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2018年11月24日(土) 教会博士証聖者十字架の聖ヨハネのミサ説教 「十字架の聖ヨハネの生涯」

2018年12月18日 | お説教・霊的講話
2018年11月24日(土)教会博士証聖者十字架の聖ヨハネのミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月24日、十字架の聖ヨハネの証聖者教会博士の祝日を祝っています。

今日はこのミサの後には、短い御聖体降福式をしようと思っています。そして私たちの家族と、日本と、そして世界の為に、その平和の為にお祈り致しましょう。

来週の金曜日と土曜日にもミサがあります。新しい管区長様が日本にいらして来て下さいます。どうぞいらして下さい。


「あなた達は、世の光である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、そして小さなお友達、今日は十字架の聖ヨハネというとても立派な、カトリック教会が生み出した偉大な神秘家であって、天主様との霊魂の一致を果たして、そしてそれのみならず、ただ自分がろうそくで燃えているだけではなく、あまりにもその光が強かったので、あまりにもその深い体験をしたので、それがどのようなものか、という事を教えて、私たちを強く照らし出して、光出して、私たちに教えて下さった大聖人です。それが十字架の聖ヨハネです。

⑴この十字架の聖ヨハネの生涯、どんな人だったのか?

⑵それからどんな事を言っていたのか?という事を知って下さい。

⑶そして最後に、私たちも遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴十字架の聖ヨハネは、ちょうど日本に聖フランシスコ・ザヴェリオが到着しようとしていた頃、その到着のまだ7年前に、1542年スペインで、スペインのフォンティべロス(Fontiveros)という所に、敬虔なお父さんとお母さんの間に生まれました。家はとても貧しかったのです。しかし立派な両親の家に生まれました。このフォンティべロスというのは、アヴィラ(Avila)という所の近くにありました。

ところで、とても不思議な事が5歳の時にありました。ちょうど小さなお友達のような時に、ちょっとした事から、十字架の聖ヨハネは井戸に落ちてしまったのです。「あぁ!あぁもうダメだ!」と思った時に、その時に、マリア様の手がその子供を救って、水の上で支えてくれたのです。それで、何の怪我もなく助け出されました。

それ以来この子供は、マリア様を特別に愛するようになりました。愛を感じるようになりました。

ところが、この十字架の聖ヨハネにはとても不幸な事が起こりました。お父さんとお母さんがいたのですけれども、お父さんが亡くなってしまったのです。そして十字架の聖ヨハネは片親だけになりました。お母さんはとても生活が苦しくて、どうやって子供を育てていったら良いのだろうかと非常に困りました。その時に、おそらくお母さんの実家かお母さんの何かの関係で、メディナ・デル・カンポ(Medina del Campo)という (やはりアヴィラの近くなのですけれども)村に引っ越ししました。この事が、十字架の聖ヨハネの人生を大きく変えてしまうのです。

そしてそこに行ってから、そこにあった経営していた学校に通ったり、そこで生活をするようになって、十字架の聖ヨハネは非常に熱心に、敬虔に、そしてますますマリア様に熱心に生活するようになりました。特に「これからイエズス様に倣いたい」と思って、柔らかいベッドの代わりに、木の枝を積んで、そこに寝たのだそうです。苦行の生活をしだしたそうです、9歳の時から。きっと生活も豊かではなかったので、色々な必要なものも無かったかもしれません。それでも十字架の聖ヨハネは全てを受け入れて、一生懸命お祈りと、自分の務めを果たしていきました。学校での勉強をしていきました。

そして21歳の時に、そこにあったカルメル会に入会するのです。その時に「マチア」という名前を取りました、ブラザーマチア。優秀な修道士だったので、特にその意図はなかったのですけれども、「司祭になるように」と命じられて、そして有名なサラマンカという所に、そこではスペインとかヨーロッパではサラマンカ大学とは立派な有名な優秀な子供たちが集まる学校でしたけれども、そこに送られて、司祭になる勉強をしました。

