自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ガヤトリーマントラ(5)の真言の意味

2019年08月17日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ガヤトリーマントラを構成する24の音と自然治癒力

***********************************2019・8・17

 

 

それでは、お待ちかね?の方にとっては一番知りたいところの、

究極のマントラといわれるその言葉の全容が以下である。

 

Tat  sa vi tur  va re ni yam  bhar go  de vas ha  dhee ma hi  

dhii yo  yon aha  pra cho da yat

 

たっと サヴィとぅ―る われ―にゃむ ばるごー 

でぃヴぁっしゃ でぃまひー 

でぃ よー  よなっは ぷらちょうだやー

 

の24文字がガヤトリーマントラを構成している。

 

このマントラに入る前実際は、Aum bha bhuh swah

(おーむ ばあ ぶは すわは)

と冒頭に唱えられる。


‘’すわは”は、般若心経を唱えられたときに最後にでてくる、

この心経の核心部分のマントラ、

″ぎゃーてー ぎゃーてーはらぎゃーて、はらそうぎゃーてー、

ボジソワカ” と唱えられるその、”ソワカ”に当たる

サンスクリット語の原形の言葉だ。

 

その原型発音は、当時、お経は聞いたとおりの発音を

中国の漢字に当てはめて伝えられ、さらに日本人が

漢字の音読みをする際に微妙にずれてきて、

このようなギャップがでてきたのだろう。

 

心経では ”そわか”、つまり、Kの発音で終わっているが、

もともとのサンスクリット語は、”すわは”つまり、Hで

表記されている理由は、このh音は喉の奥で発音され

強く息をだすので、私たちには”K”音が強いため、

そう表記されたのだろう。

 

たとえば、ジンギスカーンで有名な、カーンという人の

名前は、本来はハーンであるが、サンスクリット語の

このHと同様Kに聞こえるため、カーンと日本語

では表記されているようだ。

 

このガヤトリーマントラの24文字というのは、冒頭に

あげたマントラの言葉でわかるように、Tatから始まると

考える。 

どういう言霊がそれにこめられているかみてみたい。

 

このマントラの特徴は、24文字がそれぞれ正しく発音される

ことで、人体のスピリチュアルな意味でのツボに刺激を

与えるとされる。

そこを刺激されることで、スピリチュアルな側面が刺激され

開けやすくなるというのだ。

つまり、そのツボは人のスピリチュアルな資質と深く関連を

持っている個所である。


たとえば、以下のように、(冒頭の図解を参照していただきたい)。

tat~第三の眼、つまり眉間

re ~ 鼻、

ni ~口

yam ~ あご・・・といったように。

そうしたツボにこのマントラの言霊の響きが

共振することで次のような効用をひきだすという。 

一つ一つ、追っていきたい。

 

①Tat~成功、② sa~果敢、 ③vi ~保持、④tur ~豊かさ 

⑤va ~神の資質との結合、⑥re ~愛情、⑦ni ~財産、

⑧yam~聡明さ、 ⑨bhar~保全  ⑩go~智慧  

⑪de~負荷の弾圧  ⑫va~献身 ⑬sha ~注視力 

⑭dhee~プラナ ⑮ma~自己抑制力 ⑯hi~エネルギーの活用   

⑰dhii~遠視力(先を見通す力) ⑱yo ~(覚醒)

⑲yo~(生産)⑳naha ~(甘美) ㉑pra~(理想)

 ㉒cho~(勇気)㉓da~(叡智) ㉔yat~(奉仕)

 

 

それぞれの言霊が、声聞されることで霊的な身体にある

ツボを開き、ツボが開かれると、このツボに特有の資質が

現実に顕現してくるということだ。


何度唱えたらよいのだろう? 

