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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.4.3.マルセル・ルフェーブルが持つ二つの側面

2013年04月17日 | ルフェーブル大司教の伝記

マルセル・ルフェーブルが持つ二つの側面

 ところが、対話の人が本気で「硬化する」ような対面もあった。意地っ張りの反抗的な人々【esprits forts】に直面した時の彼は“反動の人”であった。  そんなとき、時には、激憤の中であるいは自分自身を説明しなければならない決まり悪さの内に、自明なことを否定してみる程断固として持論をとり続ける人は、マルセル・ルフェーブルから少しばかり激しい言葉を浴びることになった。つまりその状況下の彼は、自己の性格にあるマイナス面、あるいはむしろ、行き過ぎた頑強さを示した。

  しかしこれは珍しい出来事であった。通常の彼は非常に穏やかの人だったからである。彼は総長として6年間も聖霊司祭修道会において改革推進派の総長補佐を忍耐する事が出来た。口頭で非難して来るあの忠告者やこの修道者の長い口論に彼は動じることもなく耳を傾けたのだ。時には、ブュッサール神父の言うように、“秘密厳守を義務付けられている大司教は自己弁護など全く言うことも出来ずに、ことを‐非難や批判などを‐平然と受け忍ばなければ”ならなかった。ただし、ある日、一人の一般信徒がマルセル・ルフェーブルにどのように司祭養成をしなければならないかについて、大司教に15分に亘りに説いていた時、耐えきれずに彼の話の腰を折った。
「お聞き下さい、先生、私にはやるべき事が分かっています。貴方は自分自身の事を御心配ください。それでは、先生、今直ぐ私は貴方に退去をお願いします!」

 片意地な人々に対して、彼は議論よりはむしろ沈黙を好んだ。特に対談が長上か、又は自分よりも知識が上回る場合にはそうだった。“デコ神父の同級会”の間、彼は悪意を持って自分を非難するジョルジュ・ルクレルク(Georges Leclercq)司教を耐え、口答えしなかった。後日、弟のミシェルに説明した。「言われたことはひどいものだよ。本当だ、ぞっとする。」しかし、彼は議論しようとしなかった。彼は麻痺していたかのようだった。

 彼には、対話の相手によって第一の基本原理が拒絶される時に問題を話し合う事が如何に無益であるかを余りにも鋭く感じていた。その上、学者、あるいは高位聖職者が教義を否定する事など想像も出来ないと彼には思われた。特に、彼は権威に就く人々に対する深い敬意と、個人への大いなる尊敬、さらに隣人に対する過剰なほどの配慮を持ち合わせていた。この全ては偉大な愛徳に由来した。これは隣人への軽蔑の正反対である。

 マルセル・ルフェーブルは他者を辱めず、自分の配下の人々を傷つけないよう気を付けた。だからこそ、彼らが持つ短所を指摘するとか、あるいは彼らを一つの部署から別の部署に配属する時、彼は悩んだのだ。「彼らのある一人のために」と、彼は言った。「私は何日も夜眠れませんでした。この司祭を遠くに配属すると決定する前は、まるでダモクレスの剣【紀元前四世紀シラクサの王ディオニスィウス王が、その王位を羨む廷臣ダモクレスを自らの王座に座らせ、王位に就く者の如何に危険かつ困難極まりないかを、王座の上に細い糸に繋いで吊るした剣を見せて諭した】が私の頭上に吊るされていたかのようでした。【一人の配下の司祭に転勤命令を出すか出さないかということでさえ、ルフェーブル大司教は、この司祭のことを考えて困難と苦しみを感じていた。‐訳者】」   

 この度外れなデリケートさは、特殊な種類のものであった。何故なら、それは公衆にではなく、ただ個人的な関係においてだけ彼に影響を与えたからである。これは自分の言う言葉が、隣人に対する評価の欠如を意味するかも知れない時に生じる、見解を伝える事に伴うある種の困難だ。しかしこれはルフェーブル大司教の長上としての統治の功績と、公会議の教会の当局との忍耐強い対話の功績を全て物語っている。

 マルセル・ルフェーブルに関して賞賛に値すると思える事は、自分の信念への揺るぎない最大の確信と、他者への最大に慎重な思いやりとの間にあるこの対比、あるいはむしろ、この均衡である。この合体は、彼を非常に人間的で、信用と友情をもたらす愛嬌ある魅力的な個性を持った人にしたのだ。オカロル神父が言うように、聖伝支持に賛同しなかった多くの聖霊修道会司祭たちは、私たちにこう言った。
「おお!どれだけ私は彼に愛着があったことでしょうか!今でもそうですよ。」

