聖なるミサに関する教義から“著しく逸脱”
この批判的小研究は先ずローマ・ミサ典書総則(Institutio Generalis)を分析し、同総則第二章7項から、ミサに関する全く新しい定義説明を取り上げた。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
批判的小研究 によれば、ほとんど定義であるこの言葉は、聖なるミサをいけにえとしてではなく、
むしろ食事として提示している。
【同様に、総則の8項、48項、55項d、56項や「主の晩餐、またはミサ」「過ぎ越しの会食(convivium paschale)」、「主の食卓に共に与る」という表現は、確かに259項に「祭壇では十字架のいけにえが、秘蹟のしるしのもとに現存させられる」という表現があるにもかかわらず、ミサを食事にしている。また259項は、
全実体変化について沈黙を守っているが故にあまりにも足りなすぎる。】
この総則は、
会衆の集会にミサ価値を依存させ、聖なるミサに内在する価値を消し去っている。さらに
大司祭キリストの役務者(=司祭)を単なる集会の座長に引き下げ、キリストの実体的現存をそれこそ
単なる霊的な現存に変えてしまったのである。ローマ・ミサ典礼総則 が謳う別の部分によれば、“主の記念” とはまず
キリストの御復活の記念であり同時に御受難の記念となっている。
次に、新しいミサ通常文 それ自体の分析を厳正に行いながら、批判的小研究 は次のことを指摘している。
(1)奉献文の祈り(Offertorium)の削除と聖三位一体に対する2つの祈りの削除により、
ミサの贖罪的目的は沈黙に付された。
(2)聖変化の言葉になされた巧妙な変更は、司祭のミサにおける行為によって現実となるパンとぶどう酒のキリストの御体と御血への変化(全実体変化)ではなく、
最後の晩餐でイエズスが行われたことに関する単なるナレーション(物語り)にすぎないということを暗示している。
【批判的小研究は「とって食べよ」「とって飲め」という聖変化の言葉への導入についてコメントすることを落とし、その代わりに句点について長々と論じている。ルフェーブル大司教はこの句点の問題は副次的なことに過ぎないと考えていた。】
これらの変更により、ミサにおける司祭の行為ということよりも、
“民の司祭職” がその役を演じる(共同による)記念(commemoration)をするという方に強調が移された。
(3)多数回切られる十字架の印の削除、(聖櫃に対して、又は聖名や聖人の名を唱える時などにする)敬礼の削除、(御聖体に現存される聖主に対する)片膝を着く行為(genuflections)の削除、(ブドウ酒と水による)聖なるホスチアの小片に対する配慮や指とカリスの清めなどの削除は、
聖体におけるキリストの現存は、聖体の拝領時にだけにしか現実とならない、あるいはキリストの現存は単に霊的なものであるということを暗示している。
(4)最後に、指摘したこれらの変更に加え、司祭の様々な “個人的” 祈りの削除は、
司祭の聖職位階的な及び役務的な司祭職を極めて薄めている。そのために位階的な及び役務的な司祭職は、“大司祭キリストのペルソナにおいて”、贖い主の御体と御血を聖別し奉献する事が出来る唯一のものとしてもはや表れていない。
そのような理由で、オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿の手紙は次のような判断を提示している。
「添付の新しいミサ通常文は、その全体といい、詳細といい、トレント公会議台22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から著しく逸脱しており、あの当時決定的に定められた典礼様式のカノン(ミサ典文)が、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることの出来な防壁を造っていたのです。」
(SSPXJAPAN Unofficial Web site: EXTRA ECCLESIAM NULLA SALUS EST! -ミサについて
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html 参照)
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