自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

天照神が天の岩戸に隠れた真相 ~後

2015年07月28日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

スサノオの尊の暴挙と天照大神のお諭し   2015・7・28

**************************************

 

暴挙を辞めることのなかった

素戔嗚の尊に対し、天照大神が

どのような態度をとられたのか、

秀真伝えには次のようにある;

 

 其の後に素戔鳴尊の仕業

(しわざ)は味気(あぢき)なく、

天神地祗の御供田の苗代に

草の種を振り蒔(ま)き、

畔(あぜ)をこわすなり。

 

故に稲の実乘らず、また

御(み)稲(そろ)の新嘗

(にいなめ)の神御衣を織る

齋(いん)服(は)殿(との)に

汚物を投(な)げ入れ殿(との)

を汚すなり。

 

天日尊は勅宣りを以って

糺(ただ)されぬ。

素戔鳴尊の責(せめ)一人

(ひとり)に帰し身の置き処なし。

 

故に剣を提(さ)げて殿(との)

に昇(のぼ)り佇(たた)ずむ時、

各齋服殿の戸閉ぢぬ。

素戔鳴尊は怒(いか)りて

斑駒を逆(さか)剝(は)ぎにして、

殿の甍を穿(うが)ちて投げ入

(い)るる。“

 

身の毛がよだつような暴挙

がうかがえる。

天の神に供える稲穂の苗代

には 雑草の種をまき、

あぜ道を怖し、大事な新嘗

の祭りのための お衣装を

織る機織り所には汚物を

投げ込む。

 

天照大神は注意をされる

のだが、スサノオの尊は

自分ひとりを責めてをいわん

ばかりに馬を逆さにして

皮をはぎ、宮殿の屋根の

甍(いらか)をめがけて

投げ込むなどなど・・・

それだけにとどまらなかった。

 

” さらに 天照大神の

御怒りを誘うとどめは、

スサノオの尊が中宮の妹、

稚桜姫(和歌桜姫)花子内侍妃” 

 

と続く。こうした諸行で花子内侍妃を

驚かせたうえ、機織りをしている

最中に躓き(つまずき)、命が

絶えてしまった事件が起きて、

天照大神は最後のとどめのような

お怒りをあらわにされた。

 

秀真伝えによれば、

“ 天照大神は怒りまして 

素戔鳴尊に「汝は何ぞ

邪心を以って国を望むや」 

と宣給いて、天成道を以って

蒼生を猶子と為す御歌を

製られ給うなり。

 

あめがした やわしてめぐる

ひつきこそ はれてあかるき

たみのたらなり” 

 

この歌の解釈は

“(天(あめ)が下(した)  

和(やわ)して運(めぐ)る 

日月(ひつき)こそ 

晴れて明(あか)るき 

民(たみ)の親(たら)なり

 

意味は、~天(あめ)が下を

日月(ひつき)和合(わごう)

して運(めぐ)り昼夜を照らす。

潤(うるお)して万物を育成

する日月こそ、実(げ)に万民・

万物の君なり、父母なり。”

 

天下を正しく治める道 

人の生きる道 天成神道 

とはるかに 隔たったスサノオ

の尊の諸行に天照大神は

お怒りになり、上記の歌を

詠まれ、弟に対し自制心を

求められたのだが、スサノオ

の尊は反省するところか

益々怒り狂い、剣まで抜く

さまに天照大神は恐れられ 

とうとう、岩屋に隠れられて

しまった。

 

“天(あめ)の岩(いわ)窟(や)に

入り磐(いわ)を閉(と)ざし

隠(かく)れます。”

そしてその時、光は消え、

天下は真っ暗に

なってしまった。

 

“ 時に天下は常闇(とこやみ)と

なりて昼夜(ちゅうや)の区別

(くべつ)なし。

安河辺の宮に在る思兼神は

驚きて、松明(たいまつ)を

持ちて忽ちに伊勢路

を上(のぼ)るなり。”

 

そこで、思兼命(おもいかねのみこと)

がこの事件を宮殿のある、

伊勢へと、知らせるために、

向かった。

 

多くの神々がこの大事件を知り、

協議をはかり、天照大神を

岩戸からどのような方法で外に

出てきていただくかと、策を

めぐらす行(くだり)である。

 

以下、どのように岩屋から天

照大神に出ていただいたかが、

書かれている。

 

“子の手力雄命は、伊勢より

安河の宮に告(つ)げんと、

松明に馳せる途中(とちゅう)

にて父子往き逢い、手力雄命

に質問をなす。

 

手力雄命は具(つぶさ)に

有(ある)状(かたち)を

説明せば、思兼神は八百万神

を集(つど)えて相(あい)

