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ローズ胡美玉さんの《楽は苦に在り》 第二十三章 労改農場に追放される

2011年10月14日 | カトリックとは
第二十三章 労改農場に追放される

 一九五九年九月二十日に、数人の収監者が、彼らが刑務所の看守の机の上で、特別な訪問に関する何枚かの許可書を見たと、私にささやきました。彼らは、私がすぐ国外に追放されるかもしれないと、私に警告しました。通常、特別な訪問のための許可は、囚人が最後に家族する面会に認められました。多くの囚人は労改農場で死に、決して戻っては来ませんでした。ほとんどの囚人が、訪問者と面会を突きあわせることができましたが、カトリック教徒の囚人は、訪問者に話しかけるときは鉄格子に遮られていました。カトリック教徒だけが、特別な面会の為に許可を必要としまた。このことにより、収監者は許可書の中の一枚が、私のためであると推定しました。彼らは正しかったのです。私は翌日に許可を受け、看守は訪問日が二十四日にあると伝えました。そして、私が労改農場に送られるというので、家族に何を持ってきて欲しいかを尋ねました。私は農場の位置について、聞くことが認められていませんでしたし、私がどこに行くかを見ることは許可されませんでした。収監者が、白湖農場からの監督が到着するのを見たときまで、謎解きは続きました。彼らは、そこが私の残りの刑期の年月を勤める場所になるだろうと私に言いました。

 九月二十四日に、私の二人の年老いたばあやがやって来ました。 私を見たとき、2人は涙を流しました。三番目の兄と私の姉が清海に追放され、最後の訪問に厚い掛け布団を彼らに届けてたと私に告げました。私の入獄中、この二人の忠実なばあやが、私たちに救援物資を届けるために奔走しました。最も親愛なる天主様、彼女たちの愛情と忠誠をありがとうございます。おそらく、彼女たちが私の耳元で、香港にいる母が既に私たちの逮捕に気付いているとささやきましたから、あなたは私たちの事情を想像されたのではないでしょうか。母は肝臓癌にかかっていました。

 最後の訪問の二日後に、看守は私の牢屋に現れ、四日間の食物として四個のパンを私に手渡しました。それは、私が四日間の旅をして農場に送られることを示唆しました。多分、それは安徽省の白湖農場でしょう。短い間の後に、私が他の女性の収監者と共に手錠をかけられ、私の左手がその女性の右手に繋がれた場所である牢屋の扉が開けられました。私たちは、船のドックに運ばれて、貨物船の上に乗せられました。窓の無い船倉に約五百人の女性の収監者と共に入れられ、私たちはすし詰めになって床に座ったり、横にならなければなりませんでした。浴室もトイレもありませんでした。部屋の真ん中に、排泄のための大きい容器がありました。真ん中に着くには、人の体を踏んで行かなければなりませんでした。そして、待ち時間は少なくとも二十分でした。容器は大人数のためにすぐにいっぱいになり、排泄物は溢れて、容器の隣で眠った不幸な人の掛け布団に染みつきました。私たちはそれぞれ、四個の硬くてカビの生えたパンだけを食べました。私はパンを水と一緒に食べたかったのですが、トイレに行くのを避けるために、水分の摂取量を制限するよう努めました。飢え、渇き、そして疲労に加え、ついにはトイレに行く衝動を抑える苦しみを経験しました。文字通り、排泄用の容器に辿り着くには、人体の層の上を這って行かなければなりませんでした。 私は、四日間入浴せずに五百人の収監者と同居するのは、地獄にいることだと説明するより他にありません。

 この生き地獄には、数人のカトリック教徒の親切な行為から来た特別な「芳香」がありました。上海地区の聖心堂から来た約十二人のカトリック教徒の囚人がいました。私は彼らを知りませんでしたが、よく他人に自分より前に排泄用の容器を使わせた一人の女性に気が付きました。私は、彼女の親切なジェスチャーを観察し、彼女がカトリック教徒ではないかと疑いました。私たちは、お互いに自分たちを紹介しました。そして入れ替わりに、彼女は修道女と徐簡谷神父様の妹を含む他のカトリック教徒に、私を紹介しました。彼らはかんしゃくを起こした私を心配し、私が苦しみを天主様に捧げるよう励して下さいました。彼らの助けが無ければ、私は地獄で生活する三日間をやり過ごせたでしょうか?
 私たちは四日目に非常に疲れていました。水は無く、排泄物の容器の余裕も全くありませんでした。私は唇がひび割れている収監者を見ました。隊長が下りてきて、間も無く私たちが卵と他の栄養のある食物を買うことが出来る労改農場に到着するので、それ以上眠らないようにと私たちに言いました。収監者からは、応答が全く来ませんでした。黙った方がましでした。私たちが生きて農場に着くとは、誰も確信が持てませんでした。

 とうとう、私たちは岸辺に到着しました。私たちは、自分たちの荷物を取るのではなく、白湖農場へと歩くように言われました。私たちは暗闇の中を約五キロ歩き、屋根がわらで作られているテラスに着きました。地面に横たわって寝るのに、招待状は必要ありませんでした。私たちが目覚めたとき、私たちは荷物を取りに行くために送られました。それは、労改農場における私の生活の始まりでした。



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