自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

意識の飛翔(4)スピリチュアリズムって?

2024年10月11日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係



霊的とスピリチュアリズムとは何が違う?
**********************2024/10/11

Shrirum Sharma (シャルマ)Achariya は、
現代のヨギの一人ある。


ヒマラヤで修行し、その麓の地、ガンジス川の
岸辺にアシュラム(道場)を開き、多くの修行者が、
短期間なり長期間なり、都合に合わせて様々な
瞑想の行を中心に世界中から集っている。


私も、何度かその地に訪れ、ご指導をいただいた。

今では、創設者シャルマジは幽体となり、肉体を
脱いでしまわれたが、多くの弟子たちが忠実に、
シャルマジの残した教えを継承している。


さて、シャルマジはその著書*(1)で
スピリチュアリティについて次のように、
語っている:

Evolution of the soul is always show and gradual.
It takes time and needs endurance coupled
with persistent efforts.


One must not lose his patience if it takes a
few rebirths to cleanse up the evil sanskars
(intrinsic impressions in the inner self)
accumulated over in the previous births
traversing through ’84 lack yonis’(numerous
life forms).



一行目に、
‘魂を変えようしても、それはゆっくりと
少しずつ変化が現れるものであって 時間がかかるものだ。‘

と述べている。

だからこそ、“忍耐とたゆみない努力”が必要とされるという。

第二節のはじめでは、
時間がかかるものというその単位は、
~時間というものではなく、‘何度も生まれ変わる’ほどの
覚悟が必要だ
という。 



うして、心の中にインプットされた悪が浄化される。 

その悪はどのぐらいの間に積もり積もったものか?

シャルマジは‘’84 lack yonis’(numerous life forms).’
と表現している。
途方もない時間だ。

数知れない生態系の中を何度も生まれては死に、
微生物から植物、動物、人間にと輪廻を遂げてきての、
地球がたぶん創生された時代からのお話のように伺える。

私たちの魂は初めから人間だったとは限らない~と
インドでは考える。


私自身も、今の私の意識のはじめは”鉱石”だった
ような気がすると、以前ブログに書いたことがある。



石、植物、動物、昆虫、?? 

本当に魂といっても、様々な形で、この世に生まれ 
意識を重ね、体験を積み上げ、輪廻転生の輪(サイクル)
から逸脱できる’大覚の智慧’を持つことができる、と、
考えられているのだ。

印度の大師は よくこういう話をする。 

それは、私たちが今‘人間’というフォームで現世に
生を受けて、それは、ほぼ、考えたら奇跡に
等しいのだと。

その意義をよく考えてほしいと。 

漠然と過ごすにはあまりにも、もったいない、
奇跡であるのだから、今こそ ‘自分の魂’は?
と内面を見つめてほしいと。

なぜなら、それができるのは、人間の‘特権’だからだ。


人間として生まれてきた‘特権’として、そうした
抽象的で哲学的で、宇宙や大自然との関係、人が
人らしく生きる意味、愛とは、智慧とは、無私とは、
奉仕とは、などなどを考えることができるチャンス
なのだから~と。


さて、シャルマジの話に戻ると、そうして、自分自身
の中に積み重ねられてきた‘悪’を浄化するために、
輪廻転生を繰り返して、私たちは今ここに生きて
いるが、それほど、魂の質を上質に替えることは、
時間がかかる作業であり、真摯な努力と忍耐が必要だと
いうのだ。

