アヴェ・マリア!
聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。これは以前に頂いていたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながら一部を修正してご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方に心から感謝いたします。【訳注1】については必ずしも私の考えではありませんが、訳者の考えとして削除せずに掲載しました。
その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて
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ルフェーブル大司教様とのインタビュー つづき
<>和訳者補足
9:保守主義者たちを任命する教皇?
質問:ヨハネ・パウロ二世は、オーストリアとそれ以外の国で聖伝主義者と見做される方々を司教に任命されました。彼らが聖伝主義者と見做される理由は、フランス人神学者たちの援護を受けたドイツ人神学者たちが、この司教任命を巡って教皇様を批判し、非難している事から伺えます。それから、最近の事ですが、ラッツィンガー枢機卿様は、忠誠の誓いとそれに先立つ信仰宣言の付いた指令書を発行されました。私たちはこれにある種の改善と、より聖伝に近い形式への回帰という印を見る事は出来ないのでしょうか?
ルフェーブル大司教様:私はそれが聖伝への回帰であると考えていません。ちょうど戦闘中の兵士たちが少しばかり前に進み過ぎている時に、誰かが彼らを引き止めているようなものであって、彼らは第二バチカンの推進力に軽くブレーキを掛けているところなのです。何故なら、公会議の支持者たちは余りにも進行し過ぎているからです。その上、これらの神学者たちが苛立つなんていうのはお門違いです。この司教たち‐表向きは保守的である司教様たち‐は、例外なく公会議と公会議後の刷新、そしてエキュメニズムやカリスマ運動に協力的です。
明らかに、彼らは穏健派も同然であるし、聖伝の宗教的心情を僅かに表明してはいるのですが、それは強いものではありません。彼らは公会議の大基本原理、つまり公会議の誤謬を受け入れて、それを実行します。彼らにとってそうする事は全く問題ではないのです。それに比べて私は、これらの司教様こそ私たちを最悪の輩として扱っているとさえ言います。彼らこそ、公会議の原理に服従するよう私たちに最もしつこく求めて来るでしょう。
いえ、どんな戦闘に於いても、戦略を用いるべきです。やり過ぎを回避する必要があります。
その他に、教皇様はモンシニョール・カスパー(Msgr. Kasper)をドイツの司教に任命されました。彼はブリュッセルのダネルス(Danneels)枢機卿によって主宰された1985年の司教会議の秘書官でした。カスパーはこの司教会議の先導者、つまり立案者だったのです。彼は非常に聡明な方で、最も危険な公会議主義者(Conciliarists)の一人です。彼はドイツ司教議会(the German Assembly of Bishops)の議長であり、やはり非常に危険な人物であるトリアーの司教(the bishop of Trier)に似て小柄な方です。彼らはラーナー派(Rahners)やキュング派(Kungs)と心の底では繋がってはいても、そうである事を言わないように注意を払っている確実に左派的な人々なのです【訳注1】。彼らは誰かにより過激論者たちと結び付けて考えられるのを避ける為に外見を繕いますが、実際には同じ精神を持っています。だからこそ、そう、今のところどう見ても望みはないと思います。
10:聖伝に対する善意?
質問:それでは、これまでル・バルー<聖伝系聖ベネディクト修道会の支部修道院>や、聖ヴィンセント・フェリエ兄弟会(the Fraternity of St. Vincent Ferrer)、それから聖ペトロ会に対しある程度の寛容さを示しておられるラッツィンガー、マイヤー両枢機卿方により特徴付けられるローマの態度についてはどう考えたら宜しいのでしょうか?他の聖伝グループを取り戻す手段を使い果たすまで彼らは連絡を取り続ける、それから次に、いったんこのゲームが終わったら、ローマと和解した聖伝グループは、公会議への服従を要求されるという二重の計略なのでしょうか?それとも、私たちは彼らが改善すると信用すべきでしょうか?
ルフェーブル大司教様:貴方がお話されている事は、<ローマの寛大さが>例外的で束の間のものでしかない事を私たちに示す印が沢山あります。これらの印は、世界中の全司祭に当てはまる一般規則ではありません。それは例外的な特権であり、限定された幾つかの事例に於いて(in precise cases)与えられるものです。例えば、フォンゴンボーの大修道院、又はジュック(Jouques)の女子修道会、あるいはその他の修道院に与えられたものがそれなのですがそれは例の特典(the Indult)に基づいています‐彼らはそれを言いません‐。ところでこの特典は例外です。それは何時でも撤回され得るのです。特典というものは、一般規則を強めます。この事例に於ける一般規則とは新しいミサと新典礼ですが。ですから、特典とはこれらの共同体に対して設けられる例外なのです。
ロンドンでの一例があります。そこの枢機卿大司教様(the Cardinal archbishop)は、私たちの信徒たちを取り込む為に、この英国首都にある聖ピオ十世会の教会周辺で三つの<聖伝>ミサを開始しました。「私は六ヶ月間それを試しにやっています」と彼は言いました。もし私たちの信徒が司祭会のミサ中央施設<会場>から立ち去り始める事になれば、彼はこの実験を続けるでしょうね。その反対に、もしこの信徒たちが私たちと一緒に留まるとすれば、彼はこの実験を止めるでしょう。それからもしこれらの御ミサが廃止されるとなれば、聖伝典礼に対する味覚を取り戻したこの信徒たちは、おそらく私たちのところにやって来るでしょう。
パリのリュスティジェ枢機卿様は、私たちのもとから去った司祭たちに教会堂を提供する事を考えておりますが、新しいミサもまたこれらの教会堂で捧げられるよう命ずると考えられます。ローマでラッツィンガー枢機卿様とした討論期間中、私たちが合意に向かって進もうとしている時に、彼は私に教えてくれました。もしパリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会に於ける旧典礼使用に許可が与えられたら、新しいミサもなければならないでしょうと。それは完全明快でしたし、彼らの心の状態<新旧典礼の共存>をくっきり見せてくれました。彼らが、新しいミサを諦める可能性などありません。その反対です。それは分かりきっています。ですから、譲歩に見えなくもないものも、実際には、私たちを出来るだけ大人数の信徒たちから引き離す為の策略なのです。これが展望であって、その中で彼らは常にもっともっと聖伝に譲歩して与えようとするでしょう、それどころかきわめて遠いとことまで譲歩さえするでしょう。それが策略以外の何ものでもなく、公会議派の司教や近代主義のローマの掌中に身を委ねる事は危険であると、私たちは断固信徒たちに納得させる必要があります。それは私たちの信徒を脅かしている最大の危険なのです。二十年間も、私たちが公会議の誤謬を避けようと努めて来たとすれば、それは、まさか、これらの誤謬を表明する人々の掌中に私たちの身を委ねる為ではありませんでした。
11:昨年
質問:貴方がお選びになった四司教たちによる一年の聖務が過ぎたところですが、全ては貴方のお望みになったように、つまり彼らの司教聖別のほぼ一年前に書かれた手紙で貴方が彼らにお示しになった目標通りに展開しましたか?
