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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.6.2.説教師としての控えめさと大胆さ

2013年04月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
説教師としての控えめさと大胆さ

  もう一人の新聞記者で、パリ・マッチ(Paris-Match)誌編集者ロベール・セルー(Robert Serrou)氏は、リールでのミサの折りのルフェーブル大司教の説教のスタイルを二行で略記した。

「その声は優しいが、言葉は熱烈で、痛烈だった。彼は遠慮がちで同時に大胆、そして控えめさと溢れんばかりの自信が一体となって同時に存在していた。」

 緊張した時期にはルフェーブル大司教の口からも“アルゼンチンには少なくとも秩序がある”とか“教皇が真理を造るのではない”のような痛烈な発言もまれではなかった。

 しかしながら、たいていは、教義に精通する司教の口調で、父親らしい司祭の口調で話した。堅振での説教などは、良く慣れ親しんだ表現を使うやり方を取った。それに比べて王たるキリストや諸聖人の大祝日などの祝日向けの説教では、教義を教える者として教えを説いていた。

  大司教は常に、教義を---唯一教義を---詳細に説明した。彼にとって、道徳的な倫理の適用とは、ドグマの説明から自然に流れ出るものだった:

「霊魂は、真理によって、私たちの聖主とはどなたか天主とはどのような方かに関する教えによって、照らされる必要があります。多くの場合、天主ご自身や天主の業について話すのは、比較的に稀な事です。私たちは、天主の完全さや聖三位一体について、天主なる聖主イエズス・キリストについてもっと話すように努力することが出来たでしょう。何故なら霊魂が、天主と親密になればなる程、天主に仕えることを望み、天主を傷つける事を憎むようになるからです。もしある霊魂が天主に関する知識にほんの僅かの進歩を遂げと、霊魂は感嘆し、畏怖し、身震いするでしょう。私たちは、天主に近づけは近づくほど身震いするものです。『天使らは主のみいずをほめたたえ . . . 能天使は震えおののく』とミサの【四旬節、聖十字架、聖母マリア、聖ヨゼフ、通常の‐訳者】序章 には書いてありますね。霊魂が天主の偉大さと完全さについて教えられれば教えられるほど、ますます天主を愛し、天主に仕える事を望み、さらに恐れるようになりるのです。つまり天主の聖旨に逆らう事が何と恐ろしいかを益々悟るのです。 」

  ここで再び大司教は、自分のいつもの祈りの生活である信仰の礼拝を披露したのだ。こうして彼の説教は、信仰の基礎の授与を目指した。彼は、自分の将来の司祭たちに対し、多かれ少なかれ本当らしくない個人的啓示の上に自ら行う説教の基礎を置く事に伴う危険を指摘した:

 「それは危険です!間違いなく悪魔は、霊魂を信仰の基礎から逸らして、感傷主義や、あるいは本当に信仰と聖主に基礎を置いていない信心などに引き込もうとそれを利用します。自分としては、私は何時も信仰の主要な基礎を提供しようと、神学校で‐エコンで‐いつも精一杯の事をやって来ました。」

  さらに彼はこう付け加えていった。
「証明してはいけません、宣言するのです。」

 私たちは、余りにも頻繁に証拠の提示や、護教をしようと努めるが、それは信仰などではない。信仰とは、御自分の玄義を啓示する天主を信奉する事なのである。

  もし聖主イエズス・キリストの玄義でないなら、何よりも先ず説かれるべき一体どんな玄義があるというのか?

「私たちの聖主イエズス・キリストがあるべきところにない説教など無益です。説教の目的或いは手段を欠いています。」 「私たちは自分の事を述べ伝えるのではなく、私たちの主イエズス・キリストを宣教する(2コリント人への手紙4章5節)と聖パウロは宣言する。」「イエズス・キリストが私たちの説教の中に入ってくるべきです。というのも、全ては彼に関連づけられるからです。彼は真理であり、道であり、そして生命です。ですから聖主についての言及もなく、より完全になれ、改心せよと信徒たちに要求する事は、彼らを欺く事であって、彼らがそこに達するのを可能にする道を、その彼らに示さない事なのです。『私たちは、十字架に付けられたキリストを述べ伝える』(1コリント人への手紙1章23節)のです。」

  ルフェーブル大司教が説教する倫理道徳に関して言えば、それは単なる自然倫理ではなく、恩寵の助けによって完成される超自然徳に関するキリスト教的倫理であった。

「近代の説教が持つ欠点の一つは、私たちがもはや恩寵、あるいは「私がいなければ、あなたたちには何一つ出来ない」という聖主の御言葉を信じていない事にあります。」

「時に私たちは、霊魂に対して充分な信頼をしていません。つまり霊魂が私たちの主の聖寵に助けられて、徳において成長する可能性に対する信頼が十分ではありません。全ての霊魂の中で霊的有機体の一部となる聖霊の賜物や至福八瑞、聖霊の実りについて時折私たちが話すとき、信徒たちは魅了されます。私たちがこれらの事を説く時、どれだけ多くの信徒たちが驚嘆の念に満ちて言うでしょうか。「でも、これまで誰一人として、それについて私たちに話してくれませんでした!私たちは聖霊が自分の中でその様に働いているとは知りませんでした。」


 若きローマの神学生の時、休暇の折に実家に自分が置いて来た『義人の霊魂における聖霊の内住』De l’habitation du Saint-Esprit dans les âmes justesという本を読んだ母親が、同じ喜びに満ちた驚愕を感じていたことをルフェーブル大司教は思い出していたのだ。母はマルセル宛に手紙を書いた。「どうして私たちにこんな事を教えてくれないのでしょうか?」


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