そして1567年に、25歳の時に司祭に叙階されて、それから初ミサの時に、お母さんと一緒に引っ越ししてきたメディナ・デル・カンポで初ミサをします。初ミサをした時に、そのやはり「カルメル会の司祭だ」という事で、アヴィラのテレジアもそこに、ミサに与りに来ていたのです。初めて十字架の聖ヨハネ、ブラザーマチアとアヴィラの聖テレジアが出会って、そして色々な話をします。「私たちは修道生活を真剣にしなければならない。カルメル会の初期にあったその原初の、元々の厳しい修道生活を送らなければならない。だから今のカルメル会を改革して、もっと厳しい、もっと清貧、もっと従順の、もっと貞潔の、もっと完徳を目指す修道会へと聖化していこう」という事で、「そうだ。」二人で話がとてもよく合いました。

そこでその時以来、この初ミサ以来、アヴィラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは、ブラザーマチアは友達に、霊的な友達になりました。そしてアヴィラの聖テレジアの修道院の聴罪司祭になったり、アドバイザーになったり、良き援助をするようになりました。

そしてブラザーマチア自身も、他の3人のブラザーたちと、カルメル会のブラザーと一緒に4名で、元々の厳しい戒律を守るカルメル会の発足を申請して、そしてそれが許可を得て、そして祈りと断食、あるいは苦行の生活を始めました。そしてブラザーマチアはその4人の同志と一緒に、その1年後、アヴィラの聖テレジアと会った初ミサの1年後にそれを始めるのですけれども、ドゥルエロいう所で、アヴィラの近くで始めるのですけれども、その時に新しく名前を取りました。マチアではなくて、「十字架の聖ヨハネ」、そして後にはこの名前が全世界に広がるように、知られるようになります。

十字架の聖ヨハネは、この昔のままの厳しい、聖伝の教えの通りの修道生活をしながら、特にイエズス様の玄義について深い黙想をしていきました。アヴィラの聖テレジアと色々な交流がありました。その時に、そしてこの時代に、多くの霊的な本を書いています。これについては後で少し紹介します。

このその後ちょうど10年後、事件が起きました。十字架の聖ヨハネは、いわれもない不当な告発を受けて、そしてトレドにあったカルメル会の修道院の中の牢屋に閉じ込められてしまいました、数ヶ月間。全く不当で、そして十字架の聖ヨハネは弁護する事もできずに、暴力的に牢獄に入れられました。食べ物もほとんど与えられませんでしたし、肉体的な自由もありませんでしたし、霊的にも非常に奪われました。何もしていないにもかかわらず投獄されたこの時に、十字架の聖ヨハネはそれを全て、イエズス様からの愛として受け入れました。

そしてこの時に、大傑作の詩を書くのです。『霊的な暗夜』夜の歌を書くのです。「全てこの地上のこの物質的な、この地上の被造物が私たちに与える慰めや喜びが全くない暗闇の、無い、無い、何にも無い、無い、無い、無い(nada, nada, nada)ところを通して、全て(Todo)である天主にへと至る」という歌を書きます。

そしてその約1年後の8月16日から17日の夜に、ちょうど聖母の被昇天が終わったその夜、ドラマチックに映画を見ているかのように、そこを抜け出す事ができます。そして普通の生活に戻って、アンダルシアで10年、またセゴビアでは修道院長として生活します。その時に、自分の体験を通して霊的な著作を残しています。

1591年には、スペインから新大陸に、メキシコとかアメリカ大陸に多くの宣教師たちが派遣されていました。ですから十字架の聖ヨハネも、「メキシコに行くように」と命令を受けました。そしてその為に色々な準備をしていましたが、その途中、急に病に冒されて、そして非常な苦しみを受けながら亡くなっていくのです。十字架の聖ヨハネはいつも、「自分が死ぬ時には、誰も知らずにひっそりと、苦しみながら息を引き取りたい」と言っていました。

ある時、このイエズス様との霊的な事に関する著作をしている時に、イエズス様がとても喜んで、「おぉヨハネや、お前は非常に私を愛して、よくその事を書いてくれる。報いとして何を望むか?」と言った時に、十字架の聖ヨハネは、「主よ、私は御身の為に苦しむ事と、御身の為に軽蔑される事を望みます」と答えたそうです。

