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聖カルロ・ボロメオとはどんな聖人だったのか?この聖人が、もしも今生きていたら何をなさるだろうか?

2019年11月13日 | お説教・霊的講話
2019年11月4日(月)司教証聖者聖カルロ・ボロメオのミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教


名古屋における聖ピオ十世会の初めての聖伝のミサに、ラテン語のミサに歓迎致します。

今日、このミサの会場を16時まで借りてあります。
このミサの後に感謝の祈りと、そして簡単な昼食の後、皆さんとお話し会も準備されていますので、もしも時間がある方はいらして下さい。


「良い、忠実なしもべよ。汝の主の喜びの中に入れ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、ここで、名古屋の皆さんのお住まいの所で、聖伝の昔ながらのカトリックのラテン語のミサができる事を、とても感謝しております。本当に素晴らしい機会で、御恵みの日だと思っています。

今日、天主様の御摂理によって、この日は聖カルロ・ボロメオという、ミラノの偉大な大聖人の司教様の枢機卿の祝日ですので、今日この皆さんに、

⑴聖カルロ・ボロメオという、カトリック教会が生んだ偉大な聖人の生涯を簡単に垣間見て、一体どんな人であったのか?という事を知って、「あぁ、こんな人もいたんだ」と思っていただき、

⑵そして、この聖人がやろうと何を、何を一番大切にしていたのか?そしてこの聖人が私たちに、今現代、現代でももしも今生きていたらなさるだろう、というその事は何なのか?という事を黙想して、

⑶最後に、私たちは今日このミサで遷善の決心を、これから私たちはどのように生きていかなければならないのか、という決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1のポイントでは、では今日教会が祝っている聖カルロ・ボロメオ、一体どういう人だったのでしょうか?

この方は、ミラノの非常に高貴な貴族の子供として、1538年に生まれました。16世紀のカトリック教会が生んだ素晴らしい数々の聖人たちの、その輝く一人です。
そして全時代を超える大聖人の一人であります。

幼い時から、「天主の為に一生を捧げたい。イエズス様の為に、マリア様の為に、霊魂の救いの為に、働きたい。」子供の頃から思っていました。もちろん貴族の子供でしたから、政治家になりたいとか、他のその他の野心も簡単にある事もできたのかもしれませんが、彼は違っていました。「霊魂の為に働きたい」と、子供の頃から思っていました。

そしてこのカルロ・ボロメオ少年は、既に23歳の時に、枢機卿に選ばれました。
なぜかというと、このボロメオ家は非常にカトリックの家庭で、その家族たちや親戚たちも多くの人が、司祭や修道者・修道女になっていて、天主に人生を奉献していて、実は叔父さんが、親戚の叔父さんが教皇様だったのです。教皇ピオ四世でした。

そしてこの子供の事を、このカルロの事をよく知っていました、「この子はとても聖なる霊魂である。」そこで、「ぜひ彼の力を借りたい」と、聖カルロ・ボロメオを枢機卿と選んで、そして出身地のミラノの大司教にしました。23歳。

彼の人生は二つに分けられます。

叔父さんのピオ四世の元で、国務長官としてトリエント公会議の真っ最中、その後半だったのですけれども、その「トリエント公会議をどのように適用させるか」それを、「教会をどのようにあるべき姿にするべきか」という事を、ピオ四世と一緒に働きました。

実は、残念ながら実は、ヨーロッパでは13世紀あるいは14世紀の前半、非常にカトリックが熱心でした。
多くの人々が愛徳と信仰の深い生活を送っており、王様でさえも、あるいはローマ皇帝でさえも、あるいは貴族でさえも、清貧・貞潔の聖なる生活を送っていました。「キリスト教世界」というものを作っていました。

そしてその為に天主様は、このヨーロッパを多くの御恵みで、御恵みの雨を降らせて、物質的にとても豊かになりました。光に満ちた、愛に満たされた、とても素晴らしい世界だったのです。

