。

 

朕が心身も、この愁(うれい)話

(ばなし)を聴くも耳(みみ)垢(あか)

つきて穢れたり。

よって潮(うしお)に洗い滌(すす)ぎ

て禊(みそぎ)をなすなり。

寿(ことぶき)を観(み)て歓(よろこ)ぶ

も天道にして、また殀(かる)を

聴(き)きて、哭くも地(つち)の

理(ことわり)なり。“

 

現代訳にすると、

”中国の崑崙山のふもとにある、

カの国の国民は 

玉杵尊から伝授された天成道

(あまなるみち)を玉杵尊

から授けられ、

戻ってきた王女を通して教えられる。

 

が、人民たちは、獣肉を食する

ことは、穢れ多く、短命になる

ことを学んだにもかかわらず、

改めることなく、不摂生がもとで 

天命をまたず死んでいくものが

多いことを憂い、再び、

王女は来日して、嘆いた。”

 

寿命が短くなったといっても、

当時の人間寿命は、現代人よりはるかに

長生きである。

平均千歳というから驚きだ。 

さて、天照大神は以下のように

王女の悩みに答える;

 

“故に朕(われ)は長寿の道を

授けんと欲す、宜しく思え。

生命は一身の宝なり。

諺(ことわざ)に云(い)う試(こころ)み

にも毒を食(くら)う勿(な)かれと。

今万人の主君も一人の生命に

代る者なし。

 

而して時の来たらぬ殕(か)れは、

心苦しみ身(み)悩(なや)みて

神緒の縒(もつ)れて解けず、

魂魄は天の元宮に帰らず。

齡(よわい)を保ちて天命の時

来たりて、自ら殕(か)るる者は

苦しみ無くして、楽(たのしみ)なり。

この楽を得んと欲するには、

性(こころ)を養うにあり。

性(こころ)を養う楽の種なればなり“。

 

現代訳では

”それでは、長寿の道を授けよう。 

命は宝であるから、毒素を出す

食べ物(穢れ、縮み、命を短縮させる

食べ物~例:四足の肉など)は 

とらない事。 

 

寿命(天命)を全うして死ねない

要因、つまり、悶々とする心や

体の不調は 神とつながっている

コードがもつれて解けていない

からだ。

そのために、死後、魂は 

本来行くべき”天の本宮(もとみや)

に帰ることが難しい。

 

  菊の花イラスト に対する画像結果菊の花イラスト に対する画像結果

次に 天照大神は菊の花の意義

を説く。

 “それ菊花(ここなし)は期(とき)を

待ちて殕(か)るる故に、

花の匂(におい)芳(かんば)しきなり。

人の身もまた是の如し。

常に清(すが)糧(かて)・

清(きよ)菜(な)を食(は)み、

寿命万歳を永らえて生命尽きる

者は、屍(おもむろ)の匂(におい)

芳(かんば)しきなり。

菊花の匂の如しなり。“

 

意訳は、

菊花は 枯れるべき時まで、

花を保ち、枯れる時に放つ、

花の香りはさわやかで香ばしい。

人も同様で、きよらかな材料

(汚染されていたり添加物がない

新しい食材)で 菜食を

中心にした食生活をしていれば、

天命は万歳に達し死んだ

あともその屍(しかばね)は

死臭なく、菊の花のような、

さわやかな芳ばしいものである。“ 

 

インドに15年もいると、死者の

葬儀(遺骨は必ず、聖なる河=

ガンジス河やヤムナ河に

持っていき、流す)にも

何度か呼ばれた。

 

特に、聖人といわれる人の

死体は あの真夏50度にも達する

外気の暑さにかかわらず、

腐食せず、まるで生きて

いる人のように 皮膚はなめらかで、

光沢があり、肉も硬直して

いなかったという話は

何度か耳にした。

 

