2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【7】
同時通訳:小野田圭志神父
同時通訳:小野田圭志神父
私たちの天主への立ち戻りについて、また一緒に黙想しましょう。そしてまたそれは、「まことの信心」を発見する事によって立ち戻る事にします。
出発点は、私たち自身です。「私たちの在り方、私たちが今どのようにあるか」いう事と、そして「具体的に今、現在どのような状況に置かれているか」、つまり「原罪を持って生まれている」というその事を考慮します。
そして私たちの出発点の認識から、最初から間違っているという、正確な出発点をうまく認識していなかった、という事を話しました。ちょうどちょっとおかしな人のようです。自分たちが何かよく分かっていない人のようです。私たちは、私たちが何かエリザベト女王であるとか、あるいは自分はナポレオン皇帝であるとか、あるいは聖ピオ十世教皇様であるかのように誤解しているのですけれども、実はこの貧しい小野田であったり、あるいはマリアさんだったり、インマクラータさんだったりします。
全く深い私たちの現実、一体、「私たちが一体誰であるか」という事を正しく認識しなければなりません。もちろんそれを正しく認識しないならば、出発点から、幻覚の内に幻想の内にいる事になります。
ところが、現代では誰もが彼もが、この「自分が誰であるか」という事を誤解しています。良いカトリック信者であったとしても、それについて誤解しています。幻覚の幻想の内に住んでいます。
まず二重の考察をしなければなりません。「私たちの存在がどのようなものあるか」という事、そして「私たちが今現在、本当に具体的に、今ここでどのような状態に住んで生活しているか」という事です。
全く深い私たちの在り方というのは、「天主様に全て100%依存している被造物である」という事です。そして天主に全く従順で依存しているにもかかわらず、罪を犯す事によって悪魔の下にあったにもかかわらず、イエズス様がそれを贖って下さって、「私たちはイエズス様に全く属するものとなった」という事です。
具体的に、今ここで私たちの置かれている状況というのは、歴史的な結果、原罪を負って生まれてきた、「原罪の傷を負って生まれて来た」という事です。
この2つの事を考察すると、私たちは何か、手ぶらで天主の御稜威の前に出る事ができない、その資格の無い者である、という事が分かります。被造物としては、天主と比べれば、全く大海の一滴の水よりも小さいようなものです。全宇宙、全世界と比べれば、塵よりももっと小さいかけらにしか過ぎません。この小さな粒のようなゴミが、宇宙に匹敵するような天主様に向かって、それに立ち向かって、「ハロー、天主様」と言う事ができるでしょうか。
天主様について現代人はどのように取り扱っているかというと、ちょっと自分よりも、ちょっと上にあるかないかのようにして考えています。それを象徴するかのように、天主の前では跪こうとさえしません。天主の全能の御稜威の前に、跪いて頭をこう下げようともしません。もうヒッピーの友達であるかのように、同僚であるかのように、スーパースターであるかのように取り扱っています。
私たちはしかも、小さな小さな小さなゴミ粒のみならず、きれいな粒でさえもない、汚い、汚らしい粒で、臭い、汚いものです。もしも天主様がそのような私たちをして、その近くに近寄らせようとするならば、その全能の御稜威と、全く無に等しい私たちの間に、こう繋ぐような橋が必要です。その在りて在る天主様と、無きて無き私たち、無に等しい私たちを繋ぐ橋を造る、ラテン語では「橋を造る」というのは、“pontem”「橋を」、「作る」“facit”と言います。この「橋を作る人」の事を“pontifex”と言います。“pontifex”というのは、実は「司祭、大司祭」を意味して、天と地を繋ぐ大司祭イエズス・キリストの事を意味します。このイエズス・キリストが必要です。
