アヴェ・マリア!
パリ外国宣教会350年
Societas Parisiensis missionum ad exteras gentes
愛する兄弟姉妹の皆様、
パリ外国宣教会 (Missions Etrangères de Paris, 略称MEP) は、1653年にフランソワ・パリュによって設立されて、今年でその存在350周年を迎えます。
日本とアジアのために宣教に来られた多くの宣教師の方々に心から感謝します!
アジアの宣教のために、1658年教皇アレクサンダー七世によって、フランソワ・パリュ(François Pallu)及びピエール・ランベール・ド・ラ・モット(Pierre Lambert de la Motte)が、代理区長(Vicar Apostolic, vicaire apostolique)として任命された時以来、パリ外国宣教会は4500名もの司祭を極東に派遣し続けています。
【聖ピオ十世会は、統計によると、創立37年後の2007年3月27日現在、471名の司祭が所属しているとのことです。天主の御恵みによって、創立350年には4500名以上の司祭が所属しているようになりますように!!】
フランソワ・パリュ
【パリ外国宣教会の略史】
フランス人のイエズス会士、アレクサンドル・ド・ロード(Alexandre de Rhodes)は、ベトナムで宣教していたが、1630年に追放された。6年間マカオに非難した後、またベトナムに戻り6年後に国外追放(死刑が減刑)の刑を受ける。ド・ロードはローマに行き、カトリック宣教師をたくさん送る必要性、また現地の司祭・司教を要請する必要を説く。
教皇アレクサンドル七世の後ろ盾もあり、まずフランソワ・パリュとピエール・ランベール・ド・ラ・モットの2人のフランス人司祭たちが志願者となって、1658年に代理区長という地位に上げられて(フランソワ・パリュは1658年に司教聖別され、ピエール・ランベール・ド・ラ・モットは1660年司教聖別)、さらに及びイニャス・コトランディ(Ignace Cotolendi)も1660年に代理区長となり同年に司教聖別を受けて、アジア布教のために現地司祭・聖職者養成のためにこの3名がそれぞれ旅に発った。それぞれは司祭や平信徒たちを供にしていた。彼らは合計で17名だった。しかしコトランディ司教を含めてその約半分である8名は道中に亡くなっている。
フランソワ・パリュは、1661年に発ち、フィリピン経由で台湾に到達し、福建省に渡った。
中国人である羅文炤(Gregorio López)別名(Luo Wenzao 羅文藻)は、フランソワ・パリュの推薦で中国人初の司教となっている。
こうして、パリ外国宣教会は、シャム、トンキン、コチンシナ、カンボジア、及び中国の幾つかの地方の宣教を委ねられた。
1831年、日本と韓国との宣教がパリ外国宣教会に委託された。同様に、
1838年、満州
1841年、マレーシア
1846年、チベット及びアッサム、
1855年、ビルマ、などの宣教が委託された。
1844年、パリ外国宣教会のフォルカード神父(Theodore Augustin Forcade)は、琉球に入り、日本語を勉強しつつ、日本本土上陸を試みたが果たされなかった。
1846年、ローマは、日本を使徒座代理区(知牧区)とし、パリ外国宣教会のフォルカード神父を代理区長(Vicar Apostolic)に任命。
1847年、フォルカード神父は司教に叙階され、長崎港外の船上で待機しながら長崎上陸を試みたが、上陸することは出来なかった。マカオで日本代牧司教の任命を受け、香港で開国の期を待つ。
1847-1850年、香港に渡る。Préfet apostolique de Hong Kong (1847-1850) 中国名、科主教。
1860年、ヌヴェール司教区の司教と任命され、ルルドのベルナデッタがヌベールの愛徳修道会に入ることに力を尽くしている。
1859年9月、横浜にセラフィン・ジラール(Prudence Seraphin-Barthlemy Girard)神父が上陸。
1863年、ルイ・テオドル・フュレ(Louis Theodore Furet)神父及びベルナール・プティジャン(プチジャン)(Bernard Thadee Petitjean)神父が長崎に赴いた。フュレ神父は長崎に大浦天主堂を設計。
1864年、天主堂を完成させたプチジャン神父が大浦天主堂の初代主任司祭となる。
1865年、プチジャン神父は、浦上の潜伏キリシタンと歴史的な再会。
その後多くのパリ外国宣教会の司祭たちが日本で救霊のために活躍された。特に、感謝を込めて次の偉大なフランス人宣教師の名前を挙げたい。
1949年 ヨゼフ・マリ・ジャック神父、来日。
1953年 ヨゼフ・マリ・ジャック神父、藤枝カトリック教会主任司祭着任。
1983年 ヨゼフ・マリ・ジャック神父、フランスへ帰国。
パリ外国宣教会350年の展覧会は、パリの本部で2008年3月15日まで開かれている。
Exposition : Les Missions Etrangères en Asie, 350 ans d'histoire et d'aventure du 8 janvier au 15 mars 2008
Ouverture du mardi au dimanche de 14.00 à 18.00
Entrée libre
【参考資料】
北海道・室蘭市に隠れキリシタン パリ外国宣教会で資料発見
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【参考記事】
パリ外国宣教会350年
Societas Parisiensis missionum ad exteras gentes
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パリ外国宣教会 (Missions Etrangères de Paris, 略称MEP) は、1653年にフランソワ・パリュによって設立されて、今年でその存在350周年を迎えます。
日本とアジアのために宣教に来られた多くの宣教師の方々に心から感謝します!
