2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【6】
同時通訳:小野田圭志神父
同時通訳:小野田圭志神父
それでは、1つ1つ、今からの講話で黙想しましょう。私たちの信心の目標は目的は、「天主様との一致」です。
この私たちにもかかわらず、マリア様は今の難しい時代に私たちの元にやって来て、私たちを聖人にしようと招いておられます。この終末の時代において、マリア様は私たちに、本当に私たちがマリア様の子供であり、マリア様の騎士であり、マリア様の使徒であり、マリア様のどれいである、という特別の召し出しを私たちに下さっています。
3つの段階は出発点と考えられています。もしも誰かが旅に出る時には、3つの段階を経なければなりません。「出発」と、「到着点」と、そして「それまでの道」です。もしもその3つの点について間違ってしまうと、正確に辿り着く事はできません。
皆さんがこれからどこかに行こうとする時に、飛行機に乗ろうとして、飛行機の出発の点がどこか、何空港かを知らなければ、何時にその飛行機が出るか、という事を知らなければ、その飛行機に乗り遅れてしまって、他の空港に行って乗る事ができません。3つのこのステップに分かれているのは何でもそうです。食べる時も、食べ始めて、そして食べ終わって、その間はずっと食べています。しかしもしも食べ始める事を忘れてしまえば、何も食べる事はできません。食べ終わるのを忘れてしまうと、もっとひどい事になります。これは皆さんの一日もそうです。1日の始まりと、1日の終わりと、その中間があります。私の一日を始めるのを忘れてしまうと、何も起こりません。
では「出発点」、私たちの霊的な旅路の出発点は何かというと、「私たちは一体どこに立っているのか?私たちは何なのか?人間とは何なのか?人間の置かれている状態とは何か?」という事を考える事です。
「到着点」というのは、「イエズス様との一致」です。
そこに到着する為の「道」というのは、「マリア様」です。
私は一体誰でしょうか?出発点はどこにあるのでしょうか?これは、「私はどうあるべきか」という事と、「私は実は、実際のところどうあるか」という事を考える事にあります。
グリニョン・ド・モンフォールはこの最初の、「一体自分が何か」という事についてあまり考察を深めません。1番だけ、1つの番しかありません。68番です。私が一体何か、という事は、天主様との比較において、グリニョン・ド・モンフォールは説明します。イエズス様によって贖われた、超自然の観点から私たちを見ています。
聖イグナチオはその霊操の中で、「一体自分が何か」という事を説明しています。聖イグナチオはその霊操の最初のところで、全くその基礎的な真理として、「人間は天主によって創られていて、創造されて、天主に全く依存している」という事を確認させます。これはイエズス様が特別に教えてくれたというよりは、私たちの人間の本性がそうである、という、もう生まれつきの構造になっています。
この真理については、異教の哲学者も発見していました。アリストテレスは既に、「天主のみが、この第一の起源、第一の原因こそが、自立・自存する者である」と言っています。そして、「その他のものは、原因されたものたちは、他者によって在らしめられているものである」と言っています。
私たちは、「この私たちの持っているもの、私たちの在りて在るもの全ては、天主様によって在らしめられている、天主によって依存している」という事を認めなければなりません。皆さんのお持ちになっているもの、あるいは皆さんからの良いものは、実は皆さんが自分の力で獲得した、自分の力で頭で得たものではなくて、与えられたもの、あるいは在らしめられてるもの、天主から受けたものである、と言わなければなりません。
被造物として私たちは全てを天主様から受けました。天主様が私の起源であります。私は天主によって在らしめられているのみならず、私たちは天主へと向かわなければなりません。天主は私の起源でありますけれども、そして私たちの究極的に行かなければならない到達点でもあります。
私たちは、この地上のものが完璧に私たちを満足させ尽くす事ができない、と知っています。なぜかというと、私たちの霊魂は不死の性格を持っているので、限りのない、終わりのない喜び、限りのない幸せを求めているからです。しかしそのような私たちの究極に求めているものは、この地上にはあり得ません。なぜかというと、地上のものには全て制限があるからです。物質的なものも、始まったと思えば、もうすでに終わりが来てしまいます。喜び、私たちがその後を追い求めている喜びとか、快楽というものも、あっという間に終わってしまって、しばしばその後では、苦々しさや、悲しさを伴います。
