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2016年聖母小黙想会 霊的講話【7】 8月12日 シュテーリン神父様「道であり、仲介者であるマリア様」

2018年12月31日 | お説教・霊的講話
2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【7】
同時通訳:小野田圭志神父


私たちの天主への立ち戻りについて、また一緒に黙想しましょう。そしてまたそれは、「まことの信心」を発見する事によって立ち戻る事にします。

出発点は、私たち自身です。「私たちの在り方、私たちが今どのようにあるか」いう事と、そして「具体的に今、現在どのような状況に置かれているか」、つまり「原罪を持って生まれている」というその事を考慮します。

そして私たちの出発点の認識から、最初から間違っているという、正確な出発点をうまく認識していなかった、という事を話しました。ちょうどちょっとおかしな人のようです。自分たちが何かよく分かっていない人のようです。私たちは、私たちが何かエリザベト女王であるとか、あるいは自分はナポレオン皇帝であるとか、あるいは聖ピオ十世教皇様であるかのように誤解しているのですけれども、実はこの貧しい小野田であったり、あるいはマリアさんだったり、インマクラータさんだったりします。

全く深い私たちの現実、一体、「私たちが一体誰であるか」という事を正しく認識しなければなりません。もちろんそれを正しく認識しないならば、出発点から、幻覚の内に幻想の内にいる事になります。

ところが、現代では誰もが彼もが、この「自分が誰であるか」という事を誤解しています。良いカトリック信者であったとしても、それについて誤解しています。幻覚の幻想の内に住んでいます。

まず二重の考察をしなければなりません。「私たちの存在がどのようなものあるか」という事、そして「私たちが今現在、本当に具体的に、今ここでどのような状態に住んで生活しているか」という事です。

全く深い私たちの在り方というのは、「天主様に全て100%依存している被造物である」という事です。そして天主に全く従順で依存しているにもかかわらず、罪を犯す事によって悪魔の下にあったにもかかわらず、イエズス様がそれを贖って下さって、「私たちはイエズス様に全く属するものとなった」という事です。

具体的に、今ここで私たちの置かれている状況というのは、歴史的な結果、原罪を負って生まれてきた、「原罪の傷を負って生まれて来た」という事です。

この2つの事を考察すると、私たちは何か、手ぶらで天主の御稜威の前に出る事ができない、その資格の無い者である、という事が分かります。被造物としては、天主と比べれば、全く大海の一滴の水よりも小さいようなものです。全宇宙、全世界と比べれば、塵よりももっと小さいかけらにしか過ぎません。この小さな粒のようなゴミが、宇宙に匹敵するような天主様に向かって、それに立ち向かって、「ハロー、天主様」と言う事ができるでしょうか。

天主様について現代人はどのように取り扱っているかというと、ちょっと自分よりも、ちょっと上にあるかないかのようにして考えています。それを象徴するかのように、天主の前では跪こうとさえしません。天主の全能の御稜威の前に、跪いて頭をこう下げようともしません。もうヒッピーの友達であるかのように、同僚であるかのように、スーパースターであるかのように取り扱っています。

私たちはしかも、小さな小さな小さなゴミ粒のみならず、きれいな粒でさえもない、汚い、汚らしい粒で、臭い、汚いものです。もしも天主様がそのような私たちをして、その近くに近寄らせようとするならば、その全能の御稜威と、全く無に等しい私たちの間に、こう繋ぐような橋が必要です。その在りて在る天主様と、無きて無き私たち、無に等しい私たちを繋ぐ橋を造る、ラテン語では「橋を造る」というのは、“pontem”「橋を」、「作る」“facit”と言います。この「橋を作る人」の事を“pontifex”と言います。“pontifex”というのは、実は「司祭、大司祭」を意味して、天と地を繋ぐ大司祭イエズス・キリストの事を意味します。このイエズス・キリストが必要です。

これについて、83番から89番までグリニョン・ド・モンフォールは説明します。これによって、なぜ聖グリニョン・ド・モンフォールは私たちに、「この仲介者が必要であるか、真ん中に立つ者が必要であるか」という事を説明します。天主は光であるから、この光の前にいかなる闇もありえない。この暗闇である私たちは、光である天主に近寄れない。ですから、光御自身である天主が、私たちに仲介者を下さるのです。仲介者、中継者というのは、この両極端に、両端の間に立つものの事です。

私たちのこの生活の中にも、このような事がよくあります。
例を挙げてみます。このお百姓さんが、「王様に近付きたい」という時には、例えば小野田神父が、「教皇様に会いたい」という時に、フランシスコ教皇様はきっと、おお、来いと言うかもしれませんけれども、普通の場合にはなかなか難しい、もう少し昔の教皇様の事を考えます。小野田神父がバチカンに行って、「教皇様に会いたい」と言ったとします。衛兵のガードはこれを見て、「出て行きなさい。」でもこの時にですね、「あぁ、でも私は教皇様のお友達を知っています」と言います。「教皇様の個人秘書を知っています。」そこでその衛兵が、その教皇様の秘書に電話をかけて、「ここに小野田という者がいますけれども、入れて良いのでしょうか?」と言います。このようにお友達が、仲介のお友達が、両方共を知っている友人がいれば、結び付ける事ができます。