多ければ多いほど良いのだろうが、一日三回ずつ、日の出前、

正午、日の入り直後に唱えるだけで、過去のカルマ的負荷の

エネルギ―が消されていき、同時に本来の自分の力と天からの

祝福がもたらされると師から教わった。


たった三回、それでも、忘れずに毎日欠かさずにするため

には、やはり強い意志の力が必要だ。

 

ガヤトリーの神は女神像で描かれることが多い。

それはこうした豊かさと恵みをもたらす豊饒と智慧、叡智と

愛情をフンダンに分け与える神のイメージから当然のこと

かもしれない。

 

が、実のところ、単なる女神ではない。

女神という枠を超えて、創造神ブラハマ特有のエネルギーの

象徴と取った方があたっているようだ。


そのわけは、古代文献ではガヤトリーの力を別名

イシュワラ バクティ、とか、ブラハマ サーダナとか

アートマ サクシュットカル、ブラハマ ダルシャン

(*1)とか様々な呼び方で表され、それらの言葉の意味

を考えると、特定の女神というより一種の創造的エネルギー

を表していると理解されているからだ。

 

つまり、ヒンズー教でいうところの、絶対神のブラハマと

ガヤトリーマントラの主神、ガヤトリーとは一つのコインの

両面といえそうだ。

 

追想①)

こうしたマントラや真言をご紹介している。


その理由は、ヒンズー教のマントラではあっても、

ヴェーダという特殊な聖典(すべての宗教の大本に当てはまる

真理を説いた)の主軸である、不二一元という考え方を

ご紹介したいにほかならない。


では、この不二一元が本当に真理なのか?といえば、

厳密にいえば、’私’にとっての真理であると言い換えた方が

よさそうだ。


というのも、絶対 という言葉はこの地球世界では無いの

かもしれないと、最近感じ始めたからだ。


地球世界の意識の中には”絶対”は無い=地球意識外の次元

を超えた超越次元意識の中ではまた異なるだろう。 


ましてや、この真言を特に、お勧めしているわけでもない。

残念な言い方だが、人それぞれ、その置かれた環境やその人の

考え方、文化的背景や魂レベルで、その人にとって最も

適した真言は生きている人の数だけある~といっても

過言ではないからかもしれない。

 

追記②)だが、一つ、付け加えさせていただく。


私にとっての真理、生命力の底力、自然治癒力の存在、

これはアートマセラピーによって現場で体験してきたことで、

真に真理に他ならない。


そして、その自然治癒力完全発揮の裏側に存在している、

魂のぶれのなさ、焦点の合わせどころこそ、この不二一元の

考え方であるということも、付け加えたい。


ひと月以上前に、ワンちゃんセラピーを手記にした。

彼女は肺捻転で5月に大手術して、その個所に水が溜まった

処置を専門医師から仰いでいたが、示唆されていた再手術

もなく、ひと月前、もうOKと太鼓判を押された。


そして、地元のファミリードクターで通常の検診を

受けるようにいわれ一昨日、行ってきた。

その検査結果は、問題であった個所(結石も含めて、腎臓)

が良好になっていることがデータとして数値で表された。

 

なんでも飼い主のYさんによると、Kちゃん(トイ・プードル)

はその間行った10回ほどの最後のセラピーのあと、普段より

かなり長いうんち、しかも宿便(黒色)が大量に出たそうだ。


薬が、Kちゃんには出されていたが(結石を防ぐ薬)、

Yさんの判断でセラピー期間中(ほぼ2か月)やめていたそうだ。

これも宿便が出た要因と私は考えた。

薬で抑えられなかった分、 このワンちゃんの身体細胞組織の
有機的つながりと、自然治癒力の本能的癒しの力が
十分発揮されたからだと。

私が施術は、ただただ、彼女(ワンちゃん)の
アートマと波動を合わせ、

それによって、
がやとりーマントラの上の表に
みられる、身体各部のエネルギーを最高潮に整える
という方法にすぎないのだった。



*(1)Ishwar-bhakti, Ishwar-upasana, Brahama-

Sadhana, Atma-sakshatkar, Brahama-darshan, prabhun-parayanta 

などの呼び方が見られる

 

 

 

 

 

 

 

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ガヤトリーマントラ(4)・・・ 宇宙の神と蓮の花

2019年08月08日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 

ブラハム神と4冊のヴェーダ聖典とガヤトリーマントラの関係

*****************************************2019・8・8

 

このブログによく登場するヴェーダインド古代哲学は、

バラモン教や現代のヒンズー教の基礎真理であると同時に、

ヴェーダの説く真髄はすべての世界中のよき宗教の土台に

匹敵する内容とされる。

 

ヴェーダのサンスクリット語表記は‘Veda’で、その意味は

最高峰の知識ということで、実際の聖典として、

リグヴェーダ、サマヴェーダ、ヤジュルベーダ、アッタラヴェーダ

の4冊に分かれている。

 

最高峰の知識とは? 

