第18章:不思議な日
それは1957年6月に上海の徐匯区拘置所で起きました。その時、警察は囚人のほとんどを釈放していましたが、ある神学生と私はまだ拘留されていました。共産主義者の政策は、それほど厳しくなくなり、食べ物は以前よりも良くなりました。家族は一週間おきに食品を送ることを許されました。私が滞在した牢獄は、以前より明るく大きかったのです。私はすべてに満足しました。
私は彼らが私を解放するとは思っていませんでした。私は、天主様が御自身の為だけに私を創られたことに気付きました。私がこの牢獄に滞在したことは、天主様の御意志だったのです。
私は日夜、天主様を賛美し、崇拝することが出来ましたので、牢獄は私の天国のようでした。他に私はどこに行きたいと思ったでしょう?ところが、1957年6月3日の午前9時頃に警察が尋問のオフィスに連れて行きましたので、私はとても驚きました。私は長い間、呼ばれていませんでした。多分、取調官が新たな戦術を用いるのではないかと、私は考えました。私がオフィスに入った途端、役人が非常に簡潔に私に言いました。「胡美玉、私たちは今日あなたを釈放するつもりです」
それは私にとって全く新しいことでした。逮捕されて以来、100回以上も「厳しい処罰を受ける」、とか「生涯投獄されるだろう」という言葉を耳にしました。その一方で、どうして私はそのような言葉を信じられるでしょう?私は、何の考えも無しに言いました。「冗談を言っているのではないですか?あなたは私のカトリック信仰が、今でも最初に逮捕された時と同じであることを非常にはっきりと知っています。今日は政策が緩やかだから、あなたは私を釈放するのでしょう。もしかしたら、来年は状況が厳しくなるかもしれません。それから、再び私を刑務所に入れるのでしょう。私たちは、ドラマを演じているのではありません。現実に直面するのに、私は上から下になったり、下から上になることは望ましくはありません。今は、私を家まで送らないでください。私はむしろ留まる方が良いと思います」私が言ったことを聞き、取調官は唖然としていました。何分かの沈黙の後に、彼は言いました。 「家に戻る気が無いような馬鹿は、見たことがない」おそらく、彼は私に圧倒されたのでしょう。彼は単刀直入に、「あなたの母親がロビーで待っている」と私に言いました。私は吹き出しました。母は約10ヶ月前に香港に行きました。それは全く嘘でした。私は何度も頭を横に振りました。「私は家に帰ることはありません、以上」「すぐにロビーに行きなさい」私はどうしたらよいでしょうか?突然、賢い考えがが私の心に入って来ました。 「いいでしょう。もし、私がそこで母を見つけたら、私はきっと家に帰ります。そうでない場合、私は牢屋に戻ります」私はロビーに急ぎました。確かに、母とばあやは、辺りを見つめていたのでした。私は遠くから、「お母さん、お母さん」と呼びました。それから、私は取調官に顔を向けて、「私は今すぐ家に行きます」と言いました。私は、いくつかの衣類や、日用品を牢屋に置いていたことを完全に忘れてしまいました。
母は急いで言いました。「家に帰りましょう」しかし、役員は言いました。「釈放状に署名するためにオフィスに戻り、牢屋から持ち物のすべてを取って来るように」 そこで母は言いました。「私たちは物は気にしないけれど、あなたはとにかく書類に署名しなければ」母たちは、出来るだけ早く家に帰ることが出来るよう待っている間に、2台の三輪車を呼びようにばあやに尋ねました。私は拘置所から出た時、母はもうに三輪車で私を待っていました。母は、言うべきことを知らなかったかのように、興奮していました。母は、自分が一日前に上海に到着したことを私に告げました。