これが彼の言う、スピリチュアリティ―である。


つまり、魂を昇華させ、より高い次元へと変容
させること、その一連の、心の流れと意識をこう
呼んでいるのだろう。


印度の大師達は、だから、霊的なことを
スピリチュアリティ―とは 決していわない。


霊視や霊能者、霊的にまつわる、お清めやお祓い、
幽霊と意思疎通したり、空間から物質を出したり、

物を瞬間移動させたり、そういうことと、
スピリチュアリティとは無縁である。

スピリチュアリズムとは一線がひかれる話である。 

スピリチュアリティ―とは、シャルマジが上記で
述べているように、いかに魂を本質的に
変革させて高次元に高めていくか~その関連で使

われる言葉なのだ。


その意味では、時としては、宗教者はスピリチュアルな
探究者と言えるだろう。 


神を求める真摯な求道者や、神と一体になろうと
修行するヨギ達
は言うまでもない。

しかし、最近、私はシャルマジのおっしゃるご意見と
少し違う考え方をしていることに気が付いた。


スピリチュアルに生きるというのは、もっと、
自然体なのではないか?ということだ。

気張らなくても、気張っても、人の本質は、
ある一定の聖なる神の資質と智慧を
兼ね備えた魂の投影されたものだと思うからだ。 

それに努力して近づこうというより、それを
思い出すためにはどうしたらよいかと
いうアプローチをしている限り、力まず、
自然体でゴールに近づくことができる
のではないか?

確かに、数知れない生まれ変わりを余儀なくされる
人の魂も存在するだろう。

が、時間というのは、この世のもの。 

もし、その人が‘解脱したい’ と願ったとき
には、それは半分以上成就したものだと思う。 


そう願うときが、どの次元においてであっても、だ。 

幽体時でも霊体時でも、あるいは、地球上で肉体を
もって生きているときでも、その人が より高次の
意識の高揚を、発願したとき、すでにゴールは見えて
いるのだという気がする。


解脱にはある意味時間があって、ないようなものだ。 

解脱(意識の高揚)は 瞬時の次元の超越でもある。

ある意味、その時は 一瞬のうちに変容ができるのだ
と思う。

変容を遂げた人には、時間は存在しない。 

多くのヨギ達が極めて長寿を持っていることを
考えれば、それは事実だろう。 



最も、彼らはほとんど、下界に降りてこないから、
知る人ぞ知る存在であるようだ。 

なん百年も生きているヨギは現代でも実存するのだ。

話を戻すと、そうした遠回りをした人は、つまり、

いろいろな生を生まれ変わってきた人は単に、
そうした、さまざまな体験をしたかったからだと
考えることはできないだろうか?


往々にして、苦しみや悲しみに満ちた人生が
多いのかもしれない。

が、気を楽にして考えれば、彼らがその体験を
望んだから、体験の場を創り出し、ある意味
楽しみながら、その時間を
享受したと考えたほうが、自然だ。

苦しみに満ちていても、それはそれで、やはり、
私たちの潜在意識の奥底で、願っていたこと
なのだろう。

その苦しみがあったからこそ、次のステージが
来ることを、私たちは知っているのだ。


それは時が過ぎてみれば その苦しみや悲しみを
通り抜けてきた意味 や意義がわかるときが来る
のだろう。

そう考えると、単に私たちがスピリチュアルに生きる
ためには、そう(スピリチュアルに)生きよう という
発心があれば、それで良いのだという気がする。 


勿論 満足する段階にいたるまでは、時間は
かかるように見えるだろう。

が、すでに、私たちは、もう、スピリチュアルに
生きている存在なのである~

無意識であるにせよ・・・誰もが、スピリチュアルな
本質を持っている・・

と信じている。

*******************



*1~”What is spirituality?"
Gayatriteerth Shantikunj, Haridwar ,2010


 
無料写真自然風景 に対する画像結果
月はスピリチュアルのシンボル的意味があるようです。
 
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昨日の記事の補足(カルマの証明) 

2024年10月07日 | 健全生活のために”死”の常識を反転
自殺者の魂が、なぜ、両親が訴訟を起こさないように
飯田氏を通して 強く伝えようとしたのか?