それは学問的知識や専門知識ではなく、精神的(スピリチュアル)

な意味での最高峰の知識を指す。

精神的(スピリチュアル)な意味での最高峰の知識とは、

悟りに不可欠な知識ということで、4つの聖典にそれぞれの

特徴が見いだされる。

 

リグヴェーダには、心の中の安寧、寛容、愛情、奉仕などの

多岐な方面で最大の真価が発揮できるように精神性が説かれ、

ヤジュルヴェーダには勇気、勝利、自己防衛、リーダーシップ

などの智慧が説かれ、サマヴェーダには、ゲーム、スポーツ、

娯楽、音楽、芸術などの方面からその知識が説かれ、

ッタラェーダではもっと現実味のあること、財産、不動産、

乗り物、家畜などに触れている。

 

ヴェーダ哲学というと、宗教的な側面を思いがちだが、

これら4つの聖典をみると、現実に生きている現世の生活の中で

おろそかにできない物質的なことに触れているのが

意外に思う方もいるだろう。


私はむしろ、この4つの側面、

①人の純粋なスピリチュアリティ②力、権力、③娯楽 ④繁栄 

は人生に欠かせない要素でむしろ、こうしたことに触れること

で観念的ではない精神性を高める聖典になっているような気がする。

もっと、手短にまとめるのなら、以下のようになる。

 

それぞれのヴェーダの接頭語、つまり、リグヴェーダの

Rikは正義を意味し、ヤジュルヴェーダのヤジュル(Yajur)は 

輪廻転生からの解放(Moksha)を意味し、サマヴェーダの

サマ(Sama)は歓び、最後のアッタラヴェーダのアッタラ(Arth)

は繁栄を意味しているのだ。


そして、インド宗教において宇宙創造の神とされる

ブラフマ神(Brahma)の持つ4つの顔に、この4つのヴェーダの

真理を語る口が付いていると信じられていた。

 

もちろん、最高峰の真理はその4つの側面を合わせた、

Vedaと呼ばれる一つの法であるのだが、それが宇宙、そして

地球の人間にもたらされたとき、4つの側面を持って説かれると

いうことだろう。

 

その意味でいえば、4という数字は意味深い。今でもヒンズー教

の教えによれば人生には4つのステージがあるという。


最初は成長期にあたる幼児から子供時代、次は結婚して家庭を

持ち収入を稼ぐ青年時代、

富がたまりさらに社会的活躍が発揮される成人時代、そして、

引退して精神性に目を向け世の中の喧騒から離れ静かに余生を

過ごす時代、だ。

それぞれの時代に先に挙げたヴェーダの4冊の本の主旨が

生かされてくる。

 

ヴェーダのお話をやや詳細にお話してきたが、実は、

このシリーズの主題である、

ガヤトリーマントラは、このヴェーダの聖典完成以前にすでに

存在していたという学者がいる。

ブラハム神自ら、このマントラをつくられたという。

このマントラの文字数を数えると24文字。

それぞれの文字の言葉(言霊)が4冊の聖典で説かれる

ヴェーダの思想に微妙に重なるという。


ブラハム神についてもう少しお伝えすると、この宇宙創造神は

はじめにシャクティと呼ばれる、創造のための振動する

エネルギーを創られた。

 

シャクティは二つに分かれる。

一つはジャッド(Jad)と呼ばれる姿がないもの、

もう一つはチェタン(Chetan)と呼ばれる姿あるものだった。


それは陰と陽の2極性のもので、常に創造にはこの2極が

必要だったため、ジャッドが創造を発揮するときは

物質的自然(プラクリティ―=Prakriti),

一方チャタンが創造を発揮するときは、目に見えない

エネルギーの力、チッタシャクティ(Chitta Shakuti)を

必要とした。


こうして万物が創造されていくのだが、このガヤトリー

マントラの主軸の神様をヴィトリーと呼ぶ。

 

