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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.1.慎ましい始まり

2008年07月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)


慎ましい始まり

 公会議教父国際グループ(ラテン語で「チェトゥス」Coetus Internationalis Patrum) は自由主義者らが公会議を支配することに効率的に対応するために設立された。1962年第一会期の初めにルフェーブル大司教はブラジルのカンポス (Campos) の司教であると同時に、ヴェルブ(Verbe)誌に載せられた現代使徒職の問題に関する司牧書簡 (Pastoral Letter on the Problems of the Modern Apostolate, 1953) の著者でもあったアントニオ・デ・カストロ・マイエル (Antonio de Castro Mayer) 司教に会った。そのブラジル司教はルフェーブル大司教を、自分の仲間と同時に同胞であるジェラルド・デ・プレンサ・シガウド (Geraldo De Proenca Sigaud) 司教に紹介したが、彼はジャカレジノー (Jacarèzinho) の司教であって直ぐにディアマンティナ (Diamantina) の大司教になるはずだった。はじめからシガウドは公会議における進歩的な「過半数」に幾らかでも抵抗するにことができるような分散した勢力を統合する決意であった。

BISHOP ANTONIO DE CASTRO MAYER


 1934年、二人ともサン・パウロ (Sao Paolo) の大神学校で教授だったデ・カストロ・マイエル (de Castro Mayer) 参事会司祭 (canon) とシガウド神父とは、プリニオ・コレア・デ・オリーベイラ (Plinio Correa de Oliveira) が編集する聖女チェチリアのマリア会 (Marian Congregation of Saint Cecilia) の公式機関誌であるオ・レジオナリオ (O Legionario) 誌に寄稿し始めた。

 左派及び進歩主義がブラジル・カトリック・アクションに浸透して入って来ることに対して争おうとプリニオが著わした或る本【当時、大司教総代理であったデ・カストロ・マイエル参事会司祭は、大司教の印刷許可(imprimatur)をこの本に与え、将来枢機卿となる教皇大使アロイジ・マセッラ (Aloisi Masella) はこの本の序言を書いた】を彼らが支持すると、デ・カストロ・マイエル (de Castro Mayer) 参事会司祭 (canon) とシガウド神父とは両者とも (それぞれ 1945年 2月と 1946年 3月に)、制裁を受けた【大司教総代理であったデ・カストロ・マイエル参事会司祭は、この大司教総代理職をを奪われ、田舎の小教区財務主任司祭となり同時にサン・パウロの教皇庁立カトリック大学の教授職を受けた。シガウド神父はスペインに追放された】。

 しかし、このことによって教皇大使アロイジ・マセッラ (Aloisi Masella) は二人の勇敢な司祭たちのために密かに介入することを止めたわけではなかった。ピオ十二世はシガウドをジャカレジノーの司教に任命し (1947)、デ・カストロ・マイエル参事会司祭はカンポスの補佐司教に任命された(1948)。

 1951年、カンポスでは、デ・カストロ・マイエル司教は自分の著作物が掲載さられる月刊誌カトリシスモ (Catolicismo) 紙を創刊し、サン・パウロでプリニオ教授が指導する団体にこの新聞を任せた。1951年から 1967年までカトリシスモの青年団体はブラジルでその数がますます多くなった。ついに 1960年にはプリニオの指導の下に、「伝統、家庭及び財産保護のための会」(Society for the Defense of Tradition、Family、and Property) というブラジルの団体が生まれた。

 教授と二人の司教の押しがあったおかげで、カトリシスモ団体 (そして 1963年からは TFP 団体)は ‘グラルト (Goulart) 時代’の‘農地改革’の時、共産主義の試みを阻止するのに成功した。彼らは共産党秘密党員である大統領ジャン・グラルト (Joao Goulart) の失墜を引き起こした、理念的で霊的風土を造成した。ルフェーブル大司教は後にこう言った。「私たちは TFP がブラジルを共産主義から救ったことを認めなければならない」と。

 一方 1962年、カトリシスモ団体は公会議が展開される様相を現場で見守るために、ローマに事務所を調えた。従って、ルフェーブル大司教はブラジルの二人の高位聖職者が提案したように、公会議で自由主義思想に反対するために小委 (piccolo comitato) あるいは‘研究会’を構成しようという提案を、ルッフィーニ枢機卿の教えと歩調を合わせながら、受け入れた。

 彼らは聖霊司祭修道会本部のあるコルソ・ディタリア(Corso d'Italia) で会合を開き、ローマで開かれる公会議第一会期の間、公会議教父たちのための講演会や討論会を特別に組織した。

 1963年 4月 18日になってようやく、シガウド司教はルフェーブル大司教に手紙を書いて次の会期のために研究会を結成しようと提案した。5月 4日ルフェーブル大司教は慎重に慎重を期してまだ慎ましいこのプロジェクトに同意した。

 ルフェーブル大司教はソレム(Solesmes)の大修院から来た教父たちと個人的神学者の助け (公会議の規則が承諾したことに従う) の協力を得ることを確かなものとした。個人神学者には、他でもないヴィクトル・アラン・ベルト神父 (1900-1968) で、神学校で大司教の先輩であり、サンタ・キアラの卒業生だった。

 1963年 10月 2日或いは 3日、公会議の第二会期の初めに、シガウド司教がその会員である神言会 (Divine Word Society) 本部で、新しい勉強会の総会が召集された。彼らは、後には至聖救世主会 (Congregation of the Holy Savior) の本部に会場を移すことになるが、15人の公会議教父たちが、すなわち、シガウド司教 (秘書)、ルフェーブル大司教 (議長) 及びソレムの大修院長であるドン・ジャン・プルー (Dom Jean Prou) などと出会った。

 このグループにはまだ名称がなかった。小規模の委員会は、ルフェーブル大司教、シガウド司教、ベルト神父、そしてソレムの修道院院長と同時にドン・プルーの個人神学者であるドン・フレノー(Dom Frenaud)を構成員として形成された。


 10月 8日、20人で構成された団体は、ルッフィーニ枢機卿の講演を聞こうと集まった。翌日、公会議の第四十四次総会の時、シガウド司教は公会議会場(aula)で演説し、教会に関する新しい概要にある司教団体主義に関する章 (12, 13, 16番) を攻撃した。それは、これが「新しい教え」を教えているからだった。

 彼が自分の席につくと、彼を祝うルイジ・カルリ (Luigi Carli) 司教からのメモが回って来た。その後、シガウド司教はカルリ司教をルフェーブル大司教に紹介した。ルイジ・カルリはイタリア司教評議会 (Italian Bishops' Conference) の神学者の一人だった。彼は満場一致で公会議で最高の神学者で認められた。それだけ皆が彼を敬い畏れていた。彼は 10月 15日、教父たちの集まりに招かれ、彼らと合流するのに同意した。それは、特にユダヤ人たちからキリストの死に対する責任を取り除こうとするベア枢機卿のプロジェクトに反対して自分の独立性を維持していたにもかかわらずそうであった。


 ルフェーブル大司教は後にこう説明した。「チェトゥス(Coetus)を生かす心臓は、秘書であるシガウド司教だった。前職の教皇使節であり修道会総長である私は議長役目の「公的な顔」だった。デ・カストロ・マイエル司教は副議長で、思想家だった、カルリ司教は有能で活気に満ちた精神とイタリア式ノウ・ハウを持った「文筆家」だった。」

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

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