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【参考資料】「冒涜されたファティマ」(ド・ナント神父著)

2011年09月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、ド・ナント神父が時の教皇様パウロ六世に宛てた文書をご紹介しました。(「パウロ六世とファチマ) この文書は原文は英語で、今から38年前、1973年4月10日にパウロ六世教皇宛てに聖座に著者自身によって届けられました。

 ブログでご紹介したものは英語訳だったのですが、今回、ド・ナント神父の文章をフランス語原文を基に日本語にして下さった方がおられますので感謝しつつ、参考資料として日本語の訳をご紹介します。繰り返しますが、フランス人司祭のド・ナント神父は、聖ピオ十世会の会員ではありませんでした。しかし聖伝のカトリック信仰を守ろうとして立ち上がった歴史の証人の1人としてご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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冒涜されたファティマ


 これらの何ら安らぎを見出せない苦悶の中にあって、しばしば私は教皇様のファティマ巡礼に期待しました。キリストの代理者による、聖母及び御聖体との出会いは、天主の恩寵と憐れみとを示す天からの印となるに違いない、そしてこれが全てを救い、全てを昔の輝きにおいて復興するだろう、と私には思えました。
すでに1964年の12月8日、私はこう書きました。「マリア様から告げられた(第三の)秘密を明かす為に、ファティマに教皇様が赴いて下さる事を期待致しましょう」と。

 (パウロ六世の)上記の一連のスキャンダルや、離教の雰囲気、鉛のカッパのように重く私たちにまとわりついていた(パウロ六世の)異端に対する疑いも、聖下がもしファティマへ巡礼に行かれるならば消え失せるだろうと思われました。恩寵の洗礼を受けて洗われたかの様に、全き信頼と、子としての愛とを私たちはもう一度見いだす事になるだろう、と。さらに聖下はファティマで、カトリックの、忠実で<公教会の>聖伝を生きる大群衆と一緒に、聖なる童貞マリアに 祈り、私たちの守りの御母である天主の御母に 語らせ、さらに第三の秘密を 明かし 、さらに聖母の要求に 従う べきであって、それ以外の事は許されません。そうなれば、私たちに始まって、次には聖下の司祭たち、聖下の民<カトリック教徒たち>、そして憐れな罪人という具合に世界は回心することでしょう。これこそが私たちの希望だったのです。

 聖下はファティマに行かれました。それは本当です。それは天的<聖母の>御出現から五十年目のちょうど同じ日、1967年の5月13日の事でした。「テレビに釘付けられた両目、苦悶に締め付けられた心、指にはロザリオをかけ、兄弟なる大衆と共に、この彼らの悲しみに満ちた『めでたし聖寵満ち満てるマリア』をつぶやきつつ、世紀の出来事 を私たちは期待していました。」

 「ああ!五時間が経ち、平和の希望はもはや存在せず、キリストの代理者とその聖なる御母との出会いから期待された、最終の神秘的な恩寵は全て台無しになったのです。」

 1967年5月13日付けの 我が友人たちへの手紙(Lettre a mes Amis) の中に、この莫大で確実な幻滅が書き記されているのは何故でしょうか? その理由は、この恩寵の浪費が巡礼の始めから終わりに至るまで余りにも明白だったたからです。

 つまり聖下は見る為ではなく自分を見せる為に、聞く為ではなく話す為に、跪く為ではなく、平伏す百万人の面前で王位に就く為に、天からの命令を頂く為ではなく、聖下の現世的計画を押し付ける為に、童貞マリアに平和を嘆願する為ではなく、その平和を大衆に求める為に、聖下の心を聖ならしめ、マンハッタンの汚れを浄める為ではなく、まさにここマリアの領地内に、マンハッタンの世界を強要せんが為にあの場所に来られたからです。つまり聖下はファティマを冒涜する為にこそ来られたのです!

