Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

フランシスコ教皇様来日準備のための霊的花束(2019年11月3日現在)

2019年11月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんにちは!
2019年11月3日現在東京では、フランシスコ教皇様の来日準備のために次の霊的花束が報告されています。
These are the updated numbers we have received to date from the Tokyo faithful (as of 11/03/2019):

ミサ聖祭 47
聖体拝領 47
霊的聖体拝領 150
十字架の道行 86
ロザリオ(環) 828
小さき犠牲 73
その他 68

多くの場合お祈りを宜しくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父


一体なぜ、私たちはこの地上に生きているのか?その目的は何なのか?この地上の全ての創られたものの本当の意味と価値とは?諸聖人の大祝日のミサの黙想

2019年11月06日 | お説教・霊的講話
2019年11月1日(初金)諸聖人の祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年11月1日、諸聖人の大祝日で、初金曜日でもあります。

今日このミサの直後に、初金曜日の信心である聖時間を行ないましょう。そして御聖体拝領も、初金の信心で御聖体拝領なさって下さい。

今日は、49年前に、聖ピオ十世会が教会法に従って正式に認可されて、創立された誕生の日でもあります。どうぞ聖ピオ十世会の全ての司教様、司祭、修道士、修道女、そして信徒の方々の為に、皆様のお祈りをお願い致します。


「そして私は天に、誰も数える事ができないほどの大群を見た。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日黙示録で、聖ヨハネが天の荘厳な壮大な様子を描写します。

ユダヤの十二部族の印をされた、選ばれた人々をまず見ます。次に、全ての異邦の民から、全ての民族、全ての国民、全ての言葉、全ての血統の人々、あらゆる階級の人々が、誰も数える事ができないほどのものすごい大群が、何億何十億何百億という人々が、手に棕櫚の勝利の枝を持ち、そして真っ白な服を着て、天に、天主の玉座と子羊の前に立って、讃美の声を大きな声で、轟くほどの声で、感謝を捧げている、「天主に、私たちの天主に、そして子羊に救いあれ!」と。

そしてその大きな天群の、感謝の大群がこの声をあげると、その子羊と天主の玉座の前には、天使たちが、無数の天使たちがやはり同じように、それを取り巻いて、そして老人とそして動物が同じように、その天主に、「祝福と、讃美と、感謝と、栄光と、誉れとが、代々にありますように!」と言って、この顔を額突いて、地に平伏して、その天群の大群と共に、天主を讃美する。

この壮大な栄光の風景を、私たちに語っています。

これが天国での現実です。今日の諸聖人の大祝日は私たちに、遂に私たちが至るべき、私たちの辿るべき目的地を見せてくれています。永遠の救い、永遠の命、永遠の至福。その私たちの創造された究極の目的。それに既に到達されている多くの聖人たちの姿。「私たちもこれに加わらなければならない。これに辿り着かなければならない。その為に子羊が屠られた。天主が人となって、私たちの為に、尊い天主の御血を流された。」

今日、この私たちの母なる聖なる公教会は私たちに、慈愛の心を以て、「さぁ、ごらん、子供たちよ。ここにこそ、私たちの究極の目的があるのだよ」と教えてくれます。

一体なぜ、私たちはこの地上に生きているのでしょうか?何でこの日本の地に生まれて来たのでしょうか?なぜここに今、2019年11月1日に、ここに、今ここでこう生きているのでしょうか?その目的は何なのでしょうか?

私たちの目的は、たった1つしかありません。「永遠に幸せになる事」です。諸聖人のこの大群の前に加わる事です。イエズス様の流された、御血のその目的を完成させる事です。

私はつい最近、ある人にこう質問を受けました、「教皇様が、フランシスコ教皇様が日本に来られるけれども、日本にとって、日本にいる私たちにとって、一番大切なイシューとなる事は何なのでしょうか?何だと思いますか?」

これは私たちに聞くまでもありません。私たちにとって、日本人にとって最も大切なイシュー、最も大切な大問題というのは、「私たちの永遠の救い」です。

日本の国民の霊魂が永遠に救われるか、救われないか、これこそが創造の最も大切な問題であって、私たちの人生の最大の問題であって、私たちの人生の唯一の大事業です。カトリック教会のその創立の目的であって、イエズス様の御託身と贖いの神秘の目的であります。

オリンピックの話ではありません。天皇陛下の跡継ぎの問題でもありません。「私たちの霊魂、国民一人一人の霊魂が、永遠に幸せになるか、あるいは地獄に落ちるか」これこそが私たちの最も大切な問題です。

私たちのみではありません。アマゾンにいる人々にとっても同じです。中国に住んでいる人にとっても同じです。アマゾンにいる人にとっての最も大切な目的は、彼らの霊魂の永遠の救いです。森林の保存とか、あるいは大地の環境とか、それは二の次です。

なぜそういうのは二の次なのでしょうか? それが第2のポイントです。

なぜかと言うと、私たちが今この住んでいるこの地上の全てのもの、創られたもの、被造物は、私たちが永遠の命に到達する為の、「手段」に過ぎないからです、「道具」に過ぎないからです。