ルフェーブル大司教様:今迄のところ、成り行きは私たちの期待したように展開しています。私たちは、彼らが地域的な裁治権を与えられた司教たちだと非難される事がないように、またどこかの地方に属している司教がいないよう行動しようと努めています。もちろん、フランス人司教がフランスへ行き、ドイツ語圏の司教がドイツに行くのは当然の事ですが、時あるごとに、私たちは今申し上げた非難を回避する為に司教様の取替えを試みています。もちろん、合衆国であればウィリアムソン司教様が堅振を授けるのは当然です。しかし、フェレー司教様もカンサス州のセント・メリーに堅振を授けに行きますから、誰もアメリカ合衆国はウィリアムソン司教様の領域だと言う事が出来ません。同様に、フェレー司教様は前にウィリアムソン司教様によって訪問された南アフリカにも行きました。ティシエ・ドゥ・マルレ司教様ですが、彼は南アメリカとドイツのザイツコーフェンに行きました。ですから、私たちは地域的な裁治権の一切発生しないこの根本方針を立証しようと努めているところなのです。四司教は叙階と堅振の秘蹟を授ける為に、つまり私の代わりとなり、この私が何年間も行なって来た事を行なう為にそこにいるのです。
残りの人々は、自分の管轄として領域を与えられた方であり、出来る範囲で自分たちを呼び求める霊魂の助けに行くのは明らかに菅区長たちです。何故なら、これらの霊魂は秘蹟と真理を受ける権利、つまり救われる権利を持っているからです。まただからこそ、私たちは彼らの助けに向かうのであって、教会法から予見される様に、彼らに聖務を果たす為の権利を私たちに与えてくれるのは、これらの霊魂の訴えなのです<裁治権の補足>。
その時、私たちは何もかも非常に上手く行ったと善き聖主に感謝する事が出来ると思います。信徒方から私たちに届く感想は、彼らが満足している事、そして私たちの司教様方が好意を持って迎え入れられた事を示しているのです。
おそらく私たちは一部の司祭や神学生たちの離脱で損害を被ったかも知れません。しかし、それは今年になって二組に、つまり聖伝主義と保守主義の巡礼に分裂してしまったシャルトルの巡礼に少しだけ似ています。私たちと完全に一致せず、何ゆえに私たちが戦っているのかを完全に理解していない人々が私たちのもとを去るに任せて下さった事を善き聖主に感謝しても良いのです。こうして私たちは、自分の行動に於いてより強く、より揺るぎなくなります。この離反なければ、私たちは常に私たちを批判し、私たちと一致しない人々と、私たちの信徒たちの中で交流している事になりますから、そうなってしまえば分裂と無秩序をもたらすでしょう。
総長であるシュミットバーガー神父様が、フィデリテール 誌の最終号で強調された様に、私たちの神学校と、当司祭会の女子修道会、そして他の聖伝系修道会に入会する良い数の候補者が私たちにはいます。ですから、その結果、相当数の会員の減少があるだろうと私たちを恐れさせた一部の人々が予想したような司教聖別の不快な余波を私たちは受けませんでした。
12:和解に向けた探り
質問:貴方は最近、ティアンドゥム(Thiandoum)枢機卿様に要請されて彼とお会いになったのでしょうか、またこの方は和解の方法を模索しておられるのでしょうか?
ルフェーブル大司教様:お会いしたのは本当ですが、ヌイリー(Neuilly)におられる御自分と会って欲しいからと、ヴィラヌーヴァの聖トマス女子修道会(the Sisters of St. Thomas of Villanueva)まで来るよう私に要請したので、この私の方から会いに行きました。彼は何時も大変親切で、非常に愛情のこもった方でありますが、今のところ何の違いもありません‐つまりローマ側には何もなく、ティアンドゥム枢機卿様やその他のどの枢機卿側にも何ら違いはありません . . . . ですから<和解に向かう>どんな種類の隙間もないのです。
何時もの事ながら、行動は言葉以上に人を納得させるなと私は思います。貴方はよく教皇様に尊大ぶった手紙を書けましたねと私に言ってくる人々がいます。ですが、私はこれまでの二十年間、どこにも届かない手紙を書いているのです。もう一度言いますが、行動は言葉以上にうるさく語るものです。私たちが神学校を開校した時、あるいは支部修道院を開設した時か、私たちが学校を開校し、そこに修道女たちが群れをなしてやって来て、女子修道院が増える時、それはローマに交渉を迫る唯一の手段となります。私がそこにいる事は重要ではありません。重要なのは私たちの行なう仕事です。ローマでは、私たちが行なっている事が無益ではない事を当局者たちはよく知っています。司教方は、私たちが此処彼処に定着するなら、やや気分を害してしまうのです。すると彼らはローマに愚痴を溢しますので、ローマの方も何が起きているのか分かっています。
ですからローマとの接触を試みるには適切な時期だとは思っていません。私たちはさらに待つべきだと思います。残念ですが、状況が彼らの方でさらに悪化するのを待って下さい。ただ、今のところ彼らはこの現実を認めたくないのですが。
13:聖伝への恐れ
質問:もしローマが貴方にたった一名の司教を与える事に承諾したとすれば、例の合議議定書(プロトコール)は、合意の時点で終わっているかも知れませんし、このような譲歩は貴方に拒絶されるべきだったと人々は呆れるかも知れませんね。何故なら、所詮この譲歩は、彼らにとって大したことでもない(世界中に三千人存在する司教の所詮たった一人でしかない)<聖伝主義の司教を一名与えたところで痛くもかゆくも無い>からです。
ルフェーブル大司教様:そう、驚きです。これはただ聖伝に対する恐れによってのみ説明する事が可能です。信じられない事なのですが、彼らは公教会の誤謬に逆らって働く司教を恐れていますから、そんな司教には我慢ならないのです。
14:忠誠の誓い
質問:信仰宣言を含んでいる忠誠の誓いを準備されたラッツィンガー枢機卿の指令書についてどうお考えですか?
