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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年11月17日:聖霊降臨後第二十三の主日の聖伝のミサのラテン語・日本語の対訳テキストをご紹介いたします

2019年11月16日 | カトリックとは

ミサ聖祭 : 天主がわれらに対して行い給うたことを見れば、天主の御旨こそ、平和と愛以外の何ものでもないことを知るであろう。典礼暦年の終りは近い、キリストの再臨とその審判の日も近い。われらは、十字架によって、復活をうける。

主は言い給う。「私は、平和の考えを考えるのであり、苦しみの考えではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から元に連れ戻そう。」主は、まだ、裁き主ではない。平和を与える方、救い主だ。本当の平和、永遠の至福を与える方だ。

私たちは祖国(天国)に戻らねばならない。「私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。」私たちのこの地上での囚われの身から主は解放してくださる。逐謫の身である私たちは、聖父と聖母とに見えることが出来る!逐謫の時はもうすぐ終わる!天のエルサレムに戻る日は近い!「主よ、願わくは、御民の罪をゆるし給え。われらの弱さにより得た数々の罪の鎖より、御身の優しさを持って解放し給え。」「我は、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る!」

聖パウロに倣おう。聖パウロがしばしば話し、また涙とともに訴えることを聞こう。多くの人は、キリストの十字架の敵として生活している。かれらの行先は亡びである。かれらの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。ヒューマニストたちだ。

しかし、私たちは、天主の御憐れみと御恵みにより、十字架に付けられたイエズス・キリストを愛するキリスト教信者だ、私たちは、天からこられる救い主イエズス・キリストを待っている。イエズス・キリストは、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。「我は、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る!」

聖パウロは、私たちに呼びかけている。「私の慕い愛する兄弟たちよ!私のよろこび!私の冠よ!愛するものよ!」と。本日、書簡において、聖パウロが、キリストの十字架を愛せよとわれらにすすめるのは、キリストへの愛を増せということに他ならない。天国に至ったその時、私たちはこう歌うだろう。「主よ、御身は私たちを苦しめる人々から私たちを解放し給うた。御身は私たちを憎む人々を恥ずかしめ給うた。私たちは代々に御身の聖名に賛美するだろう!」

そうだ。キリスト教信者にとって、死は、復活への待望における眠りだ。キリストの言うとおり「ねむっているのだ」。人々はあざ笑うだろう。しかし、最後の日、イエズスがこの地上にもう一度来られて、私たちは起きあがらせる、永遠の命の為に復活させる。「我は、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る!」



