Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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教義の問題、信仰の問題、真理の問題

2011年09月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「悪魔の最後の戦い」が、最近、三上教授のブログ「けれど」に連載されています。是非、お読みください。

 ベネディクト十六世教皇も言うとおり、聖ピオ十世会は教義の問題を提起しています。

 正に、教義の問題です。正に、信仰の問題です。正に、真理の問題です。

 ルフェーブル大司教がエキュメニズムを受け入れ拒否をしたのは、アシジの精神を拒否したのは、教導権からの明白な教えによるからです。レオ十三世の回勅 Satis Cognitum (1896)、ピオ十一世の回勅 Mortalium Animos (1928)、1949年12月20日のエキュメニズムに関する聖座の教えなどです。

 ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会にとって受け入れられる唯一のエキュメニズムとは、唯一なるキリストの教会、ローマ・カトリック教会への他の信仰告白の成員たちの無条件の立ち帰りを求めるエキュメニズムです。

 カトリック教会は二千年の間、「アシジの祈祷集会」に見る「アシジの精神」のエキュメニズムを拒否し排斥してきたからです。

 私たちは、天主の御助けで、過去の一貫として変わらないカトリック教会の信仰を信じます。もしも、信仰を何も変えない聖ピオ十世会が間違っていたとしたら、過去のカトリック教会は二千年の間間違っていたことになります。そんなことはあり得ません。

 過去のカトリック教会の信仰と教えを捨てて、新しい教えを呑み込めとは、ローマも私たちに従順を強要できません。先ず、しなければならないのは信仰です。

 信仰のために従順があるのであって、従順のために信仰があるのではありません。

 私たちは第二バチカン公会議以後、「従順」の名前によって背教を強要されていました。今こそ、それに目覚める時です。


 至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第10章 反帝愛国運動

2011年09月09日 | カトリックとは
第10章 反帝愛国運動

 共産主義とカトリックは相容れません。どのような状況下でも、共産主義者はカトリック教会を破壊する為の行動を取ります。共産主義者の目には、すべての外国人司祭(彼らが中国を除いたどこの国に所属しようとも)と修道女は「帝国主義者」に映りました。1951年にはレジオ・マリエは標的であり、その僅か2年後には共産党政府は、上海のすべてのカトリック教会を閉鎖し、ほとんどすべての司祭や何人かの修道女を逮捕しました。

 1953年6月16日の夜は特別でした。私たちの教区の君王堂では、壮大なパーティが開催され、ステージの上では、「聖アグネス」という素晴らしい劇が上演されていました。ゲームや会食もありました。それは非常に賑やかな夜のパーティーで、誰もが素晴らしい時間を過ごしました。しかし、暗闇の中からギラギラと光る警官の目が私たちを見ていたことにに、だれが気が付いたでしょう?彼らは私たちにとびかかりました。翌朝、教会の門の前には、手に銃を持った警備兵が立っていました。私たちの神父様の一部は逮捕され、残りは自分の部屋に拘束されました。一部の信者が朝ミサのために教会に来たとき、彼らは門が閉じられているのを見ました。何か普通でないことが起こったようでしたが、それでも彼らは去ろうとはしませんでした。彼らは駐車場で待ちに待ちました。午前9時30分頃、警察は、朱洪声神父様に、説教や告白を聞くことなく、だだミサを捧げるために御御堂に入ることを許可しました。ミサの後、彼らは再び神父様を自分の部屋に連れて行きました。私たちは朱神父様の目が両方赤くなっているのを見ました。多分、彼は前の晩によく眠っておらず、また、涙を流していたのでしょう。彼は腫れた腕と手首をさすり続けました。長い年月の後に神父様は、彼がミサを捧げることを許された理由を私に語りました。朱神父様は豊かな家庭に生まれ、若かっただけでなく、海外から戻って数年しか経っていませんでした。共産主義者の計画では、彼を逮捕するのではなく、甘い言葉で誘惑して裏切者にしようという方針を立てていました。朱神父様は固く拒絶し、最終的に逮捕されました。