今まで天主様の事を蔑ろにしてきたような私たちのこの怠け者が、あるいはもう無関心であった者が、いきなりこの「天主に会いたい」と言ったり、天主に「何かを」と言うのは、全く身分を知らない事だ、これは思い上がりだ、ですから「誰かによって紹介されなければならない」と言います。

84番を見ると、「もっと別の点がある」と言います。イエズス様だけが、天主聖父の前で、その心に適う者です。

私たちが罪を犯すとすると、何が起こったのでしょうか?私たちは罪を犯す前には、天のものすごい宮殿を約束されました。しかし罪を犯す事によって、罪を犯す毎に、この美しい宮殿を汚く破壊し、破壊し続けているのです。その美しい宮殿を私たちに下さった、それにもかかわらず、その宮殿を台無しにしておきながら、そのまま「こんにちは」と会うわけにはいかないのです。

そのように宮殿が綺麗になってから初めて、私たちはようやく会う事ができます。でも自分自身では綺麗にする事はできません。綺麗な花瓶があるとします。何百年も前の、もう立派な、有名な画家によってこう描かれた、綺麗な、価値が値がつけられないような花瓶があるとします。その貴重な花瓶を、「あっ!」と落としてしまって、粉々に砕いてしまうのは非常に簡単です。それでそれの持ち主であるそれを作った芸術家はこれを見て、「あ、私の宝がもう粉々になってしまっている」としたら、「これを集めて、また接着剤で付けて下さい。」それは不可能な話です。私たちにはそれを元通りにするやり方もできないし、その元通りにその絵を描く事もできません。宮殿を造った方だけが、宮殿を元通りに直す事ができます。ですから、普通の聖人や天使たちでは、宮殿を元に戻す事はできません。天主が造った神殿を宮殿を、天使たちが、どのような高い天使であっても、それを元に直す事ができません。

そこで天主様は、天主の聖子が私たちの内の一人となって、それを直す事ができるように、仲介者を与えました。

別の考察をしますけれども、それは私たちが罪を犯すと、罪の鎖に縛られてしまいます。この重い鎖から誰も解放する事ができません。悪魔より強い人だけが、この鎖を壊す事ができます。もしもその悪魔よりも強い仲介者がいなければ、中継者がいなければ、私たちは皆天国には行けずに、地獄に落ちてしまわなければなりません。

グリニョン・ド・モンフォールは話を続けます。もっと、もっと私たちには、仲介者が必要ではないでしょうか?つまり、この仲介者まで私たちを運んで下さるような仲介者が必要ではないでしょうか?85番を見て下さい。助けなしにイエズス様に直接一致するほど、私たちは清らかでしょうか?

イエズス様はもちろん、無限に憐れみ深い方で、私たちの内の一人ですから、一致する事はできます。でも同時にイエズス様は、天主でもあります。聖なる、聖なる方です。天と地を裁く方です。イエズス様に、この手ぶらでこう近付くには、恐れ多い方ではないでしょうか?

「イエズス様」という私たちを愛するような方に対して、私たちは今までどのような態度を取ってきたのでしょうか?それを考えると、本当に穴があったら入りたい、と思うではないでしょうか。イエズス様は全て私たちに、私たちの持っているものを与え、御自分の御血を全て私たちに与えて下さいました。世の終わりまで、私たちの為に小さなホスチアの中に留まり、小さな御聖櫃の中に留まり、しかもそしてこの御聖櫃は、御聖体は、忘れ去られて、そして軽蔑されています。

そのようなイエズス様に、私はほとんどいつも冷たい態度を、あるいは無関心を取ってきました。「イエズス様、私の家に来て下さい」と言いながらも、いらしたら、全く無視しています。イエズス様と為したほんのちょっとした会話というのも、本当に表面的で、ほとんど価値が無く、そしてそれに相応しくないものが全く多かったのです。冷たい態度、あるいは無関心だけではありません。時にしては、イエズス様に対して、この侮辱、屈辱を与えてきたのです。

もしも友人がいて、その友人に対して私たちが傷付けてしまった場合、私は謝ります。もちろんこの友人は私は許すでしょう。でもこの友人の心には傷があって、私の悪い態度の事に傷を受けて苦しみます。それで、そのような許して下さった友人に対して、また侮辱して、また屈辱を与えて、何度も何度もその同じ事をすれば、「あぁ、本当にごめん。もう今度は絶対そんな事しないから。本当にもう悪かった。約束する。もうこれから今までの僕じゃない。もう絶対そういう事はありえない。」ところがその数時間後、あれは数日の後には、全く同じ事をこの友人に、何度も何度も繰り返す。

私が皆さんに約束をして、約束をして、その約束をいつも破ってばかりいれば、もう私の約束は、皆さんそのまま真面目にとってはくれません。もう皆さん私の事を信じてくれなくなります。

いつも私たちがした荘厳な約束は、何でもないかのように破られて、何度も何度もそういう事をイエズス様にしてきたのを見たイエズス様は、このような私たちを見て、どのように思うでしょうか。

