Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年12月25日主の御降誕(一級祝日 八日間付 典礼色:白)日中のミサ聖祭(第三のミサ)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂 聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

2018年12月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月25日主の御降誕(一級祝日 八日間付 典礼色:白)日中のミサ聖祭(第三のミサ)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂 聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

イエズスの御降誕の日は、いろいろ議論され、東方教会では、一月六日に御降誕を祝っていた。しかしローマ教会(西方教会)では、四世紀からすでに十二月二十五日に決められ、西方教会と同じく東方教会も、のちにこの日に祝うようになった。 われらは、この祝日において、大いに喜び、感謝する。きょう、キリストが生まれ給うた。救い主が現れ給うた。天使らは歌い、大天使らは喜びいさむ。義人たちは、「天のいと高きところ、天主に光栄あれ、アレルヤ」(聖務日課)と歓呼する。われらは、キリストの御降誕を祝うが、同時に、われら自身の誕生をも祝うのである。なぜなら聖レオ教皇は「かしらの誕生は、身体とその肢体の誕生でもある」と言っている。
この大いなる奥義を行うに当たって、もちろん荘厳な典礼が定められた。すなわち、三つのミサ聖祭が行われるのである。
第一のミサは、昔は、雄鶏が時をつくるとき(Ad galli cantum)に行われたが、現在は「夜中のミサ」である。
第二のミサは、あかつきに、
第三のミサは日が昇ってから行われた。
聖グレゴリオ七世教皇のころまで、この第三のミサは、聖ペトロ大聖堂で行われていた。しかし、動乱の世であったし、天候の悪い冬季でもあったので、当時教皇の住まっていたラテラン宮廷に近い聖マリア大聖堂に変えられたのである。だが、夜中のミサは、この聖マリア大聖堂内のうまやの小聖堂で行い、日中のミサは、中央大祭壇で行った。
第三ミサは、主として、メシアなる王の来臨、すなわち、天主が預言者になし給うた約束の成就を祝う<書簡>。人間のみじめな身体をとって生まれ給うた御者は、天主のみことばである。「みことば」は、人類のかしらとして、王として、司祭として、民を救いに導く<入祭文、集祷文、奉献文>。さらに、救霊の奥義をすべて実現し、聖体の奥義への信仰によって、万民は天主が送り給う救いを眺めることも語る<聖体拝領誦>。

