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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.7.2.真の“信仰の玄義”

2013年04月24日 | ルフェーブル大司教の伝記
真の“信仰の玄義”

  司祭は、司祭的刻印を通して、キリストのペルソナにおいて【in persona Christi】、十字架上で成し遂げられた従順と愛徳のこの犠牲をあらたにする(renouveler)権能を受ける。自分が捧げる一つ一つのミサにおいて、祭壇上で血を流さない方法でそれを捧げる。この教義は聖伝の教えであり、聖トマスを通して、またトレント公会議やピオ十二世などをとおして伝えられた。本質的に司祭は、ミサの聖なる犠牲(sacrificium)の為に、つまり“sacrum facere 【聖なる事を成す事】”の為に叙階されるのだ。司祭はミサによって定義されるのである。

  ルフェーブル大司教に拠れば、ベランジェ(Bérenger)やプロテスタントらが、御聖体の秘蹟におけるキリストの現存を否んだ後で、今度は公教要理と信心が、余りにも片方だけのやり方で聖体におけるの現存と御聖体礼拝を強調し、ミサそれ自体に対する信心が霞んでしまった。

「このことは非常に深刻です。何故ならそれは御聖体それ自体の観点を、単なる糧、霊的食事ということだけに変えてしまうからです。この新しい観点は、屠り【immolatio いけにえ(victima)を天主に捧げる行為それ自体‐訳者】、私たちの罪の償いの犠牲として自分をいけにえとして捧げる聖主イエズス・キリストのことをあまりにも考えません。そういう訳で、この真の償いの犠牲を憎むプロテスタントの儀式と酷似する「食事ミサ」なる見解に移ることが簡単に出来てしまったのです。ところで、この犠牲は極めて本質的な公教会の業であり、公教会が御聖体を授ける時、公教会は信徒たちをして、天主なる聖父に御自分を捧げ続けておられるこのいけにえ【イエズス・キリスト‐訳者】に与らせるのです。ですから、私たちはいけにえ(victima)の状態に参与するのです。(…)もし私たちがこの観点を強調しないとすれば、もはや本当にカトリックな精神を持たずなくなってしまうでしょう。(…)私たちを、聖主イエズス・キリストに結合されたいけにえ(victima)にする事、それこそキリスト教精神の全てです。つまり苦しむこと、捧げることは、カトリックの宗教において最高に美しく、最も深遠で、最高に現実的なものなのです。 」

「私たちがミサの犠牲とカルワリオの犠牲とを分離してはならないように、この秘蹟と犠牲とを分離してはならないのです。聖トマスは分離出来ないこれら2つの結合を1文に要約しました。「この聖体の秘蹟を執行することにおいて、キリストは屠られる (Ⅲ, q. 83, a. 1)。」


  ルフェーブル大司教は言う。ミサとは“御托身の理由であるカルワリオの犠牲の再現(réactualisation)、贖いを実現すること、天主に限りなく栄光を帰し、罪を犯した人類に天国の門を開く行為”である、と。

 「ミサの聖なる犠牲を研究すればする程、それは本当に途方もない玄義であると理解するのです。本当にこれは私たちの信仰の玄義です。司祭は、時に属する者ではないかのように現れ、永遠の中にほとんど入り込む人のようです。何故なら、司祭の発する言葉のどれにも永遠の価値があるからです。(…) 御ミサとは]今日、ただ単に典礼様式に従って儀式が成し遂げられたと言うことではありません。時間を超越し、天主の栄光のために、煉獄から霊魂を救い出すと共に、私たちを聖化するために、永遠の影響を持つ、永久の現実なのです。各々のミサには、実に永遠の重みがあるのです。」

 この意味で、ミサは、十字架のみならず、他の全秘蹟を通して与えられる恩寵の源泉であるとルフェーブル大司教は言明した。  

“ミサの犠牲の周りにこそ、カトリック教会は組織され、司祭職は、【キリストの‐訳者】神秘体を立てるためにこのミサの周りに生きるのだ。”



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