そしてウベダという所で、足に五つの苦しい傷を受けながら、最後の秘跡を受けて終油の秘跡を受けて、告解をして、御聖体を授けられて、そして十字架のイエズス様の像を抱きながら、「御身に我が霊魂を委ね奉る。」そしてまだブラザーたちが朝課を歌っている時に、12月28日幼子殉教者の祝日に、ブラザーたちに、「今日は天で聖務をする」と言って亡くなりました。その十字架の聖ヨハネの体からは、とても良い香りがしたそうです。古来から「聖性の香り高く亡くなった」という表現がありますけれども、「あぁ、まさにこの事だ」と人々は感じた、との事です。

そしてこの十字架の聖ヨハネの体は、今でも腐っておらず、セゴビアの教会にあります。亡くなったのが1597年の事でした。ベネディクト十三世が列聖し、ピオ十一世が教会博士として“Doctor Ecclesiae”神秘的博士、そして教会博士にしました。

⑵十字架の聖ヨハネの書き物は色々ありますが、一番有名なのは4つです。1つは『カルメル山登攀』、第2に『暗黒の夜』、第3に『霊的な歌』、そして『愛の生ける炎』です。

『霊的な歌』というのは特に、牢獄にいた時に書いたものですけれども、「霊魂がどうやって被造物への愛着から清められて、ますます天主様と一致するか、天主へと歩んでいくか」という事を書いています。そしてこの「霊魂が清められて、清められれば清められるほど、天主がその霊魂を愛する愛と同じように、霊魂がその愛で天主を愛するようになる」までの道筋を描いています。

そして霊魂の、『愛の生ける炎』という著作の中では、「霊魂が天主と一致した時にどのようになるか、愛の炎となるか、霊魂が天主への愛に燃えれば燃えるほど、ますます白く輝いて、光を出して、そして清められる、光り輝く、一致する、そして毎日が聖霊の祝日の継続である」という事を描きます。

『カルメル山登攀』では、「霊魂がどのように天主へと一致するか」というその道を、道のりを描くのですけれども、特に『暗黒の夜』では、感覚を奪われ、感覚的な楽しみや喜びを奪われて、受け身的に主によって導かれて、霊魂が主へと一致するまでの事を描いています。

これは私たちに何を教えているかというと、「十字架の苦しみの大切さ」です。イエズス様は私たちのこの世界に福音を、勝利の喜びの訪れを、ニュースを与えました。それは、「罪の結果である死を、復活によって破壊した」そして「私たちの罪を全く赦す」そして「私たちを天国に連れて行く」という良い訪れです、良いニュースです。

私たちにとっての唯一の悪は、「罪」なのです。天主に対して、「嫌だ!」天主の聖心に反対する事です。それで私たちの本当の喜びというのは、命への道というのは、「天主と一致する事」です。「天主の御旨を果たす事」なのです。「しかしそれは、十字架によってなされる」という事を、十字架の聖ヨハネは教えています。


⑶では私たちは今日、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちも十字架の聖ヨハネのように、その御取り次ぎによって、私にとって一番大切なのは何か、「天主との愛の一致だ」という事を、「そこに本当の私たちの喜びがある」という事を、いつも思い出すようにお祈り致しましょう。

それで、「イエズス様はいつも私たちを愛して下さっている」という事を忘れないで下さい。たとえどんな不幸があっても、どこかに引っ越さなければならなくなった、「あぁ、」愛する誰かを失ってしまった、あるいはどうしても何か悪意の為に、投獄された、意地悪をされた、これも全てイエズス様からの愛の表れなのです。私たちをますます清めて、ますます御自分の近くに寄せる為の手段なのです。ですからその事をいつも思い出して下さい。

もしも学校の先生が、「宿題をしなさい」あるいは「こうして下さい」、あるいはお母さんが、「今日はこの仕事を手伝って下さい。」あるいは「さあ、早く寝ましょう」と言ったら、「はい!」と言って下さい。なぜかというと、イエズス様は私たちの日常の色々な出来事を通して、私たちを愛して下さって、私たちの善を計らって下さるからです。辛い事もあっても、それも受け入れて下さい、イエズス様の為に。そうすればそうするほど、私たちはますますイエズス様に近付いて、私たちはますます本当の幸せを、喜びを得るようになります。

最後に、もしもいざとなったら、マリア様の事を思い出して下さい。十字架のヨハネはマリア様によって命を救われました。マリア様はどんな方法でも、私たちを守って下さるからです。

「あなた達は、世の光である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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