Ad tertiam Missam in die Nativitatis Domini 日中のミサ聖祭(第三のミサ)
Statio ad S. Mariam maiorem 指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂
Ant. ad Introitum. Is. 9, 6. 入祭文イザイア 9ノ6
Puer natus est nobis, et fílius datus est nobis : cuius impérium super húmerum eius : et vocábitur nomen eius magni consílii Angelus. 一人の幼児(おさなご)がわれらのうちに生まれ、一人の幼児がわれらに与えられた。幼児は、王の権威を肩に帯び、その名は、大いなる御計画の使者と呼ばれる
Ps. 97, 1. 詩篇97ノ1
Cantáte Dómino cánticum novum, quia mirabília fecit. 主に、新しい歌を歌え。主は、不思議な業を行い給うたからである。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Puer natus est nobis, et fílius datus est nobis : cuius impérium super húmerum eius : et vocábitur nomen eius magni consílii Angelus. 一人の幼児(おさなご)がわれらのうちに生まれ、一人の幼児がわれらに与えられた。幼児は、王の権威を肩に帯び、その名は、大いなる御計画の使者と呼ばれる
Oratio. 集祷文
Concéde, quǽsumus, omnípotens Deus : ut nos Unigéniti tui nova per carnem Natívitas líberet ; quos sub peccáti iugo vetústa sérvitus tenet. Per eúndem Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、御独り子の、肉体による新しい御誕生により、古くより奴隷としての罪の軛に縛られているわれらを解放し給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致に
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Hebrǽos. 使徒聖パウロの、ヘブライ人への書簡の朗読。
Hebr. 1, 1-12. ヘブライ 1ノ1-12
Multifáriam, multísque modis olim Deus loquens pátribus in Prophétis : novíssime diébus istis locútus est nobis in Fílio, quem constítuit herédem universórum, per quem fecit et sǽcula : qui cum sit splendor glóriæ, et figúra substántiæ eius, portánsque ómnia verbo virtútis suæ, purgatiónem peccatórum fáciens, sedet ad déxteram maiestátis in excélsis : tanto mélior Angelis efféctus, quanto differéntius præ illis nomen hereditávit. Cui enim dixit aliquándo Angelórum : Fílius meus es tu, ego hódie génui te ? Et rursum : Ego ero illi in patrem, et ipse erit mihi in fílium ? Et cum íterum introdúcit Primogénitum in orbem terræ, dicit : Et adórent eum omnes Angeli Dei. Et ad Angelos quidem dicit : Qui facit Angelos suos spíritus, et minístros suos flammam ignis. Ad Fílium autem : Thronus tuus, Deus, in sǽculum sǽculi : virga æquitátis, virga regni tui. Dilexísti iustítiam et odísti iniquitátem : proptérea unxit te Deus, Deus tuus, óleo exsultatiónis præ particípibus tuis. Et : Tu in princípio, Dómine, terram fundásti : et ópera mánuum tuárum sunt cæli. Ipsi períbunt, tu autem permanébis ; et omnes ut vestiméntum veteráscent : et velut amíctum mutábis eos, et mutabúntur : tu autem idem ipse es, et anni tui non defícient. 天主は、しばしば、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、われわれの先祖に語り給うたが、この終わりの日々には、御子を万物の世継ぎと定め、また、よってもって万物を造り給うたその御子を通じて語り給うた。天主の光栄の輝き、天主の本性の型である御子は、その御言葉の力によって宇宙を保ち、罪のきよめを行って、高きところの[天主の]霊威(みいず)の右に座し給うた。その受けた名は、天使の名にどれほどまさっていたことか。天使よりはるかにまさる名を受け給うた。天主はどんな天使に向かって、「汝はわが子である。私はきょう汝を生んだ」また「私は彼の父となり、彼は私の子となるであろう」と仰せられたことがあろうか。そして天主は、初子(ういご)をこの世に入れ給うたとき、「天主のすべての天使は彼を礼拝せよ」と仰せられた。また、天使については、「天主はその天使らを風となし、その役者(えきしゃ)を焔となし給う」と仰せられたが、御子については、「天主よ、御身の王座は極まりなく、御身の王国の笏(しゃく)は正義の笏である。御身は正義を愛し悪を憎み給うた。それゆえに、ああ天主よ、御身の天主は、御身の友より以上に、喜びの油を御身に注ぎ給うた」とある。また、「主よ、御身は始めに地を造り、天もその御手の業である。天は亡びるであろう。しかし御身は、存(ながら)え給う。それらはみな衣のように古びるであろう。御身は、それらを上衣(ころも)のように、たたみ給うであろう、それらは上衣のように着替えられるであろう。しかし御身は、いつも変わり給うことなく、御身の年は終わらないであろう」と。