私たちの霊魂がその為に創られている喜び、幸せ、満足というのは、この地上では得られません。私たちが究極的に求めている、待ち望んでいるものというのは、この私たちの外にあるものであって、この地上を超越するものであって、つまり天主しかありません。
今ここで私たちが持っているもの、私たちがこう今在るもの全ては、実は天主様から頂いたものです。始めのみならず、終わりのみならず、今ここにある、今の私がこうあるのも、天主によって在らしめられているのです。たとえ私がそう思わなくても、私がそれを否定したとしても、それが現実です。事実です。たとえ無神論者がその事を否定したとしても、実は否定しているその天主から、存在を受けて、私たちは在らしめられています。
私たちの自然本性から言えば、天主に全く属する奴隷と言わなければなりません。私たちは被造物として、創造主である天主に依存しています。
そして第68番には、被造物としてではない、別のやり方での依存を説明しています。私たちはイエズス様に、「創造主」たるイエズス様のみならず、「贖い主」であるイエズス様に、「救い主」であるイエズス様にも属しています。
人間には歴史があります。人間の最初の、アダムとエヴァの原罪から、今に至るまでの歴史があります。罪を犯すと、私たちは悪魔の奴隷となってしまいます。原罪を犯す事によって、悪魔がこの世界の支配者となってしまいました。しかし、無限の憐れみである天主様は、救い主を私たちに約束して下さいました。
救い主は私たちを、悪魔の手から買い戻してくれました。聖ペトロによると、贖いの値は、「御自分の御血潮」でした。イエズス様の犠牲と、いけにえと、そして御血によって、私たちはもう一度、贖われて買い戻されたのですけれども、その買い戻された事によって、私たちはイエズス様に属するものとなりました、イエズス様の奴隷となりました。洗礼を受けた時に、イエズス様の御血潮は私たちを浄め、そして罪を赦しました。
68番にはこうあります、“私たちは、洗礼を受ける前には、悪魔のものでした、悪魔の奴隷でした。洗礼は私たちを、イエズス・キリストの真の奴隷にしてくれたのです。”
奴隷として、しもべとして、イエズス様、主人の御旨を、意志を果たさなければなりません。私たちはキリストの戦利品ですから、イエズス様の御旨の為に働かなければなりません。
私たちは王たるキリストにどれほど依存しているか、という事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは例えを出します。4つの例えです。この4つの例えは、イエズス様の言葉や聖書の例えの話です。「イエズス様は葡萄の木であって、私たちはその枝だ」とか、「イエズス様は牧者であり、私たちはその羊の群れである」という、そのイエズス様との一致を示しています。あるいは「多くの実りをもたらす、天主が農夫である良い畑」。これが、「私は一体何なのか?誰なのか?」という事の答えです。
私たちは二重にイエズス様に属しています。天主としては創造主に、全く、全てにおいて依存しています。イエズス様は真の天主様ですから、天主としての権威と統合を私の上に持っています。第2に、イエズス様は私の贖い主として、私はイエズス様に属しています。なぜかというと、イエズス様は元悪魔の奴隷であった私たちを買い戻して下さって、解放して下さって、イエズス様に属するものとして下さったからです。その時以来私たちは、イエズス様のものとなり、イエズス様の奴隷となりました。
これは、私たちがそれを意識するかしないかにかかわらず、考えるか考えないかにかかわらず、事実です。玄義として、イエズス様は全て私たちを贖い戻して下さいました。たった1つ条件がありました。人間は自由ですから、聖アウグスチヌスはこう言います、「あなた無しにあなたを創った天主は、あなた無しにあなたを贖う事はない、あなたを救う事はない。」
このこれが第2の現実で、こうあるべきものです。しかしこうあるべきものはこうですけれども、現実はちょっと違っています。よく私たちはこの現実、「イエズス様のものである」という事を認めようとせず、それを覚えようともしません。天主は私の起源であり、その玄義であるけれども、しかし残念ながら私は、あたかも自分で自分を創造したかのように、創ったかであるかのように生活しています。「私は王であり、私は主人であり、私は誰にも属していない」と思って生活しているようです。
もしも、大きな贈り物を頂いた時に、私たちはどうするでしょうか?