アジアの宣教のために、1658年教皇アレクサンダー七世によって、フランソワ・パリュ(François Pallu)及びピエール・ランベール・ド・ラ・モット(Pierre Lambert de la Motte)が、代理区長(Vicar Apostolic, vicaire apostolique)として任命された時以来、パリ外国宣教会は4500名もの司祭を極東に派遣し続けています。
【聖ピオ十世会は、統計によると、創立37年後の2007年3月27日現在、471名の司祭が所属しているとのことです。天主の御恵みによって、創立350年には4500名以上の司祭が所属しているようになりますように!!】
フランソワ・パリュ
【パリ外国宣教会の略史】
フランス人のイエズス会士、アレクサンドル・ド・ロード(Alexandre de Rhodes)は、ベトナムで宣教していたが、1630年に追放された。6年間マカオに非難した後、またベトナムに戻り6年後に国外追放(死刑が減刑)の刑を受ける。ド・ロードはローマに行き、カトリック宣教師をたくさん送る必要性、また現地の司祭・司教を要請する必要を説く。
教皇アレクサンドル七世の後ろ盾もあり、まずフランソワ・パリュとピエール・ランベール・ド・ラ・モットの2人のフランス人司祭たちが志願者となって、1658年に代理区長という地位に上げられて(フランソワ・パリュは1658年に司教聖別され、ピエール・ランベール・ド・ラ・モットは1660年司教聖別)、さらに及びイニャス・コトランディ(Ignace Cotolendi)も1660年に代理区長となり同年に司教聖別を受けて、アジア布教のために現地司祭・聖職者養成のためにこの3名がそれぞれ旅に発った。それぞれは司祭や平信徒たちを供にしていた。彼らは合計で17名だった。しかしコトランディ司教を含めてその約半分である8名は道中に亡くなっている。
フランソワ・パリュは、1661年に発ち、フィリピン経由で台湾に到達し、福建省に渡った。
中国人である羅文炤(Gregorio López)別名(Luo Wenzao 羅文藻)は、フランソワ・パリュの推薦で中国人初の司教となっている。
こうして、パリ外国宣教会は、シャム、トンキン、コチンシナ、カンボジア、及び中国の幾つかの地方の宣教を委ねられた。
1831年、日本と韓国との宣教がパリ外国宣教会に委託された。同様に、
1838年、満州
1841年、マレーシア
1846年、チベット及びアッサム、
1855年、ビルマ、などの宣教が委託された。
1844年、パリ外国宣教会のフォルカード神父(Theodore Augustin Forcade)は、琉球に入り、日本語を勉強しつつ、日本本土上陸を試みたが果たされなかった。
1846年、ローマは、日本を使徒座代理区(知牧区)とし、パリ外国宣教会のフォルカード神父を代理区長(Vicar Apostolic)に任命。
1847年、フォルカード神父は司教に叙階され、長崎港外の船上で待機しながら長崎上陸を試みたが、上陸することは出来なかった。マカオで日本代牧司教の任命を受け、香港で開国の期を待つ。
1847-1850年、香港に渡る。Préfet apostolique de Hong Kong (1847-1850) 中国名、科主教。
1860年、ヌヴェール司教区の司教と任命され、ルルドのベルナデッタがヌベールの愛徳修道会に入ることに力を尽くしている。
1859年9月、横浜にセラフィン・ジラール(Prudence Seraphin-Barthlemy Girard)神父が上陸。
1863年、ルイ・テオドル・フュレ(Louis Theodore Furet)神父及びベルナール・プティジャン(プチジャン)(Bernard Thadee Petitjean)神父が長崎に赴いた。フュレ神父は長崎に大浦天主堂を設計。
1864年、天主堂を完成させたプチジャン神父が大浦天主堂の初代主任司祭となる。
1865年、プチジャン神父は、浦上の潜伏キリシタンと歴史的な再会。
その後多くのパリ外国宣教会の司祭たちが日本で救霊のために活躍された。特に、感謝を込めて次の偉大なフランス人宣教師の名前を挙げたい。
1949年 ヨゼフ・マリ・ジャック神父、来日。
1953年 ヨゼフ・マリ・ジャック神父、藤枝カトリック教会主任司祭着任。
1983年 ヨゼフ・マリ・ジャック神父、フランスへ帰国。
パリ外国宣教会350年の展覧会は、パリの本部で2008年3月15日まで開かれている。
Exposition : Les Missions Etrangères en Asie, 350 ans d'histoire et d'aventure du 8 janvier au 15 mars 2008
Ouverture du mardi au dimanche de 14.00 à 18.00
Entrée libre
【参考資料】
北海道・室蘭市に隠れキリシタン パリ外国宣教会で資料発見
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【参考記事】
- 朝鮮最初のカトリック司祭、聖アンドレア金大健神父の信徒への手紙
- フエンテス神父(Padre Augustin Fuentes)のシスター・ルチアへのインタビュー
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