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国家とカトリック教会との分離の始まりと、人間中心主義による民主主義の問題点

2019年11月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、新しい「福音宣教」という概念について指摘し、この方針の変化は第二バチカン公会議にその原因があることを指摘しました。

 何故なら第二バチカン公会議の新しい教えは、新しい人間中心主義だからだと言及しました。

 新しい宗教である民主教とは、別の言葉で言うと、人間の宗教 religion of Man であって、人民による・人民のための・人民の宗教 Religion of the people, by the peoople, for the people です。

 人間中心主義の目的は、人間の尊厳の促進です。つまり、Ad maiorem hominis gloriam (人間のより大いなる栄光のために)です。

 人間中心主義運動は、歴史的に、権威の拒否の運動として始まりました

【国家とカトリック教会との分離の始まり:ダンテ】

人間中心主義が何をやったかというと、まず、世俗の秩序(政治の世界)で、政治権力と教会権力との関係を断ち切ります。国家とカトリック教会との分離です。国家と真の宗教との離婚です。

それまでは、カトリック教会は、国家と教会との協力と調和を訴えて実践してきました。ローマのコンスタンティノ皇帝に現れた啓示は、キリスト教の世界の実践となってきました。コンスタンティノ皇帝は空に十字架の印を見て In hoc signo vinces! という声を聞きます。「この印において勝て!」

政治秩序は、キリストの十字架の印を王の旗に付け、教会の権威に従い、剣を教会の奉仕のために使うことによってのみ、その敵に勝つ力を得ることが出来る。共和国だけの自然の力では、王国だけの内的な自然のちからでは、国を維持し続けることはできない、と。王は、権威を持って、臣下の信仰を促進させなければならない、と。国家は、真の宗教であるカトリック教会を守るべきである、と。

国民がイエズス・キリストに対する生き生きとしている信仰を持つ限り、キリストの代理者である教皇は、国家の上に権威を持ちます。王もそれを尊重しなければならなくなります。そして国民は信仰から王たるキリストの代理者として王を尊敬し、愛国心に燃えることでしょう。

しかし、人間中心主義の結果、カトリック教会の権威から逃れようとする理論が構築されました。その代表がマルシリオ・デ・パドゥア(Marsilio de Padua:1275 - 1342)です。マルシリオは、教会を政治秩序の権威の下に敷こうとする論を宣言しました。

ところで、神曲で有名なダンテ(Dante Alighieri : 1265 - 1321)は、良きカトリック信徒として政治の上に教会の権威があると主張しつつも、人間中心主義者として、政治と教会との両者を分離し、政治に宗教からの自律・独立を与えました。

ダンテの誤りは、世俗国家の目的が純粋に自然的な目的と同じである、としたことです。つまり世俗の国家は超自然と関係ないとしたことです。

確かに、キリスト教的な政治と教会との権威の区分けは、自然の秩序と超自然の秩序との区別にあります。たしかに、自然の秩序と超自然の秩序とが区別される、というところから出発しますが、しかし、だからといってただ単に「世俗国家=自然」「教会=超自然」と同一視することはできません。

例えば、理性的動物としての人間は、肉体と霊魂とに分けられますが、だからといって「肉体=動物」「霊魂=理性」だと同一視することは出来ません。何故なら、人間の肉体がただ単に動物的な目的だけのためにあるわけではないからです。人間の肉体は、理性のために、理性に奉仕するためにも存在しています。

政治も、単に、純粋に自然の秩序のためだけのものではありません。イエズス・キリストが回復させた超自然の秩序のために、超自然の秩序の奉仕のために、教会のために、高められる必要があります。

人間の永遠の命の救いのために、国家は、教会との協力して、調和良く、超自然の目的のために歩調を合わせる必要があります。

何故なら、個人としての人間も、人間の社会も、二つの究極の目的(自然の目的と超自然の目的)があるのではないからです。たった一つ、超自然の目的しかありません。永遠の命の為という目的です。