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II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ier. 29,11,12 et 14. 入祭文  エレミア書、29ノ11、12、14
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : invocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主は言い給う。私は、平和の考えを考えるのであり、苦しみの考えではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から元に連れ戻そう。
Ps. 84, 2. 詩篇、84ノ2
Benedixísti, Dómine, terram tuam : avertísti captivitátem Iacob. 主よ、御身は、御身の地(主の民)を祝福し給うた。御身はヤコブから捕囚を避けさせ給うた。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : invocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主は言い給う。私は、平和の考えを考えるのであり、苦しみの考えではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から元に連れ戻そう。
Oratio. 集祷文
Absólve, quǽsumus, Dómine, tuórum delícta populórum : ut a peccatórum néxibus, quæ pro nostra fragilitáte contráximus, tua benignitáte liberémur. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御民の罪をゆるし給え。われらの弱さにより得た数々の罪の鎖より、御身の優しさを持って解放し給え。天主として・・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Philippénses. 使徒聖パウロの、フィリッピ人への書簡の朗読
Philipp. 3, 17-21 : 4, 1-3. 3ノ17-21。4ノ1-3
Fratres : Imitatóres mei estóte, et observáte eos, qui ita ámbulant, sicut habétis formam nostram. Multi enim ámbulant, quos sæpe dicébam vobis (nunc autem et flens dico) inimícos Crucis Christi : quorum finis intéritus : quorum Deus venter est : et glória in confusióne ipsórum, qui terréna sápiunt. Nostra autem conversátio in cælis est : unde etiam Salvatórem exspectámus, Dóminum nostrum Iesum Christum, qui reformábit corpus humilitátis nostræ, configurátum córpori claritátis suæ, secúndum operatiónem, qua étiam possit subícere sibi ómnia. Itaque, fratres mei caríssimi et desideratíssimi, gáudium meum et coróna mea : sic state in Dómino, caríssimi. Evódiam rogo et Sýntychen déprecor idípsum sápere in Dómino. Etiam rogo et te, germáne compar, ádiuva illas, quæ mecum laboravérunt in Evangélio cum Cleménte et céteris adiutóribus meis, quorum nómina sunt in libro vitæ. 兄弟たちよ、私に倣え。あなたたちの模範である私たちにしたがって生活している人々を見よ。私がしばしばはなし、いままた涙とともに訴えることであるが、多くの人は、キリストの十字架の敵として生活している。かれらの行先は亡びである。かれらの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。しかし、私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。かれは、万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。そこで、私の慕い愛する兄弟たちよ、私のよろこびと冠なる者よ、愛するものよ、主において固く立て。私は、エヴォディアに勧め、シンティケに勧める。主において仲よく生きよ。私のまことの仲間であるシジゴスに頼む。かの女たちを助けよ。いのちの書に名をしるされているクレメンス、その他の協力者と同様に、かの女たちも、福音のために私とともに戦った人々だからである。
Graduale. Ps. 43, 8-9. 昇階誦 詩篇、43ノ8-9
Liberásti nos, Dómine, ex affligéntibus nos : et eos, qui nos odérunt, confudísti. 主よ、御身は私たちを苦しめる人々から私たちを解放し給うた。御身は私たちを憎む人々を恥ずかしめ給うた。
V/. In Deo laudábimur tota die, et in nómine tuo confitébimur in sǽcula. 私たちは天主において一日中賛美されるだろう。そして私たちは代々に御身の聖名に賛美するだろう。
Allelúia, allelúia. V/.Ps, 129, 1-2. アレルヤ、アレルヤ、 ℣.詩篇、129ノ1-2
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam. Allelúia. 深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦
Matth. 9, 18-26. 9ノ18-26
In illo témpore : Loquénte Iesu ad turbas, ecce, princeps unus accéssit et adorábat eum, dicens : Dómine, fília mea modo defúncta est : sed veni, impóne manum tuam super eam, et vivet. Et surgens Iesus sequebátur eum et discípuli eius. Et ecce múlier, quæ sánguinis fluxum patiebátur duódecim annis, accéssit retro et tétigit fímbriam vestiménti eius. Dicébat enim intra se : Si tetígero tantum vestiméntum eius, salva ero. At Iesus convérsus et videns eam, dixit : Confíde, fília, fides tua te salvam fecit. Et salva facta est múlier ex illa hora. Et cum venísset Iesus in domum príncipis, et vidísset tibícines et turbam tumultuántem, dicebat : Recédite : non est enim mórtua puélla, sed dormit. Et deridébant eum. Et cum eiécta esset turba, intrávit et ténuit manum eius. Et surréxit puella. Et éxiit fama hæc in univérsam terram illam. その時、こう話しておいでになると、一人の司が近よってひれ伏し、「私の娘が、いま死にました。ですが、あの子のうえに、あなたの手をのべにおいでくだされば、あの子は、生きかえりましょう」といった。イエズスは立ちあがって、弟子たちをつれて司についていかれた。すると、十二年前から出血症をわずらっていた女が、イエズスのうしろから近づいて、そのお服の房にふれた。そのお服にふれただけで、私はなおるにちがいない、と心にいいきかせていたからである。イエズスは、ふりかえって、かの女を見て、「娘よ、信頼せよ。あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。女は、このときいやされた。さて、司の家についたイエズスが、笛吹きと、さわぐ人々とをみて、「みなさがれ。娘は死んではいない、ねむっているのだ」と、おおせられると、人々はあざ笑った。群衆を追い出してから、イエズスがはいって、娘の手をおとりになると、娘は起きあがった。この噂は、その地方一帯にひろまった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 129, 1-2. 奉献文 詩篇、129ノ1-2
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam : de profúndis clamávi ad te. Dómine. 深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。
Secreta. 密誦
Pro nostræ servitútis augménto sacrifícium tibi, Dómine, laudis offérimus : ut, quod imméritis contulísti, propítius exsequáris. Per Dóminum nostrum. 主よ、我らの服従の増加ために、われらは御身に讃美のいけにえをささげ奉る。そは、御身が功徳無き我らになさり給いしことを、御身が憐れみ深く完うし給わんためなり。天主として・・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 序誦  三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Marc. 11, 24. 聖体拝領誦  マルコ、11ノ24
Amen, dico vobis, quidquid orántes pétitis, crédite, quia accipiétis, et fiet vobis. 真に私はあなたたちに言う。あなたたちが祈って願うことは何であれ、あなたたちはそれを受けるだろうと信じよ。そうすればあなたたちにそのようになるだろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Quǽsumus, omnípotens Deus : ut, quos divína tríbuis participatióne gaudére, humánis non sinas subiacére perículis. Per Dóminum. 全能の天主よ、御身は、天主の玄義への参与によりよろこぶを与え給う、願わくは、人間的な危険に陥ることを許し給うなからんことを。天主として・・・・。