************************

昨日の記事では、自殺者の霊が、飯田氏(当時は唯脳論者)
にコンタクトをとり、巧みに、自宅にまで案内して
両親に メッセージを伝えようとしたお話でした。

具体的には、両親の、息子が勤めていた会社への訴訟の
準備を取りやめにさせたいという思いからでした。

両親は、息子の自殺の原因が、勤めていた
会社の過剰働きにより、疲労から精神的に、自殺に
追いやったと信じていました。

実際は、恋愛の成就が叶わずに、発作的な自殺でした
が、なぜ、息子が両親に、訴えを退けるように、
渾身の願いを、飯田氏に託したのか・・・

といえば、以下の理由からでした:

一つ目には、自分が親より先に、自らを死に追い込み、
非情な悲しみと、落胆を親に与えてしまったという
自責の念から。

二つ目は、親が、”訴訟”という、カルマを積んで、次の
生に影響を与える痕跡を造らないため。

一つ目は、理解できますが、なぜ、二つ目の、”次の生への
影響を与えない”ことが、それほど、大事なことなの
でしょうか?

まず、会社には何も、責められる理由はないこと。

なぜなら、原因は、私事の恋愛問題だったからです。

それを知らない、両親の誤解から、会社に損害賠償を
求めるような裁判をひきおこすことは、両親の魂が
これからの生まれ変わりに響く、カルマを背負って
しまうからでした。

そのことを、この霊魂は、あの世にいって、深く
理解できたのでしょう。


カルマを作ることは、キャッチボールに似ています。

相手から飛んできた球を、どのような想いで、どのような
形で投げ返すか?

それが、カルマ原理です。

相手の球が、悪意をこめたものであっても、いじわるで
あっても、そうでなくても、それは、相手のカルマとなる
行為です。


一方、受け側が、それに対して、どう反応して行動するか?

それは、投げられた球の良し悪しには、無関係に、
受け手側の、カルマとなるからです。


訴訟 という相手を責める心と行為は、両親の、カルマ
となり、それが、カルマ貸借票に、きちんと明記される
以上、そのバランスを次の生で返さなければならない
ということになるわけです。


ましては、息子の自殺の背景に、会社側の手落ちがない
としたら、そのカルマの質は、なおさら、重いものに
なるでしょう。


この何気ない、飯田氏への、自殺霊が両親に一番伝えたい
メッセージ:自分の死は、会社のせいではないこと、

そして、自分は魂として、両親の身近にいること、
それを知ってもらい、死を悲しみで受け止めないで欲しい
というメッセージ、

それを考えると・・

生きている時に、投げる球いかんでは、その負を
背負ってしまう、カルマの法則が、厳然と、
生きているような気がします。


やはり、カルマの種は、死んでも、次に生まれて
くるべき人生を左右させると知ることで、今の生きている、
一瞬一瞬の 人への、事象への、向き合い方の大切さを、
感じます。




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意識の飛翔(3) 異次元にいる魂(自殺者)からのメッセージ 

2024年10月06日 | 健全生活のために”死”の常識を反転



”無条件の愛”の存在:生きている間は気が付かなかった・・
*******************


タイトルは、8月30日の、ブログの中の言葉。

’生まれる前の魂が、これまでの、カルマ総得点に
より、次の生では、穏やかな死に方には点数が足らず、
自殺を選択した。

彼は、次の生では、カミソリでバスタブのぬるま湯で
動脈を自ら切る~設定を、すでに、おぎゃーと産声を
上げる前から、プログラミングしていた。’