Graduale. Ps. 97, 3 et 2. 昇階誦 詩篇 97ノ3-4, 2
Vidérunt omnes fines terræ salutare Dei nostri : iubiláte Deo, omnis terra. 地上の国々は、われらの天主が遣わし給うた救い主を見た。地よ、主を讃美せよ。
V/. Notum fecit Dominus salutare suum : ante conspéctum géntium revelávit iustitiam suam. V/. 主は、約束の救いを知らせ、その正義を、国々に示し給うた。
Allelúia, allelúia. V/. Dies sanctificátus illúxit nobis : veníte, gentes, et adoráte Dóminum : quia hódie descéndit lux magna super terram. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ、聖なる日は、われらの上に輝いた。民よ来れ、そして主を礼拝せよ。きょう、大いなる光は、地上に下ったのである、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Joánnem. ヨハネによる聖福音の序。
Ioann, 1, 1-14.  ヨハネ 1ノ1-14
In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt. Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine. Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In própria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui credunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Hic genuflectitur) Et Verbum caro factum est, et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis. 元始(はじめ)に御言葉(みことば)があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主あった。彼は、元始に天主と共にあり、万物は彼によって造られた。造られたものの中に、一つとして、彼によらずに造られたものはない。かれに生命があり、生命は人間の光であった。光は闇に輝き、闇はかれを悟らなかった。天主から遣わされた一人の人がいた。その名をヨハネといった。彼は証明のために来た、光について証明し、またすべての人が、彼によって信ずるためであった。彼は光ではなかった。光に証明を与えるために来た。すべての人を照らす真実(まこと)の光は、この世に来つつあった。彼は世にあった、世は彼によって造られたが、世は彼を知らなかった。彼は御自分の家に来給うたが、その族(やから)は彼を受けなかった。しかし、彼を受けた者、その御名を信じた者には、天主の子となる権利を授け給うた、これらの人は、血統(ちすじ)によらず、肉の意によらず、人の意によらず、ただ天主によって生まれた。(ひざまずく)御言葉は肉体となって、われらの中に宿り給うた、われらはその栄光を見た、独り子が御父から受ける栄光で、恩寵と真理とに満ちていた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 88,12et 15. 奉献文 詩篇 88ノ12,15
Tui sunt cæli et tua est terra : orbem terrárum et plenitúdinem eius tu fundásti : iustítia et iudícium præparátio sedis tuæ. 主よ、天と地とは主のものである。宇宙とそこにあるすべてを造り給うたのは、主である。正義と公平とは、御身の座のいしずえである。
Secreta. 密誦
Obláta, Dómine, múnera, nova Unigéniti tui Nativitáte sanctífica : nosque a peccatórum nostrórum máculis emúnda. Per eúndem Dóminum nostrum. 主よ、御独り子の新しい御誕生によって、御身に捧げる供え物を聖とし、われらの罪のけがれをきよめ給え。その同じわれらの主・・・・・。
Præfatio de Nativitate Domini. 御降誕の序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 97, 3. 聖体拝領誦 詩篇 97ノ3
Vidérunt omnes fines terræ salutáre Dei nostri. 地上の国は、われらの天主が遣わし給うた救い主を見た。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
ræsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut natus hódie Salvátor mundi, sicut divínæ nobis generatiónis est auctor ; ita et immortalitátis sit ipse largítor : Qui tecum vivit et regnat.