政治秩序の目的は、究極の目的ではなく、本質的に究極の目的に従属している、中間の目的です。究極の目的の達成ということは、教会の権威に直接に委ねられています。

ところがダンテは切り離せない物を切り離してしまおうとしました。生きている子供を半分に切って、自分の子供だと主張している二人の母親に与えようとしました。教会には恩寵と神学を、国家には自然と哲学を与えよ、と。

こうすることによって教皇の尊厳の体裁を保ちつつ、王には教皇からの自由を与えようとしました。国家は、教会とは独立して、哲学と理性だけで統治されている、神学も恩寵も不要だ、ただし、王は国民の道徳を向上させるために、教会を擁護すべきだ、と。これは、国家と教会との離婚の始まりでした。同じ屋根の下で生活しながらも、別々の部屋で眠る夫婦のようでした。

こうして14世紀から始まった離別運動は、16世紀にはルターによって教会の教える権威からの解放があり、これに続いて、プロテスタント運動の一般化によりキリスト教の王が教会の権威から離れようという運動が定着していきました。

17世紀にはデカルトが、方法的懐疑により、キリスト教神学の権威も捨て、異教のアリストテレス哲学の権威もかなぐり捨てました。

権威が無ければ、社会が成立しません。カトリック教会が維持して支えてきた権威の概念(「全ての権威は天主に由来する」)も現実(「キリスト教王の統治する国家」)も破壊されてしまったので、あたらしい「権威」が必要となりました。

マルシリオ・デ・パドゥア(1275 - 1342)は、国家権力を教会の権威よりも上に立つと主張しましたが、この考えはマキャベリ(1469 - 1527)によって完成されます。つまり、マキャベリによると、まず権力を行使するのが先で、それを正当化するために次に理論を構築すると唱えたからです。

教義の原理や道徳的な責任が存在しない、権威の行使としての政治行動が優先するとされたのです。これが、民主主義の詭弁を隠す理論です。

【人間中心主義による民主主義の問題点】

人間中心主義は、自由を追求します。権威を振り払います。しかし、権威がなければ自由は保つことが出来ません。

人間は権威の束縛から解放されて自由となり、全ての人々が同じく自由気ままに好き勝手なことをしていたら、強い者・力のある者が勝ち、より大きな自由を楽しみ、弱い者・力の無いものは負けて自由を制限されるか奪われてしまうからです。言ってみれば、狼が羊たちを食べてしまうからです。

カトリック教会は、真理のみが自由がある、善を行う自由がある、と教えてきました。しかし、マキャベリ主義は、真理とか善とかを考慮しない、行動の絶対自由を追求するからです。マキャベリストによる、善悪はない、あるとすれば、自由を行うことが善である、です。

善という目的のための自由、善を行い、善を得るための手段である自由が、自由という究極目的にかなうならば善とされるようになります。自由を邪魔するものは悪だ、と。

ルソー(1712 - 1778)によれば、人間は自分の自由を守るために、結社する全員が自分で自分を統治する社会を作る、とします。社会の構成員が一つの共通の意志を持って、自由を維持するという目的をもって、自分で自分を統治する。権威は自分であって、個人個人の意志は、みんなの共通の意志である共同体を構成する、とします。

ルソーは皆の共通の意志・国民の総意である「一般意志」が、共同体を指導すべきだとします。

ところで、この国民の総意は、民主的な選挙と投票で表明されるとされます。選挙の結果として表れたものが国民の総意であるとされると、これに反対するものは、国民の総意に反するものだとされて、全く無効・間違いであるとされます。共同体は、選挙の結果に絶対的に従わなければなりません。共同体に主権があり、その共同体が決定し、共同体がその決定に従うとされるからです。ルソーによれば、国民の総意に反対するような投票は間違っていた、とされます。

