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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母マリア様の凱旋のため一環

2009年05月01日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は勤労者聖ヨゼフの祝日です。先日、ヨゼファさん(仮名)から、天主の御母聖マリア様の汚れなき御心の凱旋のためのロザリオとして、一環を捧げたという報告がありました。

 愛する兄弟姉妹の皆様からの寛大なご参加をお願い申し上げます。

 愛する兄弟姉妹の皆様のご意向のために祈りつつ。天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第二バチカン公会議は、教会をどのように新しく自己定義したのか?【3】教会内部構造

2009年05月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、どう自己規定をしたのか、
 まず、外部に目を向けて
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して第二バチカン公会議の文献に見えるエキュメニズムを分析、そして教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い

 をみました。

 次に、内部に目を向けて
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?という点を考察してみます。

 そこで、今回は、第二バチカン公会議の教会は自分自身をどのように新しく規定したのかを考察してみましょう。

【交わりとしての教会】

 第二バチカン公会議は、外部に対しては、教会は「秘跡」であると規定したが、内部に対しては、教会は【3-1】そのあり方(esse)として「天主の民」、また【3-2】その動き方(agere)として「交わり:コムニオ」であると規定している。

 聖ペトロは教会のことを司祭民であると呼ぶ(1ペトロ2:9-10)。
 第二バチカン公会議の新しい神学は、天主の民は司祭的であるのみならず司祭であるという。第二バチカン公会議によれば、キリストの司祭職は全教会に属している。

 神の民の全てが、キリストの唯一の司祭職に参与する。この共通祭司職を前提となければ、司祭の役務が存在しない。

『司祭の役務と生活に関する教令』 Presbyterorum Ordinis 第1章 教会の使命における司祭職
 2 (司祭職)「父が聖化して世に派遣した」(ヨハネ10:36)主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせる。それゆえ、からだ全体の使命に参与しない構成員は一つもないのであって、各構成員は自分の心の中にいるイエズスを聖なるものとして扱い、預言の霊によってイエズスのあかしをたてなければならない。


『カトリック教会のカテキズム』
「1591 教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。 」

 すべての信者が聖なる王的司祭職(原文では単数)になり天主に「霊的供え物」を捧げる、これこそがキリストの司祭職への参与である。そして司祭は、すべての信者が「霊的供え物」を捧げることが出来るように、信徒のこの共通司祭職への奉仕のために、職位的司祭職を受ける。主体はあくまでも神秘体であり、主要な行為はすべての信者が一つになって霊的供え物を捧げることにある。この手入れ記供え物とは、この世をより一層人間らしくすることである。何故なら、人間は天主の似姿であるからより人間らしくなることはより天主らしくなることであるからだ。

 人類は全て、天主によって、完全な自由という天主の似姿を充足させる天主の国に属するように選ばれている。全人類は、兄弟愛(博愛)へと導く自由と平等という人間の価値が進歩することによって、人間がより人間らしくなることによって、天主の国に準備される。キリストは人間をより人間らしくするために人間となり、人間としてのキリストは、教会を制定した。人間をいっそう人間らしくするという人類の進歩促進のためにある教会は、天の国を先取りする特別な宗教的・司祭的召命をもった人々の集まりである。

 聖霊は、復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。教会とは「神との親密な交わりと全人類一致の秘蹟」だからである。

 今までのいけにえを捧げる司祭(A)といけにえを受けていた平信徒(B)との関係は、第二バチカン公会議によれば「聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせるべきすべての信者」(A')と、「聖霊によって復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性を提供されているすべての人(B')」との関係とパラレルになる。

 つまり、平信徒(B)の全てが司祭(A)になるとは限らなかったように、「聖霊によって復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性を提供されているすべての人(B')」の全てが必ずしも「聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせるカトリック信者」(A')となるわけではない。なぜなら、全人類は知っているといないとに関わらず、キリストと一致しており、復活秘義(過越の神秘)に与っており、新しい教会の一員であるからである。

 聖伝によればカトリック教会は、この世を、肉欲と悪魔と共に、救霊の3つの敵(三仇)の一つと呼んでいた。

 第二バチカン公会議によればこの世を軽蔑する必要はない。むしろこの世を愛さなければならない。

『現代世界憲章』40
「教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

 第二バチカン公会議後の語彙からは、「司祭職」は消えつつある。叙階された司祭職は、むしろ「奉仕職(ministry)」と呼ばれ、平信徒の共通司祭職は「交わり:コムニオン」と呼ばれる。

 共通司祭職の役割は、この世そのものを天主に奉献しこの世を「暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力」を、この世に告げ、ついにはこの典礼というしるしのもとに神の子らを一つに集めるべきである。集会祭儀と呼ばれるミサは、キリストをのべ伝えるためのもの、神の民を一つに集めるものである。叙階を受けた新しい司祭職の第一の直接の目的は、教会を建設するという共通善への奉仕である。集会祭儀と呼ばれるミサは、目的のための手段、共通善への奉仕のための単なる手段に過ぎない。

『司祭の役務と生活に関する教令』12
「司祭は叙階の秘蹟によって司祭であるキリストの姿に似た者となり、キリストのからだ全体である教会を建設するために、司教団の協力者として、かしらであるキリストの役務者となる。