全能の天主よ、願わくは、本日生まれ給うた救い主が、われらの霊的誕生のもととなり給うように、われらに不滅の生命を与え給わんことを。御身とともに、天主として、聖霊との一致において、生きかつ治め給う主よ。

1962年版の典礼法規では、最後の聖福音は省略されます。聖ピオ十世会では1962年版の典礼に従っていますので最後の福音を省略いたします。
1962年以前の典礼法規では主の御降誕の第3のミサの最後の聖福音は次のようにご公現の祝日の聖福音を朗読することになっていました。参考までにご紹介いたします。

+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦 
Matth. 2, 1-12.  マテオ2ノ1-12
Cum natus esset Iesus in Béthlehem Iuda in diébus Heródis regis, ecce, Magi ab Oriénte venerunt Ierosólymam, dicéntes : Ubi est, qui natus est rex Iudæórum ? Vidimus enim stellam eius in Oriénte, et vénimus adoráre eum. Audiens autem Heródes rex, turbatus est, et omnis Ierosólyma cum illo. Et cóngregans omnes principes sacerdotum et scribas pópuli, sciscitabátur ab eis, ubi Christus nasceretur. At illi dixérunt ei : In Béthlehem Iudæ : sic enim scriptum est per Prophétam : Et tu, Béthlehem terra Iuda, nequaquam mínima es in princípibus Iuda ; ex te enim éxiet dux, qui regat pópulum meum Israël. Tunc Heródes, clam vocátis Magis, diligénter dídicit ab eis tempus stellæ, quæ appáruit eis : et mittens illos in Béthlehem, dixit : Ite, et interrogáte diligénter de púero : et cum invenéritis, renuntiáte mihi, ut et ego véniens adórem eum. Qui cum audíssent regem, abiérunt. Et ecce, stella, quam víderant in Oriénte, antecedébat eos, usque dum véniens staret supra, ubi erat Puer. Vidéntes autem stellam, gavísi sunt gáudio magno valde. Et intrántes domum, invenérunt Púerum cum María Matre eius, (hic genuflectitur) et procidéntes adoravérunt eum. Et, apértis thesáuris suis, obtulérunt ei múnera, aurum, thus et myrrham. Et responso accépto in somnis, ne redírent ad Heródem, per aliam viam revérsi sunt in regiónem suam. イエズスは、へロデ王のとき、ユダヤのベトレヘムでお生まれになった。そのころ、東の国の博士たちが、イエルザレムに来て、「お生まれになったユダヤの王さまはどこにおいでになるのか。われわれは、その星がのぼるのを見たので、おがみにきた」とたずねた。これを知ったヘロデ王はひどくうろたえた。イエルザレムの人々とても同じことだった。そこで、ヘロデ王は、司祭長たちと民間の律法学士たちをみな呼んで、キリストはどこに生まれるはずなのかとたずねた。かれらは、「預言者が次のように書いていますから、ユダヤのベトレヘムに生まれるはずであります。"ユダの地ベトレヘム、おまえはユダの村々のなかで、もっとも小さなものではない。なぜなら、わが民イスラエルを牧するかしらが出るからである"とあります」と答えた。それからへロデは、ひそかに博士たちをよび、星のあらわれた時のことをくわしく聞きただしてから、「行って、こまかに子どものことをたずね、見つけたら私に知らせてくれ。私も行ってその子をおがもう」といって、かれらをベトレヘムにおくった。かれらがヘロデ王のことばにおくられて出発すると、何と、前にのぼるのを見たその星が先に立って、子どものおいでになる所の上にとどまった。星をみて大いによろこんだかれらは、その家にはいって、子どもが母のマリアといっしょにおいでになるのを見た。(ここで、ひざまずく)そこでかれらはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と投薬とのみやげものを献上した。そののち夢の中で、へロデのところに帰ってはならないとお告げをうけたので、ほかの道をとって故国に去っていった。