つまり、たとえて言うならば、勝てば官軍負ければ賊軍です。結局は、言ってみれば、狼の自由がもっとも強いので、守られます。その時、全ての人々による統治というよりは、狼の統治です。

狼は羊を守りますが、狼自身の利益のためです。

羊は、羊飼いの権威から逃れて自由になろうとして、狼に投票します。そこで、羊飼いの代わりに、狼の支配を受け入れることになります。きっと自分だけは食べられてはしまわないだろう、と思いつつ。

そこで、民主主義には、三種類の態度があります。
●羊の皮を被った狼がいて、民主主義を使って羊の群れを支配しようとします。
●狼の歯を持った羊がいて、草を食べるのはもう飽きた、肉を食べたい、と自分の自由放埒を正当化しようと民主主義を信じようとします(マキャベリスト)。
●単純な羊がいて、真理を知るのを恐れて民主主義を信じようとします。

【第二バチカン公会議は、その人間中心主義により、民主主義的な教会になろうとする】

こうして、人間中心主義から、マルシリオ・デ・パドゥアや、マキャベリを経て、ルソーを通して、現代の民主主義の考えが生まれました。

第二バチカン公会議は、人間中心主義を採用する以上、今後、カトリック教会にも民主主義を適用させようとします。


1830年11月27日:不思議のメダイの聖母の御出現「これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。」

2019年11月27日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、不思議のメダイの聖母の御出現の日です。

心のともしびウェブ・サイトの記事の抜粋をご紹介いたします。【サイトにあった誤字を訂正し加筆しました】

【カタリナ・ラブレ】

 カタリナ・ラブレは学校教育を受ける機会に恵まれなかった農家の娘でした。彼女は1806年に北フランスの片田舎、ファン・レ・ムティエ村に生まれ、9歳の時に母を失いました。この母の死は幼い少女にとって、大きなショックでありましたが、イエズスの母なるマリアに頼ることにより、慰めを見い出しました。母の死を知って、カタリナは、母の寝室の椅子に上り、高い棚においてあった聖母像を取り、それを胸に抱きしめて大声でいいました。「愛する聖母よ、私のお母さんになってください」

 以前より、教会ではマリア様への崇敬の念がありましたが、この感動的な出来事が起こってから、マリアの時代が始まったと言えるでしょう。

 その日から、カタリナは聖母に対して、より深い献身的な愛情を捧げること出来る神秘的な力を持った人になったように思えます。未だ年端もいかない少女であったにもかかわらず、母代りとなって、家族の面倒をみなければまりませんでした。父や3人の弟、1人の妹、それに14人の雇人のために、食事のしたく、裁縫、洗濯などの仕事が彼女に課せられました。これらの仕事をしたうえに、彼女は、毎朝に未だ日の昇らない前に家を出て、5キロ先の教会でミサにあずかる時間や、毎日祈る時間をもみつけたのでした。彼女は特に古くいたんだお告げのマリアの御絵の前で祈ることが好きでした。

【修道生活志願者としてのカタリナ】

 彼女が18歳になり、妹が家事を引き受けられる年齢に達した時、カタリナは、父親に修道院に入る許可を願い出ました。父親は、この願いを許すどころか激しく反対し、彼の弟がパリで経営するカフェへ、ウェイトレスとして送ってしまったのです。父親は、都会での魅惑的な生活が、カタリナに、修道女への望み忘れさせてくれるのではないかと思ったからです。

 しかし、彼の思惑通りにはなりませんでした。彼女の修道生活への望みは強まるばかりでした。

 遂に父親は、彼女の望みを入れて許可を与えました。しかしながら父親の許可だけではカタリナの問題は解決しませんでした。彼女が入会を希望していたパリの愛徳童貞会が申込みを拒んだからです。理由は彼女に教育がないということでした。

 しかし彼女は再び願い出ました。他の修道会の修道女の助けもあって、遂に彼女は教育こそ受けていないが、修道院において、手仕事、祈り、犠牲で奉仕出来ることを総長に悟らせました。