議(はか)り「高天原にて

天照大神の御出現を議り

祈らんや」 と曰す。

 

兵主命(つわものぬしのみこと)

が真(ま)栄樹(さかき)の上(かん)

枝(え)に、瓊(に)玉(たま)を、

中(なか)枝(え)に真(ま)写(ふつ)

の鏡を懸(か)け、

下(しも)枝(え)に和(に)幣(ぎて)を

懸(か)けて祈(いの)らんとなせり。

 

天(あめの)鈿女(うづめ)命等は

日(ひ)蘿(かげ)を手(た)繦(すき)

とし、茅(ち)巻(まき)矛(ほこ)

を持(も)ち逑を庭火として

焚(た)き、笹湯花をなしながら

神楽(かぐら)の祝詞(のりと)

を奏し、神明の憑(かか)りを

請うなり。

 

思兼神は深く思慮をめぐらし、

細女命等に常世の踊(おど)りと、

長(なが)開(さき)雄鶏(おどり)

を集め鳴かせて踊(おど)り舞(ま)い、

俳優(わざおぎ)の謡(うた)うなり。

 

香(か)久(ぐ)の木(き)  

枯(か)れても匂(にほ)ゆ

凋(しを)れてもよや 

あがつまあわ

あがつまあわや 

凋れてもよや

あがつまあわや

 

諸神は磐戸の前にて祈り、

暁(か)花(し)表(ま)鶏(とり)を

鳴かす。

これぞ常世(とこよ)の長(なが)

開(さき)踊(おど)りと名付くなり。

 

天照大神は笑み給いて、

磐戸を細(ほそ)く開(あ)けて

窺い給えば、手力雄命は素早

(すばや)く磐(いわ)戸(と)を

持ちて投(な)げ捨(す)て、

大神の御手(みて)を取りて

天(あめの)岩(いわ)窟(や)の

中より出し奉るなり。

 

兵主命は岩窟の前に注連縄

(しめなわ)を張(は)りて

「勿(な)帰(かえ)りましぞ」

と奏す。“

 

いわゆる古事記にも描写されて

いる 神々が天照大神を岩屋

から出ていただくために、

お神楽の原型となった、

踊りを 天の細女命(あめの

うずめのみこと)が舞い、

天照大神が岩戸を少しあけて

その様子をご覧になろうと

したときに、手力雄命(たじからおのみこと)

が岩戸を力づくでこじ開けて

大神を外に出す 有名な

行(くだり)である。

 

こうして天照大神は岩屋から

出られ、世の中は再び明るく

なったが、素戔嗚(すさのお)

の尊はその罪咎(つみとが)

のために、宮中から

放逐されて 世捨て人の格好で

出雲までたどりつく。

 

そして、そこで 出雲の国

と称する、宮廷をもしのぐ

ほどの物質的に

豊かな繁栄をもたらす土台を築く。

 

さらに、秀真伝えでは 

スサノオノミコトは 

自分の業(ごう)の深さを

清算するために、ヤマト

タケルの尊に生まれ変わった

と、後の綾(あや)に書かれ、

仏教誕生以前の前にすでに

このような輪廻の考え方 

カルマ(業)の認識などが

超古代日本にも存在して

いたことが 興味深いところだ。

 

 

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日本の神話と精神文化と癒しの心

2015年07月25日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

天照神が天の岩戸に隠れた真相 ~前  2015・7・25

***********************************************  

 

これまでのブログの流れから少しはずれる今日の話題。

千島学説から 恐れが腰痛の原因であるという新しい説を

発表して話題になっているその二つの間にある 

生体論の共有性から話題を変えて 秀真伝えのお話しを

少しさせていただきたい。

*******************

 "秀真伝え"は 姑(はは)、須田麻紗子が 生涯の研究として

取組み,近年 ”完訳超古代史 秀真伝(ほつまつたえ)”として 

原文、対訳、現代仮名、漢字振り当て、大訳などの完訳を試みて、

出版した。


自然治癒力セラピー協会でも 有志が集い、秀真伝えの輪読会

を行っている。

なぜ、ここで 秀真伝え?とピンとこない読者もおられよう。

"秀真伝え"と自然治癒力の関連性といえば、 古代の同書を編纂

した血統をひく、スクナヒコの尊 (奈良大三輪神社に祀られている) 

が日本で最古の医術者 として 秀真伝えに登場して来る。


姑(はは)は 指圧学校で東洋医療を学びながら,秀真伝えの

研究を重ねていくうち,不思議な能力が開発され、新しい 療養術、

(後年 神気法と名付けた) を取得した

その際、霊能力者が施術する母の後ろに 医療箱を片手にもって

立っている十二単の姫君の姿を 霊眼で感知している。

 