感謝します。こう贈り物が大きければ大きいほど、より多く感謝します。天主様は私たちに全てを与えて下さいました。私たち自身を与えて下さいましたけれども、しかしどれほどその事について感謝しているでしょうか?
事実、客観的に、天主様こそが私たちの究極の目的です。でも私の天国に対する熱望というのは、本当にあるかないかと同じです。私の「天主を永遠に讃美したい」という望みは、あるかないかのようです。この地上での生活をどのようにして楽しむか、そのどうやって長生きするか、その事だけに関心があります。
また天主様イエズス様の贖いの業を、どれほど私たちは正しく評価して、感謝しているでしょうか。ミサに与るという時には、私たちはどれほど喜び踊って行く事でしょうか。もしも司祭がちょっとでも長い御説教をすれば、もう耐えきれなくなって、終わりを待たずにもう教会から出てしまいます。できればこの黙想会にも与りたくないし、なぜかというと、あまりにも長いし、つまらないから。イエズス様は最後の血潮まで私の為に流し尽くされたにも関わらず、私は無関心で、心は冷たく、何も感謝していません。
「天主様は私の命の始まりであり、究極の目的である」と言う代わりに、「自分こそが究極の目的であり、究極の始まりである」と考えています。私の人生の基礎となっているものは、利己主義であって、自分主義であって、自分勝手で、エゴイズムです。私の全生涯はこれに汚染されています。私の周りを見ると、「他の人は私の事をどう思っているのか」という事だけを考えています。「私は宇宙の中心であって、世界の中心であって、人生の中心である」と。
そして一番の問題は、天主の御旨と私の意思が対立した時です。よく私たちは、天主の御旨と私のやり方が対立した時に、「おぉ天主様、私は御身を愛し奉る。でも私の御旨がなされますように。」もう少し信心深い方であると、「主よ、御旨が果たされん事を。そして私のも同時に。」
それから68番と78から82番も黙想しなければなりません。これは本当に目を見張るような、そしてちょっと読むのが辛い思いをするような内容ですが、それを黙想して下さい。謙遜になって下さい。「グリニョン・ド・モンフォールが書いている事は本当だ」と受け入れて下さい。50年間、新しいミサの教会では、このような事はもう聞く事はありません、話す事は、「人間の尊厳」とかですが、しかし聖グリニョン・ド・モンフォールはこう言います、78番。
“私たちの行ないは、たとえ最良のものではあっても、私たちの内奥にある悪いものによってシミが付き、品質が下がります。”
この利己主義、エゴイズムというのが全て、私たちのやっている行動を汚染して、それを悪くしている、という事です。だから私たちの浄め、私たちの自分の利己主義を取り去る、という事に時間がかかって、浄めに時間がかかるのです。
たとえ最良のものであっても、たくさんお祈りをして、忍耐強く、そして本当にこの他人を愛する方であっても、天主を信じ、天主に期待し、天主を愛したとしても、しかしよく考えてみると、その裏には、利己主義や、自分の利益を望む、というものが潜んで隠れていた、という事に気が付きます。そしてそのようなものの影に、自分の栄光と自分の名誉を求めていた、という事に気が付きます、「私はすごい。」
79番をご覧下さい。原罪によって傷付けられた私たちのその傷がどのようなものであるかを、グリニョン・ド・モンフォールは説明します。もしもこの傷についてよく知っていなければ、ある時に、そのような傷を見て驚き、びっくりし仰天して、そして「何でそのような事が私に起こるのだろうか!?」と思ってしまうからです。
私たちは、「この原罪によって付けられてしまった傷」というものと、「この傷が故に、私たちが犯す罪」とを区別しなければなりません。私たちは皆この傷を持っています。私たちは誰も例外なく、この同じ舟に乗っています。79番です。
“聖霊の光のもとに、私たちの心の奥に潜んでいる、この悪い土壌の正体を見極める必要があります。”
「私たちが弱い」と言っても驚いてはいけません。
「あぁ神父様、私は本当に悪い者で、本当に弱くて、何もできません。」
「我が子よ、私はあなたよりも弱くないと思っていますか?」