このサヴィトリー(Savitri)は先に挙げた

チッタシャクティの別名であり、目に見えない

エネルギーだが創造に欠かせない力が 

サヴィトリーのもともとの意味だった。

 

さて、話をすすめて、ブラハム神とこのマントラの

関係性について一言。


蓮の花は仏教でもご縁のある宗教性高い花の一つだが、

ヒンズー教でも、この花とブラハム神のゆかりは深い。

蓮の花はヴィシュヌ神の臍(へそ)の部分から咲いた

という説がある。

ブラハム神もこの蓮の花を象徴にして創造を始めたという。

ブラハム神はサヴィトリー神を造った。


そしてブラハム神とサヴィトリー神が結託(結合)して、

4つのヴェーダが生まれたというのだ。


さらに驚いたことに、ブラハム神は我々が知っている

この宇宙と地球をこの4つのヴェーダに書かれている最高峰

の智慧を駆使して、創造されたと聖典にある。

 

さて、いよいよ次回、ガヤトリーマントラ24文字の公開

とその意味を発表させていただきたい。

 

 

 

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究極のマントラ(3)~ヒマラヤの麓の道場(アシュラム)

2019年08月01日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 シャンティクンジュの創始者、アチャリヤ師のガヤトリーマントラとの出会い 2019・8・1

******************************************************************

 

悠久な流れ~

ガンジス川(母の分骨した骨を聖流に慰霊の儀式後、流した折りに映す)

 

前書き)

"祈り"は眼に見えない科学の一つだと考える。

なぜなら、”祈り”はほとんど確実に何らかの影響力を持つものだから。

私がタイトルでつかっている”究極のマントラ”とは、真言や祈りの

言葉など、無数にあるそれらの中でインドにおいて、

最もパワフルと言われている”ガヤトリーマントラ”をさしている。


このサンスクリット語で語られるマントラの存在を知っている人

は少なくないが、その言葉の意味を理解している人は多くはない

だろう。

 

このマントラが、”究極”なそれと呼ばれる所以(ゆえん)は何か? 

インド古代から伝わるヴェーダ哲学の真意を表したのマントラ

によって、三界の業が浄化され、本来の人間の実相が現れる

されるからだ。


そのような修行を積んだインドの聖者でヴェーダ哲学の学者である

シュリラム・シャルマ師はヒマラヤの麓の聖地、ハリドワールに

ガヤトリーマントリーを主体にした道場(アシュラム)を開いた。

 

そこに至る経緯を、マントラの説明に入る前に今日はご紹介

したいと思う。

 

**********************************

ガヤトリーマントラはインドヴェーダ哲学が存在していた時点で

唱えられていたという。

その後数千年の間にインドでは文化的に社会的に大きな変遷を経て、

このマントラは現代に残った。

インドにも中世の暗黒時代があり、封建的国家の抑圧や外国勢力

から征服されてきた。


例えば、当時の王宮であったタージマハールが、イスラム王朝時代

の最も有名な世界的建築物だ。

その後も、イギリス軍の支配下に置かれたりしながら、

古代からのヴェーダ哲学の遺産は、現代に受け継がれてきている。


その中心軸をなしていたのが、ヒンズー教社会特有のカースト制度

があり、最も高い位とされた、ブラ―ミン階級、つまり僧侶の資格

を持った階級に属す男性たちだった。


”密かに”というのは、このマントラは外部に聞こえるように

唱えるものではないとされてきたこと、女性はガヤトリーマントラ

の修行を厳しく制限されていたことで、公に誰でもが知る

マントラではなかったようだ。

 

ブラーミン階級の男性にとって、ガヤトリーマントラを唱えヨガ的

(神と一体になる)修行こそ、最も好ましい霊的目標(解脱)

を遂げることができると信じられてきた。

私が何度か通ったガンジス川沿いの道場(アシュラム)の一つ

ではガヤトリーマントラの行が主流におこなわれていた。

この道場は、シャンティクンジュと呼ばれ、世界各地からの

求道者たちを受け入れていた。

 