 最初から、聖下が(聖母マリアのメッセージではなく)自分の考えに忠実に留まらんと欲しておられた事は見え見えでした。サラザール(Salazar)大統領は、<ウガンダの>オボテ(Obote)大統領ではありません。サラザール大統領は、白人の洗練されたキリスト教徒、--- 今(20)世紀中最も威信のあるキリスト教徒たちの一人、文明の大恩人の一人 --- であり、ポルトガルは、世界中でカトリック信仰に最も忠実な国なのです。そのことは、自国の憲法に於いて誇り高く勇敢に宣言され、政教条約は議会の承認を受けています。それなのに、急いで巡礼に来られた事を口実に、聖下はこの国のことも、この国の元首のことも尊重されませんでした。進歩主義のマスメディアは、この勇敢な国民に対する聖下の誇示されたこの軽視を全世界に伝えていました。

 聖下は、世界中のあらゆる言語とあらゆる民族が耳を傾けていたにも拘らず、御自分が改革者の味方であること、変革を行う方針である事を、聖伝に忠実なポルトガルに向かって上手く表明するために、自らの意志を天主の栄光の上に置いて、ポルトガル語のミサを捧げようと予め計画を練っていました。それは、悲しいミサ、忙(せわ)しなく付いて行くことさえ儘ならない寒々しいミサであり、それについてロランタン(Laurentin)神父 は「口篭もりの」儀式だったとさえ言っています。

 さらに聖下は御自分の時間の全てを満たすべく謁見、極めて意味深長なエキュメニカルな会見をそこで準備していました。≪非カトリック共同体の代表者たち≫との謁見です。しかしそこには長老派の代表者二人しかいなかったのです。大勢の善良なカトリック信徒たちが、聖下と語り、聖下と一緒に祈りたいと望んでいながらも、それが許されなかった一方で、御自分の準備されたフランス語の演説を理解していなかったこの代表者たちとは、幾つかの言葉を交える余地だけしかできませんでした。

 こうして御自分の政治的かつエキュメニカルな妄想に気を取られたまま、聖下は巡礼を行う事なく、ぞっとするようなスキャンダルをそこでお始めになるのです。沢山の演説の中には、1917年(5月13日から10月13日迄)の御出現に対する、全く付けたりだけの外面的だけのそして冷淡な仄めかしだけしか見つかりません。また聖下は、御出現を信じていないという印象を‐故意に?‐与えつつ、一連の御出現が与えられた場所である、目と鼻の先のコーヴァ・ダ・イリアに行こうとはお望みになりませんでした。ファチマに到着するや、一時間以上の道のりの間、大衆からの情熱的な崇拝の対象となり、途絶える事のない歓声を耳にしながら、聖下はファティマの聖母に挨拶をされませんでした。テレビ画面は全てを映していました。聖下は演壇に登ると御挨拶をされましたが、ただ大衆に挨拶しただけです。そして聖母に対しては、されませんでした!聖下は‐巡礼本来の的であった‐聖母の御前を、御自分の目を上げる事もせずに素通りしたのです。私はそれを見ました。さらに聖下は、大衆と一緒にロザリオを唱える事はしませんでしたが、聖下はアヴェ・マリア<天使祝詞>を唯の一回でもお唱えになったのでしょうか、テレビはそれを中継しませんでしたし、新聞各紙はそれについて報道しませんでした。

 最後に、私が期待していたものであり、一同が漠然と待ち望んでいた最後の希望である、大いなる対立の瞬間がやって来ました。聖下と、1917年の聖なる幼き幻視者たちの最後の一人、ファティマの牧童ルチアとの面会です!

 人類の為、そして公教会と我々、道に迷った哀れな子供たちの為に、教皇聖下、聖下御自身の為に、天はある恩寵を聖下に与えようとされていたのです。ルチアは聖下に対して一対一の短い対談を涙して求めていたのです。あのファティマの牧童に耳を傾ける事、つまり<カルメル会修道院の>禁域に於ける五十年を通じて恩寵と叡智の内に固められた天の小さな伝言者に耳を傾ける事を拒絶などしないものです。

聖下はこの恩寵を拒絶されたのです。

 聖下の通訳者であるアルメイダ神父様(le P. Almeyda)はこう語っています。「ある時、ラジオ・バチカンに提供されたインタビューで、ルチアは教皇様だけに個人宛で何かお伝えしたいという希望を表明したのですが、教皇様は『よろしいですか、今はその時ではありません。しかも、もし貴方が私に何かをお伝えしたいのであれば、貴方の司教様にお伝えなさい。司教様が私に伝えるでしょう。そして貴方の司教様に信頼して、彼に従って下さい。』とお答えになりました。さらに教皇様は、父親が二度と再会する事のない最愛の子供を祝福するかの様に、ルチア修道女を祝福したのです。」