しかし物質に恵まれると、残念ながら、人々の生活は少し、物質の方に目を奪われてしまった点があります。そこで信心が、信仰の生活が、愛徳の生活が、少し冷めてしまった、これは人間の弱さの為に、という事があります。

その為に、ルネッサンスという時代が生まれました。ルネッサンスとは文芸復興と言われていますけれども、特に「ローマやギリシャの、異教の、昔の、古代の文化をもっと大切にしよう」という運動でした。キリスト教とは関係ないような、しかし物質的な芸術や、文芸や音楽や、そのようなものが入ってきました。

もちろんそれらを、カトリックの信仰の表明としてますます良く使うべきだったのです。しかし残念ながら、その物質的な豊かさの為に、世俗の人々のみならず、教会の中でも、その規律が、豊かさの為に緩んでしまった、という残念な側面がありました。

どのように緩んでしまったかというと、私たちのこの地上の、この物質の、一体何の為にあるのか?一体なぜこのような、この豊かな食べ物、あるいは建築、あるいは財産は、一体何の為にあるのか?という「目的」を忘れて、あるいは目的から切り離してしまった、というところに大きな問題がありました。

この全ての地上のものは、私たちの霊魂の為に、霊魂の救いの為にあります。そして霊魂をより良く救う事ができるように、この地上の豊かなものを使ってそれを、救霊を、永遠の幸せの為に行くようにするためです。

地上の全ての富は、地上の美しさ、美は、善は、天主を讃美する為のものであって、天主に感謝する為のものであって、これを使って、永遠の幸せと、永遠の至福と、永遠喜びの中に、永遠の命の中に入る為の道具だったのです。

しかし、その「道具に過ぎない」という事を忘れるようになってしまいました。これが、残念ながら、ルネッサンスの問題の究極の核心でした。その究極の目的を忘れてしまった、というところによって、この結果、色んな影響が後々の世界に及んでしまいます。

聖カルロ・ボロメオは、叔父さんのピオ四世に言いました、「教皇様、教皇聖下、教会は、究極の目的にはっきりと目を向けなければなりません。トリエント公会議がはっきり定めたように、どのような王侯諸国の反対があろうと、世俗の政治権力が何と言おうと、私たちは、『永遠の救霊の為』に力を尽くさなければなりません。教会の目的は、イエズス・キリストという天主が、人となった天主がカトリックの宗教を創った目的は、『霊魂の救い』です。信仰はこの事を教えています。『永遠の命の為に、信仰はある』と。」

そこで教皇様を支えて、カトリック教会の聖なる改革、反宗教改革、プロテスタントのやり方ではない、カトリックらしい、カトリックの信仰に基づいた、修道生活の更なる向上、理想の追求、清貧・貞潔・従順、そしてミサ聖祭のその聖である事、ミサは、イエズス・キリストが捧げられた、唯一、天主の心に召される永遠の十字架のいけにえである事、単なる食事会ではない事、そしてこの私たちの人生の究極の目的は、永遠の命である事、この地上を楽しむ事ではない事、等々、教会のピオ四世の片腕となって、それの良き助言者となって、教会の理想を追求するように、と助けました。

特に有名なのは、『トリエント公会議の公教要理』と言われている素晴らしい本があります。それの編集にカルロ・ボロメオは協力しました。

しかしピオ四世が亡くなると、ミラノの大司教として、第2話の部分は人生の後半には、ミラノで、ミラノの大司教区をあるべき姿にする為に、全力を尽くしました。

どのようにしたかというと、人々の、ミラノの国民を聖なるものとする為に、イエズス・キリストに従うものとする為に、まず自分を、自分の聖化、自分を聖なるものとするように、祈りと犠牲の生活を捧げました。

そして特に、ミラノの人々がより良く信仰を深める事ができるようにと、あるいは聖徳への情熱を高める事ができるようにと、天主に対する愛に燃える事ができるようにやった改革は、神学校を素晴らしくする事です。神学生に良い司祭養成を与えて、聖なる司祭を作る事でした。聖なる司教の養成をする事でした。