私たちは一体、何をしたら良いでしょうか?もうどうしようもないこの状況において、どうしたら良いでしょうか?私は何度も何度も同じ立場に、同じ事を繰り返しています。かといって、「もう今度は、今度こそ」と、もうこれ以上イエズス様に近付く事はできないと感じています。でももしもイエズス様に近付かないと、私はもう救いがありません、地獄に落ちるしかありません。

ですから私たちには、このイエズス様に近付く為の中継者が、仲介者が必要です。イエズス様は、誰に私たちが近寄ったら良いか、答えを与えて下さいました、「汝の母を見よ。」十字架の上で、あなたと私の為にそう仰って下さいました。イエズス様に近付く為の仲介者を、イエズス様御自身が下さいました。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、聖ベルナルドや聖ボナベントゥーラを引用して、「誰も、マリア様を通さなければ、イエズス様に行く事ができない。そしてイエズス様を通さなければ、聖父に行く事はできない」という真理を教えています。

皆さんよく知っているように、母親の心はとても特別にできています。母親の心は、憐れみと愛に満ちて作られています。父親の頭には、いつも秩序と正義があります。でも母は違っています。母親は子供に対して、子供が生きている間は必ず憐れみを表します。たとえ子供がもう忠実ではなくても、子供が邪悪になってしまって、子供が本当に悪い行動を取っているとしても、母は子供を愛します。たとえ子供がどのように悪い犯罪を犯したとしても、その母親に対してもう悪さをして、もう資格がない、もう態度があまりにも悪いとしても、その子供がお母さんを必要として、ちょっとお母さんを呼べば、すぐに母親はやって来ます。ですからイエズス様はマリア様を、私たちがイエズス様へと行く仲介者として選びました。87から89番までには、大切な真理が述べられています。

では、マリア様をどれほど私たちが仲介者として必要としているでしょうか?

第1の理由は、「私たちが弱い」という事からです。私たちが持っている原罪の為に、私たちは弱く、脆い、という事です。「私たちはこの宝を、土の器の中に入れているようなものだ」と。このもしも私たちの力だけでこれを守ろうとするならば、すぐに壊してしまうでしょう。そこでマリア様が、この器が決して壊れないように守って下さるのです。ちょうど貴重なカリスや、貴重な液体が入っている器を守るように。

第2の理由は、私たちが弱いのみならず、「悪魔が攻撃している」という事です。悪魔は吠え猛るライオンのように、私たちを食い尽くそうと歩き回っています。悪魔は怠け者ではありません。私たちよりも知性に長けています。ずる賢くて、そして私たちの思っていなかった所に攻撃を仕掛ける事ができます。良い機会を狙っています。何年も何年もかかって勝ち取った聖寵の御恵みを、たった一瞬の間に奪ってしまおうとしています。もしもたった一人でイエズス様に会いに行こうと私たちが道を歩くとしたら、悪魔は私たちをあっという間に奪ってしまう、攻撃してしまう事でしょう。多くの、レバノンのような大杉の大木のような聖人であっても、立派な聖人であっても、一瞬の内に悪魔によって倒されて、罪に落ちてしまったりした事は何度もありました。

何故このような大きな立派な方々が倒れてしまったのでしょうか?天主様の御恵みが足りなかったというわけでありません。なぜならば、天主様は皆に御恵みを与えるからです。

なぜかというと、彼らは間違った信心があって、自信過剰の傲慢で過信してしまったからです。彼らは自分の力を過信したのです。「私にはマリアは必要ない。私は自分でやっていける、イエズス様に近付く事ができる。」もしもイエズス様がそのような態度を見ると、「じゃあ、やるならやってごらん。」

私たちはこの終課の時にいつも、「吠え猛るライオンのように、私たちを食い尽くそうとしているものに注意しろ」といつも言いますけれども、本当にこのライオンのような悪魔に気を付けなければなりません。新しいミサにおいては、奉献の祈りの時に、「大地の恵み、労働の実り、命の糧になる」と言っています。ところで、自分の労働の実りだけを、どうして天主にこう捧げる事ができるでしょうか?これは傲慢です。悪魔の頭を踏み砕く事ができる力を頂いているのは、私でありません、単なる人間の力ではありません。でもマリア様は、その力を得て、そのマリア様が私たちの仲介者となって、保護者となって下さいました。

第3の理由は、なぜマリア様が必要かというと、「この世が腐敗している」という事からです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、今の現代の時代の為に書いています。
“この世が道義的に大変腐敗しているので、教えを守り通す事が困難になってきました。そのような激流に押し流されずに、嵐の吹きすさぶ大海にも難破せず、また盗難にも合わず、風俗紊乱にもめげず、毅然として信仰を守り通す事は奇跡です。”

この海賊が、私たちを「襲ってしまおう」と思って待っています。現代では、私たちをこの信仰から離れさせて、道徳的に腐敗させようとする力があまりにも大きいので、私たちはますます仲介者が必要です。

マリア様がどれほど必要か、という事を、この絵を見て頂きたいと思います。

新しいミサの労働の実りについて、ちょっと話を続けます。天主様に私たちは一体何を差し上げるかというと、大体は腐ったりんごとか、腐った卵などです。例えば農家の方が、「王に何か贈り物をしたい。」例えば王が、「何を持ってきて下さったのですか?」と聞くと、「はい、腐ったりんごを、匂いのするりんごを持ってきました。」もしもイエズス様に何か贈り物をするとしたら、それと同じような事をするべきでしょうか?これは新しいミサのやっている事です。