 そうです、私たちに与えられる、(しかし拒否するなら)二度と戻って与えられる事のない数々の<助力の>恩寵があります。

六日前の5月7日には、クラウディア・カルディナーレ(チュニジア生まれのイタリア人女優)に、また大仮装舞踏会となった聖ペトロ大聖堂では、ロロブリジーダ(同じくイタリア人女優)に対して、聖下は全く別な興味を示されました。<ファチマ巡礼>四日後の5月17日には、理解の神殿(Temple de la Comprehension)なるオカルト団体【注1】のイスラエル人総裁二人に対して、さらに大きな注意を払いつつ耳を傾けられました。しかし<ルチアからの>御自分に対する個人的メッセージを聖下は拒絶したのです。それは親切にも聖母が、その寵児であるルチアの口を通じて聖下に話かけて下さっているものでした。さらに聖下に知って頂きたいのは、進歩主義の新聞各紙と、社会的メディアに属した反聖職者主義の全機関紙による、このニュースに対する地獄紛(まが)いな歓喜でありますが、彼らはほっと息を撫で下ろしていたのです!教皇は<この恩寵に>がんばって抵抗した、最初のパウロ<当時サウロ>の様に、天のビジョンや、天からの御声により地上に倒される事はなかった、つまり<聖パウロの回心をもたらした>ダマスコへの道はなかった!と。

 この子<ルチア>は何を聖下に伝えたかったのでしょう?聖下は何をそんなにも恐れていたのでしょうか?聖下の唱えた様々な異端説、さらに離教やスキャンダルの合計は、沢山あり過ぎて一例を挙げるのにも選択に困る程です。ただし、一つの可能性が他のそれ全てを凌駕しています。この天の使者であるルチアが、唯一聖下の上に存在している、上級かつ至高の天主なる権威者の聖旨、つまり聖下がファティマ第三の秘密を世界に公表する 事をその聖下に思い起こさせる事をお望みだったのは確かであります。何故なら、それが公表されるはずだった年が、天の命令によって1960年だったからです。しかし聖下の巡礼は1967年でした。今年は1973年です。そして世界は、聖下の過ちが原因で、天罰により滅びの道を突き進んでいるのです。

「聖下の沈黙は、この私が聖下の巡礼後間もなくして著した、真のファティマ・メッセージに関する拙研究論文の中で御説明させて頂きました様に、それ以外の成果をもたらす事は出来なかったのです。つまり間違いなく最初の二つの秘密と類似している、この第三の秘密の重要な部分である新たな天罰<チアッピ枢機卿及びオッディ枢機卿たちに拠れば、この重要な部分は第二バチカン公会議に端を発する公教会当局の棄教に特化して言及しているという‐訳者>への脅威を実のところ耐え難いものに変えてしまう事以外に何も出来ませんでした。天が世界を脅かす為に用いる恐ろしいものをお認めにならないならば、この世界は回心するどころか、止め処なく血(ち)膿(うみ)及び血の海へと嵌り(はまり)込むでしょう。これは第三次世界大戦の事であって、世界中に拡散した共産主義という迫害者であり、前代未聞の大損害を及ぼす核戦争、そしてキリスト教徒たちの大棄教でありましょう。警告を受け回心へと招かれる事がなければ、キリスト教諸国は信仰をその生命を道連れにして失うことでしょう。」

 「私たちはヨナに与えられたあの印を1960年から待っているのです。この秘密の公表に反対する全ての矛盾する口実は、事を知りつつ黙り込む人々の責任を重くするだけです。いえ、ちがいます。この予言的メッセージは取るに足りないものでも、安心を与えるものでも、保留されたものでもありません。それは1960年の時点で、全人類に宛てたものでした!依然としてそれは変わっておりません。そして現代にとって余りに恐ろしいのは、それが<未公表でありながらも>相変わらず全人類に宛てられていると言う事です!しかし、それは唯一降り掛かる災いを遠ざける事の出来る言葉なのです。」