2018年12月24日御降誕の祝日の前日(一級前日 典礼色:紫)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

2018年12月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月24日御降誕の祝日の前日(一級前日 典礼色:紫)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。
 初代教会のころには、十二月二十四日のミサは行われず、今から記すミサは、夜中のミサであった。指定巡礼聖堂が聖マリア大聖堂であるのは、エルザレムの御降誕の大聖堂にならった小聖堂がここにあるからである。<入祭文>の最初の言葉は、「今日」である。御降誕の祝日の前日の今日、典礼はすでに明日の喜びを制しきれないようである。

IN VIGILIA NATIVITATIS DOMINI 主の御降誕の前日
I classis 特権の前日
Statio ad S. Mariam maiorem. 指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂
Ant. ad Introitum. Exodi 16, 6 et 7. 入祭文 出エジプト 16ノ6,7
Hódie sciétis, quia véniet Dóminus et salvábit nos : et mane vidébitis glóriam eius. 今日、あなたたちは、主が来給うてわれらを救い給うのを知るであろう。また、明日、彼の光栄を見るであろう
Ps. 23, 1. 詩篇23ノ1
Dómini est terra, et plenitúdo eius : orbis terrárum, et univérsi, qui hábitant in eo. 地とここにあるすべてのもの、この世とここに住むすべての人々は、主のものである。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Hódie sciétis, quia véniet Dóminus et salvábit nos : et mane vidébitis glóriam eius. 今日、あなたたちは、主が来給うてわれらを救い給うのを知るであろう。また、明日、彼の光栄を見るであろう
Oratio. 集祷文
Deus, qui nos redemptiónis nostræ ánnua exspectatióne lætíficas : præsta ; ut Unigénitum tuum, quem Redemptórem læti suscípimus, veniéntem quoque Iúdicem secúri videámus, Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum : Qui tecum vivit et regnat. 天主よ、贖いの期待をもって、毎年われらを喜ばせ給う主よ、われらが今、救い主として喜び迎える御独り子、主イエズス・キリストが審判者として来給うときも、恐れなく迎え得るようになし給え。御身と共に、天主として、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う主よ。
Lectio Epístolæ beati Páuli Apóstoli ad Romános. 使徒聖パウロの、ローマ人への書簡の朗読。
Rom. 1, 1–6. ローマ 1ノ1-6
Paulus, servus Iesu Christi, vocátus Apóstolus, segregátus in Evangélium Dei, quod ante promíserat per Prophétas suos in Scriptúris sanctis de Fílio suo, qui factus est ei ex sémine David secúndum carnem : qui prædestinátus est Fílius Dei in virtúte secúndum spíritum sanctificatiónis ex resurrectióne mortuórum Iesu Christi, Dómini nostri : per quem accépimus grátiam, et apostolátum ad obœdiéndum fídei in ómnibus géntibus pro nómine eius, in quibus estis et vos vocáti Iesu Christi, Dómini nostri. 使徒として召され、天主の福音のために選び分けられた、イエズス・キリストの奴隷パウロ、―福音は、天主があらかじめ聖書の中にその預言者たちによって約束し給うたものであって、その御子に関するものである。[御子は]肉としてはダヴィドの裔(すえ)から生まれ、聖なる霊としては、死者から復活してより天主の子としての能力を得たもの、すなわちわれらの主イエズス・キリストである。われらは、その御名においてすべての異邦人を信仰に従わせるために、彼から使徒の恩寵と使命とを受けた。その中にあなたたちもいて、イエズス・キリストのものとなるために選ばれた。
Graduale. Exodi 16, 6 et 7. 昇階誦 出エジプト 16ノ6,7;
Hódie sciétis, quia véniet Dóminus et salvábit nos : et mane vidébitis glóriam eius 今日、あなたたちは、主が来給うてわれらを救い給うのを知るであろう。また、明日、彼の光栄を見るであろう。
V/. Ps. 79, 2–3 Qui regis Israël, inténde : qui dedúcis, velut ovem, Ioseph : qui sedes super Chérubim, appáre coram Ephraim, Béniamin, et Manásse. V/.詩篇 79ノ2,3イスラエルを治め給う者よ、御耳を傾け給え。羊のごとくヨゼフを導き給う御者よ、智天使の上に座し給う御者よ、エフライム、ベニヤミン、マナッセに御身を現し給え。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。
Matth, 1, 18–21. マテオ  1ノ18-21
Cum esset desponsáta Mater Iesu Maria Ioseph, ántequam convenírent, inventa est in útero habens de Spiritu Sancto. Ioseph autem, vir eius, cum esset iustus et nollet eam tradúcere, vóluit occúlte dimíttere eam. Hæc autem eo cogitánte, ecce, Angelus Dómini appáruit in somnis ei, dicens : Ioseph, fili David, noli timére accípere Maríam cóniugem tuam : quod enim in ea natum est, de Spíritu Sancto est. Páriet autem fílium, et vocábis nomen eius Iesum : ipse enim salvum fáciet pópulum suum a peccátis eórum. イエズスの母マリアはヨゼフの許嫁(いいなずけ)であって、同居しない前に、聖霊によって孕(みごも)っていることが分かった。夫ヨゼフは正しい人で、彼女を公に辱めたくなかったので、ひそかに離別しようと決めた。彼がこれらのことを考えているとき、突如、主の天使が夢に現れて言った、「ダヴィドの子ヨゼフよ、マリアをあなたの妻として納(い)れるのを恐れるな、なぜなら、彼女にやどるものは聖霊の業である。彼女は子を生むであろう。あなたはその子をイエズスと名付けよ。なぜなら、彼はおのが民をその罪から救うであろうから」。
Ant. ad Offertorium. Ps. 23, 7. 奉献文 詩篇  23ノ7
Tóllite portas, principes, vestras : et elevámini, portæ æternáles, et introíbit Rex glóriæ. 門よ、枠を上げよ、とこしえの戸よ、開け、栄光の王が入り給う。
Secreta 密誦
Da nobis, quǽsumus, omnípotens Deus : ut, sicut adoránda Fílii tui natalítia prævenímus, sic eius múnera capiámus sempitérna gaudéntes : Qui tecum. 全能の天主よ、願わくは、礼拝すべき御子の御降誕をあらかじめ祝い奉るわれらに、喜んでその永遠の賜物を受けさせ給え。御身と共に、天主として、聖霊との一致において、生き且つ治め給う主よ。
Præfatio communis  序誦  通常の序誦
Ant. ad Communionem. Is. 40, 5. 聖体拝領誦 イザイア 40ノ5
Revelábitur glória Dómini : et vidébit omnis caro salutáre Dei nostri. 主の光栄が現れ、すべての人は、天主の遣わされた救い主を見奉るであろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Da nobis, quǽsumus, Dómine : unigéniti Fílii tui recensíta nativitáte respiráre ; cuius cælésti mystério páscimur et potámur. Per eúndem Dóminum. その天の奥義を、われらの糧とし、飲み物とし給う主よ、御独り子の御降誕の記念によって、さらに依り頼みの心をわれらに起こさせ給え。その同じわれらの主、イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子によりて。

2018年12月23日待降節第四主日のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

2018年12月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月23日待降節第四主日(一級主日、典礼色:紫)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂)のテキストをご紹介いたします。
 昔は、今日のミサを行わなかった。なぜなら、四季の土曜日の典礼と叙品式とが、土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである。それで、本日のミサの典礼のほとんどは、他のミサから取ったものである。<書簡>は、前日の叙品式を思い出させ、司祭たちに向かって、言葉と秘蹟という聖なる奥義を行って天主の下僕となったことを記憶させる。また、一般信者に向かって、司祭たちを批判しないようにと勧める。これはすべて、主の間近き来臨に結びついている。

