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1945年8月9日のラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌を歌う乙女たちの歌声

2008年07月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。もうすぐ8月9日ですね。

 軍部(関東軍)は満州での事件(南満州鉄道の線路爆破)を切っ掛けに、天皇陛下に上奏することなく1931年に満州事件をおこしました。天皇陛下はこの報告を聞いて激怒しました。林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が、大命(宣戦の詔勅)を待たずに独断で越境し満州に侵攻したからです。関東軍参謀は、政府の決定を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大し、関東軍は5ヶ月の間に満州全土を占領しました。

【因みに「マオ(上)」(ユン・チアン著 土屋京子訳)によると、1928年6月4日の「日本による侵略の第一歩」とされる「(満州事変のきっかけとなった)張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたもの」(301頁)となっています。「GRU(ソ連赤軍情報総局)帝国(第一巻)」(アレキサンドル・コルパキディとドミトリー・プロコロフ共著)によると、エイティンゴンと共に張作霖の爆殺に「主要な役割を果たしたのは、ゾルゲの前任者であったサルニンであった」と書かれています。】

 更に血迷った軍部は、遂にアメリカと戦う決定を下しました。天皇陛下は東条英機にどんな犠牲を払ってもアメリカとの戦争は避けるべきとの旨を伝えましたが、菊の紋を戴く天皇陛下は、真冬の風を真っ向から受けた菊の花のように無力な存在でした。

 重村智計の義理の祖父である寺島健(てらじま けん)、日本海軍軍人で最後は海軍中将で退役し、日米開戦を決めた御前会議に東條英機内閣の逓信大臣として参列しました。寺島健は、戦後「天皇陛下に悪いことをした」と語り続け、「東条英機首相が嫌がる陛下に日米戦争の印を押させた」と明らかにし、「陛下は、最後まで日米戦争に反対だった」と語り続け、死ぬまで東条英機を激しく非難し続けました。寺島は、東條内閣の閣議に於いて開戦が決定された際に、昭和天皇の大御心があくまで開戦に反対である事を知る寺島は、此の決定に対し気を失いかけんばかりに愕然としたそうです。だから、東条英機らが靖国神社に祭られた後は、天皇陛下は靖国参拝をしなくなったのです。

 日本軍は必死に戦いましたが、その甲斐もなくタラワ、ビアク空港、サイパン、テニアン、グアムなどが強力なアメリカ軍のもとに陥落しました。

 サイパン島は1944年6月、三万人の日本兵と二万二千人の一般人を死に追いやった末、占領されました。巨大な空軍と海軍に支援されたアメリカ海兵隊もまた一万四千人以上の兵士を失ったのです。6月13日にアメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する空襲。戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊が砲弾合計18万発もの艦砲射撃がまずありました。16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊(44輌)含む約8000名が総攻撃を開始しましたが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発という米軍の圧倒的火力によりほぼ全滅しました。7月には、日本軍は完全に追い詰められ、残存部隊約3000名の総攻撃によるバンザイ突撃が行われました。多く者が自決していきました。

 1944年8月14日には、一般動員条例が通過し、13歳から60歳までの全ての女子は侵略してくるアメリカ人と戦おうと竹槍訓練の義務が課せられました。

 1945年2月、アメリカ海兵隊が映画でも最近話題になった硫黄島への上陸が開始されました。3月17日米軍が島を制圧して、日本軍の部隊が多数玉砕しました。3月21日になって、大本営は17日に玉砕したと発表します。

「17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。

 3月26日、硫黄島では栗林忠道大将以下300名余りが最後の攻撃を仕掛けて玉砕し、日本軍は2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死しました。

 次に、アメリカ軍は沖縄の島を軍艦で包囲し(機動部隊、戦艦、上陸用舟艇、病院船などふくめて約1.300隻にも上った)、思う存分に艦砲射撃しましたが、占領するのに3ヶ月かかり1万2500人の犠牲者を出していました。

 もしも戦争が続いていたならば、アメリカ軍は出来る限り日本の大都市を取り巻いて海から艦砲射撃を浴びせたでしょうし、もしもアメリカ軍が沿岸の平地に上陸したなら、国民は山から山へと後退するでしょうし、アメリカ軍も何年も戦い続けたでしょう。幾百万の死者が出ることも予想されました。その当時、日本人であれば、自決をしてでもたとえ民族が滅亡しようとも、天皇陛下の処刑という不敬きわまる事態による日本全面降伏を避けようとしたことでしょう。


 長崎に原爆が投下された1945年8月9日の真夜中ごろ、長崎大学病院放射線科の小笹富子看護婦たちは、ラテン語で聖歌を歌っている女声合唱を聞きました。小笹富子看護婦たちはその時、疲労のために誰が歌っているか確かめることが出来なかったのですが、翌朝歌声が聞こえたあたりを通りかかると、常清(じょうせい)修道院の27名の修道女たちの半裸の死体がありました。(常清修道院はフランス系の「幼きイエズス会」の女子修道院で、常清高等実践女学校を運営していました。修道院は、浦上天主堂近くの上野町にありました。)