 「バルタス神父はこう書いています。『確かに、天の元后による<母親としての>脅かしと約束は、大部分の人々にとって、ファティマの「神秘」に対して、世界が抱く畏敬の念と希望が混ざり合わされた、不安な注目のきっかけとなるのです。』(83ページ)ならば!不安に満ちた期待の内に置かれた世界を失望させる権利など誰も持ち合わせておりません。その反対に、天の元后の御言葉を世に知らせるのは義務なのです。このメッセージが実際に私たち全員のためのものであるということは、その証拠はここ、1952年に書かれた教会参事会員バルタス神父の記述にあります。『ヴェールで覆われたままの事柄。‐『秘密』にある三つ目の内容は何時私たちに明かされるのか?早くも1946年に、ルチアとレイリアの司教は、この質問に対し一様に『1960年に』と迷わず、コメントもなく、はっきりと私<バルタス>にお答えになった。また何を理由にこの年まで待たなければならないのかと尋ねさえする勇気を奮い起こしていた時、私はこの御二方から全てを説明する『何故なら聖母がそう望んでおられるからです。』という同じ回答を手に入れた。』 現在は1967年です。天の聖旨は変わる事がありませんので、ルチアは、他日、世界に聖母の警告を公表して下さるよう教皇様に懇願する事を望んでいるのです。恐らく最後の呼びかけである、最後通牒の形で彼をファティマに招く責任を負わされていたのではないかと私は考えております。<御父の正義の>杯は溢れており、<人類の>邪悪はその絶頂に達しております。罪が一体どんな深遠に人類を引きずり込んでいるのかを是非とも公教会全体は知るべきです。

 それなら、どうしてファティマに行かれたのですか? 聖下による巡礼以来、ファティマは聖下によって滅ぼされてしまったかのようです。世界では、あの巡礼地で明示された天主の聖旨についても、ロシアの回心についても、第三の秘密についても、さらに様々な信心業の実践、その中でも特に、ルチアがこの有名な5月13日に口頭で「強調して」下さるよう聖下にお願いした「平和を祈願する聖なるロザリオを唱えること」についても、語ろうとする人は誰もいません。

 聖下は何をされたのですか? それに対する答えは単純です。つまり聖下は御自身のメッセージを平和の元后のそれと置き換えたのです。ファティマで私たちに明かされた天主の御計画とは「善き天主様はマリアの汚れなき御心を通してその恩寵を与える事を望んでおり、人々は聖母の汚れなき御心にその恩寵を求めることをためらってはならないこと、また、イエズスの聖心は御母の汚れなき御心を通して崇拝される事をお望みであるということを貴方は全世界に伝えなさい。この汚れになき御心にこそ天主は平和をお委ねになったのだから、人類はこの汚れなき御心にその平和を求めるように」というものであり、聖下はこれを、御自分がマンハッタン<の国連本部>で明かされた、御自身の偉大なる御計画と置き換えたのです。そしてこの計画とは、この平和を聖下御自身がお委ねになられた人間の心に要求する事なのです。

 これを遂行する為に、自分は天の啓示の幸福な受益者であると主張するのを聖下は躊躇されませんでした。巡礼から戻られた日の夜、バチカンの御住居の窓から姿を現された時に聖下は仰いました:「ファティマに於いて、平和に至らせる、辿るべき道について私たちが聖母に尋ねますと、平和は実現可能であるというお答えを頂きました。」メッサージェロ誌の一記者は、この発言に対するローマでの全体的な印象を要約しています:「このように奇抜な言い回しが持っている意味をこじつけるのは余りに簡単な事ですが、恐らくファティマの聖地への巡礼の間に、パウロ六世には、平和実現の努力の内に、私たちの弁護者であり人類の保護者なる御母とのいわば内的な意思疎通の短いお時間があったのでしょう。」

 確かに聖下はこれを私たちに信じさせようとお考えでした。天が聖下に「行きなさい、貴方の計画の内に前進しなさい、そして新しい平和を築く為に全ての人を招きなさい、ただしカトリックだけによる、祈りと償いによってではなく、貴方が主張する『ポプロールム プログレッシオ POPULORUM PROGRESSIO』【注2】、つまり進歩と平和という新しい啓示によってによって招きなさい」と伝えたと信じ込ませることを。聖下がマンハッタン訪問以来何度も止むことなく主張するこの地獄のメッセージの責任を、天に負わせようとお望みになったのです。それは「人間たちが善良だからこそ平和は実現可能なのであり、平和は、人類、つまり全ての人間が、ユダヤ・フリーメーソン組織<国連>の世界的指揮の下で払う努力によってこそ実現可能な業なのだ」というメッセージでありました。つまりそれは天主の崇拝に代わる人間の崇拝なのです。