そして修道会をたくさん招待して、聖なる修道生活を送る事ができる霊魂たちを招きました。目に見える模範を招きました。

それだけではありませんでした。自分自身も非常に厳格な生活を送りました。私がこのような事を言うのも本当に恥ずかしいのですけれども。

特にこの天主は、人々の目を覚まさせようとして、ヨーロッパに十字架を送りました。当時その十字架の一つは、ペストでした。「黒死病」と言われていて、多くの人が疫病で、伝染病で亡くなっていました。聖カルロ・ボロメオは、彼らそのような貧しい病気の人を訪問して、自分自ら看病して助けて、そして終油の秘跡を授けたりしました。

その人たちを助ける為に、自分の持っていた家具を売り払ってさえしてしまいました。そしてそのベッドも無くなり、何も無くなったので、自分は板の上に寝て、死ぬまで、その苦業の生活をしていました。

「私たちの教会の目的は、霊魂の救いにある」と、「永遠の救いにある」と、「霊魂を勝ち取る為には、祈りしかない」と確信していた聖カルロ・ボロメオの口癖は、「霊魂は、膝によって勝ち取られる」と言って、いつも跪いてお祈りしていました。

献身的な司牧、我を忘れるような奉仕と祈りの生活、愛徳の生活、多くの人々は、カトリックのその理想を、この司教様に、聖カルロ・ボロメオの為に見出しました。ミラノの聖アンブロジオを生み出したミラノの街は、もう一度、聖カルロ・ボロメオの内にカトリック信仰の燃える火を見出しました。

若い人々も公教要理を学び、信仰を深め、そしてイエズス・キリストへの愛を高めていました。

⑵一体今日、今日21世紀において、聖カルロ・ボロメオの人生はどんな意味があるのでしょうか?

聖カルロ・ボロメオは私たちに、変わる事のない真理を教えています、「私たちは、この地上の全てのものを、『道具』として、『手段』として見なければならない」という事です。

「私たちがこの世に生きているのは、永遠の天主の命に参与し、そしてそれを得る為に、『天国』という究極の目的を得る為の手段に過ぎない」という事です。「この地上の命は、永遠の命の為の手段である」という事です。

これがあるからこそ、私たちはこの地上でどのような苦しみがあっても、困難があったとしても、全てが終わった、と思っても、希望があります。

イエズス・キリストの永遠の命の約束があるからこそ、憐れみ深い天主の愛を知れば知るほど、十字架にかけられた、人となって十字架にかけられた天主の、その無限の憐れみと愛を知れば知るほど、この地上があまりにも儚い、この地上は道具に過ぎない、手段に過ぎない、という事を知れば知るほど、私たちは多くの喜びと希望に満たされます。

もしも日本の社会で、多くの方が自殺をするとか、多くの人が障害者を、「もう不要だ」と、あるいは「価値がない」と言ったとすると、それは本当の、この世のこの地上での価値を知らないからです。「私たちは永遠の命の為に生きている」という本当の事を、残念ながら教えられていないからです。

聖カルロ・ボロメオはそれを教えました。そしてその為に、決して忘れられる事のない、その不滅の栄光を今天国で勝ち取って、私たちは今日それを祝っています。

⑶では、私たちはどのような事を、遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

まず今日皆さんに、聖カルロ・ボロメオの教えを、模範からこの一つの事を知って、是非このミサの後家に帰って下さい。その一つの核心というのは、「私たちのこの地上の生活は、永遠の為に生きている。この地上のものは、全く手段に過ぎない。」

そしてこのどのような苦しみがあっても、「もうこれは駄目だ」という悲しみにたとえ浸されたとしても、「もう私の力では駄目だ、できない」と思ったとしても、その時には、カルロ・ボロメオが私たちに教えている「ミサ」の事を考えて下さい。

「天主、私たちを全て創ったこの天主は、ほんの瞬間の、ほんの短い間の手段として、この地上に私たちを生かして下さっている。しかしそれは単なる手段に過ぎない。そしてどれほど私たちを『天国へと導きたい』というその燃えるような愛情は、このミサを見れば分かる。」

