第11章 嵐の前の突風
私の枕元には、小さな包がいつ用られるか分らないまま置かれていました。そして、その包は3年以上もそこにありました。警察が突然来たら、人は気付かない内に捕まってしまうでしょう。しかし、時には彼らの到来を察知するための、特定の手がかりがあります。1955年8月20日の暑い日、2人の学友が突然私の家に来た時、私は昼寝をしていました。学長と共産党の秘書が私に会わなければならないというので、彼らは、何着かの服をとって来るように私を急かし、すぐに学校に戻りました。私はそれに伴って脅威を感じ、そしてそれは明らかに悪い前兆でした。ですが、私は従う他にありませんでした。私達が学校に到着した途端、クラスの会長は、私がたった今から自由を失い、挙動を監視する4人のクラスメートによって見張られることを発表しました。私はこのすべての大騒ぎの背後にある理由を知らせるよう求めましたが、彼らは無口のままで、私に言った唯一の事は、後で分かるということでした。
学長は、政府がカトリック教会内部の反革命分子を排除するための大規模な運動を開始することを、私に告げました。彼らが持っていた情報によれば、私は重大な反革命的犯罪により有罪であるということでした。私が若くて、単に深く毒されていたことを考慮して、彼らは私が最短の期間で機転がきくように学習し、カトリック教会内部の帝国主義者と反革命的なメンバーを報告することや、暴露することを望みました。その結果、政府の寛大さにより、私が正直であれば罪を軽くするかもしれないということでした。同時に学長は、はっきりと念を押して、私が司教と他の人の今後の人民裁判に出席し、彼らに面と向かって批難することを要求しました。私は彼の最後の言葉を鮮明に覚えています。「胡美玉、あなたは膨大な数の若者たちと教会のメンバーに影響を与える可能性があり、普通の人の大半に変化を引き起こすでしょう」
それは私の信仰が試される時間でした。私は、「三つの否定」(三不)を確実に用いて、悪魔からの誘惑に抵抗せよという神父様の教えを、すぐに思い出しました。"三つの否定とは"読まない、聞かない、答えないことを意味していました。私たちの祖先のイブが誘惑に直面したとき、悪魔に話しかけず、耳を傾けなかった場合、禁断の果実を食べることはなかったでしょう。私はすでに洗礼の時に、神聖で善き天主様を怒らせるよりは、むしろあらゆる苦難の中に身を投げると誓っていました。しかし、今ではその言葉を実行する時でした。自分が素手で戦っている、ただ無力でか弱い若い女の子だったことを考えると、どうして私がそのような権力や専制政治と対抗することが出来るというでしょう?しかし、私には全能の天主様が私の側におられたことは疑いようがなく、従って私は何も恐れませんでした。
翌朝、彼らは全力でまるで大砲のように私を攻撃しました。それは、クラス会長が私自身の自由を失ったことを発表し、二人のクラスメートが一日24時間中私を交代で監視することから始まりました。階下の寮には、私の犯罪行為をびっしりと書き立てた二つの大きな黒板がありましたが、わざわざ一目見ようという気にもなりませんでした。それらは、「反革命分子胡美玉を打倒せよ」や「完全な説明こそが、あなたの唯一の方法だ」等の大きな文字で書かれたスローガンやモットーで覆われていました。どんなに多く書いても、気にしなければ全く単に役には立たず、せいぜい臆病な人に威圧的であるかもしれないと私は考えました。
彼らは朝の8時に「批判会議」を開始しました。クラスの会長は甲高い声で言いました。「私たちの間に隠れていた反動分子の胡美玉をここから追い出そう!」 二人のクラスメートは私を引きずったり蹴ったりし、私は荒々しく前面に押し出されました。何回か、彼らは強制的に自分の手で私の頭を押さえつけ、そして私はその度に頭を上げようとしました。私のクラスメートは完全に怒り狂っていました。彼らは私がクラスの恥になる可能性を恐れたためか、または階級敵に対する憎悪なのかは分かりませんでしたが、誰もが自分の手を振り上げ、自分の声が聞こえるように努めました。彼らが何を話していたのかはっきり聞くことが出来ませんでしたが、私は何人かの親友が、震える声で言うのを聞きました。「胡美玉、私たちはあなたとは境界線を引きます」親愛なる友よ、その言葉を言うことでしか身を守ることが出来なかったことは理解しています。そして、あなたの心が震えていたことも。