 結局この御旅行の絶頂は天主への祈りではなしに、奇怪かつ躓きの因になる人間への祈りだったのです。

「人間たちよ、平和という天主の賜物に相応しい者となりなさい。人間たちよ、人間たりなさい(原文のまま)。人間たちよ、善良かつ賢く、そして世の中の公共利益を考えることに開かれていなさい。人間たちよ、寛大であるように... 人間たちよ、新世界を構築する意欲を持って互いに近づきなさい。そうです、真の人間の世界は、天主の太陽がその水平線に昇る事なくしては決して実現し得ないでしょう。」

 実にこれは反キリストの演説です。聖下がファティマに来られたのは、蛇の頭を踏み砕いていた御方<聖母>が、その復讐として蛇とそのメッセージによって踏み潰されるためでした。自らの高慢という基礎の上に築かれる新世界を構築しようとの、人間たちへの呼びかけである反対のメッセージによって、世界の救いの為に与えられた最後のチャンスが踏み砕かれる為なのです!

 もし私が嘘をついていれば、それを証明して下さい。そしてファティマ第三の秘密を公表し、全キリスト<カトリック>信者を祈りと償いへと招き、平和の為にロザリオを多く唱えるように要請し、「天主からこの平和を委ねられた」マリアの汚れなき御心への、平和の鍵を握る、世界の奉献を、「この汚れなき御心が最後に勝利する為に」宣言する事を以って、聖下がサタンの味方ではなくキリストの味方である事を証明して下さい!



【注1】「理解の神殿」(あるいは「理解の寺院」)というオカルト団体は、ニュー・エイジ運動をもり立てるために1961年から1963年の間に作られた。全世界の宗教を仲介するエキュメニズムをめざす。1984年、「理解の神殿」というオカルト団体は、その本部をニュー・ヨークの聖ヨハネ大聖堂(The Cathedral Church of Saint John the Divine in the City and Diocese of New York)に設置する。当時の責任者はジョン・パーク・モートン(James Park Morton)であった。「理解の神殿」には「瞑想ルーム(Chambre de Méditation)」があり、「啓蒙の広間 (Hall of Illumination, Atrium de l'Illumination)」と呼ばれる。ここで、「理解の神殿」の道案内として、覚者たち(イルミナーティ、照らされたもの)が新しい人類崇拝を大衆に教えることを計画する。

【注2】『ポプロールム プログレッシオ POPULORUM PROGRESSIO』とは、「諸民族の進歩」という言葉から始まる、パウロ六世の有名な回勅で、救霊のことよりはむしろこの地上での進歩と人間世界の建設を訴えている。


ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第8章 我が家の二頭のトラ

2011年09月07日 | カトリックとは
第8章 我が家の二頭のトラ

 まず、私はこれがどういうことであるかを説明しなければなりません。この「虎」は人食いではなく、逆に人間に食べられた「虎」です。父が1952年1月に死んだとき、中国共産党政府は、すでに三反五反運動を始めていました。この運動は資本家を標的にし、彼らが人民を搾取する人食い虎であると言いました。中国の富裕な事業家は、特に共産主義者を恐れていましいた。単にそれについて言及することですら、彼らの顔は青ざめました。彼らの多くは拷問の後、毒をあおったり、高い建物から飛び降りて自殺しました。

 私の家族に関して言うならば、天主様の慈悲はこの運動が始まる前に父がこの世を去ることをお許しになりました。そして、長兄と3番目の兄が中国に留まっていた私の唯一の兄弟でした。彼らは虎であると見做され、嘲笑と侮蔑の対象となりました。常に民衆を反抗へと先導し、互いに密告させることは、共産党の方針です。息子や娘が自分の両親を批難したり、またその逆を見るのは別に驚くことではありませんでした。夫妻が互いに批難することもまた、一般的でした。共産主義者はこれらの行動を、血縁関係を犠牲にしても正義を擁護することであると説明しました。

 私は、この非人間的な残虐行為が、人が誰をも信頼しない結果に終わるだろうと考えました。人々は完全に彼らの基本的な拠り所の一つを失いました。人は、簡単に他人についての嘘をでっち上げ、自分自身の利益を守るための内通者となる捕われの獣になります。

