アヴェ・マリア!聖霊来たり給え!
愛する兄弟姉妹の皆様、
最近の非公開のコメント、慰労のお言葉、励ましの言葉などをありがとうございます。感謝しております。
この頃、「小さくされた」という言い回しについて考えています。私の思うには、小さく「された」ということは、本当は大きくあるべきだ、大きくあるはずだ、しかし不当に、不正に、小さくされてしまったということを意味しているようです。
ただ単に何かが小さいという現実を認めるのではなく、わたしの主観によればもっと大きくあるべきだ、しかしこれを小さくさせる現実がある、これに対して、わたしの思い通りに合わせることを要求する、ということを暗示しているです。
わたしがわたしの思いを現実に合わせるよりは、現実がわたしの考えや理想や思いに合わせるべき、そうなるように戦う、闘争する、という意味だと思います。
この「小さくされた」ということが、本田神父のいうように経済的側面に限定されると、「搾取された」という意味になるでしょう。
問題は、もしも私の理解が正しいとすると、小さく「された」と思う人はすべて正しい、彼らが信じているように、「悪しき」現実を変えるべきだ、妥協の余地はない、ということにあると思います。だから本田神父によると、天主は小さい人々にではなく、小さく「された」人々にだけいる、ということになるのだと思います。(しかし本当は、天主は、義人にも悪人にも雨を降らせ給う。)
もしも、本田神父が言わんとすることが、天主が小さく「された」人々にのみいる、だから小さくされた側について闘う、ということを意味しているとすると、それは自らを小さくされた側にあるとすることです。しかし、自らを小さく「された」側だと認識することは、自分は実は「大きくあるべき」だ、と認識することです。
もしもそうなら、その瞬間に、天主は小さくされた人々にいるという恵みを給わないでしょう。なぜなら、天主は自らを高める者を低くし、自ら低くする者を高めるからです。
小さな人たちには、本当に「搾取された」場合もあるでしょう。不当に取り扱われた場合もあるでしょう。例えば聖香ちゃんの場合のように。或いは、ひざまづいて口で聖体拝領をするという正当なことを拒否されてた場合のように。決して廃止されていなかった聖伝のミサ聖祭を捧げていたがために不当な取扱いを受け村八分にされている場合のように。正しいことをしているのに排斥され、蔑まれる場合があります。
しかし、すべての小さな人たちが必ずしもすべて搾取されたわけではないのです。すべて叱られている子供が犠牲者ではありません。
また、もちろん、いじめられている子供、学生たちがいます。成績が悪いから、運動神経が鈍いから、空気を読めないから、おまえなど要らないという陰湿ないじめが存在しています。少し皆と違っているから、ちょっと皆と馴染めなかったから、という理解で、あるいは嫉妬や妬みでいじめが起こり、いじめを受けた子は不登校になって、行き場を失ってしまい、野宿をしたり、路上生活をしたりして、どんどん行き場を失ってしまう学生たちもいます。自分が誰からも必要とされていない、と思い込んで自分を追いつめてしまう方々もいます。自傷したり、時には自殺まで追いつめてしまう方々がいます。
不景気なので、本人の過失がなかったにもかかわらず、就職できず、仕事が無くて自分に生きる価値が無いと思い込んでしまう方々もいます。就職難で鬱病になってしまう方々もいます。正社員でも過労で、過労死寸前の方々もいます。
しかし、いじめを受けた「聖香ちゃん」たちを救うという理由で、いじめたお母さんや「お父さん」を皆で非難していじめても解決にはなりません。学校の先生を皆で責めていじめても、本当の解決にはなりません。行政を責めていじめてみても、いじめは無くなりません。
「小さくされた」という表現に、俺は全く正しい、回りがすべて悪い、というニュアンスがあるように思えます。誰かが悪いから、誰かのせいで、小さくされた、という暗黙の理解があるように思えます。
でも、原罪を持って生まれた私たちですから、どのような素晴らしい修道院であれ、聖なる方々が集う王家であれ、小さな人はいるでしょうし、苦しいこともつらいことも屈辱的なこともあります。貧しさや無理解や誤解があるでしょう。
もし私の理解が正しいなら、私たち人間について小さくされたという表現を使うことによって、単純な被造の人間の「小ささ」が見失われてしまうと思います。人間のすべての苦しみに怒りを抱くようになってしまうと思います。天主様が私たちに対して求めている天主様に対する人間としての素直さや、謙遜、小ささが忘れられてしまうように思えます。
私たちは目の前で苦しむ「小さな人」たちを愛徳によって、私たちの力の範囲で、なんとかその苦しみから助けたい、苦しみを緩和したい、と思います。それが私たちの自然な情です。私たち皆が多かれ少なかれ天主様の御前では小さなものだからです。まして天主様はどれほど小さな霊魂を愛し給うでしょうか!