 昔からの聖伝によればカトリック司祭とは、天主と人間との仲介者である。
 そこで第二バチカン公会議の「新しい司祭職」(=第二バチカン公会議後の新しい教会全体)は、天主と全人類との仲介者となる。この世と全ての文化をより人間らしくし、人間に栄光を帰することは、天主を礼拝することである。何故なら、人間は天主の似姿であるからだ。

『現代世界憲章』40
教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

【交わり:コムニオ】

 中世の教義主義はギリシア・ローマの神学を主張して教会を分裂させた。中世の教義主義に変わって、エキュメニズムがその場所を占めなければならない。

 教会内部において、教義において論争をすることなく平和的な共存があるために最も便利な表現が「交わり」である。

 全ての意見は自由である。この様々な意見を一つにするのが「対話」であり「分かち合い」である。教会の教義を教えるのではなく、じっくりと聞くことが大切。自分が話すことよりも、相手の思いを聞くことの方が大切。「対話」され「分かち合われた」ことは、ありのままに受け止め、批判や評価などはしない。分かち合った心の思い(心情・信条)は、大切に尊重しなければならない。「対話」或いは「分かち合い」は、お互いの口を通してキリストが語っていることであり、その場にキリストが共にいて下さることを感じ取らなければならない。全ての人間を尊重し彼らと対話することによって一致をもたらすようにする。

 聖伝によればカトリック教会の一致の源は信仰の真理であった。

 第二バチカン公会議によれば、対話が人類を交わりにおいて一致させる。

 聖伝によればカトリック教会は、宣教をもって霊魂たちを教会の内部に入れた。

 第二バチカン公会議によれば、対話によって多様性を尊重しつつ全ての人間は一致する。対話において、だれも間違っている人はいない。全ては互いに補い合う。悪は善の役に立つ。


『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。

 第二バチカン公会議後の典礼改革の「第一の原理は、教会の典礼における「過ぎ越しの神秘(復活秘義)」の現実化である。」(ヨハネ・パウロ2世、1988年12月4日 « Vicesimus quintus annus », ヨハネ・パウロ2世、第2バチカン公会議の「典礼憲章」の発布25周年 Documentation Catholique 1985, 4 juin 1989, p. 519) 過ぎ越しの神秘(復活秘義)によれば、天主は、ご自分を犠牲にしても人間を栄光化する債務を負う。感謝の祭儀では、会衆が集まるや否や、復活したキリストはそこに現存される。新しいミサでは、人間の手による労働の実りをささげることにより、人間の労働に栄光を帰し、貧困と暴政(エジプトの奴隷状態)から開放され自由となったことを感謝する。

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
(新しいミサの総則7)

 新しい神学によれば、ミサは、主の十字架から復活への過越の記念であって、復活したキリストとの出会いが体験される場である。ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではなく、会衆である。司祭の権威に取って代わるのは、集会(会衆)である。新しいミサは位階制度的なものではなく、民主的である。権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことの表明である。新しいミサは、まず、人間の栄光のために捧げられる。

 「教会においてわたしたちは復活したキリストと出会うことができるのです。」(『カトリック教会の教え』167ページ)

 「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神との交わり、『ともに生きる喜び』を体験し分かつ場にしていかなければなりません」(第一回福音宣教推進全国会議課題発表に際しての司教団メッセージ)

 「【聖体によって】ともに主キリストのからだにあずかることによってもたらされるいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、未来の栄光の保証が与えられる復活の祝宴でもあります。・・・聖体拝領(コムニオ)は、その聖体が食されて神の力が働き、そこに復活したキリストが現存し、人がキリストと出会うことができる、という恵みの現実を現しています。」(『カトリック教会の教え』209ページ)

 司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団である。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会であり、今後、教会を動かすのは、数となる。そして、そのことは新しいミサのなかで明らかに表明されている。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからである。司祭は、会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしない。
 第二バチカン公会議によれば、聖書も、その意味で、信仰の体験を言葉で表したもので天主の神秘を追体験させる救いの「秘跡」となる。新しいミサ典書では、「教会の教導職によって告げられる限りにおいての聖書」でもなく、キリストが(教会の教導職を代表する)役務者が教えるという行為の中に現存するのでもなく、仲介者を抜きにキリストご自身が現存することになっている。

「聖書が教会で朗読される時には、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して、福音が告げられる」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

「聖書朗読による神のことばは、すべての時代のすべての人に向けられ、すべての人が理解できるものである」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

 だから、ルフェーブル大司教はこう言った。

新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している。この新しい信仰は、私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージである。・・・

 新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としている。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明である。新しい典礼は、別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品である。新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書がある。
・・・

 私たちは今、本当に劇的な状況にいる。私たちは、選ばなければならない。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかを。教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ない。それは不可能だ。私たちは、信仰を捨てないことを選ぶ。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからだ。なぜなら、教会が2000年間教えてきたからだ。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえない。・・・

 だから、私たちはこの聖伝にしがみつく。聖伝は、素晴らしく、決定的に、教皇聖ピオ5世がうまく言ったように決定的に、ミサ聖祭において表明されているからだ。


主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
聖ヨゼフ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

【関連記事】
聖伝のミサと新しいミサ

霊操の黙想会

2009年05月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こちらマニラでは、先週15名の女性のために、今週は9名の男性のために聖イグナチオの霊操を指導しております。

 良き霊操のためにお祈りをお願いいたします。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】