彼女は何ヶ月もの間、香港にいましたが、姉と私の2人のことを寂しく思わずにはいられませんでした。二番目の兄は、母が戻るのをやめるように最善を尽くしました。それにもかかわらず、母は自分の心を変えることはありませんでした。結局、母は飛行機の切符を買って戻ってきたのです。 母は自分自身で非常に満足し、「もし、私がここに来なかったら、どうして警察があなたを釈放したでしょう」と言いました。私たちは10分以内に家に着きました。私の家族は私の逮捕後に引っ越していました。新しい家は豪華なマンションでした。姉のマリアと私は、まだ1つの寝室を共有しました。その日の夜、私の家族には二重の喜びがありました。母は香港から戻り、私は釈放されたのです。多くの客がやって来ました。蓄音機は、「私たちの家族の再会」という曲を演奏していました。私たちは皆、大きな喜びに浸っていました。しかし、私が何を考えていたかを誰が知っていたでしょうか?様々な考えが頭に浮かびました。私は、喜び、嬉しさ、怯え、そして苦さを感じていました。
それは実際、私の表現を超えていました。私は再び母を見るのが嬉しく、多くの家族に会うのは、実に心地よいことでした。しかし、私は二回目の逮捕があったらと心配しました。どうして、母がそれに耐えることが出来るでしょう?そのような快適な生活から、再び去らなければならないと考えると、苦い感じがしました。私は家にある全ての物や、私に仕える三人のお手伝いさんが好きでした。私は全ての世俗的な幸福を享受出来ましたが、自分の信仰を否定する必要がありました。天主様は、私が自分の信仰を否定するか、それとも永遠の命を得るために完全に自分自身を否定するかという、私に非常に厳しい選択をお与えになりました。私は天主様に、なぜ何度も決断をお求めになったのかと尋ねました。私は自分の一回目のの逮捕の為に、非常に長い間準備していました。私は天主様の御摂理により、別の選択肢があると考えを持っていませんでした。私は熱心に祈ることと、カルワリオの丘の上まで私たちの主イエズス様に従う必要がありました。
マットレスは私にとってあまりにも柔らかかったので、夜になると私は堅い板張りの床の上で寝るのを好みました。母は言いました。「それは構わないけれど、獄中で学んだ悪い習慣に従わないように覚えておかなければなりません。ある囚人は、悪い習慣を持っています。私たち家族はよく教育されていることに気を付けて。あなたは多くの聖なる司祭と修道女たちによって育てられたのです。あなたは行儀良くしなければいけません」私はこれらの言葉を、一生涯心に留めました。いつでも、そしてどこへでも、私は常に自分が天主様の子どもであることを念頭に置いています。
次の日、母は香港へのパスポートを申請するために、公安局に行くよう私に求めました。母は、多くのカトリック教徒が、釈放後にパスポートを取得していたことを知っていました。二番目の兄は、私が出来るだけ早く香港に行くべきで、そうでなければ確実に再逮捕されると主張しました。間違いなく、私はすぐに香港に行けると期待しました。私は翌朝早く公安局に行きました。多くの警察官が私を覚えていました。誰もが私が再び牢獄に入るのかと尋ねました。 今回は私が香港に行くための承認をお願いする時間です、と私は笑顔で答えました。彼らは私のリクエストに驚きました。彼らは、私がほんの前日に刑務所から出て来たのに、次の日に香港に行くのは馬鹿馬鹿しいと思っていました。彼らは、ほとんどの場合では娘は母と一緒に滞在したいのではないかと思い込んでいたのです。
6月4日から8月30日まで、私は何回公安局に行ったか覚えていませんが、彼らは繰り返し私のパスポート申請の承認を拒否しました。彼らは母が僅か3ヶ月間だけ中国に滞在するのを許可しました。もし、三ヶ月以上滞在するならば、別のパスポートを申請しなければなりませんでした。再びパスポートを得ることができなかった場合、母は再び中国で苦しむでしょう。私は母が香港に戻るように話をしなければなりませんでした。私は母に、「お母さんは先に行って。私が承認を得られたら、自分独りで行きます。国境で2番目の兄が私を迎えに来さえすればいいのだから」と言いました。