ルフェーブル大司教:先ず第一に、信仰宣言 Credo があり、これは少しも問題を提起していません。Credo は無傷のまま残されています。ですから、第一部と第二部は、どちらとも何一つ問題を提起しません。それは神学的観点から良く知られた事ですし。非常に有害なのは第三部です。それが実際に意味するものは、現代世界の司教たちが持つ考えを並べ立てています。さらに、序文には、公会議の精神ゆえにこの第三部が加えられた事がはっきりと示されています。それは公会議と、いわゆる現代の教導権に言及しておりますが、後者は、もちろん公会議の信奉者たちの教導権のことです。誤謬を免れようとするが為に、「この教導権が聖伝との完全な一致にある限りに於いて . . . 」と彼らは付け足さなければならなかったのです。
そのままでは、この第三部の形式は危険です。それは、私たちが合意に至る事が出来ないこれらの人々の心の状態を明確に示しています。ある人々がそうした様に、この忠誠の誓いを公会議の結果として廃止された反近代主義の宣誓の再開として紹介するのは完全に馬鹿げていますし、それは間違っています。
全ての毒はこの第三部にあります。ローマに再合同してしまった人々に、この信仰宣言に署名して、司教たちとの完全な合意を言明せざるを得なくする為にわざわざ作成されたように思えます。まるでアリウス主義の時代に「これで、アリウス主義者である全司教たちの考える事に同意しているのです。」と言われたかのようです。
いいえ、私は誇張などしていません。それは序文の中ではっきり表現されています。これは純然たる詐欺です。この様に、ローマ当局者たちは議定書の本文の修正をするつもりがないのではないかと自問する人がいるかも知れません。例の議定書は私たちにとって満足の行くものではないにせよ、その教義的宣言の第三箇条に於いて余りに私たちに有利であるかのように見えます。というのは、それは公会議に服従するという義務を十分表明していないからです。
ですから、当局者は失われた足場を取り戻しているのだと考えます。彼らは恐らくこれらの文書が、叙階を控えた聖ペトロ会の神学生たちと司祭たちから署名される事を望んでいるのです。そしてその時、彼らは「公会議の教会」に合流するという公式な行為をするよう強いられている事に気づくでしょう。
この議定書とは違って、これらの新しい文書の中には、公会議と公会議派の全司教への服従が存在しているのです。それが彼らの精神であり、誰も彼らを変える事はないでしょう。
15:何らかの後悔?
質問:そうすると、結局、貴方には何の疑いも後悔もないのですか?
ルフェーブル大司教様:はい、全くありません。起きてしまった事はどれも実に摂理的で殆ど奇跡的に引き起こされたと考えています。
多くの人々はかつて私にこう催促していました‐「貴方は老いているのです。もし貴方が偶然にも姿を消してしまえば、私たちは一体どうなるのでしょうか . . . .?」私は少なくとも三、四年前に司教たちを聖別する事が出来ました。それは理に適ってさえいたのです。しかしながら、善き聖主は、私たちが本当に聖伝主義者の司教たちを頂く認可を何とかして獲得する上で自分に出来る事は何でもやり遂げたという事をローマにはっきり証明する為に、事態が徐々に熟すのを御望みになったのだと思っています。
議定書に署名するにしても、ローマはこれらの司教をどうしても私たちに与える許可をくれませんでしたので、もし私たちが<合意交渉を>継続していたなら、実際問題として考えられ得るありとあらゆる困難を私たちは経験していたことでしょう。私の下した決断に私たちは至るべきだし、私たちは自分たちの限界にいると私は心から思っています。親愛なる友人でありますデ・カストロ・マイヤー司教様は、もう御ミサを捧げる事が出来ないほど疲労困憊しておられ、あの司教聖別から一年も経たないのにそうなのです。
本当にそれは全て奇跡だったと思います‐つまり彼の到着、そして彼の旅行、賞賛に値する彼の信仰宣言、さらに私たちの司教様方の聖別式を私と共に挙行する事に対する彼の下さった承諾など、これら全ては奇跡です。新聞は彼がそこに同席する重要性を理解しませんでした。ただし、私と聖別された司教様方にとって、それは実際、特別な恩寵だったのです。彼らを聖別する司教が二名いたという事実は非常に重要なのです。私について言えば、満足です。私は何ら重い病気を持っていないとはいえ、それでも疲労を感じておりますし、これ以上力が残っていませんので、依然として引き受けさせて頂いてはいる式典の挙行を完全に止める事を余儀なくされているところです。といいますのは、私にはもう力がないからです。今や、かつては常としていた世界中への旅行を私にはする事が出来ないでしょう。人々は私のアルゼンチン再訪か、でなければウィノナにある新しい神学校を一目見る為に私が合衆国に行く事を要求していますが、そこには限界がありますし、私はもうそこに達してしまいました。私はただ疲れない事を行ない続けています。例えば、聖堂の聖別、カルメル女子修道会でのヴェールの着衣式、そして初ミサに与るなどの様な事、要するに、かつて私が良くしていた事と比べて些細な仕事です。自分としては、昨年の6月30日が私の限界だったとはっきりと感じる事が出来ます。善き聖主は事態がかつて起きた様に起こる事を望まれていると私は考えています。あの式典<司教聖別>に与った方々は、誰もがそれについてのすばらしい思い出を持ち続けているのです。あの全ては摂理的でした。期待出来る事とは、信徒たちがますます多くなる事、また彼らが<事の真相に>気づいて最後には何処に真理があるかを悟る事、そして救いはますます離教的となる公会議の教会にではなく、聖伝にこそあるのだ、と彼らが認めてくれる事です。
16:天国のイエローページ
質問:もちろん貴方は御自分の名前がローマで編集される“教皇年鑑”、つまり Annuario Pontifico の最新版から消えてしまったのは御存知ですね?
