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2018年11月23日(金) 殉教者教皇聖クレメンテ1世のミサ説教 「教会の頭である教皇様について」

2018年12月16日 | お説教・霊的講話
2018年11月23日(金)殉教者教皇聖クレメンテ1世のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月23日、聖クレメンテ教皇殉教者のミサをしています。

今日は日本の国民の祝日ですので、金曜日ですが朝ミサをする事ができて嬉しく思っています。お友達も朝早くから来て下さってとても嬉しいです。

御ミサが終わったら、いつものように感謝のお祈りをして、簡単にお食事をしてから、公教要理をしたいと思います。

このお話は、フランスのとても頭の良いビルコック神父様という方がなさったお話の中で、「プロテスタントの教えとは何か」そして「その結果、今社会がどうなっているか」という事についてお話をして下さっているのがあるのです。それを皆さんに、そのビデオの内容を皆さんにご紹介しようと思っています。どうぞいらして下さい。

明日も朝10時半からミサがあります。

それから来月は、11月30日と12月1日ですが、2回とも、アジア管区の新しい管区長様が日本に初めて来られてミサをして下さいます。是非いらして下さい。クリスマスにもミサがあります。



「お前はペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。そして地獄の門も、これに打ち勝つ事はできないだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は聖クレメンテ教皇殉教者のミサをしています。

⑴そこで、一体聖クレメンテという人が、いつ、どこで、どういう事をした教皇様なのか?という事を簡単に見て、

⑵そしてその次に、聖クレメンテ教皇様がなさった事の中で、一番大切なものの内の1つは、今でもその記録が残っているのですけれども、それで一体教皇様は何をなさったのか?という事を黙想して、

⑶そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴聖クレメンテ教皇様というのは、聖ペトロから数えてその4代目の教皇様でした。聖ペトロの次には聖リノ殉教教皇様、聖リノ殉教教皇様の次には、聖クレトあるいはアナクレトあるいは略してクレト、その次が聖クレメンテです。

紀元後88年から97年の間教皇様で、ローマにいました。そして「聖クレメンテ」という名前は、ローマの典文ミサの典文、「典文」というのは、昔からのミサの中で変わる事がない一番の大切な所ですけれども、その中にその名前が載っています。「聖クレメンテ」と名前が載っています。

聖クレメンテのお父さんの名前はファウスティアーノと言いました。聖クレメンテはローマで生まれました。そして聖ペトロの愛弟子でした。聖パウロとも会った事があります。聖パウロは今日読んだ書簡の中で、フィリピ人への手紙の中で、「クレメンテ」という名前を出しています。これはローマ教皇となる聖クレメンテの事なのです。

教皇様となって、ローマを7つの地区に分けて、特にこの「殉教者たちの記録を残すように」として命じました。しかし1世紀の終わり、つまり97年に、トライヤヌスというローマ皇帝が、非常に残酷で、キリスト教を迫害しました。そこで教皇様は聖クレメンテは捕らえられて、砂漠に追放されます。

そして追放された所にいると、2000名ほどのやはり追放されたキリスト教徒がいるのに出会います。そして砂漠で強制労働をさせられていて、大理石を削ったり掘り出したりする仕事をしていました。砂漠だったので非常に暑くて、喉が渇いて皆苦しんでいました。私たちに伝えられたところによると、聖クレメンテがお祈りをしていると、お祈りをして、「どうかこの人たちを助けて下さい」と言うと、丘の上に子羊が立っているのが見えたのです。そしてその子羊の所に行って、足元、その立っていた所を掘ってみると、水が湧き出て、こんこんと湧き出て、そしてそれは今でもあるのだそうです。それで苦しんでいた、その喉が渇いていたキリスト教徒たちを、迫害された者たちを癒した、喉の渇きを癒したそうです。

余談ですけれども、お祈りというのはとても力があります。私も昨日、夜中にソウルから来たのですけれども、その時にちょっとした話を聞きました。あるお母さんは、双子の赤ちゃんがいたのですけれども、双子の赤ちゃんがお母さんのお腹の中で頭がくっついていたのだそうです。それで、子供が生まれると頭がくっついたまま生まれてくる、「どうしたらよいか。」非常に困って、お祈りしたのだそうです。お祈りをして、お祈りをして、お祈りをしたら、次に見たら、離れていた。

