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【質問】聖公会やルーテル派はEcclesial communities 東方教会はChurches?

2008年03月05日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

【質問】
 諸教会(Churches)と諸教団(Ecclesial communities)・・・
 聖公会やルーテル派は Ecclesial communities、東方教会が Churches に含まれるということでしょうか?
 『あがないの秘跡』(2007.8.中央協議会翻訳)の邦訳では、Ecclesial communities を、「教会的共同体」と置き換えているようです。意味するところは、プロテスタント諸教団なのですね?
(コメント欄の書き込みから)

【答え】
 聖ピオ十世会の元総長であったフランツ・シュミットバーガー神父様の『カトリック教会と第二バチカン公会議』にそって、御返事致します。

====引用開始====

 カトリック信者にとって、天主とイエズス・キリストとカトリック教会との間には分かち難く結ばれた一致があることは明らかです。

 実に、天主御父が御子を送り、御子は贖いのみ業のために人性を取り、この人となった天主御子が目に見える教会を創立し、自らはその教会の頭であられるのです。

 私たちの主イエズス・キリストは一つの教会を創造するのですが、我らの主は絶対で唯一であるため、我らの主は本当に天主、唯一の真の天主であるため、教会もやはりただひとつしかないのです。

 そしてこの教会の創立者かつ師である我らの主が絶対で唯一であるように、教会も絶対で唯一なのです。聖パウロはエフェゾ人への手紙の中でこう言っています。「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は一つで、すべてのものの父であり」(4:5)と。

 この教会は諸国の中の印なのです。教会は生ける天主の神殿なのであり、屠られた小羊の花嫁なのです。教会は天から地上に立ち降りた新しいエルサレムなのです。教会は本当にエンマヌエル、すなわち、天主我らとともにまします、なのです。そうです、人間性の中に天主の性がましますのです。
 教会は全く我らの主の神秘体、それゆえにこそ、教会は天主により立てられたもの、我らの主が天主であられ、主の言われることなさることすべてが天主のみ業であり、主の創立なさったものはすべて天主が創立なさったものなのです。

 したがって、教会はその生命、その生活において、その教えにおいて、その礼拝、その統治において、天主によって助けられているのです。ですから教会は、より良い社会世界を築くため、この世における進歩のため、より良い文化等などのためといえど、他宗教と身を交える使命をもらったことはありませんでした。

 教会の使命は主が昇天される直前に言われた言葉に表されています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、わたしが命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28:19、20)また「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる。」(マルコ16:15、16)


 ところが、エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)は、わたしたちに教会に対する全く別の理解をさせてしまっています。この教令は教会の使命とその他の宗教との関係について全く別の見解を示しています。まず、この教令は「諸教会(それぞれの教会)」について語っているのですが、実はその表現自体が大変異端に近いのです。

 もちろん公会議以前にでさえ既に「諸教会(それぞれの教会)」という概念は存在していました。それぞれの教会、と言ったときに何を意味していたかというと、司教様とその聖職者の回りの地方のそれぞれの教会、と言うことを意味していたに過ぎないのです。例えば、パリの教会、ウェストミンスターの教会、ケルンの教会、ローマの教会、東京の教会等など、信者たちに取り囲まれた司教とその聖職者の事だったのです。しかし、カトリック教会以外の諸団体に「それぞれの教会」と複数形で使い、適応したことは一度もありませんでした。

  第二バチカン公会議はこの表現に新しい意味を付け加えてしまっています。

   「われわれは、これらの別れた諸教会と諸教団には欠如があると信じているが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。(3)」

教会の外に救いなし

 他の宗教にしたがっている人でも、ある条件の下で救われ得る、ということは明らかなことです。どの条件の下かと言えば、彼らが打ち勝ちがたい誤謬のうちにいる場合です。もし彼らは自分の最善を尽くそうと努力しているなら天主様は助力の聖寵をお与えになるでしょう。もし彼らがこれらの聖寵に忠実でこれらの聖寵と共に働くなら、天主様は彼らに成聖の聖寵をついにはお与えになり、かくして彼らが救われるかも知れません。しかし彼らが救われるとしたら、それは常に個人としてです。たとえ彼らが他の諸宗教の中で救われるとしても、彼らは決して他の諸宗教によって救われるのではないのです。

 誤謬が真理の王国へと我々を導いてくれるのは不可能なのです。天主がこの地上に降臨され、托身され、我々のうちに現れ、一つの教会を創立し、それによって自分自身を継続させ、自分の身代わりである教会を立てたのです。これが彼の教会、彼の花嫁なのです。

 これらすべてをした天主が、自分の創立したのではない偽りの宗教によって誰かが救われ得るようにした、と言うのは不可能なことです。なぜなら主は自分のことについてこう言われたからです。「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを戸をらずに誰も父のもとには、行くことができない。」これはご自分の教会についても当てはめることができます。