「天主御自身が、王の王が、乞食のようになって生まれて、そして私たちの身代わりとして、十字架に付けられ、復活され、そしてその尊き御血を全て流されて、私たちに愛で招いている。私たちをその愛に招いておられる」という事をよく知って下さい。

イエズス様は、私たちを決して忘れる事がない、打ち捨てる事のない方であり、私たちは何百という数え切れないほどの希望の理由があります。

イエズス様の無限の愛は、犠牲は、この十字架のいけにえである「ミサ聖祭」に表れています。

そのカトリックの核心を是非深く心に刻んで、どうぞ今日その帰路に着かれて下さい。そして今日できれば、このイエズス様の燃える愛の結晶である「御聖体」をお受けになって、私たちが永遠の命を受ける事ができるように祈って下さい。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠に生きる。」
「私を信じる者は、たとえ死んでも、永遠に死なない。」

そしてマリア様にお祈り致しましょう。今度日本に教皇様が来られますけれども、教皇のためにお祈りいたしましょう。教皇様が聖カルロ・ボロメオのように、永遠の命ことを語って下さいますように。

聖カルロ・ボロメオのような司祭、あるいは司教様たちが日本に与えられますように、より多く与えられますように、永遠の命の事を語る、永遠の救いの事を、天国の事を、罪について、超自然の事について語る聖職者たちが与えられますように、是非お祈り致しましょう。

「良い、忠実なしもべよ。汝の主の喜びの中に入れ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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カトリック教会は、5世紀頃から既に死者の為のミサを捧げていた。何故、毎年11月2日に全ての死せる信者の為に祈るのか?

2019年11月13日 | お説教・霊的講話
2018年11月7日(初水) 全ての死せる信徒の為の随意ミサ
ミサの前のお話
聖ピオ十世会司祭小野田神父

今日は、死せる信者の為の随意ミサを行ないます。

4世紀にはカトリック教会への迫害が終わって、5世紀頃には既に、この死者の為のミサを捧げていた、という事が記録に残っています。

修道院では、よく毎月1回、1日のそのミサを特に、亡くなった修道士や、修道会の為に寄付してくださったり、お手伝いをして下さる恩人や友人や、その他の多くの支援者の為に、この方々の為にお祈りをしていた、ミサを捧げていた、死者の為のミサを捧げていた、とあります。

その特に修道院で発達したのが、毎年1回、全ての死者の為に祈る、という事でした。

決定的だったのが、フランスのクリュニーの大修道院長オディロンが、「毎年1回、全ての死せる信者の為に祈る」ということでした。その日付さえも、11月2日に決めたのです。

そしてこれが全世界に広がりました。

ですから、この「死者の為にミサを捧げる」というのは、どれほどカトリック的で、どれほど伝統のある事か、という事が分かります。

残念ながら新しいミサでは、死者のミサを、こういうミサで捧げるというのは、新しい信仰の為に、「全ての人はもう救われているのだから、別に必要がない」と、死者の為のミサがあまり重要視されなくなってしまいました。

けれども、私たちはこのミサを捧げる事によって、煉獄の霊魂の為にお祈り致しましょう。



「死者の為のミサ」は「煉獄の霊魂の存在」と「諸聖人の通功」という2つのドグマを教えている。

2019年11月13日 | お説教・霊的講話
2018年11月6日(火)全ての死せる信徒の為の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は全ての死せる信者の為の随意ミサを捧げています。

では、このミサの利益というのは何なのでしょうか?
この「死者の為のミサ」というのは私たちに、2つのカトリックのドグマを教えています。

⑴1つは、「煉獄の霊魂の存在」という事、

⑵もう1つは、「諸聖人の通功」というカトリックの教えです。
今日は、このミサの、「死者の為にミサを捧げる」という事の素晴らしさ、どれほどカトリックの教えに適った、そのカトリックの教えの実りであるか、それの実践であるか、という事を黙想して、