というお話だった。


以前、昔の話だが、自殺者は、往生(おうじょう)
できない、
あの世でも、苦しむ という話を 知り合いのお坊様
から聞いていた。

私の知り合いで、数人のそうした人たちの顔が今でも
脳裏に思い浮かべられる。

大学時代、”どうして人は生きていると思う?”と、私に
笑顔で聞いてきた友人は、翌月、命を絶った。

結婚前の会社務め時代、職場のエンジニアの奥様が、
東横線に身を投じたと聞き、その通夜に伺い、友人を
慰めた。

しかし、彼もまた、数日後、線路に奥さんの跡を
おうかのように、飛び込んだ。

親友のお兄様もそう・・だった。


自殺者は救われない・・あの世で苦しんでいる・・
と長年、私は、そう思っていた。

が、ドチュー氏の逸話【8/30日記事】を読んで、
そして、飯田史彦氏(*1)の書籍を読んで、私は、
考えが変わった。


死んだというのは、どんな手段にせよ、地球服を脱いで、
魂態で、異次元に移行することである。

そして、異次元に移行するとき、無条件の愛 という言葉
では表せない、あたたかな、和(やわら)かな、包んで
くれる、空気に包まれる~と、誰もが(臨死体験者)が
述べている。

自殺者は例外かと思ったら、そうではなかった。

飯田史彦氏の本(*1)に、実体験が、詳しく、述べられて
いるが、自殺した霊と、コンタクトが取れてのやり取りが
ある。

自殺者が自ら、飯田氏に送ってきたメッセージは以下の
ようであった。

。。。。。。。

真っ暗闇の中で、自分が犯してしまった罪をひたすらに
反省している。
 
② そこは、非常に寂しいところだが、‘愛に満ちている’
 
③  愛’という言葉が不適切なら、‘感謝の念’と‘確信’がある。

絶望のなどん底にいても、‘確かなる希望’をあたえてくれる
‘何か’が存在し それを‘愛’と感じる。
 
④ 真っ暗闇の中に 贖罪のために、身を落として
(両親を悲しませるという最大の罪の一つを犯した
ことをここでは、さしている猛反省して、
‘自分は誰かに愛されているという確信ができた
 
⑤ 誰から?愛されているかといえば、‘すべて’に
愛されている。

自分自身を含んだあらゆる存在が、自分を愛して
くれている
 
⑥    このことは、そちら(肉体の世界)で生きている間は
理解できなかった。

体を離れてから、ようやく、‘すべて’を理解できた・・・、
まるで、ただ、’忘れてしまっていたことを思い出した’
ように。

************

この時の記事は、ブログ2017年9月18日と23日に書いて
いる。

興味あるかたは、是非、ご覧いただきたい。

当時、私は、飯田氏のこの体験を読んで、とてもホットした。

それは、自殺霊が、

あの世では

絶望のなどん底にいても、‘確かなる希望’をあたえてくれる
‘何か’が存在し それを‘愛’と感じる。

と、語った言葉。

それを、”愛”と表現していた。

さらに、”自分自身を含んだあらゆる存在が、自分を愛して
くれている”という言葉。

本当は、常に、娑婆世界にいても、肉体服を着ていても、
着ていなくても、”愛”に取り囲まれていたのだが、肉体服を
着ていたときは、それに、気が付かなかっただけだ・・

と、この霊は言う。

忘れてしまっていたことを思い出した’ように” 
あの世の次元に移行して、初めて、そのことがわかった
という。

今の私たちが、この地球に、三次元世界に感覚をもって
生きている限り、それを”思い出すこと”は難しいのかも
しれない。

が、本当は、今も、意識次元を変えれば、そのリアリティー
に気が付くことは、可能だと思う。

私たちのリアリティーは、三次元の私? 
死んだら土にかえる骨の中に、私はいない。

この世とあの世は、とにかく、すべてと言っていいほど、
多くの物の価値感、基準、考え方、とらえかたが、
真逆なことが多いのだから。。。苦しみと執着が生まれる。

飛翔した、意識へと、現在意識の舵取りを、していくことが、
大いなる修行の一つ/この世に生まれた目的の一つ、
なのかもしれない― 



*1) ”生きがいの創造”Ⅱ PHP研究所 2005年






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今 が苦しいとき、こんなふうに、意識を・・・(2)