その方たちの生きていた時の

食生活はと聞くと、菜食で、タンパク質は 

木の実や豆類、ヨーグルトは

自家製で、ナッツを食し、油はギー

(牛乳の純粋脂肪)、主食は

アタと呼ばれる 全麦粉の一種で

作られるチャパティで少量いただく

程度であった。 

 

夕食は日暮れを過ぎるととらず、

一日に多くて2食、シンプルな食事

だったと聞く。

 

天照大神はさらに続けて 菊の花の

”見えざる日と月”の要素の関係

を以下のように教示される。

“稉(うるち)は日の種にして、

菜(な)は月の種なり。菊は日(ひ)・

月(つき)を以って化生(なる)故に

清(きよき)香(かおり)あり。

 

人の両眼(めのたま)は

日と月に配する故に、菊を

食えば眼晴清明(めたまあきらか)

となる。

これ菊と日・月は同気を感ずるによる。 

而して天成道を以ってすれば、

人と神と同気を感ずる故に、朕は常に

菊を愛(め)ずるなり。“

 

意訳すると、

日本のコメは 粳(うるち)と

呼ばれるが、これは陽の波動を含む。

菜っ葉は陰の波動、”うるち”

は日の陽の波動、これは、菜っ葉は月の

元が含まれ、コメには陽の波動が含まれる。

 

一方、菊の花はといえば 日と月の

両要素を含むという意味で、

価値ある花なのだ。食用菊は 

眼に善いという。 

それは ヒトの眼もまた、

菊と同様、陽と陰からなるからで、

波動の気が合うからだ。

 

この食生活の教えも 天成道では

大切な教えで、人と神とは 

天成道を生きてこそ、同質の気

をもち交流できるので、 

天照大神は 菊の花を 愛する

のである。”

(秀真伝15綾より)

 

菊のご紋章というように、

古来より日本の皇室と菊の花

は深い関係があったのだろう。

このようなホツマツタエの話

を読むと、天照大神がこよなく、

菊の花をめでていらしたと

いうところに、日本人が菊の花に

対して特別な想いを抱く理由が

わかる。

菊の花が、ご紋章に使われている

起源も、太古の昔のこうした

お話の伝承にあるのかもしれない。

 

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超古代史に見る日本の精神

2016年01月20日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

稲荷神社の本源と赦す心・調和の心

******************************* 平成28120

これまでの稲荷神社の本源を読まれて18

(上)の見出しになっていた,日本人に流れる

文化的精神‘許す’の意味“とのつながりを

感じ取った方もそうでない方もいらっしゃる

だろう。

 

夫が長崎支局で働いていたとき、長崎市で

開かれた原爆・平和の会に出席する機会が

あった。 そのレセプションで大使館関係

のアメリカ人と話をした。

 

そのとき、多くのアメリカ人たちは 広島

に原爆を落としたことで戦争が終結した

という教育?を受けていることを知った。

いまだに戦争中の慰安婦問題が,日韓の

外交問題に尾を引いていて、国民感情も

複雑に絡んでいる昨今、アメリカに二つ

もの原子爆弾を落とされた国民が、その

痛手を忘れたかのように、最も親近感を

呼ぶ国の一つにアメリカを揚げるのも

日本独特の国民性を感じる。

 

どうやら、日本人の持つ独特の“赦し”と

“和の精神”の無形遺産的文化のためで

はないかと 思うようになった。

 

そのことをふまえて 秀真伝えの“

はたれ魔退治”の話を読むと、納得がいく。

はたれ魔という、西洋的にいえば、

悪魔のような人間の心に悪の誘惑と

神に逆らうような行動をとらせる

存在は 秀真伝えの中では、

“人間の欲望に巣くる、それを餌と

して喰らいながら増長する癌細胞”

のような存在としてとらえられる。

 

だから ヒトは清めることが大切

になる。

自分の身と心を清め(心身一体であるゆえ)

そうした心持ち(穢れ)から離れ、

あるいはそうした心持を清め流す。

はたれ魔がつくか否か、それは心の

持ちよう如何というところだ。 

 