これについて、83番から89番までグリニョン・ド・モンフォールは説明します。これによって、なぜ聖グリニョン・ド・モンフォールは私たちに、「この仲介者が必要であるか、真ん中に立つ者が必要であるか」という事を説明します。天主は光であるから、この光の前にいかなる闇もありえない。この暗闇である私たちは、光である天主に近寄れない。ですから、光御自身である天主が、私たちに仲介者を下さるのです。仲介者、中継者というのは、この両極端に、両端の間に立つものの事です。
私たちのこの生活の中にも、このような事がよくあります。
例を挙げてみます。このお百姓さんが、「王様に近付きたい」という時には、例えば小野田神父が、「教皇様に会いたい」という時に、フランシスコ教皇様はきっと、おお、来いと言うかもしれませんけれども、普通の場合にはなかなか難しい、もう少し昔の教皇様の事を考えます。小野田神父がバチカンに行って、「教皇様に会いたい」と言ったとします。衛兵のガードはこれを見て、「出て行きなさい。」でもこの時にですね、「あぁ、でも私は教皇様のお友達を知っています」と言います。「教皇様の個人秘書を知っています。」そこでその衛兵が、その教皇様の秘書に電話をかけて、「ここに小野田という者がいますけれども、入れて良いのでしょうか?」と言います。このようにお友達が、仲介のお友達が、両方共を知っている友人がいれば、結び付ける事ができます。
今まで天主様の事を蔑ろにしてきたような私たちのこの怠け者が、あるいはもう無関心であった者が、いきなりこの「天主に会いたい」と言ったり、天主に「何かを」と言うのは、全く身分を知らない事だ、これは思い上がりだ、ですから「誰かによって紹介されなければならない」と言います。
84番を見ると、「もっと別の点がある」と言います。イエズス様だけが、天主聖父の前で、その心に適う者です。
私たちが罪を犯すとすると、何が起こったのでしょうか?私たちは罪を犯す前には、天のものすごい宮殿を約束されました。しかし罪を犯す事によって、罪を犯す毎に、この美しい宮殿を汚く破壊し、破壊し続けているのです。その美しい宮殿を私たちに下さった、それにもかかわらず、その宮殿を台無しにしておきながら、そのまま「こんにちは」と会うわけにはいかないのです。
そのように宮殿が綺麗になってから初めて、私たちはようやく会う事ができます。でも自分自身では綺麗にする事はできません。綺麗な花瓶があるとします。何百年も前の、もう立派な、有名な画家によってこう描かれた、綺麗な、価値が値がつけられないような花瓶があるとします。その貴重な花瓶を、「あっ!」と落としてしまって、粉々に砕いてしまうのは非常に簡単です。それでそれの持ち主であるそれを作った芸術家はこれを見て、「あ、私の宝がもう粉々になってしまっている」としたら、「これを集めて、また接着剤で付けて下さい。」それは不可能な話です。私たちにはそれを元通りにするやり方もできないし、その元通りにその絵を描く事もできません。宮殿を造った方だけが、宮殿を元通りに直す事ができます。ですから、普通の聖人や天使たちでは、宮殿を元に戻す事はできません。天主が造った神殿を宮殿を、天使たちが、どのような高い天使であっても、それを元に直す事ができません。
そこで天主様は、天主の聖子が私たちの内の一人となって、それを直す事ができるように、仲介者を与えました。
別の考察をしますけれども、それは私たちが罪を犯すと、罪の鎖に縛られてしまいます。この重い鎖から誰も解放する事ができません。悪魔より強い人だけが、この鎖を壊す事ができます。もしもその悪魔よりも強い仲介者がいなければ、中継者がいなければ、私たちは皆天国には行けずに、地獄に落ちてしまわなければなりません。
グリニョン・ド・モンフォールは話を続けます。もっと、もっと私たちには、仲介者が必要ではないでしょうか?つまり、この仲介者まで私たちを運んで下さるような仲介者が必要ではないでしょうか?85番を見て下さい。助けなしにイエズス様に直接一致するほど、私たちは清らかでしょうか?