ルフェーブル大司教様:私の名前は、善き聖主の年鑑 Annuarioからは消えなかったと思います。少なくとも私はそう期待していますし、そうである事こそが重要なのです。
【訳注1】<(大司教様の言葉を今後の日本の世情に適用したい)政治に全く無関心な方は、ここにある大司教様の指摘を心に留めるべきである。これは何も宗教の世界だけに適用可能なものではないからである。ここでは日本の政治を例にあげさせていただくが、一体どれだけの信徒が、日本の保守政党と言われる自民党も、その底辺に於いては北朝鮮と繋がっている事を知っているだろうか?これは現実であり、またこの現実を良く踏まえて日本の信徒は(明らかに左翼である政党への投票については言うまでもないが)いわゆる保守派及びタカ派を自称する政党及び政治家への投票を控えるべきである。さらに現行の憲法下にある日本に於いて、倫理面を第一に考慮して投票する義務を持つカトリック教徒にとって、投票に適した政党及び政治家は存在しない。これもまた現実である。仮にある候補者個人が堕胎に反対していたとしても、彼が堕胎を、程度の差こそあれ、容認する自民党や民主党等に所属するのであれば、堕胎反対を主張するこの候補者に投票する事は、実質的に、上述の劣悪な倫理政策を持つ政党に投票する事にもなる事をよく理解すべきである。もしこの候補者が心から堕胎に反対するならば、本来これらの政党に属する事は出来ないはずである。信徒はセンチメンタルな保守主義者あるいはタカ派であってはならず、現実を見詰め、自称保守の政治家及び団体に捏造された保守的感情に流さることなく政治を観察すべきである。米国に於いて、タカ派を心から信用する信徒は多くないだろう。彼らはタカ派であるネオコンの中枢が極左である事を熟知しているからである。日本でも、極度に右寄りな発言をする上級官僚らがメディアで持てはやされているが、この種の方々の多くが、元共産主義者又は社会主義活動家である事も知るべきである。またマスコミ関係者は、一般的に米国批判を、十把一絡げに、左翼的行為と見做す向きもあるが、それは米国政府の中枢がどのような人々によって占められているのかを知らないからである、と申し上げた方がむしろ彼らに対する礼儀を欠かないだろう。『真理に対する愛、そして現実に対する感覚を失えば第二バチカン公会議を受け入れる準備が出来ている』(秋田巡礼に於けるウィリアムソン司教様の言葉)現実に対する正しい認識を失うなら、私たちも政治に於いて簡単に欺かれ、カトリックの道徳原理と相容れない、非道徳な政策を持つ政党及び政治家に一票を投じる可能性もあるのだ。その一例がこれまで散見された、行き過ぎた自民党擁護である。異論のある方は、戦後の自民党結成までの経緯や、この結成に関わった三名のA級戦犯の実態を精査する事を勧める。同じA戦犯の東条英機氏が処刑された翌日に、何故彼らは巣鴨プリズンから釈放されたのか?一体誰の意向で釈放され、またその後、誰の資金で彼らは自民党を結成するに至るのかを調べて欲しい。そして何の為に日本を反共の砦にする事を意図したのか?その答えは単に『赤の中国は悪で、白の米国とその同盟国は善であり、その為に日本はこの悪である赤の中国による攻撃から白同盟を守る為に反共の砦として築かれる必要があったから。』というものではない。そこには共産主義思想の識別が必要となる。スターリンの一国社会主義とトロツキーの世界革命主義がそれである。後者は敵国を作り上げ世界規模の戦争(つまり世界共産革命)を捏造し、世界統一政府の樹立を目論んでいる。さらに忘れてはならないのは1917年のロシア革命を主導したのはスラブ民族のロシア人ではなく、レーニン、スターリン、トロツキー、マルクス、エンゲルスなどの革命家は全てユダヤ人である(私は人種差別主義者ではなく、単に事実を述べている)。そして現在の米国政府の中枢を占めているのは世界革命主義者であり、血に於いて、あるいは信仰ゆえにユダヤ人である。中東に於ける紛争を良く見て欲しい。特に米国はCIAを送り込み、反政府運動を扇動し、最終的にその弾圧に出る政府を、人道の名に於いて、NATO軍を用いて軍事介入する。今シリアがその標的になっているのが分かるだろうか。日本に於いて、この米国主導の支配からの脱却を目指した田中角栄氏の失脚や、その直系とも言える現民主党員の小沢一郎氏に対する虚偽捜査報告書に基づいた検察側の不当な裁判を詳しく観察すれば、辿り辿って、日本もこれらの共産主義勢力下(米国CIA)にある事が見えて来るだろう。上に挙げた二名の政治家が中国との国交改善に尽力した事を理由に、彼らに親中と言うレッテルを貼って、共産主義の走狗かの様に非難するよう誘導しているのは、いわゆる偽装保守政党、つまり実質極左の集団であり、日本の政治及びマスコミの要に就いている人々なのだ。信徒は幻想ではなく、現実を見つめてこの世を生きるべきである。『私たちはお祈りさえしていればそれで良いと言うカトリック教徒には災いあれ!世俗の事など知った事ではないというカトリック教徒には災いあれ!』(秋田巡礼に於けるウィリアムソン司教様の言葉)しかし、あくまでも夢想家として生きて行こうというのであれば、それが漂わせる一見霊的生活に進んでいるかのようなその姿勢が、世俗で生活する良識的で世情に通じた多くの人々に不快感を与え、彼らをさらに救いから遠ざける事にもなり得る事を忘れてはならない(もちろん社会性のない弱い人々は、度々この様な姿勢に惹かれるものである)。これは世間体の問題ではなく、常識の問題であり、我々は聖性を求めつつも夢想家、あるいは独善家として終わってはならない。>。
聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。これは以前に頂いていたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながら一部を修正してご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方に心から感謝いたします。【訳注1】については必ずしも私の考えではありませんが、訳者の考えとして削除せずに掲載しました。
その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。
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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて
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<>和訳者補足
9:保守主義者たちを任命する教皇?