日本人はこうして神の時代から続く、

清らかな心に戻るための、禊(みそぎ)

のその大切さを知っている。

禊を行うことで、自分自身の穢れ

のみならず周囲を清めることが

できる。

 

天照大神は 民の世が乱れたとき、

自ら何千回も滝に打たれご自身を

清められた。

民の世の乱れは自分の責任であると

いう、“自覚”とともに、自ら清まれば、

世の中も清まることをご存知だった。

乱れる責任も自己に 不運を招くの

も自分の心次第だ。

 

はたれ魔が世に蔓延ったその一つの

きっかけに、しらひと・こくみ 

という輩たちが政治に賄賂を使い、

人としてあらざるべき悪事を

行い続けたことがある。

 

そこに はたれ魔は住み、人の心

に慢心や強欲を増長させて世の中が

乱れた。

そこで 天照大神の勅旨により、

はたれ魔は退治されるのだが、狐に

似たはたれ魔に関しては 荷田神

(かたのかみ)が彼らを生け捕りにし、

今にも首を落とされんとするところで

命乞いをされた。生かしてくれれば、

心を改め神様のために仕えますという

言葉を信じて赦した。(前回のブログ参照)

 

こうして温情を受けた ‘狐はたれ魔’は 

改心して神に仕える者たちになった。 

稲作を司る、“蒼稲魂(うけのみたま)

と保(うけもちのかみ)、及び荷田麿命

の三神”の、御用使いをすることになった。

ホツマツタヱには、

“この三神を合せ祭りて荷()()(かみ)

となす。(今日の荷稲(いなり)神はこれなり)“

と八綾にあることは先回ご紹介した。

 

ここで注目したいのは、首を切り捨てられる

ことなしに 狐顔のはたれ魔たちは赦されて 

“神の使い”になったと言うことだと思う。

鬼の目にも涙~ではないが、どんな人にも

仏心がある。

 

はたれ魔たちにも心あることを知り、

荷田神(かたのかみ)は赦した。

赦すこと、愛をもって許すとは、相手の

本性(仏性・神性)を信じて悪の因縁から

解放してあげることなのだろう。

 

さらに、猿沢の池 と名付けられた

所以が秀真伝えの中にあった。

(稲荷神社の本源()参照)では、

猿のはたれ魔たちは自害させられた。

その条件として、次の生では人として

生まれることを約束された。

彼らは納得して自害した。

 

ここには、命は生き通しで、再び、

生まれ変わることが前提になっている。

仏教で伝わったとされる輪廻転生の

概念は、すでに、秀真伝えに語られ、

さらに、どんな生命も生まれるたびに、

確実に進歩していく可能性を

示唆される。

 

より良い人生を生きるために私たちは 

今を生きているということがうかがえる。

8綾で出てきた、“まふつの鏡”は、

三種の神器の一つとなる。

真の姿を映し出す鏡は、人に似てるものの、

本性は はたれ魔であることを

写しだす。

この鏡によって、多くのはたれ魔が

捕えられた。

 

こうして秀真伝え8綾に描かれている、

“赦す精神”、“和の精神”は 

天照大神が三種の神器を定めるにあたり、

詔(みことのり)を与えた

言葉の中にもうかがえる。

 

“『勅宣(みことの)り、汝(なんぢ)

(おし)(ひと)()が代理(かわり)

(つね)の任(よさし)も御()(たたし)ぞ。

 

千々(ちぢ)の春秋(はるあき)(たみ)

()で、この八尺(やさか)()

勾玉(まがるたま)()が奇(くし)

()()(もち)ゆれば、中心

(なかご)()(すぐ)に保つなり。

 

八咫鏡は縦(たて)に振()れ、諸人

(もろと)の善悪(さが)(かんが)みよ。

(また)八重(やえ)垣剣(がき)は剣臣()

に預(あづ)け、荒神あらばよく()けて

恵み和せ』

 