ところが「小さくされた」という場合、責任は誰だ?制度を変えよ、政権を交代せよ、システムが悪い、この地上を楽園にせよ!ということを想定しているように思えます。そして、この地上からすべての人間をして小さくさせるような要因を悪として取り除くように行動することを暗示しているようです。さらには人間をして小さくさせられることを許した天主に対する反乱さえ排除しないように思えます。
しかし自然界には競争があり、原罪の傷として怠惰や貪欲や嫉妬があり、また不運と幸運があります。小さくされたという言い方は、それを見失わせてしまいます。天主様の愛の御摂理を忘れさせます。私はここで、例えば、「ハンセン病を天主様に感謝、永井博士との出会いを天主様に感謝」と言った日原さんのことを考えています。「人にとりて尊いものは魂と 知らしめんために ライはあるなり」と詠った永井博士のことを考えています。「いじめられてよかった、ひきこもりでよかった、アル中でよかった、神様、僕をアル中にしてくれたことを感謝します」と言っている月乃さんのことを考えています。
さらにはこうも考えました。
本当の意味では、被造の罪ある分際の人間は、小さくされたとは言えないのかもしれない、と。なぜなら、小さくあるのが天主様の御前では当たり前、ある意味で小さいのが当然だからです。
本当の意味では、天主様だけが大きくあるべきお方です。「天にまします我らの聖父よ、聖名の尊ばれんことを!」と祈るように。
厳密に言えば、キリスト者にとって、天主様のみが栄え、私たちは身を屈めるべき者です。私たちの主イエズス・キリストこそ、人類の王として、その正当な主権と権利とが認められるべきお方です。
しかし、諸国は、このイエズス・キリストの権利を認めようとせず、イエズス・キリストを貶めております。イエズス・キリストは小さくされています。特に、アシジの精神により、私たちの唯一の主なる天主イエズス・キリストは、この上なく小さくされています。私たちの主イエズス・キリストの名誉と真理が不当に小さくされています。
そればかりではありません。私たちの主イエズス・キリストの母、天主の御母聖マリア様についても同様です。聖母マリア様が終生童貞であるという真理と事実が、一部の「カトリック」聖職者らのふざけた主張によって、疑問視され、歪められ、その名誉が不当に小さくされています。
問題は、私たちの一番大切な方のことが忘れられていることです。私たちの一番大切な方が、さらに小さく「されて」いることです。そしてこのことを誰も問題にしようとしないことです。
私たちは、私たちの主イエズス・キリストとその聖母マリア様の名誉が不当に小さくされていて、何でもないのでしょうか!? それで平気なのでしょうか!? 私たちは何もしないでヘラヘラしていて良いのでしょうか!? 聖霊来たり給え!信者の心に満ち給え!私たちを照らし、力づけ給え!
天主の御母聖マリアよ、我らを憐れみ給え!
聖母マリアよ、我らのために祈り給え!我らのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
最近の非公開のコメント、慰労のお言葉、励ましの言葉などをありがとうございます。感謝しております。
この頃、「小さくされた」という言い回しについて考えています。私の思うには、小さく「された」ということは、本当は大きくあるべきだ、大きくあるはずだ、しかし不当に、不正に、小さくされてしまったということを意味しているようです。
ただ単に何かが小さいという現実を認めるのではなく、わたしの主観によればもっと大きくあるべきだ、しかしこれを小さくさせる現実がある、これに対して、わたしの思い通りに合わせることを要求する、ということを暗示しているです。
わたしがわたしの思いを現実に合わせるよりは、現実がわたしの考えや理想や思いに合わせるべき、そうなるように戦う、闘争する、という意味だと思います。
この「小さくされた」ということが、本田神父のいうように経済的側面に限定されると、「搾取された」という意味になるでしょう。
問題は、もしも私の理解が正しいとすると、小さく「された」と思う人はすべて正しい、彼らが信じているように、「悪しき」現実を変えるべきだ、妥協の余地はない、ということにあると思います。だから本田神父によると、天主は小さい人々にではなく、小さく「された」人々にだけいる、ということになるのだと思います。(しかし本当は、天主は、義人にも悪人にも雨を降らせ給う。)
もしも、本田神父が言わんとすることが、天主が小さく「された」人々にのみいる、だから小さくされた側について闘う、ということを意味しているとすると、それは自らを小さくされた側にあるとすることです。しかし、自らを小さく「された」側だと認識することは、自分は実は「大きくあるべき」だ、と認識することです。
もしもそうなら、その瞬間に、天主は小さくされた人々にいるという恵みを給わないでしょう。なぜなら、天主は自らを高める者を低くし、自ら低くする者を高めるからです。
小さな人たちには、本当に「搾取された」場合もあるでしょう。不当に取り扱われた場合もあるでしょう。例えば聖香ちゃんの場合のように。或いは、ひざまづいて口で聖体拝領をするという正当なことを拒否されてた場合のように。決して廃止されていなかった聖伝のミサ聖祭を捧げていたがために不当な取扱いを受け村八分にされている場合のように。正しいことをしているのに排斥され、蔑まれる場合があります。
しかし、すべての小さな人たちが必ずしもすべて搾取されたわけではないのです。すべて叱られている子供が犠牲者ではありません。
