ルフェーブル大司教は、司祭職の原理において、すなわち御托身された聖言葉の位格(ペルソナ)において、この司祭職を観想した。彼は人となった天主の聖子についての“聖パウロの素晴らしい描写”を愛した。「目に見えぬ天主の御姿であって、全ての被造物の長子(コロサイ人1章15-17)。」聖子によって、聖子において、聖子の為に万物は創られ、聖子において万物は存在する。」
「人類の歴史における御托身した天主の現存は、あらゆるものがそれに向い、あるいはあらゆるものがそこから生ずる太陽のように、この歴史の中心以外のなにものでもあり得ない。」
彼は位格的結合【ヒポスタシスにおける結合‐訳者】を黙想した。これは聖言葉が有する天主の位格【ペルソナ‐訳者】において人性を摂取する事を意味している。
「【天主から与えられた‐訳者】この霊魂と【聖母マリアから受けた‐訳者】この肉体とを天主から引き受けたことは、この人間に属性、権利、無比の特権、さらには仲介者、救世主、大司祭、王という、無比の敬称を与えたのだ。つまり被造物会における全ての仲介、全ての司祭職、全ての王権の一切は、聖主イエズス・キリストに固有のこれらの装飾品に与る事でしかないのだ。 」
大司教は、聖パウロ(ヘブレオ人への手紙10章5節)に倣い、聖主が御托身それ自体によって大司祭となったのであり、その神性は、童貞マリアによる御懐胎の最初の瞬間から彼の人性を塗油した聖別の油のようなものだと教えた。
尊敬を集めたル・ロエレック神父(Père Le Rohellec)が教えたように「それ故マリアは、最初の司祭叙階が行われた幸いなる至聖所であり(…)聖母はイエズスを、まさにその大司祭としての資格において生んだのである。」
そこから聖なる童貞が、さらに品級の秘蹟の刻印‐聖主に固有の一致の恩寵に与る事‐によって、大司祭キリストに合わせて形作られる者たち(configurati)【司祭‐訳者】の母でもあるのだ。
聖言葉によって摂取された聖なる霊魂を持つ私たちの聖主イエズス・キリストは、始めから成聖の恩寵と愛徳との充満で飾られ、至福直観の壮麗さで満ち溢れていたのである。聖父の礼拝に深く沈み込み、さらに愛に満ちた従順によって、人類の罪への天主の怒りを満足させる為、天主なる聖父に対して自らをいけにえとして予め捧げたのだ(ヘブレオ人への手紙10章5-10)。