Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローズ胡美玉さんの《楽は苦に在り》 第16章:天は自らを助ける者を助く

2011年10月06日 | カトリックとは
第16章:天は自らを助ける者を助く

 1956年、私は未だに投獄されていましたが、刑を宣告されてはいませんでした。ある小学校の先生は、同じ牢獄に私と一緒に滞在しました。彼女の夫は(共産党政府は、完全に彼らの政策または思想に同意しない者は誰でも反革命分子と呼びました)反革命分子だったため、彼女は逮捕されました。そして、彼女は夫の「犯罪」を暴露しなかったため、罪を犯したとして糾弾されました。彼女の夫は懲役7年を言い渡されました。彼女の学校の上役は、彼女が批判し、自分の夫から離婚するように奨励しました(訳者注:共産主義者は人に自分自身が刑務所から解放されるように、友人や親戚の反共産主義の行為を公に批判するよう要求しました)。

 学校は、非常に大きな批判闘争大会を開きました。彼女はすべての批判を拒否し、しっかりと、私の夫は国や誰かに何も悪いことをしたことがない非常に正直な人です。どうして、私は彼を非難出来るでしょうかと述べました。その後、彼女の学校は夫と離婚するように彼女を説得する人を彼女の家に送りました。彼女は、「七年は長すぎることはなく、私は彼のために待ち続けます」と言いました。彼女はとうとう、反革命である彼女の夫を庇ったために逮捕されました。

 私は彼女が私に言ったことに心を動かされました。人々は利己的あるべきではなく、最愛の人が困っているときに共感を示すことを知っています。しかし、現実には、特に共産主義者の支配下では、私は多くの囚人が同時に二つの裁判の文書を手に入れるのを見ていました。一つは、彼らの投獄の条件についてであり、もう一つ彼らの離婚の合意書でした。

 ある囚人は、自由と家族を失うことを読み取った途端、気絶してしまいました。中国共産党の政策の下で反革命分子の親戚であることは、同じ様に苦しい仕事をし、最低賃金しか受け取れないという酷い扱いを受けることを意味しました。誰がこのような悲惨な生活を喜んでするでしょうか?そして、これから抜け出す唯一の方法は、離婚することでした。前に述べたこの奥さんは、大きな嵐に立ち向かうほど勇敢でした。彼女は実に良い模範でした。

 その後、私は彼女に「天は自らを助ける者を助く」という話をしました。「ある時、仲間と一緒にヒマラヤ山脈を登っていた若者がいました。天候は非常に寒く、厚い雪は山道を覆っていました。彼らは歩くのに非常な困難が伴いました。彼らが洞窟の入り口に近づいたときに、彼らは雪の上に何か黒い物を見ました。彼らが近づいたとき、それが人間であることがわかりました。彼の体は凍ってほとんど死んでいるようでしたが、鼻から少し息を出していました。

 若い男は、瀕死の人を助けようと思いました。それにもかかわらず、彼の仲間は- もしこの重荷を運ぶのならば山を過えることは出来ず、その後に自分たちの命を失うことになると言って止めました。

 若者は雪の上で凍りついた体を見ました。彼はその人を進んで無視することはありませんでした。彼は雪からその人を救け出さなかったら、その人は雪の中で死ぬだろうと考えました。若い男は少しの間ためらいましたが、とうとうその人を運ぶことにしました。彼の仲間は別れを言うと、自分の道を歩いて行きました。

 若者は、自分の背中に瀕死の男を運んで旅を続けました。動き続けるのに、彼は自分の全ての力を費やしました。徐々に彼の体温は上がっていき、凍った体を温めました。瀕死の男は再び生き帰りました。瀕死の人を運ぶために全ての体力を費したので、彼は冷たさを感じずに汗を流し始め、さらに暖く感じるようになりました。すぐに、彼ら2人は一緒に歩きました。彼らは歩きつつ互に励まし合い、互いに温め続けました。

 彼らが前に自分たちを置き去りにした仲間に追いついたとき、彼は雪の中で死んで横たわっていました。学校の先生は私の話を聞いた後、しばらく黙ったままでした。彼女は、自分が決めたことを絶対に後悔しないと述べました。彼女は夫の帰りを待つ過酷な生活を送るための準備をしていました。私は20年以上後になって、彼女を訪問しました。彼女の夫は18年間投獄されました。彼は7年間の刑を宣告されましたが、その後も帰宅を許されませんでした。それは中国共産党の政策で、その人々は、元囚人と呼ばれていました。