姑(はは)は ”秀真伝えの中に流れる波動こそ、人の順気に

呼応して、魂と気、身体を浄化させる要素でもある”と実感して

いると、語った。

 

自然治癒力の一環として こういうわけで 私自身も、秀真伝え

に流れる言霊の波動と その内容そのものの深さを感じている。

たとえば、

輪読会当日、体調を崩し、数日寝込んでいた参加者も 一時間以上の

道のりをかけて、参加してくださる。

その理由は 秀真伝えを2時間 輪読しているだけで、体が軽くなり、

調子悪い症状も改善されていくということを何回か体験している

からだ。


皆さん活き活きとした面持ちとエネルギーで白熱した議論?を

重ねながら、超古代の神代に戻るこのひと時に、自分の心の中の

深奥に眠る原点にも、むすびついていくような安らかさと

心地良さを感じているのだろう。

 

さて、神話はどこの国でもその国の精神的遺産であると

考えている。

”秀真伝え”は ”古事記”と異なり、単なる神話ではなく、その

大元となる日本立国の超古代史であると編者の姑(はは)は

言う。

そう、捉えられる人には、秀真伝えから 深い日本人の魂の

ルーツを探ることができる。

 

今日は、古事記でも特に、有名な天の岩戸のお話しを、

取り上げてみたい。

”天照大神” が、天成神道 と呼ばれる 和の心 と日本人の

モラル観を 超古代において、民のために、そして、国を

司る神々のために、すでに創られていたというお話しでもある。


私たちが日本人固有の美的、道徳的、価値観が どのように

形作られてきたかも同時に知りうる。

そうした道徳観や価値観は、歴史的根底として存在してきたと

いう実感を持てる。

 

和の精神、赦しと寛容、正義、律儀、実直、正直 勤勉など、

他国と比べ 抜きん出ている日本人の特性は、超古代史の中で

どのように描かれているのだろうか?

 

さて、天照大神は女性神ではなく、男性神であったことは

すでに、過去のブログ記事でお伝えした。

秀真伝えでは 天照大神の弟君にあたるのがスサノオの尊

となる。 

古事記ではスサノオの尊の暴挙に対し、天の岩戸にお隠れに

なったことになっているが、”秀真伝え”第8紋(あや)でも

スサノオの尊の荒々しさは 以下のように形容している。

 

“其の後に素戔鳴尊の仕業(しわざ)は味気(あぢき)なく、

天神地祗の御供田の苗代に草の種を振り蒔(ま)き、

畔(あぜ)をこわすなり。


故に稲の実乘らず、また御(み)稲(そろ)の新嘗(にいなめ)

の神御衣を織る齋(いん)服(は)殿(との)に汚物を

投(な)げ入れ殿(との)を汚すなり。


天日尊は勅宣りを以って糺(ただ)されぬ。素戔鳴尊の

責(せめ)一人(ひとり)に帰し身の置き処なし。故に剣を

提(さ)げて殿(との)に昇(のぼ)り佇(たた)ずむ時、

各齋服殿の戸閉ぢぬ。


素戔鳴尊は怒(いか)りて斑駒を逆(さか)剝(は)ぎにして、

殿の甍を穿(うが)ちて投げ入(い)るる。 “ 

 

その諸行の猛々しく荒々しい様が具体的に述べられている

行(くだり)だが、“その後に”という言葉は何を指しているかと

いうと・・・・。


’その後’とは、”わけありの事件”が多々あり、特に、天照大神の 

妃(きさき)になった姉妹、“持子典侍妃と早子内侍妃” と

スサノオの尊の関係をほのめかしているという。

特に、そのうちの一人の妃と密通を犯してしまうスサノオノミコト。 


天照大神の正室(中宮)は、その怪しい気配に感づき、

二人の局(つぼね)をスサノオの尊から離した。

その下りが以下である:

“両妃は内宮より北の局に帰りて共に歎き居るなり。

素戔鳴尊はこれを聴き、生来短慮にして堪忍(かんにん)

のならぬ性格故、向(むか)津(つ)姫(ひめ)に対する

怒りに耐えかねるなり。”

 

それを聞いたスサノオの尊は 短気さ余って、中宮の向津姫に 

怒りを抑えきれなくなった。

短剣をかくして 密通相手、早子姫の部屋に隠れて、暗殺を企てる。 


しかし、早子姫に “出世を願うのなら今は辛抱を” 