質問:ヨハネ・パウロ二世は、オーストリアとそれ以外の国で聖伝主義者と見做される方々を司教に任命されました。彼らが聖伝主義者と見做される理由は、フランス人神学者たちの援護を受けたドイツ人神学者たちが、この司教任命を巡って教皇様を批判し、非難している事から伺えます。それから、最近の事ですが、ラッツィンガー枢機卿様は、忠誠の誓いとそれに先立つ信仰宣言の付いた指令書を発行されました。私たちはこれにある種の改善と、より聖伝に近い形式への回帰という印を見る事は出来ないのでしょうか?
ルフェーブル大司教様:私はそれが聖伝への回帰であると考えていません。ちょうど戦闘中の兵士たちが少しばかり前に進み過ぎている時に、誰かが彼らを引き止めているようなものであって、彼らは第二バチカンの推進力に軽くブレーキを掛けているところなのです。何故なら、公会議の支持者たちは余りにも進行し過ぎているからです。その上、これらの神学者たちが苛立つなんていうのはお門違いです。この司教たち‐表向きは保守的である司教様たち‐は、例外なく公会議と公会議後の刷新、そしてエキュメニズムやカリスマ運動に協力的です。
明らかに、彼らは穏健派も同然であるし、聖伝の宗教的心情を僅かに表明してはいるのですが、それは強いものではありません。彼らは公会議の大基本原理、つまり公会議の誤謬を受け入れて、それを実行します。彼らにとってそうする事は全く問題ではないのです。それに比べて私は、これらの司教様こそ私たちを最悪の輩として扱っているとさえ言います。彼らこそ、公会議の原理に服従するよう私たちに最もしつこく求めて来るでしょう。
いえ、どんな戦闘に於いても、戦略を用いるべきです。やり過ぎを回避する必要があります。
その他に、教皇様はモンシニョール・カスパー(Msgr. Kasper)をドイツの司教に任命されました。彼はブリュッセルのダネルス(Danneels)枢機卿によって主宰された1985年の司教会議の秘書官でした。カスパーはこの司教会議の先導者、つまり立案者だったのです。彼は非常に聡明な方で、最も危険な公会議主義者(Conciliarists)の一人です。彼はドイツ司教議会(the German Assembly of Bishops)の議長であり、やはり非常に危険な人物であるトリアーの司教(the bishop of Trier)に似て小柄な方です。彼らはラーナー派(Rahners)やキュング派(Kungs)と心の底では繋がってはいても、そうである事を言わないように注意を払っている確実に左派的な人々なのです【訳注1】。彼らは誰かにより過激論者たちと結び付けて考えられるのを避ける為に外見を繕いますが、実際には同じ精神を持っています。だからこそ、そう、今のところどう見ても望みはないと思います。
10:聖伝に対する善意?
質問:それでは、これまでル・バルー<聖伝系聖ベネディクト修道会の支部修道院>や、聖ヴィンセント・フェリエ兄弟会(the Fraternity of St. Vincent Ferrer)、それから聖ペトロ会に対しある程度の寛容さを示しておられるラッツィンガー、マイヤー両枢機卿方により特徴付けられるローマの態度についてはどう考えたら宜しいのでしょうか?他の聖伝グループを取り戻す手段を使い果たすまで彼らは連絡を取り続ける、それから次に、いったんこのゲームが終わったら、ローマと和解した聖伝グループは、公会議への服従を要求されるという二重の計略なのでしょうか?それとも、私たちは彼らが改善すると信用すべきでしょうか?
ルフェーブル大司教様:貴方がお話されている事は、<ローマの寛大さが>例外的で束の間のものでしかない事を私たちに示す印が沢山あります。これらの印は、世界中の全司祭に当てはまる一般規則ではありません。それは例外的な特権であり、限定された幾つかの事例に於いて(in precise cases)与えられるものです。例えば、フォンゴンボーの大修道院、又はジュック(Jouques)の女子修道会、あるいはその他の修道院に与えられたものがそれなのですがそれは例の特典(the Indult)に基づいています‐彼らはそれを言いません‐。ところでこの特典は例外です。それは何時でも撤回され得るのです。特典というものは、一般規則を強めます。この事例に於ける一般規則とは新しいミサと新典礼ですが。ですから、特典とはこれらの共同体に対して設けられる例外なのです。
ロンドンでの一例があります。そこの枢機卿大司教様(the Cardinal archbishop)は、私たちの信徒たちを取り込む為に、この英国首都にある聖ピオ十世会の教会周辺で三つの<聖伝>ミサを開始しました。「私は六ヶ月間それを試しにやっています」と彼は言いました。もし私たちの信徒が司祭会のミサ中央施設<会場>から立ち去り始める事になれば、彼はこの実験を続けるでしょうね。その反対に、もしこの信徒たちが私たちと一緒に留まるとすれば、彼はこの実験を止めるでしょう。それからもしこれらの御ミサが廃止されるとなれば、聖伝典礼に対する味覚を取り戻したこの信徒たちは、おそらく私たちのところにやって来るでしょう。
パリのリュスティジェ枢機卿様は、私たちのもとから去った司祭たちに教会堂を提供する事を考えておりますが、新しいミサもまたこれらの教会堂で捧げられるよう命ずると考えられます。ローマでラッツィンガー枢機卿様とした討論期間中、私たちが合意に向かって進もうとしている時に、彼は私に教えてくれました。もしパリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会に於ける旧典礼使用に許可が与えられたら、新しいミサもなければならないでしょうと。それは完全明快でしたし、彼らの心の状態<新旧典礼の共存>をくっきり見せてくれました。彼らが、新しいミサを諦める可能性などありません。その反対です。それは分かりきっています。ですから、譲歩に見えなくもないものも、実際には、私たちを出来るだけ大人数の信徒たちから引き離す為の策略なのです。これが展望であって、その中で彼らは常にもっともっと聖伝に譲歩して与えようとするでしょう、それどころかきわめて遠いとことまで譲歩さえするでしょう。それが策略以外の何ものでもなく、公会議派の司教や近代主義のローマの掌中に身を委ねる事は危険であると、私たちは断固信徒たちに納得させる必要があります。それは私たちの信徒を脅かしている最大の危険なのです。二十年間も、私たちが公会議の誤謬を避けようと努めて来たとすれば、それは、まさか、これらの誤謬を表明する人々の掌中に私たちの身を委ねる為ではありませんでした。
11:昨年
質問:貴方がお選びになった四司教たちによる一年の聖務が過ぎたところですが、全ては貴方のお望みになったように、つまり彼らの司教聖別のほぼ一年前に書かれた手紙で貴方が彼らにお示しになった目標通りに展開しましたか?