日本という国家も、あるいはアマゾンという大森林も、あるいは王様がいることも、天皇陛下をいただいていることも、あるいはこの私たちの今住んでいる、持っている、目に見える全ての財産も、自然環境も、全て手段に過ぎないからです。私たちが永遠の命に到達する為に、上手く使うべき手段に過ぎないからです。

その為に天主は、三位一体の愛を込めて、私たちが永遠の幸せに到達する為の手段として、これを私たちに下さいました、「これを良く使うように」と。

「良く使うように」というのは、これを目的と切り離して、これだけを見て、これを保存する、これだけを、というのではなくて、これを「目的の為に使う」という事が良い使い方です。

一番良い使い方、目的に到達する為の使い方をするのが、一番良い使い方です。ですからこそ私たちは、自然を大切に、清貧の精神で使わなければなりません。

しかし、これをあるいは被造物を、天主を忘れて、あるいは天主とは全く無関係に、自立的に、天主の事を無視して、盲目的に、これを、地上の事を愛する事はできません。それは悪い使い方です。「全ての地上のものは、全ての被造物は、目的ではなくて、手段だ」という事を、私たちは一瞬も忘れてはなりません。

最後のポイントです。

では私たちはどうやったら、この諸聖人の後に加わる事ができるでしょうか?諸聖人はどのように天国に行ったのでしょうか?どのように被造物を上手く使って、天国に到達したのでしょうか?

彼らは、イエズス・キリストの後に従いました。私たちが罪を赦されるには、たった1つしか方法がありません。それは、イエズス・キリストです。イエズス・キリストの流された御血です。イエズス・キリストの御恵みを、超自然の御恵みを、私たちが受け取る事です。

主の流された御血によって私たちの罪が赦され、洗礼の秘跡を受ける事によって私たちが赦され、そして超自然の命に参与する事です。私たちの今生きているこの自然では不完全で、更にそれに加えて、超自然の天主の命に与らなければなりません。

私たちのその超自然の命をいつも保つ事ができる為に、通らなければならない道があります。それがイエズス様が通った道であって、諸聖人がやはり通った道であります。ある諸聖人は、ある聖人たちは、殉教の道を辿りました。でも同じイエズス様の道でした。ある聖人は、貞潔の道を辿りました。童貞女。ある聖人は、王として、イエズス様の掟に従いました。しかし全ての聖人たちが通った道は、「十字架の道」でした。

この十字架の道の最高のレベルが、最高の生き方が、福音の勧告であって、「清貧・貞潔・従順」この三つです。

それにより、この私たちの地上の被造物を愛してしまう、あるいは貪欲、富への欲望、あるいは肉体の欲望、あるいは更には自分を天主として、自分の意志を天主よりも更に重んじようとするその誘惑に打ち勝ちます。

「この諸聖人たちが、十字架の道行きを辿った。そしてこれこそが、私たちに与えられた唯一の道である」という事を今日、もう一度確認致しましょう。そしてその道を通ってこそ初めて、私たちは遂に栄光に、復活に、天国の栄光に達する事ができるからです。

今現在では、2つの問題があります。

1つは、私たちのこの「目的」が、この地上での幸せであるかのように錯覚をしよう、としている事。そして天国での目的を思い出させようとする人がますます少なくなっている事。

第2の問題は、十字架の道を通らなければならない、天国に行けない、という事を、誰も語らなくなっている事。それはあまりにも難しいので、私たちはもう何もしなくても、十字架の道をしなくても、既に天国に行って、復活を味わっているのだ、という事だけを強調しようとする人が多くなっている事です。

私たちは今日、諸聖人の歩んだ十字架の道を、もう一度歩む事を決心致しましょう。

そのこれができますように、マリア様にお祈り致します。悲しみのマリア様、汚れなき聖母マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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初水曜日「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します

2019年11月06日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2019年11月6日は、11月の初水曜日(月の初めての水曜日)であります。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


聖ピオ十世会日本 ミサ報告 2019年11月1日~4日 東京・大阪・名古屋 SSPX Japan Traidional Latin Mass at Tokyo, Osaka & Nagoya

2019年11月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪では、11月1日(初金)の諸聖人の祝日の御ミサ、初金の御聖体降福式、2日(初土)の全ての死せる信徒の記念のミサ(3回)、初土の御聖体降福式をすることができました。

東京では、11月3日(主日)のミサと、初主日の聖体降福式と主日の晩課をすることができました。63名の方々がミサ聖祭に参加することが出来ました!

11月4日には名古屋でも聖ピオ十世会としては初めての聖伝のミサを捧げました。今回は27名が参加することが出来ました。次回からは、名古屋である場合にも、東京や大阪と同じようにここで愛する兄弟姉妹の皆様に告知いたします。

今回は初めて、日本では東京でも大阪でも、御聖体降福式の中で、諸聖人の連祷をラテン語で歌う事ができました。特別に教皇様と公教会の為に御聖体の前に跪いてお祈りを捧げることができたことは、幸福でした。

よろずの國の 君たる主イエズス
やまとの國を なれにぞ捧ぐ
きみの聖心に 我等とこしえに
誠をぞ誓わん 主よ王たり給え!