でも私たちは、仲介者であるマリア様にお願いします。マリア様は私たちに与えられたので、私もマリア様に自分を与えます。「そのあなたの持っているりんごを私に下さい。」するとマリア様は、ご自分の籠を持っていて、そこに美しい贈り物がたくさん入っています。これはマリア様の美しい、善徳の聖徳の業であって、信仰の業、愛徳の業、忍耐の業、犠牲の業、祈りの業などがたくさん詰まっている籠です。そのような綺麗な果物や、綺麗な贈り物との間に、私の腐ったりんごをそっと置かれるのです。「お母様、そのようになさらないで下さい。この腐った物を入れると他の物も腐ってしまいます。」「普通はそれが起こります。でも私には起こりません。」

今まで腐ったようなりんごだったのですけれども、マリア様の美しい贈り物に触れると、小さなみすぼらしい見かけはそれのままですけれども、腐りが無くなります。この綺麗になったりんごを、私に戻そうとはしません。「子よ、私と一緒に来なさい。」そのご自分のたくさんの聖徳の実りに囲まれた中に、そっと私のその小さなりんごを入れて持って行きます。私を連れて、この籠を持ってイエズス様に近付きます。そしてマリア様は私に、「さぁ、これをお持ちなさい」と言います。「この籠を、私の息子に、イエズスに与えなさい。」

「イエズス様、私の王であるイエズス様、これが私たちの果実です。」イエズス様はもちろん知っています。この籠の中のほとんどがたくさんのマリア様の果物で、1つの昔ちょっと腐ってたようなりんごだけが、私の物だと知っているのですけれども、しかし、それを喜んで受け入れます。

もしもマリア様がいなければ、私たちは腐ったままのりんごをイエズス様に与える事になって、イエズス様はどのような反応をするか、皆さんご存知です。

そこで、この日本は海に囲まれているので、海と船の話をします。皆さんは大きな船のようです。でもこの船は間違った方向に進んでいます。地獄へと向かっている大きな船。イエズス様はこの地獄へと落ち込もうとしている大きな船を、助けようとしてやって来ました。「私は道・真理・命である。そしてこの船は、こうやって弧を描いて上に上がれば、救う事ができる。私の後に付いて来なさい。そうすれば私はあなたの為に命を与える。そうすれば地獄に落ちなくても済む。秘跡に与り、ミサに与り、御恵みを受けなさい。そうすればできる。でもこの道が正しければ、それができる。私のこの御恵みをして、船の方向を変える事ができる。」「イエズス様、ありがとうございます。」

船長がこうやって、この海流や風は皆、下の方に下の方に流そうとしています。

「毎日お祈りをしなければならない、ロザリオ一連…!二連…!天にまします…うぅ、大斎をして、苦行をして…」

すると、船の方向が少しずつ変わって、真っ直ぐ地獄に落ちるのではなくなります。

「徳の実践をしよう。1つから2つ…!2つから3つ…!」

すると、何か大きな風が吹いて、そこで風が、大きな風に流されて、また真っ直ぐ下に落ちて、もう一度最初からやり直す。

皆さんこの努力をしなければなりません。このまま座ったまま、ただ見ているだけではだめです。でもたった一人では、とても成功しません。

ところで、突然招きがありました。優しい天のお母様の声がやって来ます、「我が子よ、もしも私に操縦する事を許してくれるなら、私がやってあげましょう、一緒にやりましょう。」「お母様、お願いします。」するとこの操縦席に立って、マリア様は動かします。

すると、何の問題もなく、船はクル〜ッと方向を変えて、正しい上の方に戻って行きます。

1つだけ条件があります。「マリア様、お母様から決して離れない」という事です。もしも逃げてしまうのならば、誰もその操縦する事ができなくなってしまうからです。一緒に、必ず一緒にしなければなりません。

最後のもう1つの例えは、山が好きな人がいます。富士山に登る登山家の人がいます。なぜかというと、この富士山の頂上には大きな門があって、宮殿があって、そこから天国に行く道が続いているからです。イエズス様は、「さぁ、ここに天国の宮殿がある。これはお前のものだ。お前の為に道を開いた。これが道で、これが地図だ。この宮殿はお前のものだ。さぁ行け。そしてお前が例え行く力があったとしても、それに行く為に必要な食料を与えよう。そして薬も与えよう」と。すると感謝に満ちて、「イエズス様、本当にありがとうございます。」リュックサックを背負って、その全てを入れて、その道を進めます。登山が始まります。

1km、2km、進めていきます。最初はこう高らかに歌を歌っているのですけれども、道が進むにつれて、疲れが出てきたのでしょうか。歌も小さくなって、荷物も重くなって、歩きも鈍くなってきます。「もうだめだ…、」もう涙が出てきて、「もうこれ以上歩く事はできない。道は開いているし、荷物もあるし、宮殿は待っている。でももうだめだ、歩けない…。」

