I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言
“発言することは私の義務だった”
「私は他の司教たちよりももっとたくさん発言したが、発言することが私の義務だったと思っていた。」
この言葉で、ルフェーブル大司教は自分が公会議で公に介入に出るようになった精神的状態を説明した。開会式の後、十日しかたっていない 1962年 10月 20日、ルフェーブル大司教は教父たちの承認を得ようと提出された「万人に送るメッセージ」に直ちに反応した。
「これについて吟味するために十五分の時間が私たちに与えられました。何らかの修正を加えたいと望む人々は、電話で公会議事務総長に連絡し、その発言を書き、事務局の呼び出しを受けるとマイクに立たなければなりませんでした。
このメッセージは、全く人間に向かってそして人間の中に、特にこの世のものへと向かい、無神論者であろうと信仰者であろうと全ての人間を一致させるというテーマを求めている宗教という概念、不可避的にユートピア的でありリベラルな精神によって息吹を受けて作られていることが私に直ぐに分かりました。」
有益と思われるならば自分自身が発言するという決心に忠実であったルフェーブル大司教は、発言するのを自ら要望して、マイクで、次のようにメッセージの内容自体を批判した。
「このメッセージは特に人間的で地上的善のみそして霊的で永遠の善はほとんど考察していません。 このメッセージは地上の国の善を特に重要視し、私たちがそれに向かっており私たちがそれへのためにこの地上に存在している天上の国についてはほとんど無視されています。」
ルフェーブル大司教は後に、この教皇メッセージの精神を攻撃してこう解説した。
「私はそのメッセージを起草した者たちと対立していたのであって、会議が終わったのち、ルフェーブル枢機卿によって苦々しいコメントが私に寄せられました。おそらくコンガール神父のようなフランスの顧問たちが起草したこのメッセージを、彼が取り仕切っていたのでした。」
この最初の小戦闘は、大司教の闘いの剣を研ぎ澄まさせるだけだった。
闘いは 10月 30日にさらにあったが、信仰の守護者であるオッタヴィアーニ枢機卿が公会議会場で制限時間を越すと、総会の座長をしていたアフフリンク枢機卿が、マイクのスイッチを切れと指示した。辱められた年老いたこの勇士は、反対者たちの揶揄の拍手喝采の中を座席に戻らなければならなかった。
ルフェーブル大司教はこの事件に憤慨し、以前にも増して更に強く発言する決意を固めた。彼は 1987年にその理由を次のように詳しく説明した。
「私は他の司教たちと同じように行動しない、ということを探していたのではありませんでした。全く違います。幾つかの原則に従って、すなわち歴代教皇たちがあらゆる回勅と書簡とを通して詳しく説明したその原則の路線に沿って、私が反応するように導いてくれたローマのフランス神学校で受けた養成の結果だと思っています。私はこの精神において行動したのです。私たちの主イエズス・キリストキリストが社会を統治するように、カトリック社会を建設するという精神で行動したのでした。」
「公会議が開かれると、すべての宗教が思いのまま自らを表現する自由があるように、このリベラルなエキュメニズムの精神のために、私たちの主イエズス・キリストの社会統治について考えることをほとんど止めなければならなくなりました。もちろん、この時、私はそのようなことを絶対に受け入れることができなませんでした!」
「驚くことは、私と共に神学校で勉強していて、司教になったすべての人々の中で、多くの人々がこれをまったく受け入れてしまったということです。
アンセル (Ancel) 司教、ガロンヌ大司教、ルブラン (Lebrun) 司教、ミション (Michon) 司教、等々。彼らは皆、熱心な擁護者だった。幾人かは私などよりもずっと熱烈に、教皇たちのしている闘いに、教会のための闘いに加わろうと考えていたのです。彼らは神学校で、いまでも名を留めている素晴らしい講演をしていたのです。しかしフランスの司教と任命されると、リサイクルされ、自由主義及び自由主義の命題にまったく身を売ってしまったのです。残念なことです。私の生涯で一番悲しい事の一つです。」
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