「あぁ神父様、私よりも弱い人はいません。」
「それは間違っています。そのように考えないで下さい。私たちはもう希望がないほど弱いものです。たとえ巨人のような強さを持っているかのように思っても、弱いのです。自分の力では自分一人では、私たちの救霊の為に何一つする事はできません。」
「私はもうそれに相応しくありません。」
これはよくある、召し出しを拒否する言い訳です、「あぁ、その資格はありません。」「その価値はありません。」「それにそのような者ではありません。」
でも、誰もそのような資格はありません。もしもそのように答えるのであれば、この地上に誰も司祭となる人はいませんし、修道生活をする人もいません。私たちは天主様からの聖寵を受ける資格は、実は本当は無いのです。
「神父様、いつも罪を犯してばかりいます。その罪を犯す傾向があります。」
「我が子よ、私たちは皆、罪を犯す傾向を持っています。アダムの罪は私たち全てを汚染して、そして汚してしまいました。」
「私は本当に傲慢です。」
「私たちは皆、傲慢です。」
これが私たちの今置かれている現実です。皆さん、この事をよく頭の中に入れて下さい。たとえ赦された罪であったとしても、その罪を犯す事によって、私たちの霊魂には傷が付いてしまいます。そしてこのような事を、聖パウロは「肉」と言います。
79番の最後には、“私たちは本性的に、孔雀よりも傲慢。ガマよりも地上のものに愛着し、雄ヤギよりも劣情、蛇よりも妬み深く、豚よりも食いしん坊、虎よりも怒りっぽく、亀よりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。私たちの霊魂の内奥にあるものは、ただ無と罪だけ。私たちが当然受けなければならないものはただ、天主の怒りと永遠の苦罰だけ。”
皆さん、私が、「こんにちは、ええと、豚の皆さん」と言ったら何と答えますか?皆さん、聖グリニョン・ド・モンフォールは皆さんの事を、「豚よりも食いしん坊」と言っています。でもこれが本当です。
81から82番をご覧下さい。今現代、この原罪の傷について語られる事はないのですけれども、私たちはこれを無視する事はできません。だからといって、プロテスタントがするように、この傷をオーバーに誇張しすぎる必要もありません。ナチュラリズム自然主義思想というのは、「自然は完全であって、自然は良いものである、最高に良いものである」と教えています。自然主義はジャン=ジャック・ルソーによって唱えられますけれども、マルチン・ルターはその反対を行きます、「自然は全て腐敗していて、何も良い事がない。」
時々私たちは、この傷について、不平を言ったり文句を言ったりします。多くの場合、良いカトリック信者の聖伝の信者さんの告解は、この罪とこの傷を誤解する事にあります。
「あぁ神父様、私はいつもお祈りの時に雑念が入ります。」
「それは、雑念が入るというのは、わざと雑念を入れて故意に気を散らしてお祈りしたのですか?それとも一生懸命お祈りをしようとしたにも関わらず、雑念が入ってくるのですか?」
「あぁ神父様、そんな事はありません、故意に雑念を入れようとするのではありません。いつもイエズス様の事を思ってるのですけれども、でも雑念が入るのです。」
「子よ、私たちはもう告解をやって3分無駄に時間を使いました。」
私たちは皆、このような弱い本性にぐらついています。そこで誰も雑念を持ってしまいます。
もちろん、私たちはどうやってその雑念を避けるべきか、という原理・理論は知っていますけれども、しかし無意識のうちに自然に入ってしまう雑念は、告解の対象ではなくて、私たちの弱さ故の傷なのです。
もしも私たちが、「罪」と「原罪による傷との弱さ」を混同しまうのでしたら、喜ぶ人は悪魔だけです。もしもその罪と傷とをいつも混同してしまって、「それが本当に罪である」としてしまったら、その罪をどうしても浄める事ができない、罪をいつも犯してしまう、という事にあって、結局は絶望してしまう危険があります。
「私は地獄に落ちてしまいます。そんなに悪い考えがたくさん起こってきます。ですから多くの汚れに泥に攻撃を受けています。このような汚い考えが頭にあれば、もうこの天国に行く事ができるはずありません。地獄に落ちるしかありません。」