すると、突然お母様がやって来て、仲介者マリア様です。「子よ、いらっしゃい。一緒に行きましょう。」まずマリア様がなさるのは、この重いリュックサックを背負って下さいます。そして私の小さい手を取ってくれます。そしてシュッ、シュッ、シュッと身を進めます。子供はもう疲れて、もう眠くなるし、「大変で、もう歩きたくない」と思うと、するとマリア様は私を抱いて登ってくれます。子供が、「お腹が減って、もう喉が渇いた」と言えば、食べ物を、飲み物を与えてくれます。

その山の登山口には、中にはこう道がない所もあって、危険な所もあります。お母様は私を背負ってジャンプして、それを歩いて下さいます。すると目の前に、大きな熊がいます。するとマリア様は、この熊のぬいぐるみを取ってブンッと、熊のぬいぐるみをポイッと捨ててしまいます。

1つだけ条件があります。それは、「マリア様の手をいつも握っている」という事です。もしもマリア様からちょっとでも離れてしまえば、崖に落ちてしまいます。

もしもそうするならば、何が起こるでしょうか。もしも残念ながら、お母様の手を離してしまって、本当に崖に落ちてしまったら、私たちは、「あぁ、お母さん、本当にバカだった、私がバカだった。手を離してしまった!」と言えば、すぐにマリア様がやって来て、どんな所に落ちていたとしても探し出してやって来て下さいます。たとえ私がもう粉々に砕かれてしまっていたとしても、もう半死半生に傷付いていたとしても、そしてもう半死半生の私を治して下さって、もう粉々に砕かれたものをひとつにまとめて下さいます。必要ならば新しい服を下さるし、この汚れた手は綺麗にして下さいますし、もしも必要ならば新しいカバンもくれます。そしてその中には、新しい食料や食べ物もいっぱい詰めて下さいます。

「子供よ、さぁ道を続けましょう。子よ、だから私の傍から離れるのはあまり良くないですよ。またこんな傷を付けてしまうから。」そこで私はマリア様に言います、「お母様、たとえ私がこう離れようとしても、絶対離さないで、私の手を握っていて下さい。」

これを仲介者として、マリア様がずっとなさって下さるのです。マリア様はこれら皆を、私がイエズス様の為にするように、という事を望んでいます。「私はちょっとした仲介者で、イエズス様こそが大仲介者ですから、イエズス様の方に行きなさい。でも私から決して離れない、という事を学んで下さい。そうすればイエズス様から離れない、という事を学ぶでしょう。」

私たちの出発点は、私たちの悲惨な状況ですけれども、私たちが天国に行く道というのは、マリア様の汚れなき御心です。マリア様はファチマでそう言いました、「私の汚れなき御心は、あなたたちを天国に導く道となるでしょう。」

この30分を使って、今申し上げた番号83から89番を黙想なさって下さい。次の講話は16時30分からですけれども、その時にはたくさん読まなければならない箇所もあります。この次の講話をよく理解する為にも、今のこのポイントをよく理解しなければなりません。


私たちの主イエズス・キリストの御降誕の喜びを申し上げます。聖ピオ十世会日本のクリスマスの典礼の報告

2018年12月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

少し遅れてしまいましたが、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の喜びを申し上げます。

12月24日と25日は、大阪では、主の御降誕の前日の御ミサ、クリスマスの朝課、主の御降誕の真夜中の御ミサと日中の御ミサを行いました。





東京でも今年は12月24日と25日に、主の御降誕の前日の御ミサ、主の御降誕の日中の御ミサを執行することが出来ました!日本では本当に多くのミサの御恵みを頂く事ができました!天主に感謝します!

大阪では夜中と日中のそれぞれのミサに来られた方々は(延べではなく)35名くらいになります。東京では65名くらいでしたので、ちょうど100名になると思われます。多くの方がこのクリスマスの御ミサに与る事をができた御恵みを感謝致します!

東京では、ミサ後に毎年行っている、恒例の幼子イエズスへの接吻の儀式のとき、「静けき真夜中」 Silent Night を日本語はもちろん、英語、ビサヤ語(フィリピンの地方の言語の一つ)、ベトナム語、スペイン語、フランス語、中国語で歌いました。

主の御降誕の御挨拶と、ミサの報告をすぐに申し上げたかったのですが、日本でのミッションの直後、別のところに聖伝のミサを捧げに行かなければなりませんでした。そこでは飛行機にチェックインした荷物が来なかったり(- -;)、自動車のタイヤがパンクしたり(x x;)、カバンが間違えられたり(@ @;)、いろいろなハプニングがありました。これは大きなお恵みが準備されている印だと確信しています(^o^)v。

カトリック教会は、第2バチカン公会議後の悪影響で大きく苦しんでいます。待降節中に私たちが歌った聖歌 Rorate Caeli は、カトリック教会を主が何とか聖伝に立ち戻してくださるように!とイエズス・キリストにさけぶ霊魂たちの祈りと、旧約の義人たちの祈りとが重なって聞こえました。

「怒り給うな、主よ、これ以上邪悪を記憶し給うなかれ。見よ、聖なる方の都市は荒れ果てた、シオンは荒れ果てた、エルサレムはもの寂しくなった、御身の聖化と御身の光栄の家、私たちの祖先が御身を讃美したその家は!