その時、私は本当に自由が何であるかに気付きました。私は気が楽になっていました。私は自分が望まないことは何も言いません。私の自由意思は常に自分の掌中にありました。ところが、悲しいかな、私ととても仲の良かったクラスメートは、心にない言葉を言うことで自分自身を救おうとしていました。彼らは心の自由意思を失ってはいなかったでしょうか?私は彼らが気の毒でなりませんでした。
批判会議は4時間続きました。そして、昼食の後、学部長は望んで私と一緒に数時間続いた話をしましたが、私は黙ったままでした。
毎日、このような会議や会話による攻撃は10時間以上続き、彼らは何度も繰り返し同じことを言いました。教会の中で彼ら外国人と中国人の司祭は帝国主義者で反動主義者であると私が告白するのを聞く他には何も望んでいない。私は彼らによって毒され、浸食されていた。彼らの企みを暴露して文書にし、自分のような毒された若者のリストを手渡せば、私は自分の教育を続しけ、明るい未来を持てると。
私は天主様の子です。私は悪魔の立場からこの問題を捉えることが出来ませんでした。私たちのカトリック教会はその教えにより、私たちの霊魂を救います。それがどうして害毒であるのでしょう?私が他人に自分の責任をなすりつけるならば、それは悪魔のロジックと企みです。最後の審判で、天主様の前に立ち、「私は罪を犯すつもりはありませんでしたが、誰かが私にそうするよう強制しました」とどうして言えるでしょう?その上また、私は裏切り者となり、慈善の美徳に矛盾した「功績」を立てることが出来るでしょうか?
「私たちは介入しません。私たちはあなたの神への信仰には反対しません」と共産主義者は繰り返します。しかし、いつでもどこでも、彼らは慈善の美徳に背くよう私たちに要求します。慈善という法律に背いて罪を犯す人々の信仰は、単に砂の上に築かれているだけに過ぎません。どうして、彼らは安全でいられるでしょうか?もし、彼らが大釜の下から薪を取り除いたならば、どうして火を起こすことが出来るしょうか?いつも私に明晰な頭脳と、賢明な意識を与えて下さった天主様に感謝。教会は私に毒を盛ろうとはしませんでしたが、共産主義者はそうしました。彼らは強制的に私が天主様を棄てるために、脅迫と賄賂を用いました。
およそ二週間後は、新しい学期の始まりである9月3日でした。彼らは、クモの巣だらけでほこりまみれの空き部屋に一日中私を閉じ込めました。部屋の真ん中に小さな木製の腰掛がありました。私は壁に向かって黙想するように命じられました。多分、それは彼らが私のために作った模擬の刑務所でした。私のクラスメートがあまりにも私を批判するのに忙しすぎ、かつ私は決心をしていたので、彼らは冷淡かつ無関心な態度で私を扱いました。聖パウロはこう言われました。「すべては神を愛する者にとってすべては良い」(ローマ第8章、28節)様々な物の変化に対し、私は一貫して不変で対応するという基本原則に固執することにしました。そして、私は誘惑に抵抗するための祈りを増やしました。
夕食後、私のクラスメートは、寮から教室に私を連れて行きました。私が教室に足を踏み入れた途端、私は母と姉の美珍がそこに座っているのを見ました。私は再び2人を見たので嬉しく思いました。私の心には喜びと悲しみが入り混じっていました。私が家を出ることについてあまりよく考えておらず、母が晴れやかだったのが私には嬉しく、この見世物が続くとしたら、それは逮捕で終わるかもしれなかったので私には悲しかったのです。
姉の美珍は、直ぐに寧波の方言で私に話しかけました。「あなたが苦難を耐え忍ぶことが出来ずに、自分自身をユダにしてしまうのではないかと思うと恐い」私は彼女に言いました。「美玉は、むしろ教会を裏切るくらいなら死んだ方がましだというメッセージを神父様にお願い。でも気を着けて!嵐が来ている」
母は、当時は異教徒でしたが、すでにかなりカトリックの方に傾いていました。毎日、彼女はロザリオ数十環を私のために唱え、何度も何度も私に言いました。「私の美玉、いい子でいなさい。苦しむことを恐れないで。お母さんは反抗的な娘は要りません」私は天主様から御恵みを得て、その言葉を聞いた途端、私の心の中の痛みは消えていました。私の愛する異教徒の母は、確かにある勇気を持っていたのです!そして、本当に母はカルワリオの丘まで、他の信心深い女性たちと一緒に聖母マリア様について行ったのです。この世の人間にとって、これより大きな御恵みがあるでしょうか?