⑶遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1に、この死者のミサは私たちに、「煉獄の霊魂たちが存在する」という事を教えています。

煉獄の霊魂たちというのは、成聖の状態において亡くなった全ての霊魂、本当ならば天国に行くはずの霊魂、主を愛して、主において亡くなった幸せな霊魂ですが、まだ罪の償いが残っており、永遠の償いではない、つまり地獄に行くほどの償いではないにもかかわらず、有限の浄めが残っている霊魂であって、そして天主はあまりにも聖なる方で、聖にして、聖にして、聖なる方であるので、その最も無限の聖なる御方の前に行くには、まだ汚れが残っている、主を愛しているにもかかわらず、償いが残っている、もしかしたら小罪の償い、あるいは地上への愛着、あるいは何らかの不完全性が残っている、その為に、罪の償いを果たさなければならない霊魂たち。

その霊魂たちは、浄めの場所として、一時的に、一定の期間、「煉獄」という所で、その煉獄の苦しみを通して浄められて、罪の償いを果たした後に、ようやく天主の永遠の光に、三位一体に、この世を照らす為に来られた光、イエズス・キリストのその燦然とした輝きを、目と目を合わせて、顔と顔を合わせて、至福直観で、至福を味わう前に浄められるその場所、それが煉獄です。

そこに霊魂たちが罪の償いの為に、ある者は1日、ある者は何年、10年、ある者はこの世の終わりまで、一定の期間、罪の償いの為に時を過ごします。「煉獄でのほんの1分の罪の償いは、その天主の償いの要求の為の厳しさの為に、この地上での100年の厳しい苦行の生活、断食の生活をはるかに超えたほど、辛い、苦しいものである」と言われています。

しかし天主様の聖性は、天主が聖であるというのは、あまりにも聖なる方であるので、1つの汚れさえも、その天主とは相容れる事ができないので、全てを綺麗に、純粋の、金を炎で純金にするように、霊魂たちも炎によって鍛えられて、そして全く綺麗な天主への愛となって初めて、天国に行く事ができます。

この天国に行く為に待っている煉獄の霊魂は、苦しみの教会に属する霊魂たちで、ただ苦しみを捧げる事によって、その苦しみはもはや功徳を積む事ができない苦しみですが、苦しみを御捧げする事によって、愛によって、愛のうちに捧げる事によって、主との愛の一致を待っています。

これを見ると、マルチン・ルターの新しく作られた宗教が、本当の宗教とどれほど違うか、という事を私たちに教えています。マルチン・ルターは、「煉獄など無い」と言います。「あるものは天国か、地獄か、どちらかである。」そして「死者の為に祈る、という事は無駄である」と言います。

「だいたい私たちの祈りにも、善業、ミサというものにも価値も無いし、そして人間は死んだら、天国に行くか、あるいは地獄に行くかどちらか、それしかないので、もしも天国に行くならば、そのような天国に行った人たちの為に祈るというのは無駄であるし、地獄に行ったならば、もう地獄に行ったのだから無駄である。」
ですから、プロテスタントの人は死者の為に祈りません。

プロテスタントの教えはちょうど、バーゲンセールのクリスマスで出てくる太ったサンタクロースのおじさんが、カトリックの教えとは全く関係ないように、あるいは名前はハロウィンだけれども、しかし悪魔の仮装行列とカトリックが関係ないように、名前は自由・平等・兄弟愛だけれども、フランス革命とカトリックの信仰とは関係がないように、プロテスタントの教えも、煉獄を否定し、煉獄の霊魂の為に祈る事を否定し、善業を否定し、煉獄の霊魂の為のミサの功徳を否定する、私たちの善業を否定する事において、本当の教えとは全く違うものです。


⑵第2に、この死者の為のミサは私たちに、もう1つのカトリックの教えを教えています、ドグマを教えています。それは「諸聖人の通功」という、非常に愛と、恵みと、憐れみに溢れる教えです。

