Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 15.1.3.テオドシオス神父の共同体

2010年01月07日 | ルフェーブル大司教の伝記
テオドシオス神父の共同体

 ルフェーブル大司教によれば「まじめで本物を求める神学生たちに対する迫害」が間もなく始まった。雑誌、ヌヴェル・ドゥ・クレチアンテ(Nouvelles de Chretienté)は図書室に置かれなくなったのは、「公会議の典礼憲章を公然と批判する」ものとしてである。他の似たような雑誌も同じ運命をたどった。それから、

「私たちのうちの数人がトンスラ(剃髪式)と下級品級を求めたが、それは断られた。私はといえば、それが無益な要求であると理解した。それで益々ルフェーブル大司教に注目したのである」とポール・オラニエは語っている。

 苦悩の中でこの神学生たちはより必死に願うようになったのである。「大司教様、もしあなたが介入されなければ、司祭職への扉は私たちに閉じられています。」

 大司教は後になってこう言うだろう。「私にはこの苦悩の叫びが私をどこに先導するのか想像もしていなかった。大いなる苦しみと共に、私たちは他の場所、つまり他の大学を探さなければならない、と諦めるしかなかった。教えの内容が依然として正統の域にあった大学は二つ、ラテラン大学とフリブール(Fribourg)大学だった。従って、この二大学の近くに住居を見つけて、良い神学生たちが適切に司祭養成を受けられるようにしなければならなかったのでる。ラテラン神学校入学に伴う困難と直面し、私たちにはジェノヴァの大司教であったとても良きシリ(Siri)枢機卿の手に委ねられた共同体のことを考えなければならなかった」と。

 至聖童貞マリア兄弟会は、テオドシオス・スグルデリス(Théodossios Sgourdélis)神父によりアテネで創立された。彼は船舶所有者でありギリシャ人外交官かつギリシャ正教からの改宗者でもあり、シリ枢機卿により司祭叙階を受けた。この兄弟会はジェノヴァに設立され、修道女らの共同体と男子の小さな共同体とからなっていた。

 ド・キンヌール伯爵夫人の寛大な援助により、この共同体はローマに来て修道院を持つことが出来た。さらに1967年の学年度初め、クリスチャン・シャルロ(Christian Charlot)神学生に先導され、サンタ・キアラから8人からなる学生のグループを、その修道院に受け入れた。彼らはラテラン大学で受講し、その彼らをルフェーブル大司教は注意深く見守っていた。また同大司教の後援者達は、神学生たちのために、一軒のもっと大きな家を賃貸できるようにしてくれた。1968年8月15日ルフェーブル大司教はこの家を祝別しに来た。それにもかかわらず、ポール・オラニエは共同体のあまりにも禁域修道院のような雰囲気に魅力を感じずサンタ・キアラに残った。後にルフェーブル大司教は5、6人の堅実な神学生たちがテオドシオス神父で満足し、フリブールの創立の時にいなかったことを残念がるだろう。

「フリブール大学が提供する可能性を無視する事は賢明ではありませんでした。ですから私はリュ・デュ・ボゼ通り(Rue du Botzet)にある家【訳者注:聖霊修道会の修道院のこと】の地理的メリットを選び、神学生たちを何人かフリブール大学に送ったのです。ただし、この司祭志願者たちが聖霊修道会の小修道院に願うべく養成を見出すことが出来ないことは遺憾に思ってはいました。少なくとも彼らは平和にいることが出来たし、分解しつつあった神学生たちのいじめに会わずに済んだからです。これが、私が聖霊修道会総長職を辞任する1968年までの状況でした。

========================

BLOG RANKINGです。クリックで応援して下さい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい


ルフェーブル大司教の伝記の続きをもっと読みたい
と思った愛する兄弟姉妹の皆様は、
クリックで応援して下さると励みになります。
兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とを感謝します!
========================


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】