Dominica Quarta Adventus 待降節第四主日
Statio ad Ss. duodecim Apostolos 指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂
Ant. ad Introitum. Is. 45, 8. 入祭文 イザイア45ノ8
Roráte, cæli, désuper, et nubes pluant iustum : aperiátur terra, et gérminet Salvatórem. 天よ、汝の露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ、地よ、開かれて救い主を生まんことを。
Ps. 18, 2. 詩篇18ノ2
Cæli enárrant glóriam Dei : et ópera mánuum eius annúntiat firmaméntum. 天は天主の光栄を語り、空は天主の御手の業を告げる。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Roráte, cæli, désuper, et nubes pluant iustum : aperiátur terra, et gérminet Salvatórem. 天よ、汝の露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ、地よ、開かれて救い主を生まんことを。
Oratio. 集祷文
Excita, quǽsumus, Dómine, poténtiam tuam, et veni : et magna nobis virtúte succúrre ; ut per auxílium grátiæ tuæ, quod nostra peccáta præpédiunt, indulgéntiæ tuæ propitiatiónis accéleret : Qui vivis et regnas. 主よ、願わくは、御力を起こして来給え。大いなる御力をもって、われらを助け給え。それは、われらの犯した罪のゆえに、妨げられている救いが、聖寵の助力により、御慈悲の恵みによって、早められんためである。聖父なる天主と共に、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め・・
Lectio Epístolæ beati Páuli Apóstoli ad Corinthios 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読。
1 Cor. 4, 1–5. コリント前書 4ノ1-5
Fratres : Sic nos exístimet homo ut minístros Christi, et dispensatóres mysteriórum Dei. Hic iam quǽritur inter dispensatóres, ut fidélis quis inveniátur. Mihi autem pro mínimo est, ut a vobis iúdicer aut ab humano die : sed neque meípsum iudico. Nihil enim mihi cónscius sum : sed non in hoc iustificátus sum : qui autem iúdicat me, Dóminus est. Itaque nolíte ante tempus iudicáre, quoadúsque véniat Dóminus : qui et illuminábit abscóndita tenebrárum, et manifestábit consília córdium : et tunc laus erit unicuique a Deo. 兄弟たちよ、さて、われわれをキリストの下僕また天主の奥義の管理者だと皆は考えよ。管理者に必要なのは忠実ということである。私は、あなたたちや、人間の審判によって裁かれることを意としない。そして自分で自分を裁くこともしない。私の良心は何の責められるところもないが、そのために私は義人とされるのではない。私を裁き給うのは主である。よって、主が来給うまでは、時に先立って裁くな。主は、隠れた闇を照らし、心の企てを現し給うであろう。そのとき、おのおのの天主から誉れを受けるであろう。
Graduale. Ps. 144, 18 et 21. 昇階誦 詩篇144ノ18,21
Prope est Dóminus ómnibus invocántibus eum : ómnibus, qui ínvocant eum in veritáte. 主にこい願い、まことをもって願う者に、主は近くまします。
V/. Laudem Dómini loquétur os meum : et benedícat omnis caro nomen sanctum eius. 私の口は主の誉れを告げ、すべての民は、世々限りなく、その聖い御名を祝し奉れ
Allelúia, allelúia. V/. Veni, Dómine, et noli tardáre : reláxa facínora plebis tuæ Israël. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。主よ、来給え。遅れ給うな、御身の民なるイスラエルの罪を赦し給え、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 3, 1–6. ルカ 3ノ1-6
Anno quintodécimo impérii Tibérii Cǽsaris, procuránte Póntio Piláto Iudǽam, tetrárcha autem Galilǽæ Heróde, Philíppo autem fratre eius tetrárcha Iturǽæ et Trachonítidis regionis, et Lysánia Abilínæ tetrárcha, sub princípibus sacerdotum Anna et Cáipha : factum est verbum Domini super Ioannem, Zacharíæ filium, in deserto. Et venit in omnem regiónem Iordánis, prǽdicans baptísmum pæniténtiæ in remissiónem peccatórum, sicut scriptum est in libro sermónum Isaíæ Prophétæ : Vox clamántis in desérto : Paráte viam Dómini : rectas fácite sémitas eius : omnis vallis implébitur : et omnis moris et collis humiliábitur : et erunt prava in dirécta, et áspera in vias planas : et vidébit omnis caro salutáre Dei. ティベリオ・チェザル在位の第十五年目、ポンシオ・ピラトはユダヤの総督、ヘロデはガレリア分国の王、その兄弟フィリッポはイトゥレアとトラコニティデ分国の王、リザニアはアビレネ分国の王、アンナとカヤファが大司祭だったとき、荒れ野において、ザカリアの子ヨハネの上に、天主の御言葉が下った。そして、ヨルダンの四方の地に行き、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼をのべ伝えた。予言者イザイアの言葉の書(ふみ)に、「荒れ野に叫ぶ者の声、『主の道を備え、その小道を直くせよ。すべての谷は埋められ、すべての山はならされ、曲がったものは真っ直ぐに、けわしいものは平らな道となり、人はみな天主の救いを見るであろう』」と録(かきしる)された通りである。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Luc. 1, 28. 奉献文  ルカ 1ノ28
Ave, María, gratia plena ; Dóminus tecum : benedícta tu in muliéribus, et benedíctus fructus ventris tui. めでたし、恩寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の実も祝せられ給う。
Secreta. 密誦
Sacrifíciis præséntibus, quǽsumus, Dómine, placátus inténde : ut et devotióni nostræ profíciant et salúti. Per Dóminum. 主よ、願わくは、今行うこのいけにえによって、和やかな御目を注ぎ給わんことを。それによって、われらの信心を深め、救いを与え給え。天主として、聖霊との一致に・・
Præfatio de sanctissima Trinitate 序誦  三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Is. 7, 14. 聖体拝領誦 イザイア 7ノ14
Ecce, Virgo concípiet et páriet fílium : et vocábitur nomen eius Emmánuel. 見よ、童貞女(おとめ)は子をやどすであろう。その名は、エマヌエルととなえられるであろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sumptis munéribus, quǽsumus, Dómine : ut, cum frequentatióne mystérii, crescat nostræ salútis efféctus. Per Dóminum. 聖なる賜物を受けたわれらは、御身にこい願い奉る。この奥義にしばしばあずかることによって、われらの上に、救いの実が成長せんことを。天主として、聖霊との・・・

