Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

来年2012 年の秋田巡礼の意向

2011年10月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ただ今、マニラでは、明後日の朝マニラにいらっしゃるフェレー司教様の歓迎準備と、レジオ・マリエ第一回国際大会がマニラでしあさっての土曜、主日とあるのでその準備で大変です。

 さて、来年の秋田巡礼ですが、私たちはファチマの聖母マリア様、秋田のマリア様のメッセージを受け止め、私たち日本民族がこの地上の面から消え失せてしまわないように、償いの巡礼を行います。

 特に、1974年6月にシスター笹川が見た夢でのエキュメニズムに対する警告を前向きに受け止めて、アシジのエキュメニズム集会に対する警告だと深く理解します。そこで、来年の秋田巡礼はエキュメニズム集会の躓きを償うために特に捧げたいと思います。愛する兄弟姉妹の皆様の多くの参加を期待します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

福島の合唱団の方々の歌うラテン語聖歌

2011年10月12日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 昨日で、今年の3月11日に起こった東日本の大震災から7ヶ月がたちました。多くの方が未だに苦しまれていることに思いを馳せざるを得ません。

 長崎に原爆が投下された1945年8月9日の真夜中ごろ、長崎大学病院放射線科の小笹富子看護婦たちは、ラテン語で聖歌を歌っている女声合唱を聞きました。

「苦悶の中で絶命したに違いない27人の修道女たちは、近くを流れる小川のほとりで身を寄せ合い、歌いながらこの世から去っていったのでした。」(ポール・グリン『長崎の歌』260ページ)

「その夜、一晩中美しいラテン語の讃美歌の合唱がとぎれとぎれに聞こえてきました。夜が明けてみると、学園の運動場の草むらの中に、7、8人の修道女がひとかたまりになって、手を取り合い冷たくなっていた」(瓊浦女学校『白夾竹桃の下』田崎光枝)。

 長崎純心聖母会の初代学園長であるシスター江角ヤスは、空襲が激しくなったころから毎日校内全員に聖歌を合唱させていたそうです。彼女たちは歌い慣れた聖歌「み母マリア 身も心も とこしなえに 献げまつる」を一節一節歌いながら励ましあい続けて死んでいったのです。

 ところで、福島の方々が、ラテン語で聖歌を歌っている動画のことをクチュール神父様から教えていただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。ここで聖歌を歌っている生徒の方々、市民の方々、合唱団の方々が、今回の震災から逃れて安全であっていらっしゃることを心からお祈りします。


O magnum mysterium(Pierre Villette)


Ave Regina Coelorum  福島県立安積女子高等学校


FMC混声合唱団
G.P. da Palestrina"Hymni totitus anni" よりConditor alme siderum


Victoria ; Jesum tradidit impius
(Aizu High School Male Chorus Club) 会津高校合唱団


FMC混声合唱団 
Ildebrando Pizzetti "Messe di Requiem" より "Agnus Dei , Libera me"



愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



ローズ胡美玉さんの《楽は苦に在り》 第二十一章 天主様の二回目の召喚

2011年10月12日 | カトリックとは
第二十一章 天主様の二回目の召喚

 一九五八年に、いわゆる文化革命のもう一つの波が起き始めました。多くの必須である洗脳を目的とした学習班が近所で設立されました。私は学習班に加わるのを避けるために、最善を尽くしました。しかし、私は近付きつつあるトラブルに不安を感じるのを、止められませんでした。 姉と私はカトリック教徒であり、逮捕は避けられないものでした。それは私たちの番を待つための持久戦でした。私たちは、逮捕がいつになるかを知りませんでしたし、私たちが去った時に誰が家の面倒を見るか分りませんでした。家族は崩壊しました。 私たちが再び一緒になるかどうか、確信が持てませんでした。特に気に掛けていたのは、香港に住んでいる母のことでした。どうして、母が私たちの逮捕という悪い知らせを受け入れることが出来たでしょう? 私たち二人は、刑務所への若干の基本的な必需品を荷造りし、心配しつつ待ちました。ついに、一九五八年九月十二日の午後三時、警官は私たちの家にやって来ました。私たちは用意された包みを取り、ばあやにさよならを言いました。私たちは、ばあやに、母を怖がらせるような悪い知らせを隠すよう頼みました。私たちの二回目の逮捕でした。天主様の二回目の召喚において、私たちが苦しむということを知っていました。

 警官は、姉と私を離れ離れにしました。姉が盧湾区に送られる一方で、私は徐匯区に送られました。裁判はありませんでした。場所と時間について触れられた私たちの犯罪の供述書は、まるで本当の事実であるように、私たちの間にいたスパイによってでっち上げられました。私は三ヵ月後、上海市の牢獄に移りました。私は、信仰を守る最高の方法が投獄されることだと知りつつ、移されました。愛国協会は共産党によって確立され、支配されました。私の以前のカトリック教徒の友人の何人かは共産党に入党し、愛国協会の主任委員となりました。彼らは声高に共産主義のスローガンを言いい、上海の龔品梅司教が多くの若者の心を害した最大の犯罪者であったと訴えました。私はめまいを感じ、いつでも彼らのうそを聞いた時に、私の血圧は上がりました。私を最も傷つけたことは、私の最も尊敬する二人の朱神父様と張希斌神父様を含む多くの聖職者が逮捕されていたと聞いたことです。私は、自分がカトリックの信仰を捨てれば、直ぐに釈放されると言われました。たとえ自分の将来、または人生を終えることになったとしても、私はそうしないと心に決めていました。私は十字架を背負い、天主様の御召に従おうと決心しました。私は、天主様が私に苦しみを与えることを褒め称えました。そして、天主様に特別な天の御恩みを祈願しました。天主様が私にどのような道を用意されたとしても、私は後悔せずに歩きます。

 上海市の提籃橋監獄に到着した数日後、私は裁判無しの刑罰に署名するために、刑務所長の事務室に呼ばれました。看守は、最初に署名し、それから読むようにと私に言いました。彼は、私が懲役十五年を宣告され、私は十日以内に控訴出来ると告げました。それから、私が刑罰について、どう考えているか尋ねました。私は、自分は終身刑を予想していたと言いました。懲役十五年と終身刑には、少しの違いもありませんでした。両方の刑期は、同じように長く見えました。いずれにせよ、心臓病を抱えつつ十五年間生き残ることが出来るのか、私には分りませんでした。私は牢屋に戻り、二十代前半から十五年の間、自分が残りの世界から切り離されることのなったのを理解し始めました。もし、私が天主様にすがらなかったのならば、発狂してしまったことでしょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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