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ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第4章 レジオ・マリエ カトリック教会の前衛

2011年09月02日 | カトリックとは
第4章 レジオ・マリエ カトリック教会の前衛

 凡そカトリック教会を攻撃する人々は、先ず聖母を最初に攻撃します。彼らは、天主様が創世記(3:15)で蛇に仰せになったようにしました。「わたしは、おまえと女との間に、そして、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」。

 1949年に中国共産党は、中国大陸で権力を掌握しました。その間、アイルランド人司祭で聖コロンバン会の宣教師であるエダン・マグラス(Aedan McGrath)神父様は、中国にやって来て、上海、北京、漢口、天津、広州等でレジオ・マリエのプレシディウムを何百も設立しました。マグラス神父様は、カトリック聖職者からさえも、批判を受けなかったわけではありません。ある方は、聖母マリアへの信心を広める為の多くの組織が既にあると言いました。またある方は、大多数の会員は快楽を好み、いかなる使徒的活動も全く真剣に取り組まないという色眼鏡で見られがちな、十代の若者であると言いました。マグラス神父様は、これら全ての批判や異議を気にしませんでした。彼は大きな圧力の下で働き続けました。彼は私の学校である震旦女中に6つのプレシディウムを設立しました。

 私たちには、合わせて100人以上のアクティブな会員がいました。私たちの多くは異教徒の家庭で生まれ、育てられました。私たちの年齢は15歳から18歳でした。私たちの一部は、洗礼を受けてから僅か数ヶ月か数年しか経っていませんでした。ですから、迫害の間、私たちは二重に十字架を背負う必要がありました。

 聖母は、特に弱い人々をお選びになりました。聖母は私たちに布教活動を行うばかりではなく、私たちが信仰のために試練と苦難を受けるようお求めになったのです。1949年から1951年の間、中国共産党は、中国のカトリック教会を攻撃する計画を立てていました。私たちは、彼らがどんな方法を用いて私たちを迫害するかを待ちつつ警戒し、思案していました。ところが、創立されて間もないレジオ・マリエが中国共産党の主要な標的になるとは全く思いもよりませんでした。おそらく、レジオ・マリエは強力な後ろ盾や支援無しに設立されたと彼らは考えたのでしょう。もしかしたら、彼らは、若者である会員は誘惑と攻撃に抵抗するための十分な勇気と不屈の精神を持っていなかったと見做したのかもしれません。レジオ・マリエが崩壊した場合、ドミノ倒しの様に中国の全カトリック教徒が彼らに屈服するなどと彼らは考えたのでしょうか?

 1951年10月8日は、私の人生で最も忘れられない日でした。 中国のほとんどのすべての新聞は、第一面に大きな太字で、「レジオ・マリエは反動組織であり、全会員は登録の為に公安局に行かなければならない」というニュースを載せました。路上の公安局へ入る前の扉の外壁には、レジオ・マリエの為の「登録所」と書かれた大きなボードが掲げられていました。政府は大規模な宣伝を始めていましたが、殆ど成功を収めませんでした。僅かに数家族が、公安局に行くよう子供に嘆願したのみでした。彼らが登録しなかった場合、家族全員が非常に厳しい処罰を得ることを怖れたためでした。両親は泣いて、自分の娘や息子に登録するよう乞い願い、跪きさえしました。

 1951年に、上海のセナトゥスの会長と副会長を含む数人のレジオ・マリエの役員が逮捕されました。一人は、禁固12年の刑を宣告されました。彼の名前はフランシスコ沈多森。彼には7人の子供がいました。一番下の娘は、彼の逮捕後に生まれました。後に、共産党の幹部に、獄友にカトリックの信仰を教えていたのが見つかったため、1960年に公開裁判で死刑を宣告されました。沈氏と同じ刑務所にいたある信者が私に語ったことによれば、看守が沈氏を銃殺するために連行した時、彼は非常に落ち着いており、殉教者の様に十字を切って、牢獄を出たということです。実際、彼は殉教者でした。最愛の妻と7人の子供という家族がいたにもかかわらず、信仰を守るために全てを捧げたからです。