これは、「煉獄の霊魂」という存在が、「天主の聖性が、天主が聖であるという事が、あまりにも聖であるという事、そして私たちがあまりにも不完全であるという事を教えていると同時に、それにもかかわらず、私たちはこの煉獄の霊魂たちを、『諸聖人の通功』という教えによれば、助ける事ができる」という事を教えてくれています。

つまり、「私たちはキリストの神秘体の一部であって、その神秘体の一部として、イエズス・キリストの頭の功徳を、ミサの無限の功徳を、私たちは死者の為に適用させる事ができる。私たちの祈りが、煉獄の霊魂の為に役に立つ。長い、本当ならば長い苦しみを煉獄で受けなければならない霊魂たちが、私たちの祈りや、ミサに与る事や、聖体拝領によって、イエズス様の無限の功徳をもっと適用させる事ができて、そして彼らの苦しみを私たちが代わりに短くさせてあげる事ができる。全くないがしろにされた、もう忘れ去られたような霊魂であっても、私たちが彼らを助ける事ができる。水の一杯を与える事ができる」という「諸聖人の通功」という教えです。

天国の聖人たち、これもマルチン・ルターは否定して、「天国の聖人たちが私たちの為に祈る、という事は全くない。」ですから、プロテスタントの寺院には聖人の像もありません。「キリストだけだ。他はいらない。マリア様もいらない」と言うのです。

しかし、カトリックは違います。「諸聖人の通功」という事は、天国の聖人たち、天使たち、マリア様を始め多くの方々が、私たちの為に祈り、私たちは煉獄の霊魂の為に祈り、マリア様も煉獄の霊魂の為に祈り、そして私たちの祈りを、私たちがマリア様に、「彼らの為に、」あるいはイエズス様に、「彼らの為に祈って下さい」と言えば、彼らは多くの助けを得る、という事を知っています。

そして遂に煉獄の霊魂たちが天国に行った暁には、今度は却ってこの霊魂たちが、恩人である私たちに恩返しをしてくれる、そしてもしも私たちが煉獄に行かなければならない時には、おそらく地上の霊魂たちが私たちの為に祈ってくれるだろう、煉獄の霊魂の為に一生懸命祈った霊魂であればあるほど、天主はそのような霊魂たちの為に、私たちの霊魂が煉獄にいる時には、そのような霊魂たちを起こして祈らせて下さるだろう、と知っています。

私たちはそれらを見ると、この世を創った天主は、非常に聖なる方であって、正義なる方と同時に、憐れみに満ちて、そして私たちを憐れんで下さって、愛に満ちて、愛に満たして下さって、そして互いに私たち、イエズス様に繋がれている者たちは、互いに愛し、愛されている、という愛の団居(まどい)、愛の神秘体を作ろうとしている事を、憐れみの神秘体を作ろうとしている事を、非常に実感します。

私たちも今こうあるのは、マリア様が祈り、諸聖人が祈り、天使たちが私たちの為に祈って下さっているからこそです。そのお陰で、私たちは今、こうして生きています。

そして私たちはそれを感じる、ひしひしと実感すると同時に、煉獄の霊魂たちの為に祈ろうと思います。何という美しい、憐れみに満ちた、天主様の偉大な、調和に満ちた創造の計画、憐れみの、救いの御計画でしょうか。カトリックの教えの美しさ、素晴らしさでしょうか。

⑶この死者の為のミサを捧げながら、ますますカトリックの真髄の中に深く入って下さい。

そして願わくは、カトリックの本当の美しい教えが、愛と、憐れみと、正義と、真理に満ちた教えが、日本の方々に伝わりますように、ますます知れ渡りますように。「ハロウィンというのは仮装行列、悪魔の仮装行列ではなくて、諸聖人の通功のことだ」と。

この世で面白おかしく、快楽を追求してグッタリとしている人たちを見て、この世での事に興奮して、そして疲れ切っている人々の顔を見て、「あぁ本当は、この世の為ではなく、永遠の為に私たちは生きているのだ。この世の短い時間を、永遠の為に生きているのだ」という事をますます深く悟る事ができますように、煉獄の霊魂の為にお祈りしつつ、マリア様にその御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「死」とは何なのか?一体、死によって何がどうなるのか?死とどう向き合うか?死を避ける事ができるのか?