「子よ、それもまた同じです。」
霊的指導者はいつも同じ事を、何度も何度も私たちに繰り返します。「誘惑というのは罪ではない。」たとえ頭の中には、天主様を冒瀆するような考えが起こってきたとしても、あるいはポルノとか汚い考えが起こったとしても、あるいは憎しみや嫉妬やそういうものが頭の中に入ってきたとしても、もしもそれに「はい」という同意がなければ、それは罪ではありません。それは戦いの戦場ですが、それが頭の中にある、という事です。これは皆さんであるかのように思われますけれども、でも悪魔がそうやって誘惑をかけてくるものです。敵がやって来た時に、この敵が来たら、その敵を前に武器を置いて「あぁ、敵がやって来た」と皆さん言うでしょうか。ですから敵は、この「罪」とこの「傷」とを混乱、混同してしまうと、敵は喜びます。
もしも弱さを感じる時には、あるいは残念ながら罪を不幸にして犯してしまったような場合には、また多くの誘惑に周りから襲われた時には、そしてその戦いを続けるのが非常に困難に思われる時には、その時には、もう失望したり、もうがっかりして力を落としてしまう必要はありません。「もしもここで失望して、『もうだめだ』等と思うのは、それは傲慢だ。匂いの強い、臭い傲慢だ」と聖マキシミリアノ・コルベは言います。なぜかというと、「私が、全て私が戦う、私だけが戦う」と思って誤解しているからです。「私は戦いに失敗した!私は負けてしまった!」と思うからです。「孔雀よりも傲慢」と聖グリニョン・ド・モンフォールは言います。
そのような攻撃や誘惑が来た時には、私たちは謙遜にならなければなりません。私たちは謙遜になって、私たちを助けて下さる事ができる誰かに、助けを求めなければなりません。するとその方は、一言言うだけで、それら全てをあっという間に打ちのめして下さる事ができます。もちろん皆さんはそういう事を言う権利があって、そういう事を言う義務があります。
「主よ、私は相応しくありません。」でもこう言った後に、次の言葉を必ず付けなければなりません。「私は御身を宿すには相応しくない者ですけれども、しかし一言宣って下さい。そうすれば私の魂は癒されるでしょう。」
これが御聖体拝領を受ける前の言葉です、「主よ、我不肖にして御身を我が心に受け入れるに足らず。されど一言宣い給え、そうすれば我が心は癒されん」と、私たちは御聖体拝領の前にドンと胸を打ちながら3度言います。その最初の部分だけ、「私は相応しくない」それだけで終わらないで下さい、「一言宣って下さい」というのを必ず付けて下さい。
80、81、82番は、これから私たちがやらなければならない事です。
まず、「私たちは、一体誰か、どのような傷を負っているか、どんな状況か」という事を知って下さい。謙遜に、私たちの本性、傷付いた本性、そして私たちの状況を受け入れて下さい。
第2は、その結果です。それの続きです。なぜかというと、私たちは、「主よ、私は本当に罪深くて、本当に醜いものです」と言いながら、その後で直後に、「あぁ、私は美しい、綺麗だ」と言う事はできないからです。私たちはですから、「私は相応しくありません」と言いながら、でもその直後に、「私は自分の考えをやり通す」と。
もしも「私たちがそれに相応しくない、本当に弱い者である」という事を認めたならば、その私たちの汚いものを取り払わなければなりません。
誰かが私たちの家に入って来て、ゴミを捨てたとします。誰かがそうやってゴミを捨てたとしたら「あぁ、」本当に誰かがこのゴミをですね、この家から取り払って、家を綺麗にする代わりに、「あぁ、それでもこのゴミも中々面白い。このゴミも結構好きだ」と言って、このゴミを家の色んな所に飾ってですね、そしてゴミだらけにしてしまう。81番はその事が書いています。
もしもゴミがあると気が付いたら、そのゴミを取って下さい。次に、綺麗になった家を、もっと良いもので飾って下さい。この「綺麗なもの」「良いもの」というのが、「マリア様への信心」です。
ちょっと厳しい、難しいのですけれども、「私たちが一体何か」という事について黙想しましょう。私たちそれ自身では、豚よりも更に酷いものです。しかし天主様の御恵みによれば、大聖人になります、皆さんのような豚でもなります。