と諭される。

その時現場の前を、中宮の妹、

“稚(わか)桜(ざくら)姫(ひめ)花子(はなこ)内侍妃”が 

通りかかり 二人の話を聞いてしまうのである。 


姉、中宮に伝えた稚桜姫だが、中宮は 夫、天照大神には

このことを秘めておく。

そこで、早子持子両妃を呼び出し、“筑紫国の宇佐に流罪”と

いう詔(みことのり)をだし、二人を九州現在の福岡県

に送った。


現在でも”宗像(むなかた)三女神”の祭りがこの地に

残っていると聞くが、この三女神こそ、早子が流刑になった

とき、連れて行った、三人の娘姫子たち、

“竹子・湍子(たきこ)・田奈子の三姫”である。

 

その後、竹子は 琵琶湖のちくぶ島神社のご祭神 

弁天様としてあがめられる。


湍子は 江の島の弁天様として、田奈子は厳島神社の

ご祭神となった。 


それぞれ 水場に祀られた、

なぜなら 母親は実は大蛇の魂を持っていたからだと

言われる。 

なぜ、大蛇に化身したのか?

秀真伝えには、筑紫の国に流された早子と持子は 

姫たちの待遇より自分たちの待遇が悪いのを恨み、

怒りが爆発して、”大蛇”に変身したとある。

 

“筑紫の国神赤(あか)椎(つちの)命(みこと)は姉妹(えと)の

二妃と三姫子を受け取りぬ。

宇佐(うさ)の古(ふる)宮(みや)を造(つく)り改(か)えて、

三姫子を置き、二妃は疜(あち)局(つぼね)に置くなり。


二妃は怒りて三姫子を養育せぬ故、赤椎命は此の由を

中宮に告ぐなり。

よって中宮より北の局の豊姫に「筑紫に降りて三姫子を

養育すべし」との詔(みこと)が下る。


二妃は怒りて遂に大蛇(おろち)に変化し、簸川(ひかわ)

に到りて世に蟠(わだかま)るなり”

 

 大蛇に変身した早子はその後、八又の大蛇と言われる、

”やまたのおろち” になる。

一方、持子は 九頭竜(くずりゅう) となる。 


箱根や戸隠神社に九頭竜神社があるが、この謂れ(いわれ)

は、この事件[筑紫流罪]に 少なからず、関連しているの
である。

 

こうして大蛇と変身してしまう、天照大神の側室たちと

関係を持ったスサノオの尊だが、姉妹達が、 中宮 

(天照大神の正室) セオリツ姫(向津姫)によって、

筑紫に流された後も、その荒々しい諸行は留まらず、

暴挙をとどめる手段はなく、ついに、天照大神は岩屋に

お隠れになってしまう。

 

続く~

 

 

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和歌と浄化・穢れ祓い

2015年06月22日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

言霊の威力~超古代から現代まで   2015・6・22

*****************************************

 

先先回のブログ “わか姫の話”の中で、“あかはなま~”から

始まる あわの歌 を 金折命((が常に唱え、身体の24経絡の

順気を整えていたことを書いた。

金折命の養女であった、わか姫にもこれを早くから教えられ、

姫は管弦【琴】をひきながら歌の道に秀でた才能を示す。

'あかはなま' は 5文字、次に続く節、 'いきひにみうく' は

7文字、その繰り返しの、5.7 の 5.7数で歌が綴られる.

超古代史の中にすでにみられる歌の基本的形は、言霊を継承

するのに最適だったと言える。

たとえば、言霊を使って歌を詠んだ、その他のエピソードが

”わか姫の綾”に記されている。

 

或るとき、稲田に害虫が発生し、被害がおよび、農民たちは

嘆いた。

そこで、わか姫と、天照大神の中宮である、瀬尾律姫は言霊

をもってしてこの害虫を駆除したとある。

 

“中宮は田の東(き)に立(た)ち

玄(おし)参(くさ)を持って

扇(あお)ぎ、若姫の神は歌を

詠(よ)みて祓(はら)い給えば、

蝗虫は忽(たちま)ちに去(さ)れり。

この故に向津姫は詔(ことのり)

して、この歌を三十人の侍女

を田の東に佇(たたづ)ませて、

各々共に歌わしむなり。“

 

その歌は

“たねはたね  うむすぎさかめ 

まめすめらのぞろはもはゝそ 

むしもみなしむ“

 

現代の言葉(漢字づかい)に振り替えると、

「田(た)種(ね)畑(はた)種(ね) 

大麦(うむ)小麦(すぎ)栄(さか)芽(め)

黒豆(まめ)小豆(すめ)等(ら)の

稲(ぞろ)葉(は)も喰(は)めそ 

蝗(むし)も皆(みな)鎮(し)む」

 

この歌を、わか姫は女官と一緒に、繰返し三百六十回

詠うと、

“蝗虫は西の海にざらりと

飛(と)び去(さ)り、汚(お)穢(え)