 そして1830年1月22日、彼女は志願者として会に受け入れられることになりました。

 4ケ月後にカタリナは、パリのバク通り140番地で修練女として入会を許可されました。カタリナが御出現を見はじめたのは、この修練時代でした。この修練女としての9ケ月間に、彼女は聖堂に入るたびに、聖体の中に確かに在すキリストの御姿をまのあたりに見たのです。

【聖母マリアの出現】

 このように何度も彼女がキリストの御姿に接したあと聖母マリアの御出現が続きました。カタリナは最初の御出現の様子を次のように語っております。

 「聖ヴインセンシオ(愛徳童貞会創立者)の祝日の前夜(1830年7月18日)、修院長マザー・マルタは諸聖人への信心、とりわけ聖母マリアに対する信心についての話を、私たちにしてくださいました。この話は、聖母マリアにお目にかかりたいという、私の望みを一層強くさせましたので、その夜、それが実現するかもしれないという思いで床についたのです。それは、私が長い間念願していたもの でした」

 「私たちは聖ヴインセンシオの祭服の一部をいただきました。私はその布切れを半分にさき、呑み込みました。そして聖ヴィンセンシオが聖母にお目にかかれる恵みを取り次いでくださることを確信して眠りにっいたのです」

 「11時半に『シスター、シスター』と、だれかが私の名前を呼ぶのを聞きました。はっきり目が覚めた私が声のする方を見ると、白衣をまとった4、5歳の男の子が見えました。その子は私に、『早く起きて聖堂にいらっしゃい。聖母マリアがそこであなたをお待ちです』と言いました。とっさに私には次のような考えがひらめきました。だれかが気付くのではないか、と。子供は答えました。『心配しないで。今は11時半です。みんな眠っています。いらっしゃい。待っています』

 私は子供といっしょに御聖堂の方へ歩いて行きました。非常に驚いたことには、私たちの行く先々には、燈がともされていました。聖堂の入口で私の驚きは頂点に達しました。その子が指先で扉に触れるか触れないうちに、扉がひとりでに開いたのです。すべてのランプとロウソクが燃え立っているのを眺めることはほんとうにすばらしいことでした。それは、クリスマスの深夜ミサを思わせました。しかし聖母の御姿は見えませんでした。子供は私を祭壇のそばにある司祭用の椅子の方へ連れて行き、彼もそこで待っていました。長い時間が経ったと思われましたが、遂にその時がやって来ました。子供は私に告げました。『聖母マリアがいらっしゃいます。ここにいらっしゃいます』

 絹ずれのような音が、聖ヨゼフの御絵のそばの祭壇の方から、こちらへ向かってくるのが聞こえ、一人の婦人が、祭壇の前においてある椅子に、腰をかけるのを見ました。私は、その婦人が聖母マリアであるかどうか疑わしく思いました。ずっと私の側に立っていた子供は再び言いました。『このお方は聖母マリアです』

 この瞬間に、私は自分が何を感じ、何が私を通り抜けたかをいい表わすことが出来ませんでした。なぜなら、私はそれが聖母であると思えなかったからです。その時、その子は、大人のような強い口調でいいました。『そのお方は聖母です』

 私は、聖母の前にひざまずき、手を聖母の御膝にかけたのです。私の一生涯の中で、最も甘美な一瞬が過ぎました。私は何を感じたかを述べるとは出来ません。聖母は、私に霊的指導司祭に対しては、どのようにふるまえぱよいのかを話してくださり、いくつかの話してはならない事柄をつけ加えられました。また、祭壇の下を指さして、『困難に出会った時には、ここへ来て心を開くように、そうすれば必要なすべての慰めを受けるでしょう』とおっしゃいました。