 囚人と元囚人の違いは、後者が低い月給と1年おきに10日間の休暇を得たことでした。彼女の夫は労働改造所にいたので、長年の間、彼女は自分の家族を維持するために彼女が出来る事を全てやりました。彼女は多くの苦難に耐え、人生に大きな苦しみを抱えました。幸いにして娘は成長し、彼女の家族は、その完全な状態を保ちました。

 私は、妻がすぐに夫と離婚し、家族が離れ離れになってしまった他の多くの家族を見ていました。彼らの子供たちは母親が幸せな家庭を壊したために非難しました。その小学校の先生は、数年前に脳卒中にかかりました。彼女の夫は彼女に献身的に世話をしました。彼女は私が彼女に伝えていた話を覚えていました。彼女は言いました。ええ、天は自らを助ける者を助く。それは私たちの日常生活でも同じです。私が夫に忠実でなかったら、だれが今私を助けに来たでしょう?


姉妹笹川の見た怖しい夢

2011年10月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 アシジの諸宗教の集いの日が近づいています。私は、秋田の聖母マリアのシスター笹川が1974年6月10日に見た夢の話を思い出します。安田神父様は、それについて次のように書いています。
 主よ、我らを憐れみ給え!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

***


 六時からのミサのため司祭館から聖堂に向かった私は、二階に並ぶ修室の一つの窓に布団が干してあるのに気づいた。早朝にこれまで見かけぬ干し物なので、目を引かれたのであった。だが、べつに問いただすほどのことでもなし、そのままミサを挙げ、朝食、礼拝といつもの午前中の日課をすませた。
 昼食のとき、ひとりの姉妹から、姉妹笹川の見た怖しい夢、という話題がもち出された。興味を引かれて私がその委しい話を求めると、彼女は恐るおそるという感じで語りだした。

 「今朝ひどい迫害を受ける夢を見て、目がさめてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。
 私の前に大勢のそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それを率いる頭のような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる外人が進み出て、私にこういう言葉をあびせかけてきました。
『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれはキリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕える者であるなら、なぜわれわれと同じく、八百万の神々を神とみとめないのか。神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万の神々を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生をたのしんで生きられるものを。お前たちは好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。いまお前ははっきりと、三位一体の神が唯一の神ではない、八百万の神々も神と信じる、ということを、われわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』

 そういって杖のようなものをふり上げましたが、見るとそれは大きな蛇で、私の体に巻きついてきました。恐ろしさに声も出ないほどでしたが、必死に答えました。『三位一体の神だけが唯一の神です。そのほかにいかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人である、ということだと思います』

 すると相手は
『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』
 と念を押すので、
『はい、その通りです。そしてキリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました』
 と答えると、蛇が一だんと強く巻きついてきて、身動きもできなくなりました。蛇はときどき赤いするどい舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。怖ろしさと身を締められる苦しさで、あとは同じ質問をくり返しなげかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。蛇が赤い舌を顔に寄せてくる時だけは、ロザリオをふり上げて追いはらっていましたが、その力もだんだん弱ってきました。助けを求めて見まわすと、右側には仲間の姉妹たちが並んでいます。どう助けることもできず、ただオロオロしているのが、手にとるようにわかります。眼が合うと『わたしたちがついているから、がんばってね』とそれぞれの眼ざしが言うだけです。日ごろ頼りにする長上も皆そろってお姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。

 もう疲れはてて、蛇の頭をはらいのける力もつき、祈る声も出なくなったとき、ふいに安田神父様が目の前にとび出して来られました。『聖父と聖子と聖霊の御名によって、アーメン』と大きく十字架の印をしてから『彼女の言うように、われわれは皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてもよい』と声高くおっしゃいました。すると、まず左側の気味わるい一団の先頭に立って私を責めたてていた頭分が、たじたじとなって退き、つづいて私に巻きついていた蛇も離れました。

 ヘナヘナとくずれおちた私をようやく姉妹たちが助けに来てくれました。私は神父様にお礼をいう力もないほど、弱りきっていました。汗がふき出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。

 そこで目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした。ああ、夢でよかった、と起き上がろうとしましたが、胸がまだ締めつけられるように苦しくて、すぐには起きられませんでした。手足もつめたくなっているし、隣室の姉妹を呼ぼうとおもっても、喉が締められたなごりで声も出ません。枕もとの時計をみたら、午前四時半を過ぎたところでした。