私たちは罪を犯した、そして、私たちは不浄なものであるかのようになった、また、至る所の落ち葉のように私たちは落ちた、また、私たちの邪悪らは風のように私たちを取り去った、御身は御顔を私たちから隠し、御身は私たちの邪悪の手において私たちを踏みにじり給うた!

見給え、主よ、御民の苦悩を、そして御身が遣わし給う者を遣わし給え、地の支配者たる子羊を、砂漠の岩からシオンの娘の山まで遣わし給え、そはその方が私たちの隷属のくびきを取り除くためなり!

慰められよ、慰められよ、我が民よ、おまえの救いはすぐに来るだろう、何故、おまえは悩みに憔悴するのか、苦しみがおまえをまた新たされるのか?我は、おまえを助ける。恐れるな、我は実におまえの主なる天主、イスラエルの聖なる者、おまえの贖い主である!」

我は、おまえを助ける。恐れるな、我は実におまえの主なる天主である!

 何と嬉しい御言葉でしょうか!

今年も残すところあと数時間となりました。一年が経つのは早いものです。2018年は、多くの御恵みに溢れた一年でした。皆様から司祭叙階25周年を祝ってもらったことを感謝しております。

今年は、1月の初土の聖母行列から始まり、秋田巡礼、マーチフォーライフ、イエズスの聖心小黙想会、MIの入会式、デ・ガラレタ司教様の来日と堅振の秘跡、クリスマスのいろいろな行事がありました。日本や世界の平和の為に、日本で数多くの御聖体降福式が捧げられ、聖母被昇天の大祝日には、マリア様の汚れ無き御心への日本の奉献の更新等が行われました。

聖ピオ十世会にとっては、あたらしい総長の選出と、新しいアジア管区長の任命がありました。マリア様の御恵みにより、そして御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の御憐れみにより、無事に日本は一年を終える事ができました。

新たな2019年が、マリア様の汚れ無き御心を通してイエズス様の聖心の中にますます深く入ることができる、御恵み豊かな素晴らしい一年となりますように、こころからお祈り申し上げます!

この拙ブログ Credidimus Caritati を愛読してくださる方々、頻繁に訪問して目を通してくださる方々に心からお礼を申し上げます。天主様の祝福が豊かにありますように!

来2019年も新年の初土曜日(1月5日)に大阪で聖母行列を行います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、クリスマスの御ミサをありがとうございました。
普段に勝るハードスケジュールで、さぞお疲れの事と思います。
大きな実りとお恵みがありますようお祈りしております。

簡単ですが、ミサの報告をお送り致します。
12月21日(金) 使徒聖トマのミサには12名、
12月22日(土) 12月の四季の土曜日のミサには9名、
12月24日(月) クリスマス前日のミサには22名、
12月25日 深夜のクリスマスミサには16名、
12月25日 クリスマスの日中のミサには26名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

21日の御ミサからご降誕の喜びを隠す事ができない空気が聖堂にも信徒の方々にも漂っていました。
お説教では金曜日から、なぜ、イエズス様がご降誕されるのか、どなたがご降誕されるのか、何故、ご降誕されるのか、そのご降誕によってどうなったのかをクリスマスまで順を追って黙想させて頂きました。そのお陰で、クリスマスミサで喜びはクライマックスを迎え、今までクリスマスの中で、最も天主様の愛を感じ、ご降誕の神秘、マリア様の偉大さを深く黙想することが出来た特別なクリスマスになりました。

また、今年も、一昨年、昨年に続いてクリスマスの朝課を神父様とすることが出来た事も大きな喜びでした。教会が伝える美しいこの朝課には、クリスマスを黙想するに十分な宝物が詰まっっているように思います。近い将来、日本中でそして世界中でこの美しい祈りが唱えられるように期待します。

神父様を筆頭に、遠方から飛行機で来られた方々、何時間も車を運転して来られたご家族、泊まり込みでクリスマスを過ごされた方々などなどの犠牲という幼きイエズス様への沢山の愛が満ちた良いクリスマスでした。
イエズス様を知らない多くの人々が一日も早く、この喜びを共に出来ますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【お便り】【大阪】
トマス小野田圭志神父様

主イエズス・キリストの御降誕おめでとうございます!

昨日は大変お世話になりました。
御ミサに与れて、とても嬉しかったです。
世界中で、特に日本では、ただただお祭り騒ぎのように
クリスマスが祝われていますが、
本当にクリスマスをお祝いできた感じがしました。

聖歌隊の皆さん、素晴らしかったです。
皆様にも親切に対応いただき感謝しております。
どうぞよろしくお伝えください。

神父様の講話集もありがとうございました。
この年末年始に拝読致します。
カレンダーは台所にかける事にしました。
火を使っている時、コンロから離れる訳にもいかず
何を考えるでもなく過ごしていましたが、
そんな時にカレンダーのメッセージをよく読もうと思います。

良い降誕節をお過ごしください。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

12月23日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 29人(内、子供8人)
女: 33人(内、子供5人)
計: 62人(内、子供13人)

【報告】
Dear Fr Onoda:

12月24日(月)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供2人)
女: 19人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供5人)

【報告】
Dear Fr Onoda:

12月25日の東京での午後6時のミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 32人(内、子供8人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 64人(内、子供13人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月23日、待降節第4主日の御ミサをありがとうございました。
『来年はアジア管区において日本に司祭が常駐する予定が計画されています』。
この日私たちは神父様から直接、この言葉を聞くことが出来ました。胸がジーンとなりました。

『そしてそれは、日本で毎日聖伝のミサが捧げられるようになるということです』という言葉にその意味の深さを思いました。

今年の一年のことを少し振り返ってみますと、小野田神父様が東京にいらっしゃるときは天候にも恵まれて穏やかな主日が多かったように思います。いつも天主さまに感謝申し上げております。毎日聖伝のミサが捧げられるようになるということには深い意味があるのだと思います。

日本に修道院が設立されれば、行き帰りの日数やその労力なども、日本における宣教のために全部用いることができますでしょうし、いつでも何かあれば司祭の助けを求めることができるようになるのだと思います。

神父様は、『聖ヨゼフ様が、マリア様と生まれてくるイエズス様のためにちょうどよい場所を見つけてくださったように、修道院で毎日ごミサの中でイエズス様のご誕生を迎えるためにちょうどよい処を私たちのためにも用意してくださるように、聖ヨゼフ様にお祈りしましょう』とお話くださいました。

続けていっそうみんなで力を合わせて祈っていきたいと思います。

この日は、ご降誕祭を迎える準備に、まことの天主がまことの人となったということを黙想しました。天主さまから贈られたプレゼントは、天主でもあり人でもある小さな人間の赤ちゃんであること、そのような赤ちゃんが人間に与えてくださろうとした大きな大きなものが何であるかを黙想致しました。

神父様がお話くださった「天主が人となられたのは、人間の苦しみをご自分の喜びと交換してくださるためであった。」ということを、このカトリック信仰をいただいていない人達は何も知らないのだと思いました。

まだカトリックの恵みに触れる前の方々は、自分を正直に見つめて、おのれのみじめさからたえまなく生まれくる弱さと悲しみと失敗と苦しみをお捧げすることに、いったいどんな意味があるのかと思うことでしょう。(自分の弱さ・苦しみやみじめさを見るのは不快なことだから目をつむり、自分が、人間のほうが天主さまに何かしてあげる存在だとさえ誤って思い違いをする人もいるほどですから、人間とはどれほど傲り高ぶる生き物でしょうか。)

私たちがよいものとなれるとしたら、人となられた天主であるイエズス様がすべての苦しみを背負ってくださって私たちの惨めさを引き受けてくださったから。それができるように天主さまは人となってくださった、ということを教えていただきました。無限の力をお持ちの方なのに小さなか弱い幼子にお生まれになられて、イエズスさまは私たちの悲しみを苦しみをすべて担ってくださった、そのことを思うとあらためて驚いて感謝にたえません。

羊飼いのこどもたちは、天使によって導かれて、お生まれになられたばかりのイエズス様のもとに集まり、天の栄光がそこで輝いているのをみました。私たちも素直に天使の声に従ったから、この聖なる日本の殉教者巡回聖堂に集まって、ミサの中で輝く天の栄光と天使が歌う賛美の歌を聴くものたちであるかのようだと思いました。

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午後の公教要理では、真の天主が真の人間となったということを黙想しました。ミサから引き続いてずっと同じテーマで、黙想が続けられているかのようで、イエズス様が人間となってくださったことの意味を神父様のお話を伺いながら皆で考えました。

『罪を犯して原罪がある人間だけれど、その罪を赦すために天主は人となって生まれてこられた、ああ、幸せな罪よ、そのために救い主を受けるほどの幸せを得た。』
『天主が人間となられたことによって、私たちは別な次元に変えられた』
(トマス・アクィナス)

待降節の意味を深く黙想できましたことを感謝いたします。ありがとうございました。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月24日のご降誕の前日のミサを、ありがとうございました。
この日は国民の祝日で、仕事がお休みの方も多かったようで、主日のようにたくさんの方々と一緒にご降誕祭の直前のごミサに与ることが出来ました。

主が来られることを主をお迎えすることを少しでもふさわしく霊魂を準備するようにと、この日の典礼は用意されているようでした。神父様は、詩篇の23を黙想することとマリア様のことを思うことについてお話くださいました。

もうすぐにも主の栄光があらわれるから、心を閉ざしている扉を開いて永遠の主が入ることのできるように、しなければならないこと。
そして、救い主のお生まれになる場所を捜しておられてちょうどよい場所を見つけらた聖ヨゼフ様とマリア様がその場所までずっとイエズス様とご胎内に宿されてお運びになられたことを黙想して、私たちも天国というベトレヘム(パンの家)にたどり着くその時までずっと(ご聖体拝領によって)イエズス様とご一緒にいることができますようにというお話を心に刻みました。(ずっとそのお話を思い返しながら過ごすことが出来ました。忘れないように致します。)、

