自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

”般若心経とヴェーダ;マーヤー(夢幻)の話 

2015年01月18日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

いろは歌”の”浅き夢みじ”とは?2015・1・18

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 1.いろはにほへど ちりぬるを (色は匂へど散りぬるを)

 2.わがよたれぞ つねならむ (我が世誰ぞ常ならむ)

 3.うゐのおくやま けふこえて (有為の奥山今日越えて)

 4.あさきゆめみじ ゑひもせず (浅き夢見じ酔ひもせず)

 

上に書いたイロハにホぺト。誰もが 日本語アイウエオを覚えるのと

同時にイロハ二の言葉口ずさんだことがあるだろう。

これにはしっかりとした意味があることを知ったのは、結構な大人に

なってからだった。

 

いろはにほへとの歌の意味)

1・色(しき)(=物資)は 花のように 咲いて匂い、いつかは散る

2・(それと同じように)この世の中で誰が永遠に変わらないのだろう?

3・在るようにみえてないこの花の咲く山の奥(現象世界)を今日こそ、

越えて(実相~空~の世界に入ったからには)

4・(浅い夢を見ていつかは覚めるように、今心を悩ませ苦しませている

実態が幻想であることを知り)浅い夢などよもや見まい、

その夢に酔うこともない心境にいたる。

 

いろは歌はこうして行間の意味を考えると

1)の行では”諸行無常” 

2)の行では”是生滅法” 

3)の行では、”生滅滅已” 

4)の行では”寂滅為楽”

 

の仏教の教え、ひいては般若心経のエッセンスも秘めているように思える。

空中無色無受想行識 というように、空の中、つまり、現象世界には

物質(色)があるようで無い、想いも行いも識別も 受けるすべての

感覚に映るものは無いのだという 言葉を思い起こさせる。

さらに、

般若心経の”心(しん)無けいげ 無けいげ(心に捕らわれがない)”

から”厭離一切顛倒夢想(あるものをあるとする観方や夢想から

離れることができる)という一節の、”夢想”が、いろはにほへとの

歌の中の(4)の浅い夢という言葉に象徴されているように思う。

 

所詮、いろは歌にあるように、この世は浅い夢を見ているのと同じ。

その夢の中で、多くの人は、一時的に咲く花に酔うように一瞬に過ぎ

去る若さの中で 死(新たな出発)がまだまだ先だとばかり、目の前の

それぞれの幸福を追い求めている 夢想人なのかもしれない。

 

浅い夢にも、苦しみも喜びもあるように感じる。だが、夢は夢、いつかは覚める。

では覚めてみれば何がそこにあるのだろう。

 

本当に存在している”REALITY"、それは、

般若心経では ”空” という 本質、

ヴェーダでは”その空を造る神と同質のエネルギー”

そしてイロハ歌では、”永遠に変わらないもの”と詠われている”それ”しか

そこにはないのだろう。

 

善と悪、喜びと悲しみ、不幸と幸せの二つの相対的価値をもつ

”今生きている、この娑婆世界”でどうしたら”夢”に覚めて、本当に存在

するものを把握することができるのだろうか?

 

聖者は答える(*2):

“その神秘の謎が解ける人はそう多くは居ないでしょう。

善と悪との問題は人生が人間の理性に対して、たえず、スフィンクスのように

問いかけてくる謎です。

殆どの人はこの問題を解決しようともせず、結局はその代償を自分の命で

支払っています。 

これはテーベの昔も今も変わりありません。

しかし中には、一人敢然とこの問題に取り組み、ついに勝利を勝ち取った人も

います。このような人だけが二元性のマーヤから矛盾なき統一の真理を引き出して

いるのです。“

 

二元性のマーヤ(現象世界の価値観)が、健康と善、愛と赦し、抱擁と和合、

理解と調和というような、一元的な世界へと移行するのには、どのような過程が

あるのだろうか?

 

さらに続けて聖者が言う。

“わたしは長年、厳しい内観の行を続けてきました。それは至難な叡智への道です。

自分の心の動きをあくまで冷酷に凝視する厳しい自己観察は心身をそこなうほど

強烈な苦行です。

そしてこれによって、心の底に巣食う 最も頑固な 自我 を粉砕してしまうのです。”

 

自我を粉砕すること~それが聖者の出した、その答えである。一方で次の

ように言葉を続ける。

”しかしこうした真の自己分析は必ず、真理を洞察する覚者を生み出します。

これに反して自我を容認するいわゆる ‘自己表現主義’は神や宇宙に対して

自分勝手な解釈を施して譲らない、自己本位な人間を造ってしまいます。“

 

”徹底的に自我を粉砕して自己分析をしながら 内なる心のひだの裏まで

見据えていく”という行をこの聖者は行ったという。すると、何がわかった

のだろう?

 

”心の動きを深く掘り下げて研究していくと、やがて人間の心の共通性、

つまり誰もが似通った利己的動機に動かされていることがわかってきます。

すなわち、今までの他人がすこしずつ兄弟のように感じられてきます。

こうして、人間はみな同類なのだと気がつくと、

次第に謙譲の心が湧いてきます。”

 

つまり、自分の中に潜む利己的な考えがこの現象世界で夢をみている夢想人

の共通した点であることも理解すれば、むしろ他人に対して、同情(シンパシー)

が生まれるきっかけになるという。

 

”そしてこの気持ちが成熟すると、自己の内にある魂の無限の力を

忘れている無智な同胞たちに対する同情となるのです。“

“物事のうわべしか見ない浅薄な人間は狭い自我の殻の中に閉じこもって、

他人の苦悩に対して感受性を持つことができません。

しかし、鋭く自己を解剖する者は 同情がほかの一切のものに

拡大していくのを経験します。

するとその人は次第に自我の衝動から解放されるようになります。 

聖なる愛はそのような土壌に花を開くのです。“(以上引用)

 

聖なる愛、それは、この聖者の言葉を借りれば、”自己のうちにある魂の

無限の力を忘れている無知な同胞たちに対する同情”となり、

互いにその無限の力を共有することに悦びを感じる愛ということに

なるのだろう。

いろは歌や般若心経の中で繰り返し述べている、メッセージ。

それは、バンニャー(般若)の智慧

(二つの対照的な価値観を容認する世界を打破するための真の智慧)

を知り、浅い夢に酔いしれ、奥山をさまようさすらい人になる前、

しっかりと本当の自分の真実を見て”目を覚ましなさ”いということ。

 

本来、私たちには病気はない。不幸はない。

それがあるように思うのは、”健康”とか”幸せ”といういう ”夢”の”裏腹”

に過ぎない。

ヴェーダ哲学から、般若心経から、いろは歌から、共通して流れ出して

いるものがある。

それは、本当のところ、夢幻ではなく無限の力に満ちている私たちの

本来の実相にたちかえるようにという宇宙の声がこだまのような気がする。

 

聖者のいう、”聖なる愛” の木霊でもあるのかもしれない。

 

*1~カーリーはシヴァ神の妻として横たわるシヴァの上に起立し生首を

以て舌を伸ばしているおどろおどろしい姿として描かれる。

*2~”あるヨギの自叙伝” から。

 

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