私はその後、自分の時計と金の鎖を外して自宅に持ち帰るように母に願いました。私は深い愛情を持って母に言いました。「お母さん、娘は忠孝の両方を全うすることは出来ません。ですが、私たちの善き天主様が報いて下さるよう祈ります」
学校の人々は私たちが話していることがよく解らなかったのですが、私たちの表情を観察した後、彼らはそれが有利な状況ではなかったことを知ったので、すぐに私の母と妹を追い出しました。何人かのクラスメートは、悪意を持って言いました。「何と反動的な一家だ!」彼らは母娘間の愛を利用することによって私の信仰を揺さぶろうと目論んでいましたが、誰が正反対の結果を得られると知っていたでしょう!母の信仰は、その後いっそう堅固になりました。
9月4日、学校の人は私の教区の信者で、交通大学の学生である兪玉成氏と楊文奎氏の2人が提供した二件の文書を、私に見せました。彼らはいくつかの情報を書き、私を有罪としていました。私はそれぞれの文書が10ページを超えていたと思いました。いつもの習慣通り、私はそれらを脇に置きました。
校長は言いました。「君はまだ信じられないかもしれないし、私たちが君を騙していると考えているかもしれない。だが、君に告げよう。今夜は2人共自ら姿を見せるだろう」
夕食後、彼らは大学のスクールバスでやって来ました。彼らが私と対面したとき、彼らはまっすぐな目付きで私を見ようとはしませんでした。その後、学校の会長は、「君たちの思想はもう明らかにされているのだから、自分自身の経験について、美玉に教えてやりなさい」と発言して彼らを促しました。最初、彼ら2人は、それらの文書が、自分自身の自由意志で書かれていたことを認めました。そして、彼らは口実を見つけ、私に不正直な多くの理由をつけて、私たちは将来や私たちの家族のことを考えるべきで、政府は私たちの信仰を放棄するよう命令していないのだから、私たちは極端な行動をとるべきではないと言いました。彼らは皆、私を彼らに従わせようと望んでいただけで、それぞれの役を演じました。私は単純に答えました。「私たちは同じ道を歩んではいません。従って、私たちは一緒に集うことは出来ません。あなたは、広い道を行きますが、私は代わりに一本の丸木橋を歩くことを選びます」
彼らの2人は功績を立てるために、どこでも告発大会に参加したし、多くの人を告発したので、彼らは共産党からの刑事処罰を免除されただけでなく、民主青年組織の代表となりました。さらに、彼らは天主愛国協会(中国共産党によって設立され、コントロールされている組織)の幹部にすらなったのです。
彼らの口から、その時十人あまりの若い大学生が学校に戻って自白するように命じられたことを聞きました。ところが、固く信仰を守るために逮捕されたのは、僅かに私ともう一人の学友だけでした。
現在、楊氏と兪氏の二人は、病気で亡くなっています。私はアメリカに行く前に彼らを訪問しました。兪氏は、真剣な言葉と思慮深い心で、私にこう言いました。「あなたは最善の道を選んだよ、美玉。あなたは長生きし、米国に行く幸運を持つような天主様の祝福がある。私は自分があなたより劣っていたのを後悔とともに認める」 私は答えました。「あなたは私が非常に弱いことをよく知っています。しかし、天主様の慈悲は常に私達と共にあります。すべての栄光と賛美は、天主様に帰せられますように。私たちはみな、過ちを犯します。ですから、私たちは天主様の御慈悲にすがる必要があります。私たちは罪人であり、私たちはみな、罪の赦しのために天主様の御慈悲を必要としているのです。ユダが最後に自分の重い罪のために後悔の念を感じた時、彼はキリストの御慈悲を信じておらず、真の希望を持っていなかったので、自殺しました」