ルフェーブル大司教様:今迄のところ、成り行きは私たちの期待したように展開しています。私たちは、彼らが地域的な裁治権を与えられた司教たちだと非難される事がないように、またどこかの地方に属している司教がいないよう行動しようと努めています。もちろん、フランス人司教がフランスへ行き、ドイツ語圏の司教がドイツに行くのは当然の事ですが、時あるごとに、私たちは今申し上げた非難を回避する為に司教様の取替えを試みています。もちろん、合衆国であればウィリアムソン司教様が堅振を授けるのは当然です。しかし、フェレー司教様もカンサス州のセント・メリーに堅振を授けに行きますから、誰もアメリカ合衆国はウィリアムソン司教様の領域だと言う事が出来ません。同様に、フェレー司教様は前にウィリアムソン司教様によって訪問された南アフリカにも行きました。ティシエ・ドゥ・マルレ司教様ですが、彼は南アメリカとドイツのザイツコーフェンに行きました。ですから、私たちは地域的な裁治権の一切発生しないこの根本方針を立証しようと努めているところなのです。四司教は叙階と堅振の秘蹟を授ける為に、つまり私の代わりとなり、この私が何年間も行なって来た事を行なう為にそこにいるのです。
残りの人々は、自分の管轄として領域を与えられた方であり、出来る範囲で自分たちを呼び求める霊魂の助けに行くのは明らかに菅区長たちです。何故なら、これらの霊魂は秘蹟と真理を受ける権利、つまり救われる権利を持っているからです。まただからこそ、私たちは彼らの助けに向かうのであって、教会法から予見される様に、彼らに聖務を果たす為の権利を私たちに与えてくれるのは、これらの霊魂の訴えなのです<裁治権の補足>。
その時、私たちは何もかも非常に上手く行ったと善き聖主に感謝する事が出来ると思います。信徒方から私たちに届く感想は、彼らが満足している事、そして私たちの司教様方が好意を持って迎え入れられた事を示しているのです。
おそらく私たちは一部の司祭や神学生たちの離脱で損害を被ったかも知れません。しかし、それは今年になって二組に、つまり聖伝主義と保守主義の巡礼に分裂してしまったシャルトルの巡礼に少しだけ似ています。私たちと完全に一致せず、何ゆえに私たちが戦っているのかを完全に理解していない人々が私たちのもとを去るに任せて下さった事を善き聖主に感謝しても良いのです。こうして私たちは、自分の行動に於いてより強く、より揺るぎなくなります。この離反なければ、私たちは常に私たちを批判し、私たちと一致しない人々と、私たちの信徒たちの中で交流している事になりますから、そうなってしまえば分裂と無秩序をもたらすでしょう。
総長であるシュミットバーガー神父様が、フィデリテール 誌の最終号で強調された様に、私たちの神学校と、当司祭会の女子修道会、そして他の聖伝系修道会に入会する良い数の候補者が私たちにはいます。ですから、その結果、相当数の会員の減少があるだろうと私たちを恐れさせた一部の人々が予想したような司教聖別の不快な余波を私たちは受けませんでした。
12:和解に向けた探り
質問:貴方は最近、ティアンドゥム(Thiandoum)枢機卿様に要請されて彼とお会いになったのでしょうか、またこの方は和解の方法を模索しておられるのでしょうか?
ルフェーブル大司教様:お会いしたのは本当ですが、ヌイリー(Neuilly)におられる御自分と会って欲しいからと、ヴィラヌーヴァの聖トマス女子修道会(the Sisters of St. Thomas of Villanueva)まで来るよう私に要請したので、この私の方から会いに行きました。彼は何時も大変親切で、非常に愛情のこもった方でありますが、今のところ何の違いもありません‐つまりローマ側には何もなく、ティアンドゥム枢機卿様やその他のどの枢機卿側にも何ら違いはありません . . . . ですから<和解に向かう>どんな種類の隙間もないのです。
何時もの事ながら、行動は言葉以上に人を納得させるなと私は思います。貴方はよく教皇様に尊大ぶった手紙を書けましたねと私に言ってくる人々がいます。ですが、私はこれまでの二十年間、どこにも届かない手紙を書いているのです。もう一度言いますが、行動は言葉以上にうるさく語るものです。私たちが神学校を開校した時、あるいは支部修道院を開設した時か、私たちが学校を開校し、そこに修道女たちが群れをなしてやって来て、女子修道院が増える時、それはローマに交渉を迫る唯一の手段となります。私がそこにいる事は重要ではありません。重要なのは私たちの行なう仕事です。ローマでは、私たちが行なっている事が無益ではない事を当局者たちはよく知っています。司教方は、私たちが此処彼処に定着するなら、やや気分を害してしまうのです。すると彼らはローマに愚痴を溢しますので、ローマの方も何が起きているのか分かっています。
ですからローマとの接触を試みるには適切な時期だとは思っていません。私たちはさらに待つべきだと思います。残念ですが、状況が彼らの方でさらに悪化するのを待って下さい。ただ、今のところ彼らはこの現実を認めたくないのですが。
13:聖伝への恐れ
質問:もしローマが貴方にたった一名の司教を与える事に承諾したとすれば、例の合議議定書(プロトコール)は、合意の時点で終わっているかも知れませんし、このような譲歩は貴方に拒絶されるべきだったと人々は呆れるかも知れませんね。何故なら、所詮この譲歩は、彼らにとって大したことでもない(世界中に三千人存在する司教の所詮たった一人でしかない)<聖伝主義の司教を一名与えたところで痛くもかゆくも無い>からです。
ルフェーブル大司教様:そう、驚きです。これはただ聖伝に対する恐れによってのみ説明する事が可能です。信じられない事なのですが、彼らは公教会の誤謬に逆らって働く司教を恐れていますから、そんな司教には我慢ならないのです。
14:忠誠の誓い
質問:信仰宣言を含んでいる忠誠の誓いを準備されたラッツィンガー枢機卿の指令書についてどうお考えですか?