また、もちろん、いじめられている子供、学生たちがいます。成績が悪いから、運動神経が鈍いから、空気を読めないから、おまえなど要らないという陰湿ないじめが存在しています。少し皆と違っているから、ちょっと皆と馴染めなかったから、という理解で、あるいは嫉妬や妬みでいじめが起こり、いじめを受けた子は不登校になって、行き場を失ってしまい、野宿をしたり、路上生活をしたりして、どんどん行き場を失ってしまう学生たちもいます。自分が誰からも必要とされていない、と思い込んで自分を追いつめてしまう方々もいます。自傷したり、時には自殺まで追いつめてしまう方々がいます。
不景気なので、本人の過失がなかったにもかかわらず、就職できず、仕事が無くて自分に生きる価値が無いと思い込んでしまう方々もいます。就職難で鬱病になってしまう方々もいます。正社員でも過労で、過労死寸前の方々もいます。
しかし、いじめを受けた「聖香ちゃん」たちを救うという理由で、いじめたお母さんや「お父さん」を皆で非難していじめても解決にはなりません。学校の先生を皆で責めていじめても、本当の解決にはなりません。行政を責めていじめてみても、いじめは無くなりません。
「小さくされた」という表現に、俺は全く正しい、回りがすべて悪い、というニュアンスがあるように思えます。誰かが悪いから、誰かのせいで、小さくされた、という暗黙の理解があるように思えます。
でも、原罪を持って生まれた私たちですから、どのような素晴らしい修道院であれ、聖なる方々が集う王家であれ、小さな人はいるでしょうし、苦しいこともつらいことも屈辱的なこともあります。貧しさや無理解や誤解があるでしょう。
もし私の理解が正しいなら、私たち人間について小さくされたという表現を使うことによって、単純な被造の人間の「小ささ」が見失われてしまうと思います。人間のすべての苦しみに怒りを抱くようになってしまうと思います。天主様が私たちに対して求めている天主様に対する人間としての素直さや、謙遜、小ささが忘れられてしまうように思えます。
私たちは目の前で苦しむ「小さな人」たちを愛徳によって、私たちの力の範囲で、なんとかその苦しみから助けたい、苦しみを緩和したい、と思います。それが私たちの自然な情です。私たち皆が多かれ少なかれ天主様の御前では小さなものだからです。まして天主様はどれほど小さな霊魂を愛し給うでしょうか!
ところが「小さくされた」という場合、責任は誰だ?制度を変えよ、政権を交代せよ、システムが悪い、この地上を楽園にせよ!ということを想定しているように思えます。そして、この地上からすべての人間をして小さくさせるような要因を悪として取り除くように行動することを暗示しているようです。さらには人間をして小さくさせられることを許した天主に対する反乱さえ排除しないように思えます。
しかし自然界には競争があり、原罪の傷として怠惰や貪欲や嫉妬があり、また不運と幸運があります。小さくされたという言い方は、それを見失わせてしまいます。天主様の愛の御摂理を忘れさせます。私はここで、例えば、「ハンセン病を天主様に感謝、永井博士との出会いを天主様に感謝」と言った日原さんのことを考えています。「人にとりて尊いものは魂と 知らしめんために ライはあるなり」と詠った永井博士のことを考えています。「いじめられてよかった、ひきこもりでよかった、アル中でよかった、神様、僕をアル中にしてくれたことを感謝します」と言っている月乃さんのことを考えています。
さらにはこうも考えました。
本当の意味では、被造の罪ある分際の人間は、小さくされたとは言えないのかもしれない、と。なぜなら、小さくあるのが天主様の御前では当たり前、ある意味で小さいのが当然だからです。
本当の意味では、天主様だけが大きくあるべきお方です。「天にまします我らの聖父よ、聖名の尊ばれんことを!」と祈るように。
厳密に言えば、キリスト者にとって、天主様のみが栄え、私たちは身を屈めるべき者です。私たちの主イエズス・キリストこそ、人類の王として、その正当な主権と権利とが認められるべきお方です。
しかし、諸国は、このイエズス・キリストの権利を認めようとせず、イエズス・キリストを貶めております。イエズス・キリストは小さくされています。特に、アシジの精神により、私たちの唯一の主なる天主イエズス・キリストは、この上なく小さくされています。私たちの主イエズス・キリストの名誉と真理が不当に小さくされています。
そればかりではありません。私たちの主イエズス・キリストの母、天主の御母聖マリア様についても同様です。聖母マリア様が終生童貞であるという真理と事実が、一部の「カトリック」聖職者らのふざけた主張によって、疑問視され、歪められ、その名誉が不当に小さくされています。
問題は、私たちの一番大切な方のことが忘れられていることです。私たちの一番大切な方が、さらに小さく「されて」いることです。そしてこのことを誰も問題にしようとしないことです。
私たちは、私たちの主イエズス・キリストとその聖母マリア様の名誉が不当に小さくされていて、何でもないのでしょうか!? それで平気なのでしょうか!? 私たちは何もしないでヘラヘラしていて良いのでしょうか!? 聖霊来たり給え!信者の心に満ち給え!私たちを照らし、力づけ給え!
天主の御母聖マリアよ、我らを憐れみ給え!
聖母マリアよ、我らのために祈り給え!我らのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)