イエズス様はもちろん、無限に憐れみ深い方で、私たちの内の一人ですから、一致する事はできます。でも同時にイエズス様は、天主でもあります。聖なる、聖なる方です。天と地を裁く方です。イエズス様に、この手ぶらでこう近付くには、恐れ多い方ではないでしょうか?
「イエズス様」という私たちを愛するような方に対して、私たちは今までどのような態度を取ってきたのでしょうか?それを考えると、本当に穴があったら入りたい、と思うではないでしょうか。イエズス様は全て私たちに、私たちの持っているものを与え、御自分の御血を全て私たちに与えて下さいました。世の終わりまで、私たちの為に小さなホスチアの中に留まり、小さな御聖櫃の中に留まり、しかもそしてこの御聖櫃は、御聖体は、忘れ去られて、そして軽蔑されています。
そのようなイエズス様に、私はほとんどいつも冷たい態度を、あるいは無関心を取ってきました。「イエズス様、私の家に来て下さい」と言いながらも、いらしたら、全く無視しています。イエズス様と為したほんのちょっとした会話というのも、本当に表面的で、ほとんど価値が無く、そしてそれに相応しくないものが全く多かったのです。冷たい態度、あるいは無関心だけではありません。時にしては、イエズス様に対して、この侮辱、屈辱を与えてきたのです。
もしも友人がいて、その友人に対して私たちが傷付けてしまった場合、私は謝ります。もちろんこの友人は私は許すでしょう。でもこの友人の心には傷があって、私の悪い態度の事に傷を受けて苦しみます。それで、そのような許して下さった友人に対して、また侮辱して、また屈辱を与えて、何度も何度もその同じ事をすれば、「あぁ、本当にごめん。もう今度は絶対そんな事しないから。本当にもう悪かった。約束する。もうこれから今までの僕じゃない。もう絶対そういう事はありえない。」ところがその数時間後、あれは数日の後には、全く同じ事をこの友人に、何度も何度も繰り返す。
私が皆さんに約束をして、約束をして、その約束をいつも破ってばかりいれば、もう私の約束は、皆さんそのまま真面目にとってはくれません。もう皆さん私の事を信じてくれなくなります。
いつも私たちがした荘厳な約束は、何でもないかのように破られて、何度も何度もそういう事をイエズス様にしてきたのを見たイエズス様は、このような私たちを見て、どのように思うでしょうか。
私たちは一体、何をしたら良いでしょうか?もうどうしようもないこの状況において、どうしたら良いでしょうか?私は何度も何度も同じ立場に、同じ事を繰り返しています。かといって、「もう今度は、今度こそ」と、もうこれ以上イエズス様に近付く事はできないと感じています。でももしもイエズス様に近付かないと、私はもう救いがありません、地獄に落ちるしかありません。
ですから私たちには、このイエズス様に近付く為の中継者が、仲介者が必要です。イエズス様は、誰に私たちが近寄ったら良いか、答えを与えて下さいました、「汝の母を見よ。」十字架の上で、あなたと私の為にそう仰って下さいました。イエズス様に近付く為の仲介者を、イエズス様御自身が下さいました。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、聖ベルナルドや聖ボナベントゥーラを引用して、「誰も、マリア様を通さなければ、イエズス様に行く事ができない。そしてイエズス様を通さなければ、聖父に行く事はできない」という真理を教えています。
皆さんよく知っているように、母親の心はとても特別にできています。母親の心は、憐れみと愛に満ちて作られています。父親の頭には、いつも秩序と正義があります。でも母は違っています。母親は子供に対して、子供が生きている間は必ず憐れみを表します。たとえ子供がもう忠実ではなくても、子供が邪悪になってしまって、子供が本当に悪い行動を取っているとしても、母は子供を愛します。たとえ子供がどのように悪い犯罪を犯したとしても、その母親に対してもう悪さをして、もう資格がない、もう態度があまりにも悪いとしても、その子供がお母さんを必要として、ちょっとお母さんを呼べば、すぐに母親はやって来ます。ですからイエズス様はマリア様を、私たちがイエズス様へと行く仲介者として選びました。87から89番までには、大切な真理が述べられています。
では、マリア様をどれほど私たちが仲介者として必要としているでしょうか?