 あの時、多くのカトリック教徒の家族は、上海から新疆、モンゴル等の遠くて発展の遅れた地方へと追放されました。政府は、彼らが再び上海に戻って来ることを許可しませんでした。多くの人が職を失い、学校から追い出されました。私自身は、レジオ・マリエの会員として登録しなかったために、大学から退学させられました。

 私たちは互いに励まし合いました。私たちのモットーは、「我が元后、我が御母よ、我と我が所有物は全て貴方の物です」でした。私たちは聖母の最愛の子供であることを完全に自信を持っていました。聖母は常に私たちを守って下さいます。私たちの武器は、可能な限り多くのロザリオの祈りを唱えることです。

 1951年の「反レジオ・マリエ運動」の間、私は常に逮捕に備えていました。刑務所では、当局は囚人が自殺することを恐れていたので、私たちはベルトや帯を持つことを許されないと言われました。私の母は、何着かのゴムバンドの付いたズボンと下着、及びファスナーではなくボタンの付いたパッド入りの綿のジャケットを仕立てました。妹と私は、小さな包みにこれらの衣類、石鹸、ティッシュ、歯ブラシ、歯磨き粉を入れ、白い紙で留め、筆と墨を使ってとても大きな字で、「天主第一」と書きました。私たちの包みは、私たちの枕元に置かれました。毎晩の黙想中に、その日は天主様を何よりも優先していたかをいつも自問しました。

 私たちのドアの呼び鈴が鳴るのを聞く度に、妹と私は互いに、「多分、今すぐ行かなければならない時です。祈り、信仰を保ちましょう」と言ったものです。

 私の両親、特に父は、この動乱の時代の中で非常に苦しみました。彼らは日夜、恐怖と不安に耐えなければなりませんでした。非常に心配な状態と不安とを抱え、しかも父は非常に神経質であったので、とうとう脳卒中で倒れてしまいました。そして、数時間後に亡くなりました。私は最初、自分は進んで苦しもうとしていたのに、なぜ両親が私と一緒に苦しんだのかと天主様にこぼしました。

 父が遺体安置所に運ばれた時、あの頃は資本家に対する"三反五反運動"が続いていたので、多くの恐ろしい外観の自殺した御金持の実業家の亡骸を目にしました。その時、私は父が成功した大企業の所有者であるにもかかわらず、神の摂理によってこの種の不幸から守られたことに気づいたのです。さらに、父は死の床で洗礼を受け、安らかに亡くなりました。天主様に感謝!

 1955年までの共産主義者の迫害の間、中国のカトリック教会、とれわけレジオ・マリエは、闘いに於いて大きな役割を果たしました。いつの日か、誰かが中国における共産主義に対するカトリック教会の闘いの歴史を書くとしたら、レジオ・マリエはこの闘いの前衛かつ牙城として考慮されるべきです。 1951年に司教や神父様がまだ攻撃されていなかった時、この平信徒の軍団は最前線に在り、中国のために優れた模範を示しました。

 1950年代に「中国全体が上海に目を注ぎ、上海は震旦女中に目を注いだ」という有名な言葉がありました。それは、学校の殆どのカトリック教徒がレジオ・マリエの会員だったからです。聖母は苦難を通して、私たちを御導きになられました。私達の非常に少数の者だけが、自分達の貴重な信仰を否定するか放棄すると宣誓しました。しかし、かれら少数者の中の或る者は、年を経た後、自分達が行ったことを非常に悔みました。

 現在、半世紀以上が経過しましたが、試練や闘いはなお私たちの前にあります。信仰は変わること無く、真理は常に同じであり、信仰と真理に対する私たちの姿勢もまた、同じでなければなりません。誰もが息を引き取るまで、霊魂の救いは確実ではありません。私たちは、最後の忍従の為に日々祈らなければなりません。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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