 どのぐらい聖母のもとにとどまっていたかわかりません。彼女がお去りになる時は、先程来られた祭壇の方へ消えて行かれました。

 祭壇の階段から身を起こすと子供は先程の場所におりました。彼は、『聖母は行っておしまいになりました』と私に告げました」

 「私たちは、もと来た道を通って帰りましたが、その道は燈で照らされ、子供ばずっと私の左側につきそっていました。この子供は、私の守護の天使であったと思います。私は、常に守護の天使に聖母を見るお恵みに与かれるよう祈っていましたので、彼が、私の前に現われて聖母のもとへ案内してくれたものと考えております。彼は白衣に身を包み、日光よりも輝かしい神秘的な光を発していました。ベッドに戻ると時計が2時を打つのが聞えました。その夜、私はとうてい眠ることが出来ませんでした」

 この時カタリナは、聖母と共に2時間以上過しました。彼女は、その御出現の時に語られた聖母の御言葉をつけ加えました。聖母は、神がカタリナに特別の使命をお委ねになるだろうと告げられました。またカタリナが属している修道会に関しての御勧告も与えられました。最後に、聖母マリアは、全世界に向けて御忠告なさいました。

 聖母の御言葉は、

 「現代は悪の時代です。世界はあらゆる悲惨な目にあうでしょう。けれど祭壇のもとにいらっしゃい。御恵みを願う全ての者、偉大な者にも、とるに足らない者にも御恵みはそそがれるでしょう」

【1830年11月27日:メダイを作りなさい】

  この最初の聖母御出現は、次にカタリナが述べている不思歳のメダイで有名な御出現の前ぶれでした。

 「1830年11月27日、黙想していました時、私は、聖ヨゼフの御絵近くの祭壇から絹ずれのような音を聞きました。その方を見ますと、聖ヨゼフの御絵の高さ位の所に、聖母がいらっしゃるのが見えました。聖母はお立ちになっていらっしゃいました。彼女は中背で白い衣服を召しておられました。お顔の美しさはたとえようもありませんでした」

 「彼女は地球の半分の上に立っておられ、その御足は、緑色に黄色の斑点を持つへびを踏みつけられておりました。御手は胸の下の位置迄上げられ、小さな金色の十字架を上にいただいた世界を象徴する球をあたかも神にお捧げになっているかのように、大変くつろいだ御様子でお持ちになっていらっしゃいました。

 聖母は先ず御目を天に向けられ、そして地に向けられました。私は、各々の指に三つづつ指輪がはめられているのを見ました。きらきら光る宝石で作られたそれぞれの指輪は、四方に輝き渡り、その光は御足元にまであふれ、聖母の御足も見えませんでした。その瞬間、聖母は御目を下に向けられ、私をごらんになりました。私は次のようなお声を聞きました。

 『あなたが見ているこの球は、世界を、特にフランス、とりわけ個々の人々を象徴しています。

そして、この光は願い求める人々に注がれている恵みを象徴しています』

 これによって私は、聖母に祈ることが間違いでないことがよくわかりました。また、彼女に御取次を願う人々には、豊かに報われることもわかったのです。この時聖母のまわりに楕円形のわくが出来その中には、金文字で『原罪なくしてやどり給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え』と、記されていました」

 「金色の球は消え失せ、御手が差しのべられました。その御腕は御恵みの宝石の重みで下りました。そしてお声がしました。

 『これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。それを首におかけなさい。深い信頼をもってそれを身につける人々は、恵みで満ちるでしょう』

 その時、私には、その絵が裏返ったように見えました。私はメダイの裏を見ました。一本の横木と、十字架をいただい大きなMの字、その下には、二つのみ心、即ち茨の冠でかこまれたイエズスのみ心と、剣でさしつらぬかれたマリアのみ心がありました。そしてその光景は失せました」

 メダイは聖母の御指示にそって作られ、広く普及されることとなりました。このメダイがあまりにも早く広がり、驚くべき恩恵をもたらしましたので、"不思議のメダイ"と名づけられました。

«原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。»

「汚れなき聖母の騎士会の歌」

汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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