第1の理由は、「私たちが弱い」という事からです。私たちが持っている原罪の為に、私たちは弱く、脆い、という事です。「私たちはこの宝を、土の器の中に入れているようなものだ」と。このもしも私たちの力だけでこれを守ろうとするならば、すぐに壊してしまうでしょう。そこでマリア様が、この器が決して壊れないように守って下さるのです。ちょうど貴重なカリスや、貴重な液体が入っている器を守るように。
第2の理由は、私たちが弱いのみならず、「悪魔が攻撃している」という事です。悪魔は吠え猛るライオンのように、私たちを食い尽くそうと歩き回っています。悪魔は怠け者ではありません。私たちよりも知性に長けています。ずる賢くて、そして私たちの思っていなかった所に攻撃を仕掛ける事ができます。良い機会を狙っています。何年も何年もかかって勝ち取った聖寵の御恵みを、たった一瞬の間に奪ってしまおうとしています。もしもたった一人でイエズス様に会いに行こうと私たちが道を歩くとしたら、悪魔は私たちをあっという間に奪ってしまう、攻撃してしまう事でしょう。多くの、レバノンのような大杉の大木のような聖人であっても、立派な聖人であっても、一瞬の内に悪魔によって倒されて、罪に落ちてしまったりした事は何度もありました。
何故このような大きな立派な方々が倒れてしまったのでしょうか?天主様の御恵みが足りなかったというわけでありません。なぜならば、天主様は皆に御恵みを与えるからです。
なぜかというと、彼らは間違った信心があって、自信過剰の傲慢で過信してしまったからです。彼らは自分の力を過信したのです。「私にはマリアは必要ない。私は自分でやっていける、イエズス様に近付く事ができる。」もしもイエズス様がそのような態度を見ると、「じゃあ、やるならやってごらん。」
私たちはこの終課の時にいつも、「吠え猛るライオンのように、私たちを食い尽くそうとしているものに注意しろ」といつも言いますけれども、本当にこのライオンのような悪魔に気を付けなければなりません。新しいミサにおいては、奉献の祈りの時に、「大地の恵み、労働の実り、命の糧になる」と言っています。ところで、自分の労働の実りだけを、どうして天主にこう捧げる事ができるでしょうか?これは傲慢です。悪魔の頭を踏み砕く事ができる力を頂いているのは、私でありません、単なる人間の力ではありません。でもマリア様は、その力を得て、そのマリア様が私たちの仲介者となって、保護者となって下さいました。
第3の理由は、なぜマリア様が必要かというと、「この世が腐敗している」という事からです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、今の現代の時代の為に書いています。
“この世が道義的に大変腐敗しているので、教えを守り通す事が困難になってきました。そのような激流に押し流されずに、嵐の吹きすさぶ大海にも難破せず、また盗難にも合わず、風俗紊乱にもめげず、毅然として信仰を守り通す事は奇跡です。”
この海賊が、私たちを「襲ってしまおう」と思って待っています。現代では、私たちをこの信仰から離れさせて、道徳的に腐敗させようとする力があまりにも大きいので、私たちはますます仲介者が必要です。
マリア様がどれほど必要か、という事を、この絵を見て頂きたいと思います。
新しいミサの労働の実りについて、ちょっと話を続けます。天主様に私たちは一体何を差し上げるかというと、大体は腐ったりんごとか、腐った卵などです。例えば農家の方が、「王に何か贈り物をしたい。」例えば王が、「何を持ってきて下さったのですか?」と聞くと、「はい、腐ったりんごを、匂いのするりんごを持ってきました。」もしもイエズス様に何か贈り物をするとしたら、それと同じような事をするべきでしょうか?これは新しいミサのやっている事です。