 当時は、まだ定期的な礼拝はありませんでしたが、ますます多くの信者が来続けました。毎朝ミサの後に私たちは、朱神父様に祝福を求めるためにセメントの地面に跪きました。私たちの内の数人は、神父様の手にパンとクッキーを握らせる危険を冒しました。ある者は大声で、「私たちは母なる教会、そして敬愛する神父様を永遠に熱愛します」と言いました。私たちの小教区付近の南昌路にある別の司祭の司祭館も、立ち入りが制限されていました。若い学生のカップルは、顔がレーニンにそっくりなそこのハンガリー人司祭に食糧を届けました。二人の若い学生は、司祭に食糧を与えたために学校から追放されました。敵が羊を攻撃しようと望んだとき、常に先ず確実に羊飼いを攻撃します。私たち羊の群れは、臆病者ではありませんでした。私たちの司祭にパンを送るために、互いに手を取り合って体で壁を築きました。そして、私たちは簡単には恐れないことを示すために、地面に跪き続けました。これにより、共産主義者は一定の間、私たちに対してこれ以上狂気の行動を起こすのを止めました。

 上海の私の小教区「君王堂」は、イエズス会のカリフォルニア管区に所属していました。私たちには4人のアメリカ人司祭がおりました。フィリップス神父様は主任司祭で、ジョン・ハウル神父様は助任司祭でした。彼らは2人ともその夜に逮捕され、(1953年6月16日)、懲役4年の刑を宣告されました。刑に服した後、1957年に彼らは強制送還されました。私たちには、1955年に逮捕されて懲役20年の刑を宣告されたザビエル朱樹徳神父様と、同じく逮捕されて懲役18年の刑を宣告されたヴィンセント朱洪声神父様の2人中国人司祭がおりました。

 フィリップス神父様とハウル神父様が逮捕された時、彼らの家族はアメリカにいたので、誰も彼らが刑務所にいた頃に食糧や日用品を送っていませんでした。宣教師司祭として中国に来るために、彼らはすでに快適な生活を放棄していました。今、彼らは単に司祭であるというだけで刑務所に入れられました。彼らは十分な食糧と十分な衣類を持つことが出来ませんでした。それは確かに途方もない犠牲でした。そのうえ、彼らは時には昼夜審理を受けました。彼らはいかなる自由も無しに、一つの牢屋に閉じ込められました。彼らの苦痛は、私たちよりもはるかに酷い物でした。

 私は上海に住んでいた頃、毎朝副主任司祭のジョン・ハウル神父様を見ました。しかし、ごくまれにしか彼に話しかけませんでした。私は彼がビッグライトやマイクを設定するためによく高い所に登ったり、地面の上で体を曲げるのを見ました。私は1989年にアメリカに来るまで、私は彼の行動について全く何も知りませんでした。多くの信者はハウル神父様を知っていたので、彼を尊敬しました。彼らは神父様が4年間刑務所にいて、重度の脊椎の疾患や関節炎で苦しんだと私に言いました。彼はずっとベッドの中で身を横たえていました。彼の状態はますます悪化しました。彼は長年にわたって聖テレジア病院(アメリカのアルカディア)に滞在しました。 1990年に彼は意識不明となり、多くの人々が彼の奇跡のために祈りました。彼は長上は彼のベッドに聖マーガレット・メアリーの霊的指導者であった聖クロード・ド・ラ・コロンビエールの聖遺物を置きました。数日後に聖クロードは彼を癒しました。 X線検査は、ハウル神父様が患っていた肺の腫瘍が消えたことを示しましたが、天主様はさらに多くの犠牲を行うことを彼にお求めになりました。

 彼はまだ脊椎の障害や筋肉痛を患っていました。私は数回彼を訪問しました。彼は私が彼の小教区の信者であり、長年もの間刑務所にいたことを知ったとき、非常に興奮して「神の素晴らしい摂理に感謝!誰が私たちがここで会う恩恵があることを知ったでしょうか?私は司祭の祝福を与えます。あなたが日ごとにますます天主様を愛するように望みます」と言いました。

 私が彼を最後に見たのは、1997年6月の終わりに向かう頃だったのを覚えています。彼は全く骨と皮ばかりになり、殆ど死にかけていました。病院は、彼が伝染病を患っていたので、誰にも彼に面会することを許可しませんでした。私は入口に立ち、病棟の窓を通して彼を見つめました。それはまるで、ベッドに横たわっったピオ神父様を見ているようでした。彼は体の調子が悪かったけれども、両方の目は輝き、精気に満ちていました。私は泣き出しました。彼は苦痛の最中にあるかのように見えましたが、非常に穏やかでした。

 彼はしっかりとロザリオを握っていましたが、話すだけの強さは有りませんでした。彼は数語の簡単な言葉だけを口にしました。「祝福を受けたいですか?」私は継続的に自分の首を縦に振りました。それから彼は、非常に無理を押して自分の手を上げ、力を振り絞って十字を切りました。