8月30日に、母は私が間も無く香港にいるという希望を持って上海を去りました。しかし、私は政策がより厳しくなっていたので、行ける可能性が無いことをはっきり知っていました。ここに留まる人は、刑罰の為に牢獄に閉じ込められるのを待っていたのです。
この時が、私が空港で母を見た最後でした。母は甘い夢を見ていましたが、私は別の考えを抱いていました。2回目の逮捕を歓迎することは、非常に困難でした。私は、人間の尊厳とあらゆる虚飾を含めた自分の周りの全ての世俗的な物を、失っては得て、また失うのです。私は女優ではなく、メロドラマを演じる為のステージ上にはいませんでした。それは現実でした。私は自宅で快適なソファに座った時、自分が持っていたものを見回すと、それが自分の家であると気付きました。私は家の所有者の一人でしたが、それは我が家ではありませんでした。警察がいつ来るかを誰が知っていたでしょう?そして、私は再び囚人となるのです。1955年に最初の逮捕の為に、私は長年にわたり準備していました。天主様は私に無限の御恵みを与えて下さいました。しかし1957年には、非常に多くの司教、司祭、そして無数のカトリック教徒が、苦しみを避けるために自分たちの信仰をあきらめたのです。(訳者注:この年に中国天主教愛国会の前身である「中国天主教友愛国会」が結成された)私は彼らの方法に従うのでしょうか?いいえ、絶対に駄目です。私たちの家は天国にあるのですから。
この移りゆく人生はとても速く過ぎ去ります。もし、私がこの世去ることを躊躇って信仰を失うならば、どうして自分の裁きの日に天主様と顔を合わせることが出来るのでしょうか?私たちは、2人の主人に兼ね仕えることは出来ません。ですから、私は自分に何が起ころうとも、何よりも天主様に仕えることにしました。私は熱心に祈り、毎日自分の2回目の逮捕を待っていました。
それは1957年6月に上海の徐匯区拘置所で起きました。その時、警察は囚人のほとんどを釈放していましたが、ある神学生と私はまだ拘留されていました。共産主義者の政策は、それほど厳しくなくなり、食べ物は以前よりも良くなりました。家族は一週間おきに食品を送ることを許されました。私が滞在した牢獄は、以前より明るく大きかったのです。私はすべてに満足しました。
私は彼らが私を解放するとは思っていませんでした。私は、天主様が御自身の為だけに私を創られたことに気付きました。私がこの牢獄に滞在したことは、天主様の御意志だったのです。
私は日夜、天主様を賛美し、崇拝することが出来ましたので、牢獄は私の天国のようでした。他に私はどこに行きたいと思ったでしょう?ところが、1957年6月3日の午前9時頃に警察が尋問のオフィスに連れて行きましたので、私はとても驚きました。私は長い間、呼ばれていませんでした。多分、取調官が新たな戦術を用いるのではないかと、私は考えました。私がオフィスに入った途端、役人が非常に簡潔に私に言いました。「胡美玉、私たちは今日あなたを釈放するつもりです」
それは私にとって全く新しいことでした。逮捕されて以来、100回以上も「厳しい処罰を受ける」、とか「生涯投獄されるだろう」という言葉を耳にしました。その一方で、どうして私はそのような言葉を信じられるでしょう?私は、何の考えも無しに言いました。「冗談を言っているのではないですか?あなたは私のカトリック信仰が、今でも最初に逮捕された時と同じであることを非常にはっきりと知っています。今日は政策が緩やかだから、あなたは私を釈放するのでしょう。もしかしたら、来年は状況が厳しくなるかもしれません。それから、再び私を刑務所に入れるのでしょう。私たちは、ドラマを演じているのではありません。現実に直面するのに、私は上から下になったり、下から上になることは望ましくはありません。