アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
十月六日は、今年の十一月二十三日に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。
六条河原にある元和のキリシタン殉教碑:
1619年10月6日の夕暮れに、京都六条河原で火あぶりの刑にて殉教した五十二名の殉教者を記念する殉教碑。1994年7月26日に建立された。
それは一六一九年十月六日、日曜日の午後のことでした。将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の上洛によって、突然、キリシタンたちの処刑が決定され、男女幼児を含む五十二人が十一台の大八車に乗せられ、見せしめのために主な町中を引き回された後、大仏と相対する賀茂川の六条河原の刑場へと連れて行かれました。
この大仏とは豊臣秀吉が奈良の東大寺の大仏に倣い、奈良より大きく立てられたもので、後に落雷に遭い、また炎上し大仏殿など全て消失、現在残っているのは豊臣家滅亡の口実となったという巨大な釣り鐘だけです。【一五八六年、天台宗の寺として建てられた方広寺(ほうこうじ)に一九メートルほどの木像の巨大な仏像があった。方広寺の境内にある釣り鐘の上部には「国家安康」また「君臣豊楽」という祈願の言葉が刻まれている。この八つの文字は今では白く囲まれている。徳川家康は、家康は引き裂かれていくことによって豊臣家は栄える、という意味だと因縁を付けた、という有名なエピソードがある。】
この大仏の前の河原の刑場へ向かう道々、大八車を先導する役人が大声で「これらの者は将軍が禁じているキリスト教を信じていたから火あぶりの刑で殺されるのだ」と叫ぶたびに、「はい、私たちはキリシタンです。天主のために命を捧げます」と声高らかに答えるのでした。
その顔は、まもなく天主に出会える喜びで皆一様に輝き、その様子を見る見物人たちは彼らの深い信仰に称賛を送るのでした。
刑場には、キリシタンたちの家を取り壊して集められた梁と薪が二十七の大きい十字架の、それも聖堂に飾るような美しい十字架のもとに高く積み上げられておりました。・・・
秀忠の命を受け、火あぶりの刑を実行することになったのは、京都所司代、若かりしころ僧侶であった板倉勝重(いたくらかつしげ)で、宣教師の友であった彼はキリシタンたちに大変好意的で、通常火あぶりの刑では残酷な苦しみを与えるために遠火(とおび)で行っていましたが、彼らが決して棄教しないことを確信していた勝重は、可能な限り苦痛を最小限に抑えるべく、猛火での火あぶりを決行することにしたのでした。
役人たちは、各十字架に二人づつ背中合わせに縛っていきました。両端の十字架には男たちが、中程の十字架には女性とその子供達が付けられていきました。
ジョアンの妻マグダレナは、二才の娘レジナを、
マリアは娘のモニカを、
マルタは二才の息子ベントを、また、
他のマリアは息子シクストと、
マシアは三才の娘ルシアを胸に懐いて十字架に付けられたのでした。
また役人から許してやろうと結われた牢中で盲目になったマルタは「お母さんとともに殉教したい」といって母のルフィナに抱かれて天国に召されるのを待っていました。
最も多くの人々の涙を誘ったのは、この殉教者たちのリーダー格であったジョアン橋本太兵衛の身重の妻テクラと五人の子供達の姿でした。テクラは逮捕はされていましたが、家にいることを許され、処刑決定の日に牢に行き、皆とともに一緒に刑場へ連れて行かれたのです。
殉教のためにと用意していた「きぬかずき」という衣を頭からかぶって十字架のもとへと歩むテクラのその気高さは、見物人たちの心を打たずにはおれませんでした。
テクラは三才の娘ルイサを懐き、右脇に十二才のトマ、八才のフランシスコを左に十字架に付けられました。六才のペドロと十三才のカタリナは隣の十字架に付けられました。
十字架に火が付けられ夜空が炎で煌々と照らされる中、殉教者たちは祈りを、また、賛美歌を歌い始めました。
「もう私は目が見えない」というカタリナに、「イエズス、マリアの聖名を唱えなさい」と母テクラは答えるのでした。
なお、橋本家の長男ミゲルは不在故に逮捕されませんでしたので、後に自分も家族とともに殉教したいと願い出ましたが受け入れられず、逆に家督を守るように諭され、家に帰って行きました。
猛火ゆえに処刑は早く終わりましたが、何も恐れず信仰を証(あかし)したキリシタンたちの、特に親たちとともに逮捕され十字架に付けられた十一人のけなげな幼子たちの殉教の光景に、その場にいた多くの人々は涙と悲しみとともに、その崇高さ、勇敢さを讃えたのでした。
その夜、京都のキリシタンたちは、約三十数名の殉教者たちの遺体を殉教地近くに密かに埋葬しましたが、彼らがどこに葬ったかは今となっては知るよしもありません。
ただ、三百九十年前のこの京都の大殉教を静かに目撃したあの巨大な釣り鐘を除いては。・・・・
【「心のともしび」(2007年6月590号)マクドナル神父の記事を参考にしました。】
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廬山寺
その昔、紫式部が「源氏物語」「紫式部日記」などを書いたと伝えられている廬山寺(ろざんじ)には、キリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓があります。
有馬晴信(1567年 - 1612年)は、1580年にカトリックの洗礼を受け、有馬城下にセミナリヨ(カトリック司祭養成の神学校)を作り、1582年、大村純忠、大友宗麟とともにローマへ天正遺欧使節を送っています。
ジュスタは後陽成天皇の正室の妹で、今出川の公家である菊亭に嫁ぎますが、その後、小西行長の計らいで有馬晴信と婚姻したのち受洗します。有馬晴信は、1612年に甲斐に流されて処刑されて命を落としますが、晴信の死後ジュスタは菊亭家にもどったらしく、墓碑に菊亭家と刻まれています。
上京区寺町通り広小路上がる:廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓
廬山寺の中を歩く
廬山寺
【推薦サイト:関連サイト:参考資料】
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京都市内キリシタン遺跡 案内
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京都のキリシタンの史跡:二十六聖人発祥の地、フランシスコの家(キリスト教文化資料館)
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被昇天のしるしのもとで. 日本におけるカトリックの歴史
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聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第385号)
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聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第387号)
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京都の大殉教
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日本188殉教者名簿
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十月六日は、京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日
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SSPX ASIA Newsletter May-Sep 2007