2024年10月03日 | 健康のための心の波動


体質も、環境も 性別も、生まれる前の私の選択
2024/10/03
*********

おはようございます。

前回(9月30日)の記事の補足です。

***********
指導霊でもある天使たちと、これから生まれる生の
設定を、決めている・・・

私たちの 霊魂-意識態 には、死はない。

輪廻転生、何度も何度も、この三次元の地球界に
生まれて来ている。

生まれてくる前、”子は親は選べない”という、通説とは、
真逆なことが、起きている。

私たちの意識態は、今度生まれるときの、人生設定を
選んでいるのだ。

生まれてくる ということは、まだ、地球界で人間服を
まとって行うべき ”何か” が残っているからだ。

この”何か”を、カルマと呼ぶ。

過去の人生の決算書で、帳尻があっていないところを、
補う。

バランスシートの数字がゼロになれば、カルマ清算は
クリアーになり、もう、生まれ変わりからは、卒業する。


よく、天才児とか神童と呼ばれる子供たちがいる。

実年齢は、5歳だが、一つ前の′生’年齢を加えると、
98歳かもしれない。

その生では、彼は、偉大な科学者、音楽家、小説家
舞踊家、エンジニア・・・であったのかもしれない。

つまり、過去生で、為しえた偉業をそのまま、
遺伝子の中に残して、生まれてくるケースである。


彼らの抜きんでた才能は、幼児から開花される。

あるいは、人生のどこかの地点で、何かのきっかけで、
それが世に知られる設定になっている。

生まれ持った才能を生かすのは、’世のため、人の為’、
だけに限らず、もしかしたら、本人が、’慢心にならず、
謙虚さを学ぶ’ための、プログラムのためかもしれない。


② 
人生テストに点数がつくとしたら、火あぶりの刑など、
苦しみが大きいほど、得点が加算される

’人生テスト’ ということは、言葉を変えれば、
”この三次元の物質的生活の中で、魂を高めるための、
試金石” といえるだろう。

火あぶり だけでなく、火事で焼死したり、原爆や
戦争の’劫火’ の中で、亡くなる肉体は、とてつもなく、
深い、浄化の洗礼を受けることができる。

なぜか、水死より、焼死のほうが、魂の昇華点数が高い。


次回の生の 死に際はどちらかというと、暴力的な
ものにしかならない。

死に際 の ”死に方” も、生まれる前に決めた
シナリオに書き添えられる。

以前、南インドの聖者の子孫の守る、”アガスティアの館”
へ、自分の運命の葉を開いてもらいに、デリーから
飛行機を乗り継ぎ、半日かけて出向いたことがある。

同席した友人の 運命の葉から、”家族に見守られながら
最期を迎える”という一節が、読み上げられた。

これは、順調に、特別の背反的行為を本人が選ばないで
生きている限り、こうした穏やかな、死を迎えるという
予言でもあった。

’暴力的な死に際’、というのは 具体的には、さまざまな
予測があるが、これも、それによって、本人の魂の負債の
消化に貢献するなら、いたしかたない。


体力は 下、
美しさは 上、視力は 上、声質は 中、
カリスマ性は 特上、
ウイットは 下、
嘘つく才能は 上、
技術は 下(たとえば、洗濯機の操作が上手くない
とか運転が下手だとか)、
知性は 中、
誘惑能力は 上、
忍耐力は 下、
根気は 上、・・・etc. 

これらの’性格や性質’ もまた、産声をあげる
ときにはすでに、自ら、選び、決定している。

これは、でも、過去生の自分の性質や性格と無縁かと
いえば、そうではない。

どんな性格も性質も、長所は短所に、短所は長所
になりえるのだから、過去生から引きずってきた
短所を、今生では、長所にさせるという課題も
あるのだろう。

あるいは、過去生で、’気が長く鷹揚’だった人が、
今生では、’気が短く、怒りやすい’性質を選んでくる
場合も、あり得るかもしれない。

こうして、様々な、性質・性格の人間を演じることで、
他者への理解を深めるという、課題をもうけているの
だろう。











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