ルフェーブル大司教:先ず第一に、信仰宣言 Credo があり、これは少しも問題を提起していません。Credo は無傷のまま残されています。ですから、第一部と第二部は、どちらとも何一つ問題を提起しません。それは神学的観点から良く知られた事ですし。非常に有害なのは第三部です。それが実際に意味するものは、現代世界の司教たちが持つ考えを並べ立てています。さらに、序文には、公会議の精神ゆえにこの第三部が加えられた事がはっきりと示されています。それは公会議と、いわゆる現代の教導権に言及しておりますが、後者は、もちろん公会議の信奉者たちの教導権のことです。誤謬を免れようとするが為に、「この教導権が聖伝との完全な一致にある限りに於いて . . . 」と彼らは付け足さなければならなかったのです。
そのままでは、この第三部の形式は危険です。それは、私たちが合意に至る事が出来ないこれらの人々の心の状態を明確に示しています。ある人々がそうした様に、この忠誠の誓いを公会議の結果として廃止された反近代主義の宣誓の再開として紹介するのは完全に馬鹿げていますし、それは間違っています。
全ての毒はこの第三部にあります。ローマに再合同してしまった人々に、この信仰宣言に署名して、司教たちとの完全な合意を言明せざるを得なくする為にわざわざ作成されたように思えます。まるでアリウス主義の時代に「これで、アリウス主義者である全司教たちの考える事に同意しているのです。」と言われたかのようです。
いいえ、私は誇張などしていません。それは序文の中ではっきり表現されています。これは純然たる詐欺です。この様に、ローマ当局者たちは議定書の本文の修正をするつもりがないのではないかと自問する人がいるかも知れません。例の議定書は私たちにとって満足の行くものではないにせよ、その教義的宣言の第三箇条に於いて余りに私たちに有利であるかのように見えます。というのは、それは公会議に服従するという義務を十分表明していないからです。
ですから、当局者は失われた足場を取り戻しているのだと考えます。彼らは恐らくこれらの文書が、叙階を控えた聖ペトロ会の神学生たちと司祭たちから署名される事を望んでいるのです。そしてその時、彼らは「公会議の教会」に合流するという公式な行為をするよう強いられている事に気づくでしょう。
この議定書とは違って、これらの新しい文書の中には、公会議と公会議派の全司教への服従が存在しているのです。それが彼らの精神であり、誰も彼らを変える事はないでしょう。
15:何らかの後悔?
質問:そうすると、結局、貴方には何の疑いも後悔もないのですか?
ルフェーブル大司教様:はい、全くありません。起きてしまった事はどれも実に摂理的で殆ど奇跡的に引き起こされたと考えています。
多くの人々はかつて私にこう催促していました‐「貴方は老いているのです。もし貴方が偶然にも姿を消してしまえば、私たちは一体どうなるのでしょうか . . . .?」私は少なくとも三、四年前に司教たちを聖別する事が出来ました。それは理に適ってさえいたのです。しかしながら、善き聖主は、私たちが本当に聖伝主義者の司教たちを頂く認可を何とかして獲得する上で自分に出来る事は何でもやり遂げたという事をローマにはっきり証明する為に、事態が徐々に熟すのを御望みになったのだと思っています。
議定書に署名するにしても、ローマはこれらの司教をどうしても私たちに与える許可をくれませんでしたので、もし私たちが<合意交渉を>継続していたなら、実際問題として考えられ得るありとあらゆる困難を私たちは経験していたことでしょう。私の下した決断に私たちは至るべきだし、私たちは自分たちの限界にいると私は心から思っています。親愛なる友人でありますデ・カストロ・マイヤー司教様は、もう御ミサを捧げる事が出来ないほど疲労困憊しておられ、あの司教聖別から一年も経たないのにそうなのです。
本当にそれは全て奇跡だったと思います‐つまり彼の到着、そして彼の旅行、賞賛に値する彼の信仰宣言、さらに私たちの司教様方の聖別式を私と共に挙行する事に対する彼の下さった承諾など、これら全ては奇跡です。新聞は彼がそこに同席する重要性を理解しませんでした。ただし、私と聖別された司教様方にとって、それは実際、特別な恩寵だったのです。彼らを聖別する司教が二名いたという事実は非常に重要なのです。私について言えば、満足です。私は何ら重い病気を持っていないとはいえ、それでも疲労を感じておりますし、これ以上力が残っていませんので、依然として引き受けさせて頂いてはいる式典の挙行を完全に止める事を余儀なくされているところです。といいますのは、私にはもう力がないからです。今や、かつては常としていた世界中への旅行を私にはする事が出来ないでしょう。人々は私のアルゼンチン再訪か、でなければウィノナにある新しい神学校を一目見る為に私が合衆国に行く事を要求していますが、そこには限界がありますし、私はもうそこに達してしまいました。私はただ疲れない事を行ない続けています。例えば、聖堂の聖別、カルメル女子修道会でのヴェールの着衣式、そして初ミサに与るなどの様な事、要するに、かつて私が良くしていた事と比べて些細な仕事です。自分としては、昨年の6月30日が私の限界だったとはっきりと感じる事が出来ます。善き聖主は事態がかつて起きた様に起こる事を望まれていると私は考えています。あの式典<司教聖別>に与った方々は、誰もがそれについてのすばらしい思い出を持ち続けているのです。あの全ては摂理的でした。期待出来る事とは、信徒たちがますます多くなる事、また彼らが<事の真相に>気づいて最後には何処に真理があるかを悟る事、そして救いはますます離教的となる公会議の教会にではなく、聖伝にこそあるのだ、と彼らが認めてくれる事です。
16:天国のイエローページ
質問:もちろん貴方は御自分の名前がローマで編集される“教皇年鑑”、つまり Annuario Pontifico の最新版から消えてしまったのは御存知ですね?
