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聖ピオ十世会創立者マルセル・ルフェーブル大司教 近代主義の教会内への侵入史 (その11)

2008年05月22日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

近代主義の教会の中への侵入の略史 (その11)

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて(つづき)

 私たちはこう言うことは出来ません。「ねぇ、いいですか、変わったとしても、それほど重大だというわけではないのです、私には信仰がちゃんと染み込んでいますから。私は大丈夫です。私が信仰を失う危険はありません」と。

 新しいミサに行き、新しい秘蹟を受けるのに慣れてしまった人々は、少しずつ考え方を変えていると言うことに私たちは気が付いています。

 数年後に、この新しいミサに行っていた人に、つまりこのエキュメニカルなミサに行っていた人に質問してみると、この人がエキュメニカルな精神を学んでしまっていることに気が付くことでしょう。つまり、この人は全ての宗教を同じレベルに置いて、同等に扱うことになっているでしょう。

 彼に「プロテスタントの教えによって、仏教によって、イスラムによって人は救いを得ることが出来るのか?」と尋ねると彼はこう答えるでしょう。「もちろんですとも!全ての宗教はみな良いものです。」 ご覧下さい、彼はこうしてリベラルになってしまったのです、プロテスタントになってしまったのです、つまりカトリックではなくなってしまったのです。

 ただ一つの宗教しかありません。真の宗教は二つはありません。もし私たちの主が天主であるなら、そして天主が一つの宗教、カトリック教を創立したのなら、そのほかの諸宗教というのはあり得ません。そんなことは不可能です。その他の宗教は偽りの宗教です。誤った宗教です。だからこそオッタヴィアーニ枢機卿は第2バチカン公会議の草案に『他宗教を黙認すること (de tolerantia relisiosa)』と言う題を付けたのです。私たちは誤謬が広がるのを防ぐことが出来ないときには、その誤謬を黙認するのです。しかし誤謬を真理と同等のレベルに置くことは出来ません。そうでもなければ宣教精神というものがもはや無くなってしまうでしょう。もしこれらの偽りの宗教らによっても救いを得ることが出来るのなら、何故あえて宣教に行くのでしょうか?宣教に行って何をするのでしょうか?「自分たちが信じている宗教をそのまま信じるように彼らをそっとしておきなさい。彼らはどっちにしてもみな救われるのですから。」と言わなければならなくなってしまいます。そんなことは出来ません。

 教会はそれでは20世紀もの間一体何をしてきたのでしょうか?何故これらの多くの殉教者らがでたのでしょうか?何故彼らは全て宣教中に皆殺しにあったのでしょうか?宣教師たちは時間を無駄に使ったのでしょうか?彼らは自分の血潮と一生をむざむざと無駄にしたのでしょうか?私たちはそのように考えることを受け入れることは出来ません。

 私たちはカトリックとしてとどまらなければなりません。エキュメニズム運動に滑り込むのは非常に危険です。もはやカトリックとは言えない宗教に行くのは非常に危険なことです。

 私は皆さんが全て、私たちの主とカトリック教会の証人となることを、教皇様の証人、カトリックであると言うことの証人となることを熱烈に望みます。それはたとえ私たちが軽蔑され、マスコミに侮辱され、小教区で侮られ、いろいろな教会でバカにされたとしてもです。そんなことはどうでも良いのです。私たちはカトリック教会の証人であり、カトリック教会の本当の子供らであり、童貞聖母マリア様の本当の子供たちであるからです。

(講演終わり)

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