「苦悶の中で絶命したに違いない27人の修道女たちは、近くを流れる小川のほとりで身を寄せ合い、歌いながらこの世から去っていったのでした。」(ポール・グリン『長崎の歌』260ページ)

「その夜、一晩中美しいラテン語の讃美歌の合唱がとぎれとぎれに聞こえてきました。夜が明けてみると、学園の運動場の草むらの中に、7、8人の修道女がひとかたまりになって、手を取り合い冷たくなっていた」(瓊浦女学校『白夾竹桃の下』田崎光枝)。

 永井博士の妻である緑さんがかつて教えていた純心女子学園の女性徒たちの多くは、1945年8月9日の朝は時津や三ッ山にある工場に学徒動員で働きに行っていました。

 長崎純心聖母会の初代学園長であるシスター江角ヤスは、空襲が激しくなったころから毎日校内全員に聖歌を合唱させていたそうです。

 忌まわしい原爆で、ある生徒は即死し、生き残った者も裂傷を受けたり赤外線で大火傷を負ったり苦しんでしました。ほとんどの者が酷い怪我をしており、多くの者はそれから数日後には躯となる身でした。しかし、彼女たちは歌い慣れた聖歌「み母マリア 身も心も とこしなえに 献げまつる」を一節一節歌いながら励ましあい続けて死んでいったのです。

(純心学園と永井隆博士については、純心学園と永井隆博士のウェッブ・サイトの記事をご覧下さい。)


みははマリア(#305)

1 み母マリア 身も心も
とこしなえに 献げまつる

朝な 夕な 真心もて
君をのぞみ 慕いまつる

みめぐみこそは きよき慰め
輝かしき 君がかむり

うるわしき 君がえまい
ああ我ら深く 慕いまつる



 永井博士は、8月9日の雨と太陽の黒とこれらの童貞女たちの歌声と、ヨハネの黙示録の太陽の黒と「百衣の童貞女たちの歌声」を思い出し、こう詠ったのでした。


燔祭の焔の中にうたひつつ
白百合おとめ燃えにけるかも

Vierge comme le lys blanc,
Consumées dans les flammes
En sacrifice d'holocauste
Elles chantaient.


(From Requiem pour Nagasaki, pages 215-216, traduit de l'anglais par Jean-Marie Wallet)


(この歌は、長崎市文教町に1949年5月30日建立された「慈悲の聖母」像の足台に刻まれています。)


 9日、宮中において開かれた最高戦争指導会議が午前10時から断続的に開催されました。10日午前0時から宮城内御文庫地下の防空壕において、鈴木首相は天皇臨席の御前会議として再度、最高指導者会議を招集し、この御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定されました。

 しかし、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こりました。

 8月12日、午前0時過ぎ、不満を持つ将校達は多く、阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は、阿南に終戦阻止を求め、更にそれが無理であれば切腹せよと迫っていました。

 陸相の6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)はクーデター計画し、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すること目ざしていました。

 8月14日、鈴木首相は陸軍の妨害を排するため、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集しました。会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会されたのです。

 昭和天皇による終戦の玉音放送の録音は午後11時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤は徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管されました。

 しかし、戦争を継続しようとする一部の軍人たちは、玉音放送の実行を防ぐ為に、日比谷の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊を派遣し、クーデターを起こそうとします。午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止の為にスタジオに乱入しようとしましたが、幸いにも、すぐに取り押さえられ憲兵に連行されました。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が行われ、戦争は終結しのです。

 1939年に中国において全面戦争が始まってから、1945年8月15日に平和が訪れるまでの間に、247万人の日本人が亡くなっていました。167万人が軍隊で、28万9000人の民間人が満州、朝鮮、沖縄などで、50万9000人が本土空襲で亡くなったのです。

 ほとんどの日本人が、家族、親戚、友人の死の苦しみに遭い、負傷や家の焼失、財産や生計の当てを失うなどは、いちいち挙げるまでもありませんでした。前途は荒涼たるもので、モラルは地に落ちました。そのような状況の中で、多くを失いつつも、なお人生を楽観視しようとした人物、永井隆がいたのです。永井博士、感謝します。

 日本と世界の平和のために、天主の御母聖マリア様に、敵を赦しつつ、1945年8月9日の夜、ラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌を歌って亡くなっていった童貞様(シスター)たち、女学生の乙女たちに、感謝します。

 私たちも、日本と世界の平和を作った、このラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌とを大切に歌い継ぐことを約束します。

 天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

 聖母マリアよ、ああ我ら深く慕いまつる!

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