私は彼の目に涙を見ました。私たちは30年以上にわたり、離れ離れになっていました。私たち皆に、人生の最後の段階がやって来ます。個人的な恨みや感謝の気持ちは、その時には少しも重要ではありません。私たちの急務は、自分自身で準備し、神の楽園で互いに会いまみえる様に希望することです。
数年前、私は彼が脳出血で死亡したと告げられました。実際、何年もの間、彼は物質上または公的な業績において、いずれも幸運ではありませんでした。彼は非常に懸命に働いていたものの、上司の信頼を得ることが出来ず、国立の大学で良い位置を得ましたが、昇進することが出来ませんでした。彼の大きな不安と彼の働きぶりが認められず、また彼の上司から信頼されていなかったという事実のために、彼の心は平穏ではありませんでした。イエズス様は私たちに語りました「人はふたりの主人に仕えることはできない」(マタイ第六章、24節)こうも言われました。「あなたがたにいっておく。私の名前のために、家または兄弟や姉妹や父親や母親や子供や土地を捨てる人には、100倍かそれより多く受けるだろう、そして永遠の命を受け継ぐだろう」(マタイ 第19章、29節)
当時、私は司教や他の多くの司祭と共に、9月8日の聖母の祝日に出席する招待状を受け取りました。 9月4日から毎日、私は深く祈りに埋没し、十字架の道のために自らを準備しました。
私の枕元には、小さな包がいつ用られるか分らないまま置かれていました。そして、その包は3年以上もそこにありました。警察が突然来たら、人は気付かない内に捕まってしまうでしょう。しかし、時には彼らの到来を察知するための、特定の手がかりがあります。1955年8月20日の暑い日、2人の学友が突然私の家に来た時、私は昼寝をしていました。学長と共産党の秘書が私に会わなければならないというので、彼らは、何着かの服をとって来るように私を急かし、すぐに学校に戻りました。私はそれに伴って脅威を感じ、そしてそれは明らかに悪い前兆でした。ですが、私は従う他にありませんでした。私達が学校に到着した途端、クラスの会長は、私がたった今から自由を失い、挙動を監視する4人のクラスメートによって見張られることを発表しました。私はこのすべての大騒ぎの背後にある理由を知らせるよう求めましたが、彼らは無口のままで、私に言った唯一の事は、後で分かるということでした。
学長は、政府がカトリック教会内部の反革命分子を排除するための大規模な運動を開始することを、私に告げました。彼らが持っていた情報によれば、私は重大な反革命的犯罪により有罪であるということでした。私が若くて、単に深く毒されていたことを考慮して、彼らは私が最短の期間で機転がきくように学習し、カトリック教会内部の帝国主義者と反革命的なメンバーを報告することや、暴露することを望みました。その結果、政府の寛大さにより、私が正直であれば罪を軽くするかもしれないということでした。同時に学長は、はっきりと念を押して、私が司教と他の人の今後の人民裁判に出席し、彼らに面と向かって批難することを要求しました。私は彼の最後の言葉を鮮明に覚えています。「胡美玉、あなたは膨大な数の若者たちと教会のメンバーに影響を与える可能性があり、普通の人の大半に変化を引き起こすでしょう」