を祓(はら)えば、稲はやはり

若やぎ甦(よみが)えるなり。”

 

と効力を奏し、害虫は飛び去って行ったことが

記されている。

この話しが元となり、5・7調の形式をそなえた歌を  

和歌” と名付けたと言う。

この時の害虫の駆除に、わか姫が一役かった、

紀(き)志(し)伊(い)国(くに) をそれ以来、和歌の国 

呼ぶようになったと、秀真伝えには記されている。


“歌の徳により枯れたる

稲の若返(わかかえ)る故、

歌(うた)を和歌(わか)と

名付け紀(き)志(し)伊(い)国(くに)を

和歌(わか)の国(くに)と稱す。”

 

言葉の威力という意味では、真言やマントラなど、呪文や

経も含めて、現代にまでその力は広く認められているところ

だが、身近なところで ヨガナンダ師の幼少期の、こんな

エピソードもある。


それは ”あるヨギの自叙伝”に登場する師の思い出話しで

ある。

同時に 言葉の力、善い言葉のみを使おうと呼びかける

逸話にもなっている。

兄弟ケンカで言葉の投げ合いはつきものだ。

幼いヨガナンダ師は ことの成り行きで 怒りにまかせて、

妹にたいして、明日までに”大きなおできができるぞ!”

と宣言してしまうのである。


すると、ほんとうに、妹の顔に、おできが出て、ヨガナンダ師

はびっくりしたというお話しだ。


”念”の籠った言葉、”念”の字体は、今の心 と書くが、その 

(久遠の)の中から出た言葉は物事を造りだす力を持つので、

善きにせよ、悪しきにせよ、その言葉通りの事態を招へい

するということだ。

 

キリストさまも、死人ラザロに対して、言葉で”目覚めよ”

という言葉を投げかけて 生き帰らせたことが聖書に

出ている。

言葉の持つ威力を忘れてしまいがちな現代人だが、

確実に太古より言葉の持つ力は、変わらずに存在している

とつくづく思う。


ところで最近 テニス選手だった松岡氏が 格言集を出して

話題になっているという話を聞いた。

インドの息子の部屋にも 日めくりカレンダーがあり、

簡潔で的確な言葉が毎日読めるようになっていた。

少し興味を持っていた矢先、テレビで氏のことを取り

上げて、家族たちのエピソードも織り交ぜながら、考え方

や生きかたの紹介する番組を見た。


幼い子供が、暑いさなか、母親と歩きながら”寒い寒い”

とつぶやく。

熱でもあるのかと想い、心配で額に手をやるも、熱はなさそうだ。

”何故、寒いの?”と聞く母に、松岡氏の子供はこう答える。

”パパが暑ければ、寒い寒いと言葉で唱えていると、本当に涼しく

感じられるようになると教えてくれたの”


心頭滅すれば火もまた涼し~

この言葉を文字通り、日々の生活に取り入れている松岡氏も

それに従うご家族の方達も”すごい”と思った。

同時に、言葉の威力を知っているかただからこそ、他人が

聞いたら吹き出しそうな話かもしれないが、徹底した実践を

行っているのだとも思えた。


しかし、そうは言っても肩の力を抜く加減も必要かもしれない。

言葉の力は絶大だが、その力を発揮させるのは、やはり、

人力を超えた大きな力が作用することも事実だと感じる。

その”大きなる力”を信じられれば、躍起(やっき)になること

もないだろうし、文字通り”適当”である”ほどほど”で周囲との

調和もとれてくるのだろう。


何やら脱線してしまったが、わか姫の言葉、祈りの和歌は

稲につく害虫を吹き飛ばし、聖人の言葉は、その通りの

状況を造りだす。

私たちも 自分を浄化しながら、大いなる力を通して、

自分の祈り(願い)の成就を願う。

正しき人の言霊は希望を言葉に託したとき、すでに

成就する率が高くなる。

本当の祈りの効果を知っている人は、すでに、自分の

願いは実現しているのだという確信と感謝を持って

いるから、さらに高い確率で祈りは成就するものだ。

言葉の力、言霊の力は存在する。

秀真伝えのこうした話を知ると、太古の昔から、和歌を詠み、

穢れを祓い、心身すら浄化していた日本人の叡智を知りえる

気がする。

 

 

 

 

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太古の食習慣と寿命 

2015年06月19日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 東西南北の由来・キミという言葉    20156・19

*******************************

 

わか姫は いざなぎ・いざなみ

の神様のご長女だ。

天照大神のお姉さまに当たる

~秀真伝えによる~3歳の時、

親の忌み年と重なり、小さな

船に乗せられて厄年の影響を

受けないようにと、河に流され、

金折命(かなさくのみこと)