ここを開いた方は、聖者にして学者である、

シュリラム・シャルマ先生(*1)であり、先生は不思議な体験

持っていた。

1926年、15歳のとき、ヴァサント・パンチャムと呼ばれる

春を祝い、ビーナを手にしているサラスワティ女神に祈りを

捧げる大きなお祭りの朝、ガヤトリーマントラを自室で唱えて

いたら、見知らぬ老人が、まぶしい光を放ちながら忽然と

その輝きの中に現れたという。


この老人こそ、サヴェシヴァラナンダ師というヒマラヤで幽体

のまま何世紀も生き続けて修行をしているといわれる聖者だった。

仰天するアチャリヤ少年の前に姿を現したこの聖者は、少年の

過去3代にわたる生まれ変わりの遍歴をヴィジョンにして見せて、

現生に生まれてきた少年の使命が何かを伝え、目の前にいる

聖者こそ少年を霊的に導く導師であることを認知させた。

 

こうして少年はこの導師の目に見えない働きかけや耳に

聞こえない英知の働きを受けながら、ヒマラヤで修行をし、

里におりて、ガンジス川の流域の聖地、ハリドワール

アシュラムを構築したのだった。

 

アチャリヤ師は日々、2400万回ガヤトリーマントラを唱える

という行を24年間にわたり行いながら、多くの本を記し

1990年6月2日に他界された。 

私がこの道場を訪れた時はすでにアチャリヤ師は霊体に

還っておられた。

 

さて、この道場でガヤトリーマントラの行を行うとき、

南インドにいる私の霊的師であったサティア・サッチャ・サイババ師

が、このマントラを強く勧められていたこと思い出した。

たった3回、朝・昼・晩に唱えるだけで、様々なカルマからの

逸脱ができると教えた。

サイババ師は、自らテープ(当時はカセットテープが主流)に

き込んで、希望者や弟子たちにそのコピーを配布された。


マントラの効果は言霊にあるから、正しい発音やアクセントが

大切だということだろう。

おかげで、私はそのテープを聞きながら習得してインド国内

どこへ行ってもどのヒンズー教徒の前でも、恥ずかしさを感じる

ことなくこのマントラを口にだすことができた。

 

次回はなぜ、このマントラが現代のインド教(ヒンズー教)に

大きな位置を占めているのか、その背景と起源をお話させて

いただきたい。

 

 

 

*1)1911年9月20日生まれ。インドUP州。8歳の時、

バラナシヒンズー大学創立者のマダン・モハン・マルヴィア師

によってガヤトリーマントラのイニシエーションを受けた。

 

 

 

このアシュラムは、ガンジス川対岸を臨むシャンティクンジュと

呼ばれるアシュラム(道場)


 

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究極のマントラ(2)~谷口雅春師の唱えた言霊

2019年07月24日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

谷口雅春氏の教える、”人間の実相” と、

ガヤトリーマントラ との共通点

*********************************2019・7/25  

前書き)

"祈り"は眼に見えない科学の一つだと考える。

なぜなら、”祈り”はほとんど確実に何らかの影響力を持つ

ものだから。

私が、タイトルでつかっている”究極のマントラ”とは、真言

祈りの言葉など、無数にあるそれらの中で、インドにおいて、

最もパワフルと言われている”ガヤトリーマントラ”をさして

いる。


次回から、少しずつ、詳しく紹介させていただくことにして、

今日は、唯心論説く谷口雅春師と、そのガヤトリーマントラ

の共通点について記事を投稿させていただきたい。


このサンスクリット語で語られるマントラの存在を知って

いる人は少なくないが、その言葉の意味を理解している人は、

多くは無い。

このマントラが、”究極”なそれと呼ばれる所以(ゆえん)は

何か? 


インド古代から伝わるヴェーダ哲学の真意を表した、この

マントラによって、三界の業が浄化され、本来の人間の実相

が現れるとされるからだ。

では、実相とは何か?