それは私の信仰が試される時間でした。私は、「三つの否定」(三不)を確実に用いて、悪魔からの誘惑に抵抗せよという神父様の教えを、すぐに思い出しました。"三つの否定とは"読まない、聞かない、答えないことを意味していました。私たちの祖先のイブが誘惑に直面したとき、悪魔に話しかけず、耳を傾けなかった場合、禁断の果実を食べることはなかったでしょう。私はすでに洗礼の時に、神聖で善き天主様を怒らせるよりは、むしろあらゆる苦難の中に身を投げると誓っていました。しかし、今ではその言葉を実行する時でした。自分が素手で戦っている、ただ無力でか弱い若い女の子だったことを考えると、どうして私がそのような権力や専制政治と対抗することが出来るというでしょう?しかし、私には全能の天主様が私の側におられたことは疑いようがなく、従って私は何も恐れませんでした。
翌朝、彼らは全力でまるで大砲のように私を攻撃しました。それは、クラス会長が私自身の自由を失ったことを発表し、二人のクラスメートが一日24時間中私を交代で監視することから始まりました。階下の寮には、私の犯罪行為をびっしりと書き立てた二つの大きな黒板がありましたが、わざわざ一目見ようという気にもなりませんでした。それらは、「反革命分子胡美玉を打倒せよ」や「完全な説明こそが、あなたの唯一の方法だ」等の大きな文字で書かれたスローガンやモットーで覆われていました。どんなに多く書いても、気にしなければ全く単に役には立たず、せいぜい臆病な人に威圧的であるかもしれないと私は考えました。
彼らは朝の8時に「批判会議」を開始しました。クラスの会長は甲高い声で言いました。「私たちの間に隠れていた反動分子の胡美玉をここから追い出そう!」 二人のクラスメートは私を引きずったり蹴ったりし、私は荒々しく前面に押し出されました。何回か、彼らは強制的に自分の手で私の頭を押さえつけ、そして私はその度に頭を上げようとしました。私のクラスメートは完全に怒り狂っていました。彼らは私がクラスの恥になる可能性を恐れたためか、または階級敵に対する憎悪なのかは分かりませんでしたが、誰もが自分の手を振り上げ、自分の声が聞こえるように努めました。彼らが何を話していたのかはっきり聞くことが出来ませんでしたが、私は何人かの親友が、震える声で言うのを聞きました。「胡美玉、私たちはあなたとは境界線を引きます」親愛なる友よ、その言葉を言うことでしか身を守ることが出来なかったことは理解しています。そして、あなたの心が震えていたことも。
その時、私は本当に自由が何であるかに気付きました。私は気が楽になっていました。私は自分が望まないことは何も言いません。私の自由意思は常に自分の掌中にありました。ところが、悲しいかな、私ととても仲の良かったクラスメートは、心にない言葉を言うことで自分自身を救おうとしていました。彼らは心の自由意思を失ってはいなかったでしょうか?私は彼らが気の毒でなりませんでした。
批判会議は4時間続きました。そして、昼食の後、学部長は望んで私と一緒に数時間続いた話をしましたが、私は黙ったままでした。
毎日、このような会議や会話による攻撃は10時間以上続き、彼らは何度も繰り返し同じことを言いました。教会の中で彼ら外国人と中国人の司祭は帝国主義者で反動主義者であると私が告白するのを聞く他には何も望んでいない。私は彼らによって毒され、浸食されていた。彼らの企みを暴露して文書にし、自分のような毒された若者のリストを手渡せば、私は自分の教育を続しけ、明るい未来を持てると。
私は天主様の子です。私は悪魔の立場からこの問題を捉えることが出来ませんでした。私たちのカトリック教会はその教えにより、私たちの霊魂を救います。それがどうして害毒であるのでしょう?私が他人に自分の責任をなすりつけるならば、それは悪魔のロジックと企みです。最後の審判で、天主様の前に立ち、「私は罪を犯すつもりはありませんでしたが、誰かが私にそうするよう強制しました」とどうして言えるでしょう?その上また、私は裏切り者となり、慈善の美徳に矛盾した「功績」を立てることが出来るでしょうか?