に拾われ 育てられた。

この姫は、とても聡明だった。

姫は、育ての父君 金折命(かなさく

のみこと)に”東西南北” と

名付けた本縁を尋ねる。

秀真伝えには こう記されている。

 

“金折命の教(おし)ゆるに

「日の出(い)づる方を東(ひがし)

と名付く。

日(ひ)の頭(かしら)故に略して

「ひがし」と謂(い)う。

日の丈(たけ)登(のぼ)り至(いた)る

を南(みなみ)と名付く。

皆(みな)が見(み)る故に「みなみ」

と謂(い)う。”

皆の目線を集め、成功に導くさま

を”ひのめを見る”というが、

東は太陽の出てくる場所、特別な

意味合いがあったことがこの節を

読むとわかる。

 

さらに、反対の西はどうかと

いうと、

”日の落ち入る方を西(にし)と

名付く。

煮(に)え鎮(しづ)む故に略して

「にし」と謂(い)う。

米飯を炊(かし)ぐ時、米と水を釜

(かま)に入れ薪(たきぎ)をもって

炊(かし)ぐ。”

 

西側に勝手の竃(かまど)を

用意したのだろうか。

”その火(ひ)頭(かしら)を東(

ひがし)に配す。

煮(に)え盛(さか)んなる時(とき)

に南に配し、煮(に)え鎮(しづ)む

時を西に配する。

これを(え)日(か)(吉日)毎の

食飯となすなり。“

と 書かれている。

 

現代でいうところの家相の良し

あしでも、かまど(台所)の

位置は重要だそうである。

金折命は、姫に、コメを

炊くときの縁起の良い方向、

吉飯とするための心構えを

教えている。

すなわち、

飯を炊くとき、煮えてそれを

さますとき、西に置く

ゆえに、煮えしずむニとシ

から 西とつけられる。

風水でも、東向きにレンジを

おくと、人は西に向かってたち、

西側に火(ガスレンジの)が

つけられることになるので 

家の気のめぐりが

良いと聞いたことがある。

 

さらに、金折命は、飯炊きに

付随して 神代の昔の食生活

に触れ姫に語る。

 

“太古は年に二食とし、その時

の人寿は千万歳なり。

その後月に三食となり、時の

人寿は百万歳なり。”

太古の神代の昔、一年に2度しか

食事をとらなかったという。

寿命は千万歳、その後、

食事の回数が多くなるごとに

寿命も縮んでいったという。

 

“その後月に六食となり、

時の人寿は平均して二十万歳

となれり。

今の世は食の多く重なる故に、

人寿は平均して二万歳となれり。“

 

天照大神は ひと月に三食、

しかも、非常に苦い草、これは

富士山にその昔生えていたそう

だが、それを常食にしておられた

という。

“古を鑑みる時、食重なれば人寿

は次第に短命となれり。

故に天照大神は月に三食とし、

常に深(しん)苦(く)の蓬菜(はおな)

を食し給うなり。“

 

ここまで 語ったあと、再び、

秀真伝えでは東西南北の本題に戻る。

南と北の謂れについて、金折命

は次のように、若姫に語る。

“また宮殿は南向きとなし、

南天の陽気(ようき)を受

けて長寿を得給うなり。

この故に宮殿の造営をなす時

は南向きとなすなり。

宮殿の後方を「きた」(北)

と名付く。

日の帰り来たるに配して

「きた」と謂(い)う。“

北を 別称、”ね” とも言う。

そのいわれは、

“日が入れば夜(よる)となり、

寝(ね)る故に北(きた)を

「ね」の方と謂(い)う。”

訪問客への習わしとしても、

南北をつかいわけていたようだ。

 

“例(たと)えば、若し人(ひと)

来(き)たりて事を辨(わきま)

える時、遇(あ)わざる時を

「北(きた)夜(よ)」に配し、

既(すで)に相(あい)見(み)る

時を「日(ひ)の出(で)」に配す”。

互(たがい)に談(かた)りて事を

辨(わきま)える時、真昼(まひる)

の如く明らかなる故に「みなみ」

に配す。

事(こと)落(おち)着(つ)くを

「にし」に配し、既(すで)に

帰(かえ)り退(しりぞ)くを

「きた」に配する。

「ね」(根)より来(き)たりて

「ね」に帰る故に、来(き)たるは

「きた(北)」なり。”

 