聖クレメンテも、お祈りをして、「助けて下さい。」そうしたら、水が湧き出たのです。イエズス様は私たちの祈りを聞いて下さいます。そうすると、それを見た、奇跡を見た未信者の人も、カトリックじゃなかった人たちも見て、「すごい、これは本物だ」と思って、そして多くの人がカトリックになりました。

それを見た皇帝が、「何だ!せっかく迫害してやったのに、却って結果として多くの人がキリスト教徒になった」という事で、ますます腹を立てました。そこで、この張本人であった聖クレメンテの首に錨をつけて、船に固定する重い鉄の塊をつけて、そして海に放り込んでしまったのです。

その時にキリスト教信者たちは、クレメンテの為にたくさんこの岸辺で浜辺でお祈りをしていました。そしてお祈りをして、お祈りをしていると、海の水が3000歩ほど引いてしまったのだそうです。そして「何だ?」という事で行ってみると、聖クレメンテの投げられた所に、大理石で、ちょうど教会のような形で建物が立っていた。そして中にはアーチがあって、そしてそこにクレメンテの遺体と、その横に聖クレメンテが付けられていた錨があって、そのまま横たわっていたのです。「海の底に一体誰がこんな物を造ったのか!?」という事で、ますます多くの人がこの大奇跡を見て、信仰を得てキリスト教徒になりました。

後にこの遺体は、教皇ニコラ一世の時にローマに運ばれて、聖クレメンテ教会という所に安置されました。

聖クレメンテは生きている間に、12月に叙階式を、司祭を作りました。その時に叙階式の時に、10名の司祭と2名の助祭と、そして色々な所に派遣される15名の司教様たちを特別に叙階したそうです、聖別したそうです。


⑵第2のポイントで、聖クレメンテのした仕事の中で、一番重要なものは何でしょうか?

これは、教皇様としてコリントの人々に手紙を書いたのが残っているのです。

聖イレネオというリヨンの司教様が、この方は202年まで生きていたリヨンの司教様だったのですけれども、「聖クレメンテは、ローマ教皇様として使徒たちと会った事があって、そしてその使徒たちのやっている事を見た、そして使徒たちの教えを直接耳で聞いて、目で見て、その通りにやっている、その伝えている教皇様だ」と証言をしています。

ですから、昔の教会の教えを伝える人の事を、「教父」、教える父と書いて教父という風に言うのですけれども、特に使徒たちと直接会って、使徒たちの話を聞いて、そのまま伝えたような教父の事を、「使徒的教父」と特別な名称で呼んでいます。「使徒たちからの教えをそのまま伝える教父」という意味です。自分で発明したとか、自分で考え出した、というのではないです。そのまま、イエズス様の教えた通りの事を、使徒たちが十二の使徒たちが、そしてその十二の使徒たちの話を直接聞いた人たちなのです。

やはり、チェザレオという所の司教であったエウゼビオという人が記録を残しています、「聖クレメンテは手紙を残している。この手紙は本物だ。確かに彼が書いて、コリントの人々に書いた手紙だ。」今でも残っています。

それはどのようなものかというと、おそらく西暦96年に書かれたもので、迫害の真っ只中の事でした。迫害の真っ只中で、キリスト教信者は非常に苦しんでいました。ですから聖クレメンテも、やりたいと思った事も自由にできませんでした。生き延びるので精一杯でした。しかし、ギリシャ語でコリント人へ手紙を書いています、「色々な苦しい事の為にすぐにできなかったけれども、私はコリントのお前たちに愛の手紙を送っている。」

その当時、コリントの人たちにはちょっと問題があったのです。そこで、聖ペトロ以来私たちの手元に残っている歴史的な記録として最初の物なのですけれども、一番古来の物ですけれども、ローマの教皇様が、世界の別の、ローマ以外の所の司教様に人々に指導をしているのです。これを見ると、「ローマの教皇様が、他の全世界に対してそういう力を持っている、権利を持っている」という事が、「使徒の時代からそうであった」という事が分かります。

何か地方で問題があると、その地方の司教様たちはすぐにローマに、「どうぞ教皇様、お願いですから解決して下さい」とお願いした証拠なのです。昔からつまりローマは、特別な優位の首位性、第一の力を持っていました。特別の権利を持っていて、特別の裁治権を持っていました。それは今でも続いています。

そしてどんな話をしたかというと、当時コリントでは信仰がだんだん弱くなっていたのです。信仰が弱くなると何が起こったかというと、コリントにいた神父様たちと信徒の間で戦いが起こったそうです、喧嘩が起こったそうです。一体どんな、詳しくどのような事かは私は調べていないのですけれども、信徒の人が神父様たちを教会から追い出してしまったとか、何かものすごい事が起こったそうです。