 やっと起き上がってみると、ねまきはもちろん、ふとんまで体のかたちに汗が滲み通っています。それで、まだ陽も出ていないけれど、窓に干したのでした。
 お聖堂に行っても、祈りのうちにも夢がまざまざと浮かんでくるので、一心にお助けを願いました。共同の祈りになっても、まだ体に力がなくて、声が出ませんでした。

 この夢の話はだれにもしないつもりだったのに、あまりにも怖ろしかったので、つい隣席の姉妹に、こわい夢をみた、と口をすべらしてしまいました。どんな…と聞かれましたが、朝食中だったので、あとで、とことわりました。食後、お礼拝のあとで、その姉妹が私のへやまでわざわざ聞きに来られたので、一部始終を話しました。そしたら『こわかったでしょう。ほんとに、ふとんはまだ濡れている』と、おどろかれたようでした。
 それで、いま、神父様にも判断していただくように、この話題をもち出されたのだとおもいます」
 という報告であった。

 聞き終わった私は、姉妹一同の物問たげな表情を見まわしながら、ただの悪夢とは思えない、と前おきして、自分なりの解釈を述べてみた。──
 これは笹川さんだけに関する事ではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、多神教への接近をこころみる傾きがみられる。同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて比較的楽な方向に向けて行く。現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみ言葉を誠実に守る使命につくさなければならぬと思う。……
 この意見を姉妹たちはうなずいて聞いていたが、中には、たかが夢に過ぎないことを…と、まじめに受け取る気にならない者もいたようであった。ともかく、これで一場の夢ものがたりとして、けりがついたかたちであった。

 ところが、その夕方のことである。晩の聖務に先立つロザリオの終わったとき、姉妹笹川があわただしく寄って来て「神父様、となりのへやに蛇がいます」と告げた。立って行き応接間の戸を少し開けてみると、奥の壁ぎわに大きな蛇がとぐろを巻いている。姉妹たちも背後から目にしたらしいので、私はまず一同を落ちつかせるために、今は祈りの途中であるから続けるように、と命じて戸をしっかり閉めた。やがて晩の祈りの終わったところで、蛇を応接間から玄関口へ追い出し、戸外で始末したのであった。

 あとから姉妹笹川の説明によると「ロザリオの終わりに“いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え”と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」ということであった。

* * *

 これは今から思えばもう十二年前の、一つの悪夢とそれにつらなる出来事であるが、あらためて吟味すると、いろいろな警告がふくまれているように思われる。さらに、近い将来にあてはまる重大な示唆がみとめられるようである。
 姉妹笹川を責めたてた神学者めいた頭目の言い分を、とり上げてみよう。
その第一は、三位一体の神がなぜ唯一の神なのか、という詰問である。天地創造の神を信じてきたユダヤ教にしても、神は唯一とみとめても、三位一体の秘義は知らなかった。この三位一体の秘義の啓示を受けなければ、イエズス・キリストが唯一の神の子であることも、信じることはできないわけである。迫害者は「われわれはキリストが神であると信じることはできない」と宣言しているが、この問題は今に始まったことではなく、唯物論の抬頭と科学主義時代の幕明きと同時に、人間精神を揺すぶってきた課題である。今や教会の中にも、多種多様の形で婉曲な唯物思想やヴェールをかぶった無神論が入り込んでいることは、蔽いようのない事実である。

 この夢では、ひとりの神学者が唯物思想をもって、戦いをいどんでいるが、これはまた現代精神の滔々たる趨勢を、表徴しているごとくである。
 彼の主張によれば、八百万の神々、すなわち昔から日本にあった在来の神々を信じれば、われわれも皆カトリックになる、という。これは妥協による容易な福音伝道をめざす、安易な宣教活動の態勢と合致するものである。
 結論としては「われわれの仲間になれば、人生をおもしろおかしく、楽しく生きられるものを」と憐れむごとく誘いをかけ、信仰を現世的生活の享楽の補充とさえしているのである。つまりは、この世に生きる人間生活が大事なのであって、崇高なる神の次元に結びつく超自然の生活を否定するのである。
 ここに、たかが夢の話として軽視できぬものを、私は感じとったが、実はやがて彼女の受けるべき試練の前知らせのようなものであったと思われる。そのような意味がふくまれる故にこそ、天使が先の治癒の予告にさいして「今朝の食卓で夢のことが話題となったでしょう。心配することはない」とわざわざ言及されたのであろう。そして、夢を軽んじた者のために、現実に蛇を目に突きつけて、反省をうながされたのであろう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】