第二十二章 マクダラのマリアに倣って
私は、カトリック信者となって長くはなかったので、聖書についてあまりよく知りませんでした。しかし、私はマルタとマグダラのマリアの話を知っていました。私の判決の数日後に、私はこの話について考えてみました。彼女の姉マルタが奉仕しているのを助ける代わりに、マリアは、イエズス様の御話を聞くために彼足元に座ることを選びましたが (ルカ 第十章三十九-四十節)。私は、自分の投獄が、ひたすら注意を集中し、イエズス様により近づくようにしたと感じました。私は誇張しているかもしれませんが、投獄されていることはイエズス様を喜ばせているのかもしれません。もし、私がそれをイエズス様の愛ゆえにしたのならば、全ては価値ある物でした。私がイエズス様と共に苦しむように選ばれるという大変な名誉であったのに、なぜ何か心配することが有り得るでしょうか?
それは約二千年前に起こりました。 イエズス様はファリサイ人の家に招待されました。 香油の入った石膏の壺を保って、実際には罪人であった婦人が来ました。彼女は彼女周り全体を気に掛けませんでした。ファリサイ人は、差別と憎しみに満ちた目で彼女を見ました。この罪人は、なぜイエズス様にやって来たのでしょう? そして、何を求めていたのでしょうか? しかし、マグダラのマリアはたった一つの思いを持っていました。
「私たちの主は善き羊飼いで、私は彼の失われた羊です」
と。何も彼女がイエズス様に近づくのを止めることは出来ませんでした。彼女の罪を許すのは、イエズス様だけでした。彼女は何も言う必要はありませんでした。 愛情を込めて、彼女は、自分の涙でイエズス様の足を洗って自分の髪で拭き、口付けをしました。 そして、彼女は、自分が貴重な軟膏を全部イエズス様の足の上に塗って空にしたことを示すために、大きな音を立てて壺を壊しました。彼女はイエズス様に全てを捧げました。彼女は泣き、自分の罪の為に公けに償いをしました。彼女は私たちの主にすべてを提供しました。
「彼女は多く愛したので、多くの罪が許された」
と、イエズス様は仰せになりました。そして、
「あなたは許されている。信仰があなたを救ったのだ。行きなさい、平和の中に」 (ルカ 第七章四十七-五十節)
私たちにとって、何と素晴らしい教訓でしょう。
一九五八年に私が懲役十五年の判決を受けた時、イエズス様にこう語ったのを覚えています。「今、私はマクダラのマリアが壺を壊さなければならなかったように、自分の壺を壊さなければなりません。私は、あなたのために持っている全てを注がなければなりません。あなたの私への愛はとても素晴らしいです! あなたは十字架の上で私のために死にさえしました。私はどうしたら、あなたを十分に愛することが出来ますか?」 愛は愛によって返されるべきです。私が、ユダが自分にこう囁くのを聞いたように思えました。
「あなたはまだ若い。あなたは、教会のためにいろいろな事が出来ます。なぜ、刑務所に留まるのですか? あなたの父は大金持ちです。なぜ遺産を得て、貧乏人に寄付しないのですか?」
あらゆる邪悪な誘惑は、似通っていました。それは良いように聞こえましたが、妥協することなく信仰を守るのは、私が最優先することでした。私には、一つの霊魂があります。私は、それを失うために少しの危険も冒すことが出来ませんでした。
イエズス様は、マリアの心と時間が御自分と共にあることに焦点を当てて、マルタに「マリアは良い方を選んだ」(ルカ 第十章四十二節)
と仰せになりました。これは、彼女の人生で最も良い選択でした。天主様は私に最良なものをお選びになりました。何度か、天主様は私をこの世の虚栄から私を連れ去り、私が天主様だけと共にいることをひたすらお望みになりました。癌患者であることは、私には不運であるように思えましたが、実際は、イエズス様の苦しみを共有するための私の最良の時間でした。イエズス様により近付き、深い愛を以て見つめるのは私の特権でした。過去の罪の苦悩と同様に、身体の苦痛を抱えつつも、私はマリアより祝福されていました。この世で他に何か望むことが有り得るでしょうか?
今、イエズス様はカルワリオへの道の途中におられます。 使徒の大部分がイエズス様を見捨てているのに、どうして、私が道の途中でその恐ろしい十字架にイエズス様を放っておくことが出来るでしょうか?マクダラのマリアは賢明でした。彼女はキリスト様に従うことを望んでいました。恩寵により、彼女の唯一の方法は、私たちの御母と共にいることであるのとを知ることが出来ました。ええ、自分の話のこの時点で、私はマリア様が自分の人生で何度も多く守って下さったのかが分かります。マリア様は、確実にカルワリオの頂上まで私を的確に導びいて下さるでしょう。
この世での苦しみは一時的です。十字架への磔の後にしか、御復活はやって来ません。 復活祭の日曜日の朝、「マリア!」という甘い呼び声は、彼女に新たな生活と力を与えました。 (ヨハネ 第二十章十六節)天主様の御慈悲を信じ、彼の愛の内に住まわせて下さい。人生の最後の最後に、「ローズ!」とお呼びになるのを聞き、私がいつまでもあなたの腕の中で平らかに休息するのをお許しになるのをどんなに望んでいることでしょう。
私は、安徽省にある労改農場で刑に服すよう判決を下されました。そしてこの時、私は別の収監者から、姉が既に七年間の投獄で清海省の労改農場に送られたと聞きました。そこは私のより過酷な場所でした。それは、イエズス様が私は姉より弱かったのを御存じだったからです。
私は、カトリック信者となって長くはなかったので、聖書についてあまりよく知りませんでした。しかし、私はマルタとマグダラのマリアの話を知っていました。私の判決の数日後に、私はこの話について考えてみました。彼女の姉マルタが奉仕しているのを助ける代わりに、マリアは、イエズス様の御話を聞くために彼足元に座ることを選びましたが (ルカ 第十章三十九-四十節)。私は、自分の投獄が、ひたすら注意を集中し、イエズス様により近づくようにしたと感じました。私は誇張しているかもしれませんが、投獄されていることはイエズス様を喜ばせているのかもしれません。もし、私がそれをイエズス様の愛ゆえにしたのならば、全ては価値ある物でした。私がイエズス様と共に苦しむように選ばれるという大変な名誉であったのに、なぜ何か心配することが有り得るでしょうか?