今は、私を家まで送らないでください。私はむしろ留まる方が良いと思います」私が言ったことを聞き、取調官は唖然としていました。何分かの沈黙の後に、彼は言いました。 「家に戻る気が無いような馬鹿は、見たことがない」おそらく、彼は私に圧倒されたのでしょう。彼は単刀直入に、「あなたの母親がロビーで待っている」と私に言いました。私は吹き出しました。母は約10ヶ月前に香港に行きました。それは全く嘘でした。私は何度も頭を横に振りました。「私は家に帰ることはありません、以上」「すぐにロビーに行きなさい」私はどうしたらよいでしょうか?突然、賢い考えがが私の心に入って来ました。 「いいでしょう。もし、私がそこで母を見つけたら、私はきっと家に帰ります。そうでない場合、私は牢屋に戻ります」私はロビーに急ぎました。確かに、母とばあやは、辺りを見つめていたのでした。私は遠くから、「お母さん、お母さん」と呼びました。それから、私は取調官に顔を向けて、「私は今すぐ家に行きます」と言いました。私は、いくつかの衣類や、日用品を牢屋に置いていたことを完全に忘れてしまいました。
母は急いで言いました。「家に帰りましょう」しかし、役員は言いました。「釈放状に署名するためにオフィスに戻り、牢屋から持ち物のすべてを取って来るように」 そこで母は言いました。「私たちは物は気にしないけれど、あなたはとにかく書類に署名しなければ」母たちは、出来るだけ早く家に帰ることが出来るよう待っている間に、2台の三輪車を呼びようにばあやに尋ねました。私は拘置所から出た時、母はもうに三輪車で私を待っていました。母は、言うべきことを知らなかったかのように、興奮していました。母は、自分が一日前に上海に到着したことを私に告げました。
彼女は何ヶ月もの間、香港にいましたが、姉と私の2人のことを寂しく思わずにはいられませんでした。二番目の兄は、母が戻るのをやめるように最善を尽くしました。それにもかかわらず、母は自分の心を変えることはありませんでした。結局、母は飛行機の切符を買って戻ってきたのです。 母は自分自身で非常に満足し、「もし、私がここに来なかったら、どうして警察があなたを釈放したでしょう」と言いました。私たちは10分以内に家に着きました。私の家族は私の逮捕後に引っ越していました。新しい家は豪華なマンションでした。姉のマリアと私は、まだ1つの寝室を共有しました。その日の夜、私の家族には二重の喜びがありました。母は香港から戻り、私は釈放されたのです。多くの客がやって来ました。蓄音機は、「私たちの家族の再会」という曲を演奏していました。私たちは皆、大きな喜びに浸っていました。しかし、私が何を考えていたかを誰が知っていたでしょうか?様々な考えが頭に浮かびました。私は、喜び、嬉しさ、怯え、そして苦さを感じていました。
それは実際、私の表現を超えていました。私は再び母を見るのが嬉しく、多くの家族に会うのは、実に心地よいことでした。しかし、私は二回目の逮捕があったらと心配しました。どうして、母がそれに耐えることが出来るでしょう?そのような快適な生活から、再び去らなければならないと考えると、苦い感じがしました。私は家にある全ての物や、私に仕える三人のお手伝いさんが好きでした。私は全ての世俗的な幸福を享受出来ましたが、自分の信仰を否定する必要がありました。天主様は、私が自分の信仰を否定するか、それとも永遠の命を得るために完全に自分自身を否定するかという、私に非常に厳しい選択をお与えになりました。私は天主様に、なぜ何度も決断をお求めになったのかと尋ねました。私は自分の一回目のの逮捕の為に、非常に長い間準備していました。私は天主様の御摂理により、別の選択肢があると考えを持っていませんでした。私は熱心に祈ることと、カルワリオの丘の上まで私たちの主イエズス様に従う必要がありました。