聖母マリアの代わりにパチャママ?!― 祈りと償いの呼びかけ

2019年11月16日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

指導司祭の手紙第15号
聖母マリアの代わりにパチャママ?―償いの呼びかけ

愛する無原罪の聖母の騎士の皆さん!

アマゾン・シノドスのあと、聖ピオ十世会総長は祈りと償いを呼びかけました。「最近のアマゾン・シノドスは、恐るべき偶像崇拝の儀式が、かつてない、また信じられない方法で、天主の聖所に侵入した忌まわしい出来事の舞台となりました」。

裸の身ごもった女性の人形がシノドスに持ち込まれました。ローマにある、聖母に奉献された教会の中で、それらはご聖体の前に置かれ、何度も敬われたのです。これらの像は、先住民の神であるパチャママを表しています。


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この冒涜はまた、アマゾン・シノドスに関するカトリック信者に向けた公開書簡の中で、アタナシウス・シュナイダー司教によっても非難されました。


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これら第一戒に反する罪に加えて、これらの行為はとりわけ忌まわしいものでした。すなわち、私たちの母にして元后である聖母への侮辱です。パチャママは、インカの人々によって太陽神の母として礼拝されていたのであり、そのため先住民の異教の「神の母」のようなものです。ですから、シノドスの期間中には、パチャママが一種の聖母の代わりとして使用されたと言うこともできるでしょう。

このシノドスの保護聖人としてマリア―特にラテンアメリカの回心を実現してくださったグアダルーペの聖母―を選んで崇敬する代わりに、パチャママが選ばれ、このように偶像が敬われたのです。行われたさまざまな儀式が偶像崇拝だったという事実は、以下の出来事によって明確に、かつ疑う余地なく証明されています。

ヴェローナのある小教区では、ミッションのための徹夜の祈りの間に、ある司祭がパチャママに対する祈りを読み上げました。その祈りは、「良き母であるパチャママよ、われらをあわれみ給え! われらに恵みを与え給え!」、というものでした。ところが、この祈りは、イタリアの教皇庁宣教事業団「ミッシオ」によって発行されたということが判明したのです。


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シノドス期間中、参加者たちが教会に対して「女性にして母なる顔」を与えることを望んだということが聞かれました。しかし、それは私たちの天の母ではありませんでした。

聖母はすでに第二バチカン公会議においておとしめられています。第二バチカン公会議のとき、すべての恵みの仲介者としてのマリアの教義は、エキュメニズムという黄金の子牛のために犠牲にされました。さらに、もともと草案されていた教令を捨てることによって、聖母の役割は全般的に可能な限り縮小されました。祝せられし童貞は、教父たちを照らすため、「もうぶどう酒がありません」と御子に助けを願うために、公会議の中心にいらっしゃることはなくなりました。

ですから、ローマの高位聖職者たちは、自分たちだけで行動しなければならないようになってしまい、敵の誘惑を受けやすくなってしまったのです。聖母がラ・サレットやファチマで緊急に警告なさった背教の後に、今や偶像崇拝が続いているのです。

無原罪の聖母の騎士会は、私たちの母である聖母のほまれを守るよう特に呼ばれています。そもそも騎士たちのあいさつの呼びかけは、「無原罪の聖母にほまれあれ」であり、元后をお守りすることは騎士としての義務だからです。こういう訳で、私たちはパリャラーニ神父の呼びかけに加わり、特にマリアの汚れなき御心に対する侮辱を償いたいと望みます。

どうすれば、この償いをすることができるでしょうか?