「私たちは介入しません。私たちはあなたの神への信仰には反対しません」と共産主義者は繰り返します。しかし、いつでもどこでも、彼らは慈善の美徳に背くよう私たちに要求します。慈善という法律に背いて罪を犯す人々の信仰は、単に砂の上に築かれているだけに過ぎません。どうして、彼らは安全でいられるでしょうか?もし、彼らが大釜の下から薪を取り除いたならば、どうして火を起こすことが出来るしょうか?いつも私に明晰な頭脳と、賢明な意識を与えて下さった天主様に感謝。教会は私に毒を盛ろうとはしませんでしたが、共産主義者はそうしました。彼らは強制的に私が天主様を棄てるために、脅迫と賄賂を用いました。
およそ二週間後は、新しい学期の始まりである9月3日でした。彼らは、クモの巣だらけでほこりまみれの空き部屋に一日中私を閉じ込めました。部屋の真ん中に小さな木製の腰掛がありました。私は壁に向かって黙想するように命じられました。多分、それは彼らが私のために作った模擬の刑務所でした。私のクラスメートがあまりにも私を批判するのに忙しすぎ、かつ私は決心をしていたので、彼らは冷淡かつ無関心な態度で私を扱いました。聖パウロはこう言われました。「すべては神を愛する者にとってすべては良い」(ローマ第8章、28節)様々な物の変化に対し、私は一貫して不変で対応するという基本原則に固執することにしました。そして、私は誘惑に抵抗するための祈りを増やしました。
夕食後、私のクラスメートは、寮から教室に私を連れて行きました。私が教室に足を踏み入れた途端、私は母と姉の美珍がそこに座っているのを見ました。私は再び2人を見たので嬉しく思いました。私の心には喜びと悲しみが入り混じっていました。私が家を出ることについてあまりよく考えておらず、母が晴れやかだったのが私には嬉しく、この見世物が続くとしたら、それは逮捕で終わるかもしれなかったので私には悲しかったのです。
姉の美珍は、直ぐに寧波の方言で私に話しかけました。「あなたが苦難を耐え忍ぶことが出来ずに、自分自身をユダにしてしまうのではないかと思うと恐い」私は彼女に言いました。「美玉は、むしろ教会を裏切るくらいなら死んだ方がましだというメッセージを神父様にお願い。でも気を着けて!嵐が来ている」
母は、当時は異教徒でしたが、すでにかなりカトリックの方に傾いていました。毎日、彼女はロザリオ数十環を私のために唱え、何度も何度も私に言いました。「私の美玉、いい子でいなさい。苦しむことを恐れないで。お母さんは反抗的な娘は要りません」私は天主様から御恵みを得て、その言葉を聞いた途端、私の心の中の痛みは消えていました。私の愛する異教徒の母は、確かにある勇気を持っていたのです!そして、本当に母はカルワリオの丘まで、他の信心深い女性たちと一緒に聖母マリア様について行ったのです。この世の人間にとって、これより大きな御恵みがあるでしょうか?