わが日の本の 國をさきわい
神の御國と なさしめたまえ
きみの聖心に 我等とこしえに
誠をぞ誓わん 主よ王たり給え!

闇にむか伏す 敵をくじきて
御旗のもとに 勝ち歌あがる
きみの聖心に 我等とこしえに
誠をぞ誓わん 主よ王たり給え!

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 31人(内、子供4人)
女: 32人(内、子供4人)
計: 63人(内、子供8人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!!
トマス・小野田神父様

いつもお世話になっております。
無事に東京のごミサに与らせていただき、出席できました事、感謝いたします。ありがとうございました。
大変うれしく思いました。
また、名古屋でもごミサが捧げられていることも、とても嬉しいお知らせでした。
これからも多くの場所で聖伝のごミサが捧げられますことをお祈りいたします。

ミサ参列の際に実行の札・約束の札を提出してもらうことをすっかり忘れておりました。
神父様のブログを拝見して、私も10月7日よりカウントしております。
このメールにて今までの分の霊的花束をお知らせしたいのですが、よろしいでしょうか。
わずかではありますが、皆様のご報告に加えていただければ幸いです。
約束の札
霊的聖体拝領 30回
ロザリオ   60環
小さき犠牲  30回

実行の札(11/4までの分として)
霊的聖体拝領 15回
ロザリオ   25環
小さき犠牲  13回

『王たるキリストの祝日』に書かれた娘の手紙が今日届きました。当日の晩課の『彼は権力・力・恐怖によって国を支配したのではない、自分自身が付けられた木によって支配する。』という箇所のイエズス様の優しさに心打たれたようです。(…)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第二十一主日の御ミサをありがとうございました。

今回は1回だけのミサで残念でしたが、名古屋にてはじめてのごミサがありましたことを嬉しく思っています。

この日の聖福音では人を赦すことの大切な意味が語られ、お説教により深く黙想に導いてくださいました。赦さない、赦すという言葉は、口に出していうのは簡単ですが、感情も含めすべてをもって心底ゆるすということが場合によっては難しいです。そして、自分がゆるしていないことを自分でもわかっていないままに、心の中のわけのわからない刺に悩まされていることがあります。

お話を伺いながら、天国にいくためには天の父に赦してもらわなければならず、そのためには赦すという気持ちをもたなければならないとわかりました。

どんなときにも、赦すという気持ちを持てるというのは、きっと聖寵によらなければと思いました。深い罪びとの私には、イエズス様の御血のお恵みを望むしかないとわかりました。その目に見えない御血が流される御ミサに与ることのできることは、この上ない幸福なこととあらためて思いました。

「主の祈り」を祈るとき、いつもぞんざいに祈っていた「われらが人に赦す如く」という言葉が本当はとても大切な意味を含んでいることを教えられました。本当にいつも自分がどれほど赦されたか忘れてしまっています。

イエズス様がこの祈りを「主禱文」に入れて、私たちにいつも祈るよう教えてくださったのは、それだけ大切で重要だからだとあらためて考えさせられております。

残酷な処罰をうけた殉教者が、その苦痛だけでなく、自分を殺そうとする者にさえ悪意を持つことなく恨むことなくすべてを赦してこの世の命から離れられたことについての神父様のお話しも噛み締めました。、

昔の聖人方はよく殉教の望みを持ったと書かれているのを読みます。カトリック信仰を守るために栄えある死を望むのみならず、死ぬときにすべてを赦すことができるお恵みをいただくことも願っていたのでしょうか。それは毎日の祈りの生活のなかで唱えている「主の祈り」を良く祈っていたからなのかもしれないと思いました。彼らには、いつも天上の永遠の世界が見えていたのでしょう。

普段の何気ない生活の中で、自分を苦しめるような嫌なことや理不尽なできごとに遭遇して悲しんでしまうことがあったとしても、なおイエズス様はそれにより天国に行ける資格を一つ多く与えてくださったのだと思えるようになりますように。天国の種をいただいたことを、その相手に感謝するほどまでにはなれないにしても。

そして、苦しみと涙の谷であるこの世の生活のなかでもこのような平安をいただけるのは、まことのカトリック信仰をいただける者が持つことのできる幸せと思いました。

この日は、アマゾン・シノドス会議での偶像崇拝の罪を償うための御ミサでもありました。このニュースにはひどい衝撃を受けました。でも、私たちを聖なる信仰に導いてくださる聖なる司祭様がいらっしゃることをありがたくおもいます。

日本のカトリックが、いつの間にか偶像崇拝を混ぜこむ汚聖にも鈍感になっているかもしれないなら恐ろしいです。でもすべてをご存知の天主さまにより頼み、そのような方々に敵意や悪意は持つことは致しません。赦しを願います。イエズス様はきっとすべてをよくしてくださるに違いありませんから。御ミサに続いてご聖体降福式が行われました。償いの諸聖人の連禱がラテン語で捧げられました。

神父様まことにありがとうございました。
聖マリアの汚れなき御心のうちに


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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