でも私たちは、仲介者であるマリア様にお願いします。マリア様は私たちに与えられたので、私もマリア様に自分を与えます。「そのあなたの持っているりんごを私に下さい。」するとマリア様は、ご自分の籠を持っていて、そこに美しい贈り物がたくさん入っています。これはマリア様の美しい、善徳の聖徳の業であって、信仰の業、愛徳の業、忍耐の業、犠牲の業、祈りの業などがたくさん詰まっている籠です。そのような綺麗な果物や、綺麗な贈り物との間に、私の腐ったりんごをそっと置かれるのです。「お母様、そのようになさらないで下さい。この腐った物を入れると他の物も腐ってしまいます。」「普通はそれが起こります。でも私には起こりません。」
今まで腐ったようなりんごだったのですけれども、マリア様の美しい贈り物に触れると、小さなみすぼらしい見かけはそれのままですけれども、腐りが無くなります。この綺麗になったりんごを、私に戻そうとはしません。「子よ、私と一緒に来なさい。」そのご自分のたくさんの聖徳の実りに囲まれた中に、そっと私のその小さなりんごを入れて持って行きます。私を連れて、この籠を持ってイエズス様に近付きます。そしてマリア様は私に、「さぁ、これをお持ちなさい」と言います。「この籠を、私の息子に、イエズスに与えなさい。」
「イエズス様、私の王であるイエズス様、これが私たちの果実です。」イエズス様はもちろん知っています。この籠の中のほとんどがたくさんのマリア様の果物で、1つの昔ちょっと腐ってたようなりんごだけが、私の物だと知っているのですけれども、しかし、それを喜んで受け入れます。
もしもマリア様がいなければ、私たちは腐ったままのりんごをイエズス様に与える事になって、イエズス様はどのような反応をするか、皆さんご存知です。
そこで、この日本は海に囲まれているので、海と船の話をします。皆さんは大きな船のようです。でもこの船は間違った方向に進んでいます。地獄へと向かっている大きな船。イエズス様はこの地獄へと落ち込もうとしている大きな船を、助けようとしてやって来ました。「私は道・真理・命である。そしてこの船は、こうやって弧を描いて上に上がれば、救う事ができる。私の後に付いて来なさい。そうすれば私はあなたの為に命を与える。そうすれば地獄に落ちなくても済む。秘跡に与り、ミサに与り、御恵みを受けなさい。そうすればできる。でもこの道が正しければ、それができる。私のこの御恵みをして、船の方向を変える事ができる。」「イエズス様、ありがとうございます。」
船長がこうやって、この海流や風は皆、下の方に下の方に流そうとしています。
「毎日お祈りをしなければならない、ロザリオ一連…!二連…!天にまします…うぅ、大斎をして、苦行をして…」
すると、船の方向が少しずつ変わって、真っ直ぐ地獄に落ちるのではなくなります。
「徳の実践をしよう。1つから2つ…!2つから3つ…!」
すると、何か大きな風が吹いて、そこで風が、大きな風に流されて、また真っ直ぐ下に落ちて、もう一度最初からやり直す。
皆さんこの努力をしなければなりません。このまま座ったまま、ただ見ているだけではだめです。でもたった一人では、とても成功しません。
ところで、突然招きがありました。優しい天のお母様の声がやって来ます、「我が子よ、もしも私に操縦する事を許してくれるなら、私がやってあげましょう、一緒にやりましょう。」「お母様、お願いします。」するとこの操縦席に立って、マリア様は動かします。
すると、何の問題もなく、船はクル〜ッと方向を変えて、正しい上の方に戻って行きます。
1つだけ条件があります。「マリア様、お母様から決して離れない」という事です。もしも逃げてしまうのならば、誰もその操縦する事ができなくなってしまうからです。一緒に、必ず一緒にしなければなりません。