 父の輸出入の会社は、国の法律を守り、規則に違反することなく、かつ不正な企みにも関与していませんでした。私の二人の兄弟は、自分たちが政府と問題を起こすことはないだろうと考えていました。私たちは、会社の中に内通者がいたことを少しも知りませんでした。彼は私たちの親戚で、私たちの従弟だったのです。彼が何年も前に初めて私たちの家に来たとき、仕事が無く非常に貧しかったのです。父は彼に同情し、彼に会社で給与の高い会計士の地位を与えました。この三反五反運動で、政府は最初に彼に話しかけ、もし会社に対して反対行為をするのならば、高額のボーナスと高い地位を与えると彼を誘惑しました。彼は結局私たち関する多くの嘘をでっち上げることで私たちを裏切りました。間もなくして、共産党の役人は私達の会社を調査し、違法な組織であると見做しました。彼らは私の兄弟を尋問のために連行しました。毎晩私たちは彼らが帰宅するのを待っていた時、多くの拷問の後でよろめきながら家に入るのを見ました。時々、彼らは午後の間ずっと跪かされたと私たちに語りました。役人は、二番目の兄はスーツケースに50万米ドルを入れて香港に逃げたと言いました。役人は、そして兄にそれを認める文書に署名するよう強制しました。

 私の長兄は、それは全くの嘘だと思っていました。会社の総資産はその金額未満でした。どうして彼は書類に署名したのでしょうか?彼らは長兄に非常に厳しい罰を与えました。ある人々に酷く殴られました。その時、私の兄弟はまだカトリック教徒ではありませんでした。彼らは人生の試練の最中に祈る方法を知らなかったのです。彼らは苦しみの本当の意味を知りませんでした。毎晩、彼らは涙と悲しみの中に帰宅し、高齢の母親を案じて、自分たち自身で秘密にしました。私の家族の全員が二人の兄弟が翌朝に処刑されるれるだろうと思ったとき、私たちは涙を抑えることが出来ませんでした。私たちは、お金や財産を失うことは、私たちの兄弟の命を失うことより重要ではないと考えました。だから私たちは、彼らが処刑を回避するために、役人が自白を強いるならば、いつでも彼らの要求通りにするように勧めました。私たちは、これが賢明な考えではないことは少しも分かりませんでした。私の二人の兄弟は、彼ら役人が要求したことに屈してしまいました。その後、彼らはほんの数ヶ月間拘留された後、釈放されました。私たちは代わる代わる彼らを慰めました。私たちは兄弟を失うよりも、むしろ私たちの所有物を失ったほうがましでした。事実、私たちは政府に支払うために、家や非常に貴重な財産を売却しました。

 この運動の後、私の長兄は、香港の私達の親戚への訪問を決めました。私たちは、彼がそこに存在することを望みました。しかし、香港で彼の滞在中、上海の陳毅市長は彼に招待状を送って、上海に戻るようにそそのかしました。祖国に対して忠誠心が厚く、献身的だった彼は、自分の敵を許し、過去の苦い思い出を投げ捨ててしまいました。彼は私の二番目の兄の警告にもかかわらず、中国に戻りました。帰国後、不幸と試練が相次いで彼にふりかかりました。彼は1957年に「右派」と見做され、強制労働収容所での作業に送らました。 1968年の文化大革命中に、彼の家は徹底的に略奪され、彼の財産は没収されました。最後に彼は家から追い出され、毎月彼と妻の生活費のために、僅か24人民元しかありませんでした。約10年間、彼は通りや公衆トイレを掃除しなければなりませんでした。1980年になってようやく、彼の生活状況は徐々に改善していきました。1982年に、私の義姉は脳卒中を起こし、寝たきりでした。たくさんの苦しみの後、天主の御計らいにより、イエズス会の司祭である蔡石方神父様を通して、彼らにカトリックの信仰という最高の贈り物を与えられました。蔡神父様は私たちの親友でした。彼は私たちの親戚が病気であるのを知って時々夫婦を訪問し、彼らにいくつかの教義を説明しました。1982年に、蔡神父様は2人に洗礼を授けました。私の義姉は6年間寝たきりでした。彼女は、「この苦しみの歳月がなければ、どうして私は自分の罪を償うことが出来るでしょう?」と私たちに語りました。1992年に義姉は天主様の内に安らかに亡くなりました。

 私の長兄は、2002年、受胎告知の祝日に亡くなりました。何と慈悲深い全能の天主様でしょう!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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