マットレスは私にとってあまりにも柔らかかったので、夜になると私は堅い板張りの床の上で寝るのを好みました。母は言いました。「それは構わないけれど、獄中で学んだ悪い習慣に従わないように覚えておかなければなりません。ある囚人は、悪い習慣を持っています。私たち家族はよく教育されていることに気を付けて。あなたは多くの聖なる司祭と修道女たちによって育てられたのです。あなたは行儀良くしなければいけません」私はこれらの言葉を、一生涯心に留めました。いつでも、そしてどこへでも、私は常に自分が天主様の子どもであることを念頭に置いています。
次の日、母は香港へのパスポートを申請するために、公安局に行くよう私に求めました。母は、多くのカトリック教徒が、釈放後にパスポートを取得していたことを知っていました。二番目の兄は、私が出来るだけ早く香港に行くべきで、そうでなければ確実に再逮捕されると主張しました。間違いなく、私はすぐに香港に行けると期待しました。私は翌朝早く公安局に行きました。多くの警察官が私を覚えていました。誰もが私が再び牢獄に入るのかと尋ねました。 今回は私が香港に行くための承認をお願いする時間です、と私は笑顔で答えました。彼らは私のリクエストに驚きました。彼らは、私がほんの前日に刑務所から出て来たのに、次の日に香港に行くのは馬鹿馬鹿しいと思っていました。彼らは、ほとんどの場合では娘は母と一緒に滞在したいのではないかと思い込んでいたのです。
6月4日から8月30日まで、私は何回公安局に行ったか覚えていませんが、彼らは繰り返し私のパスポート申請の承認を拒否しました。彼らは母が僅か3ヶ月間だけ中国に滞在するのを許可しました。もし、三ヶ月以上滞在するならば、別のパスポートを申請しなければなりませんでした。再びパスポートを得ることができなかった場合、母は再び中国で苦しむでしょう。私は母が香港に戻るように話をしなければなりませんでした。私は母に、「お母さんは先に行って。私が承認を得られたら、自分独りで行きます。国境で2番目の兄が私を迎えに来さえすればいいのだから」と言いました。
8月30日に、母は私が間も無く香港にいるという希望を持って上海を去りました。しかし、私は政策がより厳しくなっていたので、行ける可能性が無いことをはっきり知っていました。ここに留まる人は、刑罰の為に牢獄に閉じ込められるのを待っていたのです。
この時が、私が空港で母を見た最後でした。母は甘い夢を見ていましたが、私は別の考えを抱いていました。2回目の逮捕を歓迎することは、非常に困難でした。私は、人間の尊厳とあらゆる虚飾を含めた自分の周りの全ての世俗的な物を、失っては得て、また失うのです。私は女優ではなく、メロドラマを演じる為のステージ上にはいませんでした。それは現実でした。私は自宅で快適なソファに座った時、自分が持っていたものを見回すと、それが自分の家であると気付きました。私は家の所有者の一人でしたが、それは我が家ではありませんでした。警察がいつ来るかを誰が知っていたでしょう?そして、私は再び囚人となるのです。1955年に最初の逮捕の為に、私は長年にわたり準備していました。天主様は私に無限の御恵みを与えて下さいました。しかし1957年には、非常に多くの司教、司祭、そして無数のカトリック教徒が、苦しみを避けるために自分たちの信仰をあきらめたのです。(訳者注:この年に中国天主教愛国会の前身である「中国天主教友愛国会」が結成された)私は彼らの方法に従うのでしょうか?いいえ、絶対に駄目です。私たちの家は天国にあるのですから。
この移りゆく人生はとても速く過ぎ去ります。もし、私がこの世去ることを躊躇って信仰を失うならば、どうして自分の裁きの日に天主様と顔を合わせることが出来るのでしょうか?私たちは、2人の主人に兼ね仕えることは出来ません。ですから、私は自分に何が起ころうとも、何よりも天主様に仕えることにしました。私は熱心に祈り、毎日自分の2回目の逮捕を待っていました。