今日は、その究極なマントラの内容と、共通する真理を説かれた

谷口雅春師(注;師はガヤトリーマントラご存知なかったと思う)

の言葉をご紹介したい。

 *************************

手元に谷口師の教えた経言(のりごと)(*1)がある。

これはある意味、マントラである。

しかも、究極のマントラに限りなく近い内容だと私は思う。

どこが近いのかといえば、”性善説”の徹底、つまり、善しか

実存しないという、人間の実相像である。

谷口師は”人は神の子である”とシンプルに言い切った。

だから、親神(おやがみ)の資質である、無限の愛と智慧、

無限の供給に 誰もが恵まれていて、当たり前だという。

神の平穏の懐(ふところ)に抱かれて、安寧の中で静かに

歓びに浸っている姿こそ人間の実相であるという。


谷口師は言霊(ことだま)を使って、その実相が顕現すされる

ように、唱えやすく、わかりやすい、力強い経言を残した。


以下にいくつか、ご紹介させていただく。
皆様も、よろしければ、静かに、ご自身の唇をもって、声に

出して読んでいただきたい。

その内容が、言霊となって耳に広がるとき、自分の体と心が

どう反応するか、身をもって体験していただければ幸いだ。 

 

”吾は今、‘善’そのものと融合して一体であることを感じる。

吾はもはや、‘善’そのものと疎隔(そかく)の感じをいだか

ない。

吾は‘①神’の家に住む神の子としての権利を自覚して②悦び

満たされているのである。

吾は③悪夢より目覚めて‘神’の御許(みもと)にいくのである。

今吾は内在する神の生命と愛と智慧とを明らかに知るのである。

吾は我が境遇と運命とが④自己自身の想念の反映にすぎない

ことを悟ったのである。

それゆえに、吾は最もよきものを、最も浄きものを、最も真なる

ものをのみ思うのである。


吾は⑤すべてのもののうちに、我が求むるよきものを見出すこと

できるのである。

吾は今、神の智慧と力とで満ち溢れている。

吾は今、宇宙生命と一体なることを感じて、歓びに満たされて

いるのである。

それゆえに吾が求むる一切は必ず成就するのである。

吾れこのことを感謝し奉る。”

 

次に以下、この経言(のりごと)の中で私が下線を引いた言葉、

①から⑦までの私の個人的見解による解説~

 

①  神’の家に住む神の子( 性善説の極地を説くマントラ)

このフレーズは、聖書の中の言葉を思い起こさせる。

人が、放蕩息子にたとえて、神から離れた姿を例えている。

本当は、人は、父=神 に愛されてその後継者として、すべて

を与えられているのにもかかわらず、その真実認めない

どころか、本当の自分は(親から愛されていないから)神(親)

と離れたところにあると思いこみ、家出をして、さまようのが

聖書の中の放蕩息子であり、現代の、神を忘れた私たちの姿でも
ある。

谷口師の言う、”神の家に住む神の子”とは、本来の私たちの姿

を表現して

いるのだろう。

 ②  悦び

びでもなく、びでもない、ここでつかわれている、びと

いう漢字の意味するものは、法悦’の悦、つまり、本当の真実

(法)を知ることで得られる、

心の安寧、無執着、つまり、法悦(ほうえつ)状態をさす

 

③  悪夢より目覚めて

豊臣秀吉の辞世の句にあるように、生きている間の出来事は

一瞬の、夢幻(ゆめまぼろし)である。

良い夢ばかりでなく、苦労や悲しみを伴う、悪夢を見ている

こともあるだろう。 

その間は不安定で怖い。

まるで、大波に揺られている小舟のように、私たちは周囲の

環境や、価値観に揺さぶられ、感情は上がり下がりしている。


何をしても、なかなか思うようにいかず、あがいたり、アリ

ジゴクに陥るように、抵抗すればするほど、事態が悪くなる。

執着してもしかたがないのに、心が離れられなくなって、

どんどんと、かたくなになっていく。


こうした、現実の苦しみのように見えて、その実、そこには、

実態は、仮想で、実存的(永久に存在する)ではない。

夢から覚めれば、実相がわかる。

だから、これらの苦しみを、悪夢 と呼ぶ。

これらは、”顛倒妄想”の中での体験を意味している。


谷口師は教える。 

私たちの父親が、神であると知れば、言い換えれば、私たち

の本来の実相が、どのようなものなのか合点がいけば、すでに

すべてが一瞬にして変わる。

実相が現れれば、太陽が雨雲を押しやるようにして、明るい光

そのものの、実態(実相)が出現して”悪夢”は自然と、雲散

霧消(うんさんむしょう)して、消えると・・


 ④  自己自身の想念の反映

仏教で説くところの唯心所現(ゆいしんしょげん)を意味する。

私たちの周囲で起きている、人の言動も環境の良しあしも

すべて、元を問えば、私たちの想念、つまり、考え方や物の

観方が創り出したものだ。

つまり、自分の考え方が変われば、周りが変わるということ。

周りが変わるとは、単純に物質的変化だけではない。

目に見えないもの、健康や豊かさ、希望や愛情など精神的に

すべて変化する。 

 