ルフェーブル大司教様:私の名前は、善き聖主の年鑑 Annuarioからは消えなかったと思います。少なくとも私はそう期待していますし、そうである事こそが重要なのです。
【訳注1】<(大司教様の言葉を今後の日本の世情に適用したい)政治に全く無関心な方は、ここにある大司教様の指摘を心に留めるべきである。これは何も宗教の世界だけに適用可能なものではないからである。ここでは日本の政治を例にあげさせていただくが、一体どれだけの信徒が、日本の保守政党と言われる自民党も、その底辺に於いては北朝鮮と繋がっている事を知っているだろうか?これは現実であり、またこの現実を良く踏まえて日本の信徒は(明らかに左翼である政党への投票については言うまでもないが)いわゆる保守派及びタカ派を自称する政党及び政治家への投票を控えるべきである。さらに現行の憲法下にある日本に於いて、倫理面を第一に考慮して投票する義務を持つカトリック教徒にとって、投票に適した政党及び政治家は存在しない。これもまた現実である。仮にある候補者個人が堕胎に反対していたとしても、彼が堕胎を、程度の差こそあれ、容認する自民党や民主党等に所属するのであれば、堕胎反対を主張するこの候補者に投票する事は、実質的に、上述の劣悪な倫理政策を持つ政党に投票する事にもなる事をよく理解すべきである。もしこの候補者が心から堕胎に反対するならば、本来これらの政党に属する事は出来ないはずである。信徒はセンチメンタルな保守主義者あるいはタカ派であってはならず、現実を見詰め、自称保守の政治家及び団体に捏造された保守的感情に流さることなく政治を観察すべきである。米国に於いて、タカ派を心から信用する信徒は多くないだろう。彼らはタカ派であるネオコンの中枢が極左である事を熟知しているからである。日本でも、極度に右寄りな発言をする上級官僚らがメディアで持てはやされているが、この種の方々の多くが、元共産主義者又は社会主義活動家である事も知るべきである。またマスコミ関係者は、一般的に米国批判を、十把一絡げに、左翼的行為と見做す向きもあるが、それは米国政府の中枢がどのような人々によって占められているのかを知らないからである、と申し上げた方がむしろ彼らに対する礼儀を欠かないだろう。『真理に対する愛、そして現実に対する感覚を失えば第二バチカン公会議を受け入れる準備が出来ている』(秋田巡礼に於けるウィリアムソン司教様の言葉)現実に対する正しい認識を失うなら、私たちも政治に於いて簡単に欺かれ、カトリックの道徳原理と相容れない、非道徳な政策を持つ政党及び政治家に一票を投じる可能性もあるのだ。その一例がこれまで散見された、行き過ぎた自民党擁護である。異論のある方は、戦後の自民党結成までの経緯や、この結成に関わった三名のA級戦犯の実態を精査する事を勧める。同じA戦犯の東条英機氏が処刑された翌日に、何故彼らは巣鴨プリズンから釈放されたのか?一体誰の意向で釈放され、またその後、誰の資金で彼らは自民党を結成するに至るのかを調べて欲しい。そして何の為に日本を反共の砦にする事を意図したのか?その答えは単に『赤の中国は悪で、白の米国とその同盟国は善であり、その為に日本はこの悪である赤の中国による攻撃から白同盟を守る為に反共の砦として築かれる必要があったから。』というものではない。そこには共産主義思想の識別が必要となる。スターリンの一国社会主義とトロツキーの世界革命主義がそれである。後者は敵国を作り上げ世界規模の戦争(つまり世界共産革命)を捏造し、世界統一政府の樹立を目論んでいる。さらに忘れてはならないのは1917年のロシア革命を主導したのはスラブ民族のロシア人ではなく、レーニン、スターリン、トロツキー、マルクス、エンゲルスなどの革命家は全てユダヤ人である(私は人種差別主義者ではなく、単に事実を述べている)。そして現在の米国政府の中枢を占めているのは世界革命主義者であり、血に於いて、あるいは信仰ゆえにユダヤ人である。中東に於ける紛争を良く見て欲しい。特に米国はCIAを送り込み、反政府運動を扇動し、最終的にその弾圧に出る政府を、人道の名に於いて、NATO軍を用いて軍事介入する。今シリアがその標的になっているのが分かるだろうか。日本に於いて、この米国主導の支配からの脱却を目指した田中角栄氏の失脚や、その直系とも言える現民主党員の小沢一郎氏に対する虚偽捜査報告書に基づいた検察側の不当な裁判を詳しく観察すれば、辿り辿って、日本もこれらの共産主義勢力下(米国CIA)にある事が見えて来るだろう。上に挙げた二名の政治家が中国との国交改善に尽力した事を理由に、彼らに親中と言うレッテルを貼って、共産主義の走狗かの様に非難するよう誘導しているのは、いわゆる偽装保守政党、つまり実質極左の集団であり、日本の政治及びマスコミの要に就いている人々なのだ。信徒は幻想ではなく、現実を見つめてこの世を生きるべきである。『私たちはお祈りさえしていればそれで良いと言うカトリック教徒には災いあれ!世俗の事など知った事ではないというカトリック教徒には災いあれ!』(秋田巡礼に於けるウィリアムソン司教様の言葉)しかし、あくまでも夢想家として生きて行こうというのであれば、それが漂わせる一見霊的生活に進んでいるかのようなその姿勢が、世俗で生活する良識的で世情に通じた多くの人々に不快感を与え、彼らをさらに救いから遠ざける事にもなり得る事を忘れてはならない(もちろん社会性のない弱い人々は、度々この様な姿勢に惹かれるものである)。これは世間体の問題ではなく、常識の問題であり、我々は聖性を求めつつも夢想家、あるいは独善家として終わってはならない。>。