 誰一人として、ルフェーブル大司教が持つ二つの側面を調和させる事など出来なかった。「閣下の優しさには厳しいものがあります。」と、あの司教聖別前にジャン・ギトンは彼に言った。他の人々は言った。「彼は傲慢だ!」

 「違います」とルイ・カロン神父は切り返し「個人的には、彼は謙遜ですよ。傲慢なのは彼の教義です。定式文句の教義こそが(…)」と弁護した。

  その通り、親愛なるカロン神父様、【ルフェーブル大司教を表現するには-訳者】とても良い定式文句だ。あなたの司教は自由主義者ではなかった。だから、in re【現実に】、そしてin modo【自分の発言、又はその実行方法のやり方において】愛徳深かったのだ。彼において、詩篇作者が言うように「憐れみと真理が出会い、正義と平和が互いに口付けした」(詩篇84章11節)のだ。

 「モーゼ以上に優しい人は誰一人存在しなかったにも拘らず、聖なる怒りにとらえられて、十戒の石板を割ったのは彼でした。優しい人が強くなると、極めて果てしなく強くなりうるのです。」

 ルフェーブル大司教に関してメルル神父が行ったこの熟考は、非常に鋭いものである。しかしながら、ルフェーブル大司教の力は、更に深くは、二十歳の時の青年期の快活な情熱に、サンタ・キアラで受けた松明の中に、マルセル・ルフェーブルを燃え尽くすその炎の中に、そしてルフェーブル大司教が伝えなければならないその炎の中にあるのだ。

 こうして、この“優しく、頑固な人”は、適度の慎みを通して、寛大な(magnanimus)巨人の背丈にまで達したのである。修道士かつ宣教師として持つ秩序付けられた熱意は、公教会に必要とされる司教の資質に適った素材を提供したのである。


天主様に感謝!4月のミサ聖祭の報告

2013年04月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!
 愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝! 4月の日本での聖伝のミサには多くの愛する兄弟姉妹の皆様が与ることが出来ました。ご報告をいただきましたのでご紹介します。
 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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 【報告】
アヴェ・マリア!
 日本でのミッションありがとうございました。4月12日(金曜)に御ミサに与られたのは13人、13日(土曜)は21人でした。
 土曜日の御ミサの後、ミサ会場で終油の秘蹟を授けられましたが、はじめてこの秘蹟に立ち会った人も多く、天主様の哀れみと大きなお恵みを深く実感いたしました。終油の秘蹟をうけられた方のために、兄弟姉妹が心をあわせてお祈りいたしました感動的な時間でした。

 【報告】
Dear Fr Onoda:
 今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
 ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 29人(内、子供1人)

 【報告】
トマス小野田圭志主任神父様

私達の主イエズス・キリスト様の御復活おめでとうございます
至福の始めて与りました聖伝の御復活の御ミサでした
とてもとても嬉しゅうございました♪大きな大きな御恵みでした
御祈り本当に有難うございました
皆皆とても幸せでございました♪

2月の聖なるロザリオマリアさん 17環です、どうぞ宜しく御願い致します

では、3月分の聖なるロザリオの十字軍の御報告を致します♪
*シスター 93環(御元気でいらっしゃいました♪とても御恵みです)
*ヨゼフ マリア  62環
*ヨゼフ・パウロ  93環
*マリア     178環
*ヨゼフ       7環
*マリア・テレジア 12環
*マリア・     92環
*バルナバ      1環
*テレジア     40環
*マリア・     49環
*マリア      24環
*マリア・ローザちゃん 43環
*マリア      40環
*マリア      68環
*アンナ      46環
*マリア・クララ  31環
以上です、合計879環です。宜しく御願致します。
皆様、又、聖なるロザリオの十字軍が発動されましたら、御協力下さいますそうでした、本当に有り難いです♪御恵みです♪
聖なるロザリオの聖母マリア様が皆様にたくさんの御恵みを下さいます事を確信しております
ルフェーブル大司教様の伝記有難うございます
ずっと楽しみにします♪


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한국성비오10세회(SSPX)
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ローズ胡美玉 さんの「苦しみの中の喜び」




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】