2019年11月13日 | 聖伝のミサの予定

2018年11月2日(初金)全ての死せる信徒の記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月2日、死せる信者の記念のミサを行なっています。
このミサの後に教会の習慣に従って赦祷式があります。
今日は同時に初金曜日でもあるので、赦祷式の後に聖時間を行ないましょう。

今日は死者の記念なので、私たちは死について黙想を致しましょう。

⑴一体「死」とは何なのか?一体、死によって何が終わって、どうなるのか?

⑵私たちは死についてどのように対面しなければ、死を取り扱わなければならないのか?私たちはこれを避ける事ができるのか?

⑶そして最後に、遷善の決心を立てましょう。

⑴では、「死」とは一体何なのでしょうか?

公教要理によると、「死というのは、私たちの肉体と霊魂が分離する事」です。

霊魂は、滅亡する事なく、不滅で、永遠に残ります。しかし肉体は腐敗を開始します。死というのはですから、私たちが私たちの霊魂が、この地上から「さらば」と飛び立って行く、その事です。

今まで生きている間、私たちはどれほど楽をしよう、美味しいものを食べよう、綺麗なもので身を飾ろう、健康であろう、名声を得よう、楽な簡単な生活をしよう、面白おかしく、他の人から良く思われて、名誉もあって、権力を持って、お金も貯めて、財産も貯めて、大きな土地を持って、家も建てて、自分の下にたくさんの召使いを抱えて、という事にあくせくしてきました。

そして例えほんのちょっとの利益の為なら、そのたった何円の為ならば、汗水垂らして、そして夜も寝ずに、どんな辛い事も耐え忍んで、「何か利益がないか」「何かこの財産を得る事ができないか」「何か楽をする事ができないか」としてきました。

「良いお医者さんがいる」と言えば私たちはそこまで行き、何㎞の旅もして、そして「良い、美味しい食べ物がある」と聞けば、その噂に従って地の果てまでも行き、外国旅行をして「こんな所も見てきた」と、自慢話もしてきました。

しかし、今までやってきたそのような全てに、「さらば」という日が、それが死の時です。もはやその時には、私たちの頭は頭痛がして、体は冷たくなり、手も足も麻痺して、感覚はなくなり、目も見えなく薄暗くなり、息をするのも苦しい、咳は出る、熱が出る、体は動かない、痛い、苦しい、その時に、「さぁ宝くじが当たりましたよ。」「さぁ皆があなたの事をこう褒めていますよ、こんなことを言っていますよ。」「さぁ、さぁ」と言ったところで、それが私たちにとって何の利益になるでしょうか。

これからそういうものに「さらば」と言って、この地上を出て行かなければならない時に、100万坪の土地も、何件もの高層ビルも、マンションも、ロールス・ロイスも、美味いお蕎麦も食べ物も、あるいは人が何と言おうと、「あぁ、今度は社長になりましたね。」「理事長になりましたね。」「あぁ、総理大臣だったんですか。」それらも、この地上を去ろうとしている時に、一体私たちにどんな価値があるのでしょうか。

その時に、本当に私たちにとって価値があるのは何なのでしょうか?

私たちは、この地上の事を得ようと一生懸命になるがあまり、どれほど天主の掟をないがしろにしてきた事でしょうか。その私たちの利益を得る為に、嘘はついた、盗みはした、人には意地悪をした、損害をかけた。しかしそれらが一体、永遠の為に何の役に立ったのでしょうか?今、天主の前に死を迎えて、これからそれらに「さらば」という時に、一体それらがどのような価値を持つのでしょうか?

