Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

天主の御母聖マリアのために

2010年01月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、特別に嬉しいことが2つありました。

 一つは、ベルナデッタさんからロザリオの十字軍の報告の中で、日本のいくつかの修道院のシスターがたも天主の御母聖マリアの汚れなき御心の凱旋のため、教皇様がロシアを聖母マリアの汚れなき御心に聖別するために捧げてくださったこと!!!です。聖ピオ十世会のためではなく、聖母マリア様のために!もちろん!

 この現代の無関心の時代に、笛吹けども踊らずの時代に! 私たちのする努力をただせせら笑うことが、カトリックであるかのように言い触らされていること時代に! 感謝、感謝、感謝!です。

 もう一つの嬉しいことは、今日、一人の司祭と一人の助祭が私たちの聖ピオ十世会の修道院に来て、聖伝のミサ聖祭を勉強したことです。今日は、私がこの二人に午後をまるまる使って聖伝のミサ聖祭の最初からカノンのところまでを教えました。

 聖伝のミサ聖祭は、カトリック教会の皆のものです。聖ピオ十世会だけのものではありません。

 声の二種類の大きさ、頭のお辞儀の三種類の仕方、視線の対象、手の動き、典礼法規、祭壇に接吻の仕方などなど、カトリック教会の定めた典礼法規通りに、何も変更しないで、ミサ聖祭を捧げるように。

 これは、責任ある職務です。忙しい一日でした。

 さて、忙しいと言えば、来週の月曜から、マニラでは、聖ピオ十世会の司祭の会合があります。私は、共産革命に至るまでの革命の歴史について発表せよ、と言われています。(それまでに準備の時間がちゃんとあるかな?)

 とりとめもないことを書いてしまいました。

 天主の御母聖マリアの汚れなき御心の凱旋のために、カトリック教会の栄光のために、多くの霊魂の救いのために、
 聖伝のミサ聖祭を捧げる司祭が世界中で増えますように!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会 創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.2.5.一つの難問:新しいミサに与るべきか

2010年01月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
一つの難問:新しいミサに与るべきか

 新しいミサに反対していたルフェーブル大司教は、それが自分の神学校で執行されるのを認めなかった。1969年の待降節第一主日の前日、新しいミサ通常文 によるミサがフリブールの司教区で実施されると、大司教はただこう述べただけだった:「私たちは古いミサを捧げます。」

 誰もが賛成した。それにもかかわらずラフォン(Lafond)神父は新しいミサを容認したので、これは聖母の騎士会を間もなく分裂させ、さらにピエール・ピケ(Pierre Piqué)やベルナール・ぺラブフ(Bernard Pellabeuf)を動揺させていた。ローマによれば、1971年の終わりにようやく新しいミサの執行が義務となるのであり、少なくともそれまでは聖伝のミサも捧げる事が出来たのだ、ラフォン修道司祭が早まった従順をの立場を取ったことを大司教は嘆いた。

 長上である司教に対して外見上、不従順と見られるような行動を信徒たちが見て、「信徒たちに躓きを与えるのではないかという恐れから、新しいミサ通常文を拒否しない」ようにしかじかの司祭に賢明は暗示するかもしれない 。しかしながらそういう司祭は、「依然として使用の許されている(現在第一奉献文として知られている)ローマ・ミサ典文を守り、やはり許されている旧形式のそれが指示する通り、低音で聖変化の言葉をとなえる」べきである 。ルフェーブル大司教が不在の主日は、よく神学生たちは皆一緒に一人の老修道司祭がラテン語で新しいミサを捧げているラ・メグロージュ(La Maigrauge)の聖ベルナルド女子修道院に行き、それに与っていた。大司教は霊魂たちを手荒くあしらう人ではなく、むしろ木がその実をもってより的確に判断されるように、先ずはその実をより詳細に観察しようと考え、そのための時間を惜しまなかった。さらに彼は司教職にある同僚からの意見を自ら進んで聞き、友人たちの中から統一見解を見出したかった。

 彼の友人カストロ・マイヤー司教は自分の下にいる司祭たちに関して大変痛みを伴う良心からくる難問があることに気づいた。

「私たち司教は黙っていてもいいのだろうか? 私たち霊魂の牧者は、非常に多くの霊魂たちがこれほど危険に瀕しているというのに、静かに黙り込んでは何も言わず、司祭たちには彼らが望むままに自分の良心に従うようにさせておいて、どちら付かずの中道(via media)に従うことなど出来るのでしょうか? そしてもし私たちが、考えている事をオープンに一つ残らず言うとしたら、どんな結末になるのでしょうか? 多くの信徒たちを混乱のなかに置き去りにして、最も弱い霊魂たちにつまずきを残したまま、免職されるでしょう 。」

 このカンポスの(デ・カストロ・マイヤー)司教も、1970年1月には自分を悩ましていた疑いの数々を既に解明していた。彼はあの批判的小研究 を全て翻訳し、カンポスの司祭たちに配布したのだ。

「人々がいつの間にか異端に滑り落ちてしまうような状況を維持するより、むしろスキャンダルになった方がましだと私は考えます。この問題に関する熟慮を終えて、私自身確信しているのは、私たちには新しいミサに与ることなど出来ないということ、しかも、ただこのミサに立ち会うだけであっても、重大な理由がなければいけないということです。例えこのミサ自体は異端的でないとしても、結果として異端に至らせてしまう典礼様式を広める事に協力するなど私たちには出来ません。これが私の友人たちに差し上げている規則です。」

 当時、ルフェーブル大司教の(新しいミサに関する)見解はそれほど絶対的なものではなかった。彼は、新しいミサは異端的ではないが、オッタヴィアーニ枢機卿が言われたように、重大な危険の数々を表現しており、従って、時が経つにつれて “ミサの犠牲たる事ではなく‐晩餐というプロテスタント的思想が知らず知らずのうちにカトリック信徒たちに喜んで受け入れられてしまう” と考えたのである。だからこそ子供たちは聖なるミサについての基本的な概念を教えてもらわなければならないのである。しかしながら、“新しいこれらのミサの多くが無効だ、ということは行き過ぎである。” 信徒たちはローマ通常文 によるミサに与るためにもう少し遠くへ行くのを躊躇うべきではない。しかし、“もし選択の自由がなく、新しいミサ通常文 によってミサを捧げる司祭が信心深く尊敬に値するなら、彼らはミサに行くのを止めるべきではない。 ”


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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