1.私は、来る初土曜日(12月7日)を特別に守り、その日を、この意向で、償いのわざとして捧げるように皆さんに呼びかけます。

その日は、私たちMIの保護聖人の日である無原罪の御孕りの祝日の前日の12月7日に当たります。イエズスとマリアがお望みになったこれらの日々の償いが、今日ほど正確かつ重要であったことはかつてありません。

この信心を、新たな熱意をもって実践しましょう。聖体拝領をお捧げし、毎月聖なる告解に行き、聖なるロザリオを祈り、マリアのそばで15分間ロザリオの玄義を黙想しましょう。また、このすべてを、マリアをお慰めするために、マリアの汚れなき御心に対して犯される罪に対する犠牲と償いの精神をもってお捧げしましょう。


2.ファチマの天使の祈りは、今、かつてないほど重要をもっています。
「わが天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る! われ信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々に、御身に御赦しを願い奉る」。
この精神で頻繁にこれを祈り、天使が三人の幼い牧童に言ったことを覚えておきましょう。
「あなたたちができるすべてのことを犠牲とし、それを天主の怒りをかう罪の償いのため、また罪びとの回心のために天主にお捧げしなさい…まず第一に、主があなたたちにお送りになる苦しみを従順に受け入れ、耐え忍びなさい」。

3.ロザリオ
「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、権力と権威、この世の闇の支配者、悪霊に対するものである」(エフェゾ6章12節)。ロザリオこそが、私たちの時代の悪魔的混乱に対する解決法なのです。

聖ヨハネ・ボスコは1862年の被昇天の祝日の前日に一つの夢を見ました。それは、悪魔が大きくて恐ろしい蛇の形を取って彼の前に現れ、その悪魔を打ち負かす唯一の方法は、「めでたし」あるいはロザリオであった、というものです。ですから、ロザリオに忠実に留まり、まさに聖所でのこれらの忌まわしい出来事を償うため、ローマの回心のため、そしてとりわけ教皇のためにロザリオを祈りましょう。

さらに、私は、無原罪の聖母の騎士の皆さん全員に対して、12月8日に無原罪の御孕りに対して自らの奉献を更新することを、心を込めて呼びかけます!

この危機の時代において、私たちは、すべての恵みの仲介者にしてサタンのかしらを踏み砕くお方であるマリアに私たち自身を完全にお委ねしていること、また私たちがマリアのご保護のマントの中でマリアの道具としてマリアのために戦っていることを、再確認したいと望んでいます。

私たちの熱意を深め、よみがえらせるため、私は皆さんがこの祝日のために、小冊子「Consecration to the Immaculate Conception(無原罪の御孕りへの奉献)」を使って13日間の準備をするようお勧めします。私たちは、不思議のメダイの祝日の前日である11月26日にこれを始めます。

MIで行われるこれらのわざを通じて、私たちは聖母をたたえ、その汚れなき御心をお慰めし、御母が侮辱されることに耐えることのできない御子の正義の御怒りをおなだめしたいと望んでいるのです。


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無原罪の聖母をたたえて!

私の司祭としての祝福をもって
カール・シュテーリン神父
2019年11月13日、ワルシャワにて

十十十十十十十 小野田神父から一言 十十十十十十十


シュテーリン神父様の言われる無原罪の御孕りの祝日の準備(不思議のメダイの祝日の前日である11月26日から13日間)のための、小冊子はまだ日本語には翻訳されておりません。
そこで、私たちは、その代わりに、各人が13日間、ファチマの天使の二つの祈りを三回づつ繰り返すことをするようお勧めします。

「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

12月7日(初土)には、大阪(午前10時30分)と東京(午後6時)で聖伝のミサがあります。
12月8日(聖母の無原罪の御孕り:主日)には、東京でミサ(午前10時30分)があります。

2020年5月3日(夕方)から6日(お昼)まで、秋田の聖母に巡礼を行います。罪の償いのために、悔い改めの精神で行います。多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願いいたします。
日本における聖ピオ十世会の修道院設立のお恵みを得るため、また、聖ピオ十世会創立50周年を感謝するために秋田巡礼を捧げましょう。