 1998年に、私が彼の葬式に行き、彼の聖なる御遺体を見たところ、彼の穏やかな表情は私を惹きつけました。誰かが何度も何度も私が移動するように促すまで、私は数分の間動かずに彼の棺のそばに立っていました。彼は実に20世紀の殉教者でした。

 上海教区には他に2人のアメリカ人司祭がいました。ガッツ神父様とパーム神父様です。ガッツ神父様は、告解を聞くことに時間の大半を費しました。私は週に一度、告解をするために彼のところに行きました。私は拙い英語で話しましたが、彼は助けて下さいました。時々、私が英語を話すのが難しいのを見ると、彼は中国語で話すようにと告げられ、「天主様は中国語もわかりますよ!」と優しく言われました。告解の時、彼は私が恐怖を乗り越えるために助けて下さいました。 1953年6月16日の同じ夜、彼とパーム神父様は3階の屋根裏部屋に閉じ込められました。6月は非常に暑く、新鮮な空気を得るために彼が窓から頭を突き出しているのが時々見られました。

 私たち信者は彼を目にすると、連絡するために手による合図を用いました。彼は私たちを祝福するためにあらゆる機会を利用しました。ガッツ神父様は、より簡単に連絡を取るために、自分のノートに多くの信者の住所や電話番号を書き入れる習慣を持っていました。彼が閉じ込められた時に心配していた唯一つのことは、彼のノートでした。何をすればいいのでしょう?焼いたりその他の方法で処分する場所はありません。最終的に彼が見つけた方法は、先ずノートを1ページずつ引き裂いて、徐々に小さな断片に切り分け、最後にそれを飲み込むことでした。どれほど大変でしたでしょう!どうして彼はこれ成し遂げられたのでしょうか?天主様への深く誠実な愛を持っている人だけが、これを行うことができます。他人のために進んで非常に苦しもうとするのは誰でしょう?ガッツ神父様はその一人でした!

 パーム神父様は私たちの教会の「ビング・クロスビー」でした。彼は甘い声を持っていただけでなく、天主様へと聖母マリア様への非常に霊的な献身を持っていました。彼の美しい歌は、しばしば私たちを天国の黙想へと導きました。その夜、彼は自分の部屋で拘束されました。何人かの信者は彼を窓から見ていました。三ヵ月後、人々は窓に彼の靴一足がつま先を外側に受けてぶら下がっているのを見ました。それにより、私たちは彼が国外に追放されていたことを認識しました。パーム神父様は台湾に送られました。

 ちょうど音楽に休止符があるように、通りには止まるよう合図を出す信号機が常にあることを皆知っています。 中国共産党の支配の下で、私たちは、いわゆる「運動」から少しばかり経験を得ました。毎偶数年に、私たちは少し休息を取ることが出来るかのようでした。そして、毎奇数年は非常に厳しいものであるように見えました。 1953年は「反帝国主義」の年でした。1952年にレジオ・マリエのことで私は約翰大学を去りましたが、その年の7月に新たに大学を受験することに決め、華東師範大学の化学部に入りました。

 朱樹徳神父様は逮捕されました。朱洪声神父様は、私たちのために朝ミサを捧げることを許可されました。時間になると、より多くの信者が教会に来ました。その後突然、誰ともなくロザリオを先唱しました。私たちはロザリオ一連を次々に唱えました。何ヶ月が過ちました。警察は、私たちがしていた事に対し、いかなる不法行為をも見つけることができませんでした。時間が経つにつれ、彼らはより寛容になりました。 1954年4月に、警察の警備員は私達の教区から撤退しました。私たちは歓喜に満ちていました。 中国共産党は天主様への愛を減らすことができませんでした。 1953年より後、さらに多くの子供たちが、公教要理のクラスに参加しました。彼らは合計で300人程いました。聖ペテロ教会ではおよそ600人でした。徐家匯ではさらに多く、900人位でした。彼らが共産党が私たちを攻撃すればするほど、私たちの教会が成長をしたことを示しました。彼ら宣教師司祭と修道女は、強制送還されたのにもかかわらず、自分たちの犠牲を以て私たちを助けて下さいました。光はどこにあるのでしょう?私たちは霊的な生活を深め、より良く私達の若い世代を教育するために、自分たちの道を急ぐ必要があります。

 1954年はまるで小休止のようでした。実際は、彼らは大きな魚を捕まえるために、長い釣り糸をを垂れていたのです。1955年にカトリック教会に深刻な打撃を与える準備をするために、彼らは情報収集に追われていました。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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