それは約二千年前に起こりました。 イエズス様はファリサイ人の家に招待されました。 香油の入った石膏の壺を保って、実際には罪人であった婦人が来ました。彼女は彼女周り全体を気に掛けませんでした。ファリサイ人は、差別と憎しみに満ちた目で彼女を見ました。この罪人は、なぜイエズス様にやって来たのでしょう? そして、何を求めていたのでしょうか? しかし、マグダラのマリアはたった一つの思いを持っていました。
「私たちの主は善き羊飼いで、私は彼の失われた羊です」
と。何も彼女がイエズス様に近づくのを止めることは出来ませんでした。彼女の罪を許すのは、イエズス様だけでした。彼女は何も言う必要はありませんでした。 愛情を込めて、彼女は、自分の涙でイエズス様の足を洗って自分の髪で拭き、口付けをしました。 そして、彼女は、自分が貴重な軟膏を全部イエズス様の足の上に塗って空にしたことを示すために、大きな音を立てて壺を壊しました。彼女はイエズス様に全てを捧げました。彼女は泣き、自分の罪の為に公けに償いをしました。彼女は私たちの主にすべてを提供しました。
「彼女は多く愛したので、多くの罪が許された」
と、イエズス様は仰せになりました。そして、
「あなたは許されている。信仰があなたを救ったのだ。行きなさい、平和の中に」 (ルカ 第七章四十七-五十節)
私たちにとって、何と素晴らしい教訓でしょう。
一九五八年に私が懲役十五年の判決を受けた時、イエズス様にこう語ったのを覚えています。「今、私はマクダラのマリアが壺を壊さなければならなかったように、自分の壺を壊さなければなりません。私は、あなたのために持っている全てを注がなければなりません。あなたの私への愛はとても素晴らしいです! あなたは十字架の上で私のために死にさえしました。私はどうしたら、あなたを十分に愛することが出来ますか?」 愛は愛によって返されるべきです。私が、ユダが自分にこう囁くのを聞いたように思えました。
「あなたはまだ若い。あなたは、教会のためにいろいろな事が出来ます。なぜ、刑務所に留まるのですか? あなたの父は大金持ちです。なぜ遺産を得て、貧乏人に寄付しないのですか?」
あらゆる邪悪な誘惑は、似通っていました。それは良いように聞こえましたが、妥協することなく信仰を守るのは、私が最優先することでした。私には、一つの霊魂があります。私は、それを失うために少しの危険も冒すことが出来ませんでした。
イエズス様は、マリアの心と時間が御自分と共にあることに焦点を当てて、マルタに「マリアは良い方を選んだ」(ルカ 第十章四十二節)
と仰せになりました。これは、彼女の人生で最も良い選択でした。天主様は私に最良なものをお選びになりました。何度か、天主様は私をこの世の虚栄から私を連れ去り、私が天主様だけと共にいることをひたすらお望みになりました。癌患者であることは、私には不運であるように思えましたが、実際は、イエズス様の苦しみを共有するための私の最良の時間でした。イエズス様により近付き、深い愛を以て見つめるのは私の特権でした。過去の罪の苦悩と同様に、身体の苦痛を抱えつつも、私はマリアより祝福されていました。この世で他に何か望むことが有り得るでしょうか?
今、イエズス様はカルワリオへの道の途中におられます。 使徒の大部分がイエズス様を見捨てているのに、どうして、私が道の途中でその恐ろしい十字架にイエズス様を放っておくことが出来るでしょうか?マクダラのマリアは賢明でした。彼女はキリスト様に従うことを望んでいました。恩寵により、彼女の唯一の方法は、私たちの御母と共にいることであるのとを知ることが出来ました。ええ、自分の話のこの時点で、私はマリア様が自分の人生で何度も多く守って下さったのかが分かります。マリア様は、確実にカルワリオの頂上まで私を的確に導びいて下さるでしょう。
この世での苦しみは一時的です。十字架への磔の後にしか、御復活はやって来ません。 復活祭の日曜日の朝、「マリア!」という甘い呼び声は、彼女に新たな生活と力を与えました。 (ヨハネ 第二十章十六節)天主様の御慈悲を信じ、彼の愛の内に住まわせて下さい。人生の最後の最後に、「ローズ!」とお呼びになるのを聞き、私がいつまでもあなたの腕の中で平らかに休息するのをお許しになるのをどんなに望んでいることでしょう。
私は、安徽省にある労改農場で刑に服すよう判決を下されました。そしてこの時、私は別の収監者から、姉が既に七年間の投獄で清海省の労改農場に送られたと聞きました。そこは私のより過酷な場所でした。それは、イエズス様が私は姉より弱かったのを御存じだったからです。