2019年版聖伝のカレンダーに寄せて

2018年12月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

クリスマス!私たちの主イエズス・キリストの御降誕は、天主の愛をより深く私たちに悟らせてくれます。

「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」

全能の天主が人となる!天主が幼子となって私たちのために与えられる!永遠の天主が時において人となって生まれ、私たちのために苦しみを受ける!

天主と人類とのクリスマス・プレゼントの交換!天主が私たちに永遠の命の喜びを与えるために御独り子をくださる!天主が私たちに天主の命をくださろうとする!私たち人類は、苦しみと悲しみにまみれた惨めな人間の生を天主に与える!天主は私たちが天主を信じ、天主の愛を信じ、天主を愛するならば、私たちの惨めなプレゼントを受け取ってくださる!

私たちを愛するためにお生まれになる幼子イエズス・キリストは、私たちからも愛をお求めになります。最後の晩餐の時私たちの主イエズス・キリストの聖心の上に頭をのせた使徒聖ヨハネが、イエズス・キリストの聖心の愛の招きを福音に書いています。

「私の掟を保ち、そしてそれを守る人こそ、私を愛する人である。私を愛する人は、父にも愛され、私もその人を愛して、自分をあらわす。」

「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む。私を愛さない人は私の言葉を守らない。」

「父が私を愛しておられるように、私はあなたたちを愛した。私の愛にとどまれ。私が父の掟を守り、その愛にとどまったように、あなたたちが私の掟を守るなら、あなたたちは私の愛にとどまるだろう。」

使徒の時代から、イエズス・キリストの聖心への愛は選ばれた霊魂たちに脈々と伝わっていました。イエズスを愛する人は、聖父にも愛され、イエズスもその人を愛して、御自分をその人々にあらわしました。それは、旧約聖書の雅歌に描かれているような天主と霊魂との清らかな愛の関係です。聖母の汚れなき御心は、イエズスへの愛に完全に応えた心でした。聖フランシスコと聖ジャシンタはそのような霊魂でした。私たちは、ファチマの聖母の御出現の100周年にそれを黙想しました。日本の殉教者たちも、イエズスへの愛に応えた霊魂たちでした。私たちにとって大切な黙想のテーマです。長崎の殉教者たち、津和野の殉教者たち、京都や江戸や東北の殉教者たちは、イエズスの愛に愛でこたえました。

