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【参考資料】新しい裁判員制度
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんな記事を教えてもらいました。ご参考までにご紹介します。これを読むと、カトリック教会に関して言えば、次のことでとまどいがあると思われます。
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カトリック平信徒(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳による「教皇ベネディクト十六世の国連総会での演説(2008年4月18日)の中の表現によれば
「宗教者」、しかし一般には「信者」とか「信仰者」と呼ばれている)が裁判員になることが出来るのか、
あるいは、カトリック聖職者(いわゆる「宗教家」)が、裁判員になることが出来るのか、ということ。
■ 裁判員になることができるとすれば、死刑は制度として許されるのか、ということ。
■ もしも教会法が禁止する「聖職者の国家権力行使への参与」の規定に抵触するために、聖職者が裁判員になることが出来ないとすると、何故アメリカでは陪審員制度があるがアメリカのカトリック教会は何もそれについて発言していないのか? 「国家権力の行使への参加」とはどのようなことなのか? アメリカでは、聖職者が陪審員となっても、有罪か無罪かを判断するのみで刑の量を判断しないから国家権力の行使への参加にはならないのか? ということ。
報道によると、国民の過半数はアンケートによるとこの制度を不要に思っているそうです。 そこで、ふと思ったこと。
あくまでふと思ったことです。
◆ 「主権在民」に従うなら、新しい裁判員制度は、人が人を裁く権を持つという主権在民的民主主義の原理の適応にあるのではないでしょうか? 例えば人民共和国による人民裁判のように。
◆ カトリック教会では、聖職者と信徒の方々との区別がありますが、カトリックに対立するような人々は「反聖職者主義」を唱えてきました。万民司祭論という全てのキリスト者が司祭だという主張です。聖職者を不信し、平信徒を支配の側に立たせる、という考えです。
何か同じ構図で、公務員と市民という区別の中で、反公務員論に基づいて、公務員不信、民間の支配という考えに似ているのではないかと思いました。
このような構図が行き着くと、結局は、持てるものと持たないもととの対立という区別の中で反ブルジョワ論に基づいて、プロレタリアの支配ということに行き着いてしまうのでしょうか?
◆ カトリック教会で、第二バチカン公会議以後、聖職者の役割を平信徒にやらせるというのがあります。例えば、聖体を配る聖体奉仕者など。信徒の方々は嫌われていても、「平信徒の時代」(教会の民主主義化)ということで強制されています。
何か同じ構図で、一般市民に、不要だと思われていても、やりたくないと思う人が過半数でも、裁判員に偶然選ばれてしまうと、辞退できないという強制があることが似ているのではないか、とも思いました。
===以下は教えて頂いた記事の抜粋です。===
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神戸新聞NEWSから「人を裁くこと、宗教家の間で戸惑い 裁判員参加」
裁判員制度が始まり、宗教家の間で戸惑いが広がっている。「人を裁いていいのか」という悩みのほか、死刑判断に加われば、思想信条や教えに背くのではないかとの不安があるからだ。一方、市民に宗教家の意思を示せる好機ととらえ、積極的に参加すべきだとの意見も出ている。(三島大一郎)
「裁判員になるのは、やめたほうがいい」。兵庫県内で牧師を務める男性(62)は、裁判員候補者の名簿に掲載されたと通知を受けたとき、牧師仲間から忠告を受けた。
男性自身は「キリスト教は裁判所の存在を否定しておらず、犯した罪の大きさに応じた罰を判断することに問題はない」と前向きに考えているが、聖書には「人を裁いてはならない」「殺してはならない」との言葉があるからだ。男性は「裁判員制度に否定的で、死刑廃止を強く訴える牧師や信者は多い」と話す。
今年二月、カトリック中央協議会が開いた勉強会で、裁判員になることは教会法が禁止する「聖職者の国家権力行使への参与」の規定にも抵触するとの指摘が出た。
カトリックの大勢は死刑制度に否定的だ。カトリック大阪大司教区の池長潤大司教は「裁判員になることや死刑を判断することは、国家権力の行使への参加に当たる」と危惧(きぐ)する。
ただ、教会法には「各教区の司教判断で、許可できる」との規定がある。そのため同協議会は、信徒、聖職者向けの指針となる文書を作成するという。池長大司教は「指針を踏まえ個人で判断してもらう。今後、裁判員制度がいいものか、悪いものかを検討することが必要」としている。(以下略)
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2009/05/21付 西日本新聞夕刊から「宗教者に「裁く」葛藤 思想信条 辞退難しく 裁判員制度スタート」
心の救済と裁くことは両立できるか。21日に始まった裁判員制度での法廷参加をめぐり、宗教者の間で判断が揺れている。「社会を守るため」と肯定的にとらえる人もいれば「協力したいが、宗教の教えに従えば人を裁けない」との葛藤(かっとう)も。死刑制度に反対する宗派もあるが、法務省や裁判所は宗教上の理由だけでは辞退を認めない方針だ。
■「社会を守るため参加」「死刑だけは避けたい」
(前略)長崎市にあるキリスト教のカトリック教会の神父は、参加は「事件によって判断したい」という。「キリスト教は人をゆるすのが原則。死刑判決を出さなければならない事件の裁判員はやはり難しい」との認識だ。
新約聖書には「人を裁くな」と書いてある。それでも福岡市西区のプロテスタント教会の40代の牧師は「聖書の『裁くな』は、人を心の中で非難してはならないという意味。法律上で裁くのは問題ない」と話す。キリスト教も一様ではない。
一方、福岡市のイスラム教徒の男性(52)は「社会の規律を重んじるのが教え。参加は社会を守ることにつながる」と肯定的だ。「規律を維持するためには、死刑の制度もやむを得ないと考える」という。
裁判員法や法務省が定める政令には、思想・信条を理由に裁判員を辞退できる規定はないが「精神上の重大な不利益が生じる」と裁判官が判断する場合に限って辞退が認められる。
裁判員制度に詳しい久留米大学法科大学院の吉弘光男教授(刑事訴訟法)は「精神的な不利益を具体的に説明しなければ、辞退するのは難しいだろう」とみている。
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