北と来たの言霊の同根を語った

あと、大自然の様子を重ねて

方角を語る。

“また木(き)は春(はる)に至ると

若葉を生ず。

夏に至(いた)ると青葉が茂(しげ)り、

秋に至ると葉(は)の煮(に)られて

紅葉(こうよう)となる。

冬に至ると黄(き)葉(ば)と

なりて落下する。“

“木(き)の性(さが)も同じく

根(ね)は北(きた)に帰る故に、

北の方を「ね」、東(ひがし)の

方を「き」と謂(い)う。

木(き)の芽(きざ)す故なり。

南(みなみ)は栄(さか)えるに

より「さ」と謂(い)う。

西(にし)は熟(じゅくし)

尽(つく)る故に「つ」と

謂(い)うなり。“

 

その他にも興味あるところ

としては、以下のような

説明が続く:

“木(き)は東(ひがし)に、

花(はな)葉(は)は南(みなみ)

に、木(き)の実(み)は

西(にし)に配(はい)する。

木(き)の実(み)熟(じゅく)し

落(お)ちて地(つち)に生(い)き、

再(ふたた)び身(み)の実(み)

を見る故に、木(き)の

実(み)を「み」と謂(い)う。

太古は「き」と「み」を、

陽神と陰神に配し、「き・み」

(君)と謂う初なり」と。 “

 

木は東に、木の実は西に配する

ため、太陽の昇る、陽 と沈む 

陰 にそれぞれ神を置き、

陽神と陰神と併せ持った人

(神)に対しきみ という言葉

が生まれたともここに述べられ

ている。

 

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最古の”順気を整わせる”のに使われた言霊

2015年06月04日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

西宮廣田神社由来とわか姫 ~秀真伝えから~  2015・6・4

*********************************************

 

夫が以前西宮に住んでいたので、

インドから年に数度訪れては、

自宅から散歩がてら、廣田神社

に出かけた。

廣田神社の御祭神の由来は

神社入り口にパネルが立って

いて説明されていた。

姑(はは)に秀真伝えを教わって

から、その中の6綾に書かれて

いる内容から、廣田神社の

本当の由来ある神様は 

いざなぎ・いざなみの神様

(ご夫婦)の長女にあたる、

若姫であるということを知った。

日本の文化の中で 和歌の歴史

は長い。

和歌があり、俳句が生まれ、言葉

の巧みさを知ることは言霊を

操ることにも通じて、その人の

奥行の深さと素養を知る一端

にもなった。

源氏物語を読めば 和歌の

教養が貴族人の一番、尊重

する資質であり いかに

和歌を通しての心のやりとり

や言葉が尊重されていたか

知れる。

 

さて、今日は 言霊の重要さ

を現代においても、知りうる、

日本の和歌のルーツとそれに

一番縁の深い 和歌[若]姫の

お話しだ。

 

ご紹介したい。

 

まず、原文から引用する

箇所がある。

それ和歌の本緣について

述(の)べると、古天両神の

長女にます若姫の神は、

三歳になる時父母神の厄年

にあたるなり。

故に三歳になる直前に、

岩(いわ)楠(くす)船(ふね)

に乗せられて、

棄(す)てられ給う。

金折命はこれを拾(ひろ)った

と云(い)って、

廣田(ひろた)に西(にし)殿(どの)

を建(た)て、其の妻の乳(ち)

をもって養育をなすなり。”

 

かなさくの命 は住吉の神

という別名がある。

浄化の神様であると私はかつて

聞き及んだことがあるが、

その本源には言霊を使って

浄化されていたことが

うかがえる。

その一つに、わか姫を拾って、

養育するにあたり教えられた 

和歌のお話しが秀真伝え

6綾に出てくる。

 

わか姫は いざなぎ、いざなみの

神(御両親)の厄年(やくどし)

を避けて、忌みを避け、小船に

乗せられて川に流された。

それを拾われた神が 金折

(かなさく)の命であった。

廣田という地名の場所に

養育の場を設けて 妻の乳

を与えて若姫を育てた。

それにちなんで、廣田神社 

がたてられたとする。

 

どのように養育されたかと

いえば、

”初めにアワウワを教ゆる。

手を打(う)ちて気を開(ひら)き

眼を細(ほそ)めて笑うなどなり。

三歳の誕生日には初めて食膳

を供え、食を進めて行儀を

教ゆ。

三年の冬至(とをぢ)には

髪(かみ)置(をき)の祝をなす。

正月元旦には初日(はつひ)

餅(もち)を搗(つ)きて、

天地(あわ)の神(かみ)に

供(そな)えて敬(うやま)い

父母(ふぼ)神(がみ)に

礼(れい)をなすなり。”

 

かいぐりかいぐり

とっとのめ、あわわわ・・・

 