 これらの偽りの宗教は天主によって創立されたのではなく、むしろ人間によって、そして非常にしばしば悪魔によって息吹を受けたものです。そうですからもしも万一、誰かがほかの宗教の一員としてあるいはほかの宗教に属していながらも救われ得るとしたら、この人は常に必ずカトリック教会によって、我らの主の十字架によって、主の犠牲とその祈りによって、救われるのです。ですからこの人はほかの宗教によって救われるのではなく、ほかの宗教に属していたにもかかわらず救われるのです。

 ですから、「キリストの霊(すなわち聖霊のこと)はこれらの教会と教団を『救いの手段として』使う」ということはほとんど異端的なのです。そして私はこの一文は公会議の文書の中で最悪のものの一つだと思っています。これは今日までの教会の教えに全く反しているからです。これは以前に教えられてきたこと、聖書の語ること、教会教父の教え、神学者や以前の公会議、以前の教皇たちがいつも言ってきたことに絶対的に反しているのです。完全に反対なのです。

====引用終了====


 従って、ご質問にお答えすると、
(1)第二バチカン公会議以前では「教会」Church とは、常に単数であり、カトリック教会のことを意味していました。
(2)第二バチカン公会議以前では、もしも複数形(churches)になっていたとしても、それは、コリントにある教会、東京にある教会、などという地域ごとの司教を中心としたカトリック共同体(地方教会)のことを意味していました。

 しかし、第二バチカン公会議の新しいエキュメニズムのために、
(3)『エキュメニズムに関する教令』では、有効な叙階の秘蹟が伝えられている(従って、有効なミサ聖祭が行われている)ような東方の離教会が Churches と呼ばれます。だから「ドミヌス・イエズス」も「使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会も真の個別教会である 。それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。」(The Churches which, while not existing in perfect communion with the Catholic Church, remain united to her by means of the closest bonds, that is, by apostolic succession and a valid Eucharist, are true particular Churches. Therefore, the Church of Christ is present and operative also in these Churches, even though they lack full communion with the Catholic Church, since they do not accept the Catholic doctrine of the Primacy, which, according to the will of God, the Bishop of Rome objectively has and exercises over the entire Church.)
と言っています。

(4)また、有効な叙階の秘蹟が伝えられていない(従って、有効なミサ聖祭が行われていない)ような聖公会やルーテル派は Ecclesial communities と呼ばれています。
 だから「ドミヌス・イエズス」も、「有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 、固有な意味で教会ではない」と言いつつも、「しかしながら、これらの教会の中で洗礼を受けた者は洗礼によってキリストに組み込まれており、それゆえ教会とは不完全であるが、ある交わりの中にいる。実際に洗礼はそれ自体、十全的な信仰告白と聖体秘義と教会における充満的な交わりによる、キリストにおける命の完成への指向性をもつもの」のだから、 Ecclesial communities なのだ、ということです。
 「ドミヌス・イエズス」のこの英語訳は次の通りです。
On the other hand, the ecclesial communities which have not preserved the valid Episcopate and the genuine and integral substance of the Eucharistic mystery, are not Churches in the proper sense; however, those who are baptized in these communities are, by Baptism, incorporated in Christ and thus are in a certain communion, albeit imperfect, with the Church. Baptism in fact tends per se toward the full development of life in Christ, through the integral profession of faith, the Eucharist, and full communion in the Church.

 この続きは、『カトリック教会と第二バチカン公会議』をご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.1.1.「いと高き者の息吹を受けて...」

2008年03月05日 | ルフェーブル大司教の伝記
第12章 公会議の嵐に直面して

I. 中央準備委員会委員


「いと高き者の息吹を受けて...」

「敬愛する枢機卿閣下たちは、1870年に中断されたバチカン公会議を継続させるために全世界教会会議すなわち公会議を召集することは、適宜なことだと思いますか?」

 これはピオ十一世が 1923年 5月 23日に秘密枢機卿会議においてした質問だった。枢機卿たちはほとんど満場一致でその計画に反対した。何故なら、公会議によってもたらされると期待される利点は、公会議を開かなくても得ることができるし、公会議によって引き起こされるだろう確かな損害と比べれば比較にならない利点があるだろうからだ、と枢機卿たちは言っていた。ビヨ枢機卿(cardinal Billot)は自分の版になると、立ち上がってこう言った。

「司教たちの間にある見解の深い相違が存在していることを隠すことは出来ません。・・・
これらの相違のために、彼らがいつ終わるとも知らない長い議論をすることになる危険があります。」


 さらに言葉を加えてこうも言った。
「革命を起こそうと、新しい 1789年のフランス革命を起こそうと、教会の三部会[États généraux, フランス革命以前の旧体制(アンシャン・レジーム)で、戦争などの重大な政治的危機に対処するためフランス王によって特別に招集された集会のこと。487年に21回とまれにしか招集されなかったが、1789年にルイ16世によって招集された最後の集会は、旧体制打倒の陰謀(球戯場の誓い)の機会となりフランス革命の始まりとなった。]を利用して、あらかじめ準備をしている ---- いろいろな兆しが暗示しているように ---- 教会の最悪の敵たち、すなわち近代主義者たちによって「操作される」公会議を目撃するのを恐るべきではないだろうか。」