人となりたもうた御言葉(みことば)、イエズスは、聖父の教えを全て、余すところなく、私たち人類に伝えました。「私が聖父より聞いたことはすべてあなたたちに知らせた。」 ところで、旧約時代に天主が選民の信仰と希望を蘇らせるために預言者らを遣わされたように、ご復活の主日の朝、イエズスが聖マリア・マグダレナを遣わして使徒たちに光栄あるご復活の事実を伝えるよう託されたように、しばしば、イエズスは特別な霊魂を選びます。

17世紀には、イエズスは聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647-1690; 1920列聖)やイエズス会士聖クロード・ド・ラ・コロンビエール(1641-1682;1929列福;1994列聖)を選び、イエズスの聖心への愛の秘密を、私たちも知ることができるように計らってくださいました。

近年のイエズスの聖心によって選ばれた霊魂にはシスター・ヨゼファ・メネンデス(1890-1923)がいます。イエズスはヨゼファ・メネンデスへご自分の聖心の愛を私的に啓示され、天主が霊魂をどれほど計り知れなく愛されておられるかをお示しになりました。シスター・ヨゼファの指導者や長上たちは、初めは軽率に信じることなく慎重にことにあたってきたのですが、あまりにも真正なものであることが分かり、彼女の使命を確信するに至りました。

イエズスのシスター・ヨゼファへの語らいの内容が1938年に「愛の招き」(UN APPEL À L'AMOUR. LE MESSAGE DU COEUR DE JÉSUS AU MONDE ET SA MESSAGÈRE. Sœur JOSEFA MENÉNDEZ)という本の形で出版されたとき、カルディナル・パチェリ(後の教皇ピオ十二世)は、その本の第一版を祝福して自筆で序文を書き、これを読むようすべての人々に奨励しています。

イエズスの憐れみとは、罪人の憐れな罪の状態を、罪の無い状態へと引き上げたいという愛です。罪を憎み、しかし罪人を憐れむ愛です。罪を罪であると断罪することは差別ではありません。罪を罪であると言ってあげることこそ愛です。医者が病気を病気でないというのは愛でないと同じです。人間は罪を承諾して犯す時、悪魔の権力の下に身を置くことになってしまいます。罪に対する麻痺や罪の生活の正当化の中に霊魂を呑み込んでしまいます。イエズスはこの罪の暗闇の状態から私たちを引き上げるために、この世に光をもたらすために人となりました。

冷たいこの世は、イエズスの憐れみと愛とを知りません。イエズスは私たちを罪から引き上げたいと、かがんで憐れんでくださっていることを。イエズスは私たちが罪を犯し続けることは望みません。何故なら罪こそが最大の悪だからです。天主の御稜威と天主の権利と人間の義務とに反することだからです。

イエズスは、罪人が罪を罪と認めて罪を憎むことを望んでいます。それができるように、ご自分の十字架を持って罪の結果を見せてくださいました。罪人を愛し罪からの救いのために、イエズスは謙遜と贖罪の一生をお過ごしになりました。イエズスは、ご自分を愛する霊魂たちが、ご自分のようになることを、ご自分に似通ったものになることを望まれます。

イエズス・キリストを愛する霊魂たちは、殉教者たちに見られるように、主の御苦難に非常に近くあずかります。多くの霊魂たちは、「イエズスの聖心のいけにえ」として、「憐れみ深き愛のいけにえ」(幼きイエズスの聖テレジア)として、「イエズスの聖心のなぐさめ」として、霊魂と肉体の苦しみを捧げました。多くの罪人のために、彼らに代わって、償いを捧げ、彼らが罪の生活を放棄し救われるように祈るのです。

イエズスと完全に一致し、イエズスと同じ苦しみをしのび、イエズスの御苦難の奥義に参与し、他人の罪の贖罪的犠牲として、自分の受ける苦しみをイエズスの苦しみに遭わせて堪え忍び、捧げるのです。

イエズス・キリストの至聖なる聖心は、霊魂たちを御許に、愛に、呼び寄せておられます。

クリスマスは、天主の愛をより深く私たちに悟らせてくれますが、それをより良く理解することが出来るように、2019年のカレンダーをイエズスの聖心の私たちへの愛というテーマで作りました。特にピックアップしたのは、イエズスのヨゼファ・メネンデスへの言葉です。

多くの兄弟姉妹の皆様が、この典礼カレンダーをお取りになり、天主の愛を、私たちに対する天主の愛の幅広さと奥行きと崇高な高みと底知れない深みを垣間見ることが出来れば、と願っております。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】