それでその事を、ローマの教皇様が、「それはおかしい」と言って、そしてもう一度、「使徒の時代から、イエズス様の時代から伝わった教えは何か」という事を確認します。つまり、「教会は組織立っていて、聖職者と平信徒がいて、そしてこれは愛の調和を持っている。そしてそのような秩序だった組織を持っているのが、イエズス様の御望みである」という事を、「それが昔からの使徒たちのこの教えである。私たちはだから、その信仰と共に、愛徳を持たなければならない。そして特に謙遜を持たなければならない」と諭しています。そして、「このような階級があるのは、戦う為にあるのではなくて、相互に助け合って、愛し合う為にあるのだ」と教えています。

これを見ると、昔から、使徒の時代から、つまりイエズス様の時代から、イエズス様の教えは、「御自分の教会を、組織立った位階制度のあるものとしてお作りになられた事がある。聖職者と、そして信徒の2つがある」という事が分かります。そして更に、「その聖職者と平信徒の一番トップは、ただ1つの頭であって、それが教皇様である。教皇様は全地上の、全ての事を裁く事ができる最高の力を持っている」という事が分かります。そして私たちも今、それと同じ信仰を持っています。

もしも私たちが、この今、聖伝のラテン語の昔からのミサをしている、なぜしているかというと、それは聖ピオ五世教皇様が、「このミサは、永遠に永久に有効なものであって、全ての司祭がこれを捧げなければならない義務があるし、これを捧げる権利がある。そして誰もこのミサを変えてはいけない。もしもそのような事があったら、聖ペトロとパウロの怒りがあるように」として、そのミサを列聖したからです。

もしも私たちが、「カトリック教会だけが、イエズス・キリストの本当の教会である」と言うとしたら、それは過去の教皇様たちがいつも同じ事を仰っていたからです。

もしも私たちが今、「御聖体の前で跪く、御聖体を礼拝する」としたら、それは過去の教皇様が、あるいは公会議が、「この御聖体は、イエズス・キリストの真の御体であって、私たちは礼拝しなければならない」と教えてきたからです。

もしも私たちが、「カトリック教会が唯一の救いの箱舟であって、もしもこの教会のメンバーに属さなければ、天国に行けない」としたら、それは過去の教皇様が何度も何度も、公会議が何度も何度も言ったからで、私たちが別にそれを発見したとか、別にそれを作り出すとか、私たちが固執しているとか、頑固にそれを主張しているのではないのです。ただ私たちは、教皇様たちがそう仰って、不可謬の教えを教えたので、それをそのまま信じて、もしも、イギリスの英国聖公会の司祭と言われている人たちが、「実はこの司祭の叙階は無効だ。だからこれは司祭ではなくて、ただの平信徒だ」と言われたとしたら、これは教皇様が、特に教皇様たちが、特にレオ十三世が、不可謬権を以てそう断言したからです。

もしも私たちが、「共産主義は間違っている。本質的に邪悪だ」としたら、それは教皇様たちがそう仰ったからです。特にピオ十一世教皇様がそう仰いました。

はい、私たちは教皇様に従順でなければなりません。教皇様の教えをそのまま素直に受け取らなければなりません。

そして私たち聖ピオ十世会は、本当に教会に忠実である為に、特に2000年間の過去の教皇様の不可謬の、「これは絶対変えてはいけない」という教えを、そのまま素直に受け取って、そのままにしています。イエズス様の教えのまま、そのまま来ています。

⑶今日、信仰の為に亡くなった、殉教した教皇聖クレメンテ1世の祝日で、私たちはもう一度カトリックの、キリストの代理者、地上における目に見えるキリストの代理者であって、そして唯一の最高の指導者である教皇様に対する信仰をますます強める事に致しましょう。イエズス様は仰いました、「この世の終わりまで、私はお前たちと共にいる。地獄の門もこれに打ち勝つ事はできない。」

そして私たちは、教皇様の為にたくさんお祈り致します。お祈りをしてきましたけれども、これからもお祈りします。教皇様がいつも、過去の聖伝の教えに忠実でありますように、使徒たちから伝えられた教えにいつも忠実でありますように、過去の教皇様が、「この教えを変えてはいけない」と言ったものをそのまま変える事なく、私たちにその信仰の遺産を伝えて下さいますように、私たちは特に今日お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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