【参考資料】
Bishop Schneider: Pachamama idolatry during Amazon Synod has its roots in Vatican II Council
シュナイダー司教「アマゾン・シノドスの間に行われたパチャママ偶像崇拝は、その根源に第二バチカン公会議がある。」

野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで思ったこと:人間中心主義とは? 権威の拒否の運動

2019年11月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで、思ったことを書き始めました

前回までに書いた私の主張は、次の通りです。

●司教団のいう「福音宣教」と、私たちが理解しているような福音宣教とは、意味が違うと考えると、今世界中のカトリック教会で起こっていることについて、よりよく説明がつく。
●昔からカトリック教会は、天国を目指して、天主を目指して福音宣教を行ってきた。しかし、司教団のいう新しい「福音宣教」は地上を目指している。人間の高揚を目指している。
●今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だ。
●パウロ六世自身が、第二バチカン公会議は新しい人間中心主義を取った、と認めている。教会は新しい態度を取って「全く人間の為に人間に奉仕すると宣言する」と。
●何故なら、第二バチカン公会議によれば、人類は新しい時代に突入した、従って、人間に奉仕する教会も新しくならなければならない、とされたから。

ところで、第二バチカン公会議のためのカトリック教会での変化により、教勢が停滞しだしたことは、次のカトリック信徒の数の動向からも分かります。


野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」にあった統計と、日本カトリック中央協議会のウェブ・サイトに掲載されている統計から、上のグラフを作りました。

【人間中心主義(ヒューマニズム)運動とは?】

では、人間中心主義とは、何でしょうか? 人間中心主義運動は、歴史的に、権威の拒否の運動として始まりました。

16世紀に、まず、カトリック教会の教義を教える権威から解放されようとして生まれました。カトリック神学者の注解なしにまた聖伝なしに、聖書のみによることによって信仰を権威から解放しようとしました。さらに人間理性をキリスト教から解放して、古代の異教哲学や文学に戻ろうとしました。(このようなヒューマニズムの運動は、日本語で「人文主義」とも訳されています。)

この結果、カトリック教会の権威が蔑ろにされ、その規律からのがれようとする運動が始まります。残念なことに、キリスト教の王たちが最初にそれをやり出しました。この悪いやりかたが模範となって、16世紀のプロテスタント宗教革命運動で一般化します。

17世紀にはデカルトが「方法的懐疑主義」で、以前の教えの権威を疑い、それを捨てます。キリスト教神学者であろうが、異教の哲学者であろうが、過去の教えの権威に敬意を払うことを拒否します。昔から伝えられた教えに敬意を払うということは古代から人類が行ってきた特徴だったのですが、それを捨てます。全てを疑います。

18世紀には、人間中心主義の結果として生まれた啓蒙主義思想に染まった革命家たちが、王の首をギロチンにかけ、キリスト教政治秩序の権威を否定するに至りました。

しかし、権威が無ければ、社会が成立しません。カトリック教会が維持して支えてきた権威の概念(「全ての権威は天主に由来する」)も現実(「キリスト教王の統治する国家」)も破壊されてしまったので、あたらしい「権威」が必要となりました。現代的な権威が考え出されます。それが民主主義です。

政治権威が教会の教導の権威から逃れることを正当化するために作り出されたのがマキャベリの理論でした。つまり、真理の教え(教会)がまずあって、それに従って、行動する(国家)という順番を、ひっくり返したのです。まず権力を行使するのが先で、それを正当化するために次に理論を構築する、と。教義的な原理もなく、道徳的な責任もない権力の行使、これを隠すマスクとして作られた詭弁が民主主義でした。ひとたび選挙で選ばれれば、政治家は失敗をしても責任をとる必要がありません。選んだ選挙民が悪いのだ、と言えば良いからです。これが現代のメンタリティーです。

第二バチカン公会議は、権力の執行を現代のメンタリティーに合わせようとしました。しかし、第二バチカン公会議により教会の位階秩序的な権威の行使が弱まると、いままで教会が教義的にも精神的にも支持してきた多くの伝統的な権威は、教会の権威と共に失墜していきました。

【第二バチカン公会議の新しい方針、新しい方向付け】

今まで、カトリック教会は天主から頂いた賜物を天主への奉仕のために使うことをその方針としてきました。全てを尽くして天主を愛するために。人間の尊厳は、天主からの超自然の成聖の