⑤  すべてのもののうちに、

我が求むるよきものを見出す良きもの、善なるものを私たち

無意識に求めるようになっている。

それを現実にもたらすためにも、良いことを想い、考え、想念

清めていくことが大切だろう。

いろいろな方法で。

先人たちはそのために、言霊のパワーを使って、マントラ(祝詞

や経や、真言や言霊)を教え、残してきた。


⑥  歓び

ここでつかわれている歓びという漢字は、前に出てきた法悦

の’悦’とは異なる。

法悦はで味わうもの。

びは心で感じ、身体的なものだろう。


前後の文脈をみると、’宇宙生命と一体なることを感じて

とある。

宇宙生命、これもまた、理解しようとしても言葉では、簡単

には、言い表せない。

自然治癒力セラピーを通して、あるいは、個人個人の修行を

通して、私たちのに無尽に走る神経のように、すべての細胞

有機的に結び付け、自然治癒力を促している、今、この身体に

みなぎる、生命力こそ、その宇宙生命の現れの一つと、すでに

多くの方たちが体験で知っている

別の形で、それを、感じ取り、歓喜で生命の実感を、知っている
方たちは、きっと、多いことだろう。

 

⑦  必ず成就する

自分が欲する祈りは、~人を傷つけようとするものは除いて~、

案外、”自分“だけの祈りだけではないことがある。

気が付かないうちに、宇宙の大生命意識が、自分の心に種を

落とすことがある。

それが、芽生えて、言葉として表現できる、”祈り”になる。 

こういう祈りは、必ず実現する’と先人は教える。

 

さらに、自分自身が常に、大いなる宇宙意識と結びついて

いる自信があれば、どんな祈りも成就するだろう。

だから人は修行するのかもしれない。

修行することで、神や仏、宇宙の意識に限りなく近いところ

自分を置いておきたいのだ。

それは自分のためだけにあらず、自分を含め、他者を、星々を、
宇宙を、清めることができるという、大いなる喜びの為に。

自分が、神や仏に近いところにいるという自覚は、'叶う’という

確信につながり、確信が強い分、実現に必要な要素を、自然と

四方八方から引き寄せる力となるからだ。

よく、’とんとん拍子に物事が運ぶ’、とか、’偶然に偶然が

なって’、’流れるように、物事が進んだ’いう話を聞く。

それは、神や仏の恩寵も勿論だが、その人自身の潜在意識

にためられた、強い信念がものを言っているのだろう。

 

 

 

 * (1)”日々読誦30章経” 光明思想社 平成25年

 

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究極のマントラ; Science of "Gayatri Mantra"(1)

2019年07月17日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

そう呼ばれる理由と目的とするところ      2019 .7/17 

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前書き)

①ぼうさんの質問の答えで先回少し脱線した。

それから自分自身でいろいろ考えたりして、もう少し私の体験

と情報を皆様と共有したいと思い、脱線ついでに今日から

数回の予定で、”究極のマントラ”について考えてみたい。


先回(7月10日)にも触れたが、

マントラとは真言であり、真の言葉、つまり、言霊(ことだま)

として唱える人に幸いをもたらすものだ。

宗教には古今東西問わず、祈りの言葉、お経、などが存在

している。

② 15年間のインド滞在中に多くのマントラを師たちから

伝授していただいた。

その中でも特に、"Gayatri Mantra”と呼ばれる真言は、罪を清め、

カルマを除き、本来の人間の本質に戻ることを約束された

マントラだった。


だから、私はあえて、このマントラを究極のマントラと

呼ばせていただく。

そのマントラを後日このシリーズの後半で、詳細にお伝えしたい。

その伏線として今日から数回にわたって、究極 という意味を

考えるために遠回りをさせていただく。

お付き合い願えれば幸せだ。

 

③お詫びと訂正)

先回の本文中の谷口雅春師のお名前を雅治師と間違えて

お伝えしてきた。

ここでお詫びとともに、訂正させていただく。

 

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幸いとは何か?