平日のごミサを歌ミサで捧げることができるのは、東京ではあまりなかったように思います。グレゴリア聖歌を聴きながら歌いながら、ご降誕の前日のごミサに与れたのは、非常なお恵みでした。いつもと違うトーンで歌われるキリエやアニュス・デイのグレゴリア聖歌の響き、Veni Veni Emmanuel や、Ave Maria…virgo serena. の歌声と旋律が、とても素敵でした。とてもよいごミサに与れましたことを、感謝申し上げます。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ご降誕祭のごミサをお捧げ下さいましてありがとうございました。

神父様は前日の昼過ぎに東京を発ったばかりでしたのに、大阪での真夜中のミサとあかつきのミサのあとに、またすぐ東京においでくださりました。ゆっくりとする間もなかったのではないでしょうか。本当に大変だったと思います。ありがとうございました。

ご降誕祭のごミサはほんとうに素晴らしいごミサでした!喜びに満ちてずっとその余韻が残っています。(友達からもとても良かったです!とかとても素晴らしいごミサでしたね!などと次々連絡いただきました。)

お説教はまるで喜びの歌を聞いているかのようでした。まるでいまこの場所にいる人たちに注がれている喜びを味わいなさい!と、声高らかに歌われているかのように感じられて、その素晴らしいお説教を通して伝わってくる天上の喜びに包まれました。幸せと一体感とこの世の喜びとは全然違う喜びにつつまれてしまっているようでした。魂に響き渡りずっと消えない余韻が残されていたように思います。

天上の喜びとは、今日童貞聖母マリアからお生まれになられた私たちの救い主イエズス様は決して奪われることのない幸せを私たちにもたらしてくださった方であり、天主が私たちといつもともにいてくださるという喜びを知ることだと思いました。

ご聖体拝領の後、いつものミサの後の祈りを捧げた後に、恒例の幼子イエズス様への接吻の儀式がありました。イエズス様のお人形に愛をこめて接吻させていただきました。聖歌が歌われる中でしたが、ミサの参列者が多くて、楽譜に載っている歌詞が過ぎてもまだ人の列が続く中で、日本語のあと次から次へと各国の言葉で歌われていくのに驚き喜び聞いておりました。とてもよかったです。どうしてそんなにいろいろな国の歌詞まで皆で歌えるのだろうかと不思議でならなかったです。アメリカ南北大陸の各国からも、アジアの各国からも、ヨーロッパの各国からも、集まってきている私たちの教会の信徒の方々たちも、一緒に歌って嬉しかったに違いありません。さすが年季の入った聖ピオ十世会のグレゴリア聖歌隊だなあと思いました。最近来られるようになった新しい方々も聖歌隊に加わってくださっている様子で、楽しみに思います。

とても盛り上がった後はすぐに、クリスマスの小さいお祝い会が開かれる準備が始まって、皆様で持ち寄った食べ物や飲み物が広げられました。特に温かい食べ物をご自宅で調理してふるまってくださったご家族の方々は、どんなにか準備が大変だったことでしょう、みんな感謝していたことと思います。子ども達が、具だくさんのスープや手作りのケーキを運んでいる姿はとても可愛かったです。もっとも大人が気づかずにお手伝いしてなかっただけだったかもです。

夕方からのごミサでしたのですぐに帰られた方もいらっしゃいましたが、多くの方が残ってお話をしておられて、楽しいひとときを持つことが出来ました。赤ちゃんや小さいお子さんがいるご家族の皆様が、何家族もいらしたこと、そして中には初めて一家でクリスマスのごミサに与られているご家族もいましたこと、本当に素晴らしいと思いました。初めて見えた方がたや、久しぶりに友だちと一緒に来られた方もいて、うれしく思いました。
(2018年に東京の御ミサに一度でも来られた方の人数は、きっとゆうに100人は超えていると思います。この待降節第四主日とご降誕前日のミサとご降誕祭のミサまでの三日間、一度でもごミサに与られた方の人数も、延べにするとかなりの方々が、見えていたようです。仕事が遅くまである方、遠くにお住まいの方、ご家族のことでどうしても来られなくなった方、いろいろなご都合できっと本当は全部のごミサに与りたかったのに残念な思いをされた方も多かったことと思います。そのような皆様も来年こそはご降誕祭のごミサをご一緒にお祝いできますようにとお祈りいたします。)

小野田神父様、私たちのために大変なスケジュールでたくさんのごミサを日本で立ててくださいましたこと、心から感謝申し上げます。とても素晴らしいご降誕祭をありがとうございました。

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私たちは、ロザリオの祈祷会を設けて定期的に集まってお祈りしていますが、前回は、ちょっとした時間を利用して皆で、日本語版と英語版のパンフレットをつけて無原罪聖母の騎士会(M.I.)が配る不思議のメダイの袋詰めをしました。それを今回受付に置いて無料でお配りしたところ、たくさんのご家族の皆様が喜んでお持ち帰りくださいました。
これからも、ミサに来られる方がたがいつでもお持ち帰りくださって、さらにご自分の周りの方々にも、お配りしていただけるように、用意しておきたいと思います。マリア様の愛が一人でも多くの方に届けられますように。そして、聖伝の無原罪聖母の騎士会の会員が、日本でももっと増えますように願っています。マリア様の道具として働きたいと望む人たちが、ますます増えていきますように!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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