今でも地方で、あるいは 

年の功を奏した祖父母は 

こうした古くからある言葉

を口に出して、赤子をあやす。

手をたたいて、順気 を

赤子から導きだし、さらに

ニコニコと笑顔で

あやしたり、赤子や喜んで

いる様子がここに描かれる。

三歳の誕生日、昔は 数え年

であったから、今なら

満2歳に 食膳の祝いをして

大人と同じ固形食を口に

することを始めたのだろう。

同年冬至に 髪の毛の

スタイルを女の子に

ふさわしく整え初めたのだろう。

正月には 餅をついて、

食べたとある。

現代にも残る、餅つきの行事

や鏡餅、雑煮の習慣などは

すでに神代の時代から続き、

古(いにしえ)のルーツに行きつく。

正月が過ぎればモモの節句となる。

 

”三月三日には桃(もも)の花を

供(そな)えて雛(ひな)神(かみ)を

祭り、五月五日には菖蒲(しょうぶ)

と粽(ちまき)を供(そな)える。

七月七日は木綿(ゆう)・麻(あさ)・

栲(たく)機(はた)を祭り、

九月九日は菊(きく)・

栗(くり)を供え祭るなり。

五年の冬には、男は袴(はかま)・

女(め)は被衣(かつぎ)を着(き)る。”

 

この綾には、桃の節句をはじめ、

5月5日の節句、現代は七夕と

称している7月7日の節句、

重陽の9月9日の節句がすでに

超古代に存在していることを

伺わせる。

七夕の祭りは中国が起源とする

説があるようだが、この6綾を

読めば超古代の日本に 

7月7日には機を織って祭り

祝う風習があったことがわかる。

 

7・5・3のお祝いにも

触れられている。

三歳の女の子の髪整え、そして

5歳には男子女子が正装をして

祝うことも書かれている。

 

さて、最もこの綾で重要なこと

は次の点だと思う。

それは、

”言葉を改(あらた)めて常に

阿(あ)倭(わ)歌(うた)を教(おし)ゆなり。

あかはなま  いきひにみうく

ふぬむえけ  へねめおこほの

もとろそよ  をてれせゑつる

すゆんちり  しゐたらさやわ

若姫の神は常に葛(かだ)垣(がき)

鼓(うち)の琴(こと)を

弾(ひ)きながら、

阿(あ)倭(わ)歌(うた)を

謡(うた)うなり。

自(おのづ)と音声(おんせい)

の道が開けて

言葉が明らかとなれり。”

 

あかはなまの歌、 あわの歌を 

金折命はわか姫に教え、

姫は琴を弾きながら

謳ったとある。

そして、音声の道が開けて 

言葉が明瞭になったという。

それだけではなく、あわの歌

によって、音声の道が開くと

同時に 体の気道も開けた

ということがここに記される。

それは、

”五臓(ごぞう)・六腑(ろっぷ)・

緒(お)(命門(めいもん))を

五音七声に別(わ)け

身呼吸の気が通りて

左右二十四経に通い

四十八声となる。

身体(からだ)の中の順気が

滞(とどこお)りなく循(めぐ)り、

自(おのづ)と病(やまい)を

知らず長寿を得る法(のり)

なり。

この故をもって住吉(すみえ)

の翁(おきな)は、常に

阿(あ)倭(わ)歌(うた)を

教(おし)ゆなり。”

 

あかはなま の歌は、

私もインド時代、何か息子

の体に異変が起こるたびに

お唱えした。”左右二十四経

に通い四十八声となる”と

すでに経絡に気を通わせる

ということを古代の神々

は知っていた。

現代の東洋医学でいう

ところの 24の経絡、

左右合わせて48の経絡の

存在が書かれている。

それによって

順気が滞(とどこお)りなく

循(めぐ)り、自(おのづ)と

病(やまい)を”観ることなく

長生きできる方法である

ことも述べられている。

 

幼かった息子が

高熱が出た、赤痢になった、

コレラの症状が出た、

デング熱になった、と

異国の地で体調の異変の際は、

すべての状況下、”あわのうた” 

で乗り切ったといっても過言ではない。

常識を逸していると思う読者が

いるかもしれないが、その言霊

の威力は 自分自身、家族をもって

証明済みである。

 

セラピーでも 数回続けて

くださった方には、必ず、

この言霊をお教えする。

生体に気を通しながら、

この言葉を唱えてみる。

すると、生きた言葉になり、

クライアントの方達は気道

が開けるのを実感する。

わか姫の和歌の基盤はこの 

あわの歌にあったのかも

しれない。

和歌姫とよばれるように

なったのも、和歌を本領

としてそれを実生活に

役立てられたからだ。

姫は、生長していくにつれ、

和歌の言霊の威力をもって、

稲虫や害虫も駆除されたと 

秀真伝えには出ている。

 

 

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