私はその後、自分の時計と金の鎖を外して自宅に持ち帰るように母に願いました。私は深い愛情を持って母に言いました。「お母さん、娘は忠孝の両方を全うすることは出来ません。ですが、私たちの善き天主様が報いて下さるよう祈ります」
学校の人々は私たちが話していることがよく解らなかったのですが、私たちの表情を観察した後、彼らはそれが有利な状況ではなかったことを知ったので、すぐに私の母と妹を追い出しました。何人かのクラスメートは、悪意を持って言いました。「何と反動的な一家だ!」彼らは母娘間の愛を利用することによって私の信仰を揺さぶろうと目論んでいましたが、誰が正反対の結果を得られると知っていたでしょう!母の信仰は、その後いっそう堅固になりました。
9月4日、学校の人は私の教区の信者で、交通大学の学生である兪玉成氏と楊文奎氏の2人が提供した二件の文書を、私に見せました。彼らはいくつかの情報を書き、私を有罪としていました。私はそれぞれの文書が10ページを超えていたと思いました。いつもの習慣通り、私はそれらを脇に置きました。
校長は言いました。「君はまだ信じられないかもしれないし、私たちが君を騙していると考えているかもしれない。だが、君に告げよう。今夜は2人共自ら姿を見せるだろう」
夕食後、彼らは大学のスクールバスでやって来ました。彼らが私と対面したとき、彼らはまっすぐな目付きで私を見ようとはしませんでした。その後、学校の会長は、「君たちの思想はもう明らかにされているのだから、自分自身の経験について、美玉に教えてやりなさい」と発言して彼らを促しました。最初、彼ら2人は、それらの文書が、自分自身の自由意志で書かれていたことを認めました。そして、彼らは口実を見つけ、私に不正直な多くの理由をつけて、私たちは将来や私たちの家族のことを考えるべきで、政府は私たちの信仰を放棄するよう命令していないのだから、私たちは極端な行動をとるべきではないと言いました。彼らは皆、私を彼らに従わせようと望んでいただけで、それぞれの役を演じました。私は単純に答えました。「私たちは同じ道を歩んではいません。従って、私たちは一緒に集うことは出来ません。あなたは、広い道を行きますが、私は代わりに一本の丸木橋を歩くことを選びます」
彼らの2人は功績を立てるために、どこでも告発大会に参加したし、多くの人を告発したので、彼らは共産党からの刑事処罰を免除されただけでなく、民主青年組織の代表となりました。さらに、彼らは天主愛国協会(中国共産党によって設立され、コントロールされている組織)の幹部にすらなったのです。
彼らの口から、その時十人あまりの若い大学生が学校に戻って自白するように命じられたことを聞きました。ところが、固く信仰を守るために逮捕されたのは、僅かに私ともう一人の学友だけでした。
現在、楊氏と兪氏の二人は、病気で亡くなっています。私はアメリカに行く前に彼らを訪問しました。兪氏は、真剣な言葉と思慮深い心で、私にこう言いました。「あなたは最善の道を選んだよ、美玉。あなたは長生きし、米国に行く幸運を持つような天主様の祝福がある。私は自分があなたより劣っていたのを後悔とともに認める」 私は答えました。「あなたは私が非常に弱いことをよく知っています。しかし、天主様の慈悲は常に私達と共にあります。すべての栄光と賛美は、天主様に帰せられますように。私たちはみな、過ちを犯します。ですから、私たちは天主様の御慈悲にすがる必要があります。私たちは罪人であり、私たちはみな、罪の赦しのために天主様の御慈悲を必要としているのです。ユダが最後に自分の重い罪のために後悔の念を感じた時、彼はキリストの御慈悲を信じておらず、真の希望を持っていなかったので、自殺しました」
私は彼の目に涙を見ました。私たちは30年以上にわたり、離れ離れになっていました。私たち皆に、人生の最後の段階がやって来ます。個人的な恨みや感謝の気持ちは、その時には少しも重要ではありません。私たちの急務は、自分自身で準備し、神の楽園で互いに会いまみえる様に希望することです。
数年前、私は彼が脳出血で死亡したと告げられました。実際、何年もの間、彼は物質上または公的な業績において、いずれも幸運ではありませんでした。彼は非常に懸命に働いていたものの、上司の信頼を得ることが出来ず、国立の大学で良い位置を得ましたが、昇進することが出来ませんでした。彼の大きな不安と彼の働きぶりが認められず、また彼の上司から信頼されていなかったという事実のために、彼の心は平穏ではありませんでした。イエズス様は私たちに語りました「人はふたりの主人に仕えることはできない」(マタイ第六章、24節)こうも言われました。「あなたがたにいっておく。私の名前のために、家または兄弟や姉妹や父親や母親や子供や土地を捨てる人には、100倍かそれより多く受けるだろう、そして永遠の命を受け継ぐだろう」(マタイ 第19章、29節)
当時、私は司教や他の多くの司祭と共に、9月8日の聖母の祝日に出席する招待状を受け取りました。 9月4日から毎日、私は深く祈りに埋没し、十字架の道のために自らを準備しました。