 彼はこう言葉を結んだ。
「教会の伝統的なやり方よりも、民主的な観光に適応する論争と宣伝活動のやり方が導入されることを恐れましょう。」[Giovanni CAPRILE, SJ, Il concilio Vaticano II, Cronache del concilio Vaticano II, Civilta ccattolica, Roma, vol.V, 1968, pp 681-701]


 それから36年後の 1959年 1月 25日、教皇ヨハネ二十三世は門外の聖パオロの修道院に集まった枢機卿たちに公会議を召集するという「控えめな決心」告げた。[1948年2月、ピオ十二世はピオ十一世の考えを再考していた。ルフィニ枢機卿とオッタヴィアーニ枢機卿とは公会議が「新しい神学」の逸脱を排斥するよい機会になるだろうと考えた。そこで教皇は司教たちを打診するが、相談を受けた65名の司教たちは、ありとあらゆる新しい逸脱した主題を提案してきた。ピオ十二世はそれを放置し、公会議は必要なしと決断した。こうして1950年に聖母マリアの被昇天を自分で教義決定し、同じ年に回勅『フマニ・ジェネリス』で現代の誤謬を排斥した。」


 公会議に関するヨハネ二十三世の想像していたことは平和主義だった。
「[公会議は] 聖なる天主の教会の団結、一致及び和合という素晴らしい光景[となるでしょう]....それはそれ自体で別れた兄弟たちに、キリストが聖ペトロにそ指導と保護を取り戻すことなく任せることをお望みになった全世界の羊の群れに帰って来るようにと呼び入れる招待になるでしょう。」[1959年4月1日の訓話、DC 1302, 515]


ヨハネ二十三世

 しかし 1959年 1月 25日の発表は、オッタヴィアーニ枢機卿を除けば、教皇の制度的協力者たちの間で大きい混乱を引き起こした。

 ルフェーブル大司教は後に教皇ヨハネの頑固な楽観主義を次のように厳しく判断した。
「彼は、やはり公会議を召集しようとした先任者である教皇ピオ十二世が、公会議によって教会を窮地に落とすおびただしい危険のためその計画をあきらめる知恵があったという事実を無視することを望んでいた。ヨハネ二十三世は、正しく、頑固だった。彼に公会議をやめさせようと説得しようとする人々の言葉を聞くことは一切望まなかった。多くの人々が彼に公会議を召集しないようにと助言を行った。メディアが行使する圧力をヨハネ二十三世に指摘した。しかし、彼はこう答えた。『イヤだ。そんなことは重要ではない』と。」

 ヨハネが教皇に選出される前から、彼の考えを知っている人々は、彼が「エキュメニズムに専念する」という計画があることを疑うことが出来なかった。彼は、ブルガリアの教皇代理、後に教皇使節(1925-1934)を勤めたが、極めて早期から、「帰一東方教会」と言われている東方カトリックがする宣教的活動に反対しており、彼は「私たちの主イエズス・キリストの真の唯一の教会を皆で形成するために諸教会の一致」[アンジェロ・ロンカリが書いた1929年7月27日付けの Christo Morcefki という正教徒への手紙]のために使徒職をすることに賛成していた。

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【関連記事】
第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

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第11章 チュール時代の小さなエピソード

I. 美しく小さい司教区

II. シテ・カトリックと司教

III. 信頼回復

IV. 特別な存在

ベレーグ(Bellaigue フランス)の聖伝のベネディクト会

2008年03月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 フランスの聖伝のベネディクト会を紹介します。



 ベレーグの聖母大修道院(monastère Notre-Dame de Bellaigue)
ベレーグ(BELLAIGUE)とは、美しい水(Bella Aquia, la "belle-eau")という意味。
Abbaye de Bellaigue より)


聖伝のミサ


 950年にオドン・ド・モンリュソン(Odon de Montluçon)によって創立。
 1791年、フランス革命によって、修道院は閉鎖され、売却された。それ以後、いろいろな目的のために使われ、教会は農作業のために使われてきた。
 2000年10月、4名の聖伝のベネディクト会士たちが大修道院を修理、革命以後中断されてきた天主への礼拝、カトリック典礼を再開。
 2008年、召命は増加し、今では35名の修道士たちが祈りと修道生活に励んでいる。
Abbaye Notre-Dame de Bellaigue より)


ベレーグの聖母大修道院(monastère Notre-Dame de Bellaigue)


【参考リンク】
Chronique du monastère
New French Foundation in Bellaigue


聖伝のベネディクト会

聖伝のベネディクト会

聖伝のベネディクト会

聖伝のベネディクト会

聖伝のベネディクト会


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アヴェ・マリア・インマクラータ!
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