その時に、祈りに費やした時間、イエズス様と共に過ごした時間、イエズス様の為に捧げた良い業、苦しみ、イエズス様の苦しみに同情して流したその熱い涙、マリア様に捧げた清い祈り、ミサに与ったその時間、黙想に費やしたその15分は、「あぁ、それをやっていて良かった。あぁ、何でもっとそういう時間の為に、その為に時間を費やさなかったのか?」

「何であの時にYouTubeを見なければならなかったのか?」
「何の為に、下らない事に神経を費やし、『あぁ、あそこのポイントカードが、あそこのお店で買っておけば何ポイント貯まったのに!』とか、何でそういう下らない事に、あっという間に過ぎる事に神経を使っていたのか。」
「何であんなものに時間を費やしたのか。もはやこれで全てにおさらばだ。もうイエズス様の為に、天国の為に、永遠の為に、準備する時間はもうない。」

「あぁ、もっと1日でも長く生きる事ができたら、その為に使いたかったのに。」

もう息も絶え絶え、永遠の世界に入らなければならない、それが死です。

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⑵第2の点には、では私たちは死の時に、一体何が起こるのでしょうか?この世に「さらば」と言うだけなのでしょうか?

それだけではありません。私たちにとってその瞬間、永遠が始まります。私たちの霊魂が肉体を離れた時に、私たちの永遠が決定します。永遠の喜びか、あるいは永遠の死か永遠の苦しみか。

ちょうど木が斜めに立っていた時に、それを切れば、反対側には倒れません。もしも私たちが成聖の状態で死を迎えるならば、そのまま天国に行きます。あるいは浄めが足りなければ煉獄に、浄めが済むまで煉獄に留まり、その後に天国に行きます。

しかし大罪が1つでもあると、たった1つでも、ほんの1個でもあると、残念ながら私たちは、天国に行く全てを失ってしまいます。地獄に行かなければなりません。永遠の火に焼かれなければなりません。たった1つです、たった1つです。

なぜかというと、たった1つでも、私たちにとって成聖の恩寵を失わせるに十分だからです。私たちはその罪を赦される機会と、チャンスと、多くの御恵みが与えられています。しかし、「あぁ、いいわ」「あぁ、どうせ後がある」「あぁ、また次の機会に」等と、「あぁこれくらい」「これくらい」という事で、いつ何時、私たちがその、その思いもかけない時に、その時を迎えるかもしれません。

「死」というのは、いつ、あるいはどこで、あるいはどのような方法で、あるいはどんな状態において起こるか、私たちには知る事ができませんが、1つだけ知っているものは、「必ず私たちは死ななければならない」という事です。これを信じていようが、信じていまいが、同意しようがしまいが、好きだろうが好きでないだろうが、必ず私たちに、皆さんと私に、必ず起こらなければならない、もしもそのようなそれを避ける事ができない、現実なのです。どのようにしてもそれを避ける事ができません。永遠の始まりは、いつか、どこでか、どのような方法でか、必ず来ます。

私たちはですから、それを準備していなければなりません。

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⑶第3に、では私たちはどのように、死に面したら、死を取り扱ったら良いのでしょうか?

聖ベルナルドは、「もしも私たちが死の事をよく黙想するならば、良い生を良い人生を送る事ができる。しかし死の事を思わないならば、良い人生を送る事ができない、良い死を迎える事ができない。」

イエズス様も仰います、「人の子は盗賊のように、泥棒のようにやって来る。だから準備しておれ。」(マテオ24章43節)

同時に、信仰の内に亡くなった全ての死者の為にお祈り致しましょう。彼らが一刻も早く天国に行きますように、煉獄での浄めを済ます事ができますように。

「煉獄でのほんの少しの時間は、地上での何年何十年もの苦行よりも恐ろしい、厳しい」と言われています。多くの霊魂が早く天国に行く事ができますように。

そしてファチマのマリア様の御助けによって、地獄に落ちる霊魂が、今もう落ちてしまった霊魂は私たちはもうどうする事もできませんが、今死につつある霊魂、あるいは今生きている霊魂たちが地獄に落ちないように、彼らが天国に導かれますように、イエズス様に特別の御憐れみを、イエズス様の聖心に乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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