神頼みしてそれがかなうことではない。

その人の持つ本来の力量(キャパシティー)が十分に発揮

できるようになるから幸せといえるのだろう。


愛においては、周囲の人たちと愛深い交流があり、

智慧においては深い智慧が湧いて万事つつがなく事

が運び、豊かさにおいては貧しさということを知らないほど

十分に必要なものが無理せず必然的に回ってくる。


言い換えれば、“実相円満完全”な自分自身の本質が

今の環境に映し出されるということだが、

祈りの言葉はそのために、摩訶不思議な力を持つものだ。

 

インドの宗教の根幹にあるプリンシパルは、”絶対不二一元論”

にある。

絶対完全なもの(神)しか存在せず、すべては一元に還る

ということだが、もう少し簡単にいうと、この世の

不調和や不健康、不幸は、永遠に実存するものではなく、回り

灯篭のように一過性で、それぞれの人の持つカルマ(業)の清算、

バランスをとるために現れているという考え方だ。

 

"絶対”の反対は’相対’。

この地球上の科学も人の考え方も相対的な価値観(考え方)に

成り立っている。

相対する価値観は、唯一無二の絶対価値観にはなりえない。

良いか悪いか、美しいか醜いか、という、相反する二つの

対照的な基準が常に存在してその比重によって、対象を

判断したり審判を下したりしている。

 

一方、絶対的価値観というのは、神は善であり、義であり、美で

あり、完全であり、愛であり、無限の豊かさであり・・・という、

’完全円満性’をいう。


インドのヒンズー教では多くの神様がいるのだが、しかし、

”一元論”が根本にあるから、絶対神は一つ、が、“表現体”

として様々な神様が出現していると考える。


この世の中に不完全性があるように見えるのは、次の

理由からだと考えられる。


ア)カルマを超越しない限り、毎日の出来事は個人的でも

社会的でも、すべて、カルマ(業)の浄化(カタルシス)の

ために起きているか、

イ)潜在意識のため込んだ歪(ひずみ)が不完全を

表しているのか、あるいは、

ウ)一人ひとりのエゴが人類意識のエゴとなり、自然現象

を狂わすほどの不協和音を醸し出して、地球の磁力や

大気の仕組みを壊しているのか・・・

 

それでも、私たちが肉体という衣を脱ぎ捨てて

次元の違う世界へ死という形で移行すると、また、

異なった世界があると先人たちは教えている。


地球よりすさんだ星(あえてその霊界の場所をこう呼ぶのなら)

もあれば、大方の星は霊的にもっと進化しているとも

聞いている。


こうして私たちの肉体の衣を
脱ぎ捨てて向かっていく方向は

その究極の一元の世界に限りなく近づいていき、

輪廻転生したり、次元を超えた星での修行をしながら、

生と死(幽体的死)を繰り返しながら、’絶対善’、’絶対愛’

の中へと少しずつちかづき、最終的にその絶対なる

暖かくも優しく、懐かしくも最大の癒しを与える存在と、

一体化していくのだと、私の霊的な師匠は教えてくれた。


さて、前置きが長くなったが、
こうしたプロセスを、地球に

居ながらにして魂的に進化させるために、”究極の真言”が

存在している。


ヴェーダ哲学(神学)~紀元前5千年に編集されていた

という~の中で、最も有名なその真言を

皆様と数回にわたって共有したいと思う。

ヴェーダ哲学の根幹は、不二一元説であるから、

先ほど述べたように、絶対的価値しか本当の意味で

実存していない、という。


こうした考え方を、サンスクリット語で

“ADVAITA”と呼んでいる。

日本でこの真理をもっともわかりやすく解説されている

宗教者の一人が谷口雅春師であった。


次回は、谷口師の言葉をあげて、究極のマントラの

前編としたい。

そのADVAITAの本質を簡略な日本語で表した、谷口氏の言葉

をご紹介するところから、究極のマントラ(2)を

はじめさせていただきたい。

 

 

 

 

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