と御手づから賜う三種神宝(みぐさ)を給え、

(なお)も思えよ宝物、見ること朕(われ)

を見る如く、娶(めと)る千乳(ちぢ)(ひめ)

相共に、常睦まじく情愛(みやび)なせ。“

 

この中で特に、“又(また)八重(やえ)垣剣

(がきのつるぎ)は剣臣()に預(あづ)け、

荒神あらばよく平()けて恵み和せ』の部分

に着目したい。

 

勾玉、鏡と剣を以て三種の神器となすのだが、

剣の項目では、荒荒しい鬼神などに対して、

この剣を使い、“平らかに恵み和せよ”という

天照大神のお心が述べられている。

 

切り捨てよとも、退治せよともなく、

恵み和す、しかも“たいらかに”というのだ。

読む人の解釈次第ではいろいろ取られる

ことだろうが、私は少なくても、この短い

一言に天照大神時代からの、日本人の

理想卿とする国は、お互いに、相和す心、

平和を愛する心で造られるということ、

ではなかったのかと思えた。

 

つづく

 

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超古代史に見る、七五三の祝

2015年11月15日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

 日本伝統的風習のルーツについて 2015・11・15

****************

今日は七五三。

お参りに行かれる方もいるかもしれない。

秀真伝(ほつまつたえ)の ”東西の名と煌虫去る

紋(あや)”には、現在でも祝われている、

さまざまな、節句にちなんだ祝いについて

述べられている。


重陽(ちょうよう)の節句というのは、1月1日、

3月3日、5月5日、7月7日、9月9日、など、

奇数月と日が重なる、めでたい日をさす

 

さて、七五三の祝の由来については、イザナギ・

イザナミの両神が、婚姻を済ませ、御子を御生みに

なり、天照大神(男神)の姉にあたる、和歌姫の

幼少時代にさかのぼる。


その箇所を引用すると:

 “それ和歌の本緣について述()べると、

古天両神の長女にます若姫の神は、三歳に

なる時、父母神の厄年にあたるなり。


故に三歳になる直前に、(いわ)(くす)(ふね)

に乗せられて、()てられ給う。“

 

ここでは、イザナギ・イザナミの尊のご長女で

ある、若姫は三歳の年に、ご両親の厄年にあたり、

厄除けのために、川に流されたとある。


そして、育ての親となる、金折命(かなさくの

みこと)に拾われる。

(これは儀式的意味もあり、実際、金折命は
自身の乳飲み子と死別したばかりで、妻が乳が
張り、乳母として和歌姫を育てる役を言い
つかったとする観方が有力である)


そのあたりの記述が以下にあある;

“金折命はこれを拾(ひろ)ったと云()って、

廣田(ひろた)に西(にし)殿(どの)を建()て、

其の妻の乳()をもって養育をなすなり。”


これは、現在の兵庫県西宮市にある 廣田神社

である。

”拾った”が、廣田に名前を変えたのだろう。

(現在では、古事記主体で神社が運営されているため 

御祭神が往々にして異なる。)


養父・金折命は姫を、可愛がり、成長するにつれ

アワの歌を教えたことが次の箇所に、記されている:


“初めにアワウワを教ゆる。手を打()ちて、気を

(ひら)き、眼を(ほそ)めて笑うなどなり。”


ここは、現代でも変わらない赤子をあやす言葉が

出てくる。

カイグリカイグリ、トットノメ・・アワウワアワワ・・・

などと手を打って、笑い顔であやしていたのだろう。


”手を打ちて、気を開き”というところは、興味深い。

拍手する意味合いの一つに、凛とした拍手の響き音は、
気を高め、順気を流れ指す、言霊の一種の役目を
もっていたことがわかる。


相撲でも、お祝いの席でも、参拝時でも、人は、こうして
礼拝時や、お祝いの”お手を拝借”の声に合わせて、
無意識に拍手をしている。

さて、姫が成長して三歳になった時の祝いが、

描かれている;


“三歳の誕生日には初めて食膳を供え、食を

進めて行儀を教ゆ。


三年の冬至(とをぢ)には髪(かみ)(をき)祝を

なす。“ とある。


昔の三歳は、数え年なので、現在の2歳だろう。
乳や離乳食を主体としていた食事から、膳の
盛り付けで、一人前の食事をいただき、
行儀作法も教えられ始めた。

そして、冬至に、髪の結い方も、赤子と区別
されるようになった。


ところで、1月1日に、正月になぜ、餅をつくのか? 