最後のもう1つの例えは、山が好きな人がいます。富士山に登る登山家の人がいます。なぜかというと、この富士山の頂上には大きな門があって、宮殿があって、そこから天国に行く道が続いているからです。イエズス様は、「さぁ、ここに天国の宮殿がある。これはお前のものだ。お前の為に道を開いた。これが道で、これが地図だ。この宮殿はお前のものだ。さぁ行け。そしてお前が例え行く力があったとしても、それに行く為に必要な食料を与えよう。そして薬も与えよう」と。すると感謝に満ちて、「イエズス様、本当にありがとうございます。」リュックサックを背負って、その全てを入れて、その道を進めます。登山が始まります。
1km、2km、進めていきます。最初はこう高らかに歌を歌っているのですけれども、道が進むにつれて、疲れが出てきたのでしょうか。歌も小さくなって、荷物も重くなって、歩きも鈍くなってきます。「もうだめだ…、」もう涙が出てきて、「もうこれ以上歩く事はできない。道は開いているし、荷物もあるし、宮殿は待っている。でももうだめだ、歩けない…。」
すると、突然お母様がやって来て、仲介者マリア様です。「子よ、いらっしゃい。一緒に行きましょう。」まずマリア様がなさるのは、この重いリュックサックを背負って下さいます。そして私の小さい手を取ってくれます。そしてシュッ、シュッ、シュッと身を進めます。子供はもう疲れて、もう眠くなるし、「大変で、もう歩きたくない」と思うと、するとマリア様は私を抱いて登ってくれます。子供が、「お腹が減って、もう喉が渇いた」と言えば、食べ物を、飲み物を与えてくれます。
その山の登山口には、中にはこう道がない所もあって、危険な所もあります。お母様は私を背負ってジャンプして、それを歩いて下さいます。すると目の前に、大きな熊がいます。するとマリア様は、この熊のぬいぐるみを取ってブンッと、熊のぬいぐるみをポイッと捨ててしまいます。
1つだけ条件があります。それは、「マリア様の手をいつも握っている」という事です。もしもマリア様からちょっとでも離れてしまえば、崖に落ちてしまいます。
もしもそうするならば、何が起こるでしょうか。もしも残念ながら、お母様の手を離してしまって、本当に崖に落ちてしまったら、私たちは、「あぁ、お母さん、本当にバカだった、私がバカだった。手を離してしまった!」と言えば、すぐにマリア様がやって来て、どんな所に落ちていたとしても探し出してやって来て下さいます。たとえ私がもう粉々に砕かれてしまっていたとしても、もう半死半生に傷付いていたとしても、そしてもう半死半生の私を治して下さって、もう粉々に砕かれたものをひとつにまとめて下さいます。必要ならば新しい服を下さるし、この汚れた手は綺麗にして下さいますし、もしも必要ならば新しいカバンもくれます。そしてその中には、新しい食料や食べ物もいっぱい詰めて下さいます。
「子供よ、さぁ道を続けましょう。子よ、だから私の傍から離れるのはあまり良くないですよ。またこんな傷を付けてしまうから。」そこで私はマリア様に言います、「お母様、たとえ私がこう離れようとしても、絶対離さないで、私の手を握っていて下さい。」
これを仲介者として、マリア様がずっとなさって下さるのです。マリア様はこれら皆を、私がイエズス様の為にするように、という事を望んでいます。「私はちょっとした仲介者で、イエズス様こそが大仲介者ですから、イエズス様の方に行きなさい。でも私から決して離れない、という事を学んで下さい。そうすればイエズス様から離れない、という事を学ぶでしょう。」
私たちの出発点は、私たちの悲惨な状況ですけれども、私たちが天国に行く道というのは、マリア様の汚れなき御心です。マリア様はファチマでそう言いました、「私の汚れなき御心は、あなたたちを天国に導く道となるでしょう。」
この30分を使って、今申し上げた番号83から89番を黙想なさって下さい。次の講話は16時30分からですけれども、その時にはたくさん読まなければならない箇所もあります。この次の講話をよく理解する為にも、今のこのポイントをよく理解しなければなりません。