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ルフェーブル大司教の伝記 20.2.3.天主における私たちの叡智イエズス・キリスト

2013年04月03日 | ルフェーブル大司教の伝記
天主における私たちの叡智イエズス・キリスト

 ルフェーブル大司教は、神学生時代からすでに自分を捕らえてしまった神秘により心を奪われた。それは、彼が聖パウロや聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォール らと共に、人となった天主の叡智をそこにおいて見出した“イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリスト”(コリント人への第一の手紙、2章2節)の神秘であった。

「私たちの神学は単に知性的なだけではありません。それは、一つの位格(ペルソナ)、つまり天主なる聖主イエズス・キリストを対象とするものです。それは生ける肉体を備えた神学なのです。天啓を通して教授されたものとはこの叡智なのです。私たちはこれについて4年か5年の間、あるいは私たちの一生を賭けて黙想することも出来ますが、聖主イエズス・キリストの神秘を考察し尽くすことなど決してないでしょう。キリストの天主のペルソナ【聖三位一体の第二のペルソナである聖子‐訳者】と、キリストの人間的現実の偉大なる神秘や(…)キリストの巨大な知識と愛徳。それこそが、私たちの説教しなければならない事なのです。」

  彼は神学生たちに対し、自分たちの勉強で得た知識を聖主イエズス・キリストにおいてまとめて統合するよう招いた。私たちが、全ての事柄を“聖主がその人間としての知性において理解していた如く”考察しますように!
  大司教の個人的祈りはもはや口先だけのものではなく、それは頭の中での祈りでも無かった。それは言うなれば“心の祈り”であった 。
自分の司祭の一人に彼は書いている。

「歳をとればとるほど、霊魂を変容させ、それを継続的な【天主への‐訳者】捧げ物の状態にしてくれるのはこの『心の祈り』なのだと私はますます考えるようになります。私たちの口祷と念祷の全てはこの極致に至るべきです。」 「もし観想というものが、十字架に付けられ、栄光を受けたイエズス・キリストに対する愛の眼差しであるならば、それは霊魂を天主の支配下に置き、その聖旨を成し遂げることが出来るようにしてくれるのです。」

  「偉大なる観想的な人よりも活動的な人は誰もいない。」とドノソ・コルテスは言う。この規則はマルセル・ルフェーブルにおいて真であると確かめられた。本能的に彼の統合的な信仰は、その観想から、行動の規定行動の理由を引き出した。天主の神秘を始め、罪と恩寵の重み、さらにイエズス・キリストの神秘を観想した時、マルセル・ルフェーブル曰く、「これらの全てが人生を変容させる」のだ。これらの人生を変容させる真理こそが、正に活動の根源なのである。


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