の記述も同紋に出ている。

“元旦には初日(はつひ)(もち)を搗()きて、

天地(あわ)の神(かみ)に供(そな)えて敬(うやま)い 

父母(ふぼ)(がみ)に礼(れい)をなすなり。”

と記されている。


祖先は、神代の昔から、元旦に餅をついて、

神に供え、父母に挨拶をして、新年を迎えていた。


3月3日の、女の子の節句になっている、ひな祭り

の由来しては、

 “三月三日には桃(もも)の花を供(そな)えて

(ひな)(かみ)を祭り”


一方、男の子の節句、五月五日に関しては、

菖蒲(しょうぶ)と粽(ちまき)を供(そな)える。”

と 現代でも変わらない風習が述べられ、供え物と

して菖蒲や粽(ちまき)が出てくる。

 

七夕として祝う、77日、これは中国からの逸話がもとになって

いると多くの人が考えているが、ホツマツタヱの

中には、日本の独自の祭りとしての記述が出ている。


“七月七日は木綿(ゆう)・麻(あさ)(たく)(はた)

を祭り”と記されている。


九月九日の節句は、現代では、ほぼ忘れられて

いるが、その日は、

“菊(きく)・栗(くり)を供え祭るなり。”と書かれている。

 

さて、話を元に戻して、七五三の、5歳の男子女子の

祝い方が、次に述べられている。

“五年の冬には、男は袴(はかま)()は被衣(かつぎ)

()る。”


五歳を機にして、男子女子とも、衣装が新たに 袴や

カツギといった、装束に変わることが書かれている。


さらに5歳の年の冬に“言葉を改(あらた)めてという

記述がある。

 

そして、若姫の養父、金折命(かなさくのみこと)は、

姫にあわの歌”を教えた。

“常に阿()()(うた)を教(おし)ゆなり。”

 

この歌を知っている現代人は少なくない。

その歌とは、

“あかはなま  いきひにみうく

ふぬむえけ  へねめおこほの

もとろそよ  をてれせゑつる

すゆんちり  しゐたらさやわ“


この歌は、体の中の気を整える働きを48音で、

48の経絡に呼応する言霊によって、為され順気

を回すといわれている。 


秀真伝えでは、

若姫の神は常に葛(かだ)(がき)(うち)の、

(こと)を弾()ながら、()()(うた)

(うた)うなり。

 

(おのづ)と音声(おんせい)の道が開けて言葉が

明らかとなれり。“


若姫は琴の音を伴奏に常に、あわ歌を歌った。

すると、五臓六腑ほか命門が整い、身体が順気の

巡りのおかげで病知らず、長命を得る秘訣を

体得したと、以下のように記述されている:


“五臓(ごぞう)・六腑(ろっぷ)・緒()

(命門(めいもん))を五音七声

に別()け、人身呼吸の気が通りて

左右二十四経に通い四十八声となる。


身体(からだ)の中の順気が滞(とどこお)

なく循(めぐ)り、(おのづ)(やまい)

知らず長寿を得る(のり)なり。“

 

中国から 気功が伝わったとか、印度のヨガから

気の調製術が伝わったとか諸説あるなか、

秀真伝え”を読む限り、日本には、神代の時代に

“人身呼吸の気が通りて左右二十四経に通い

四十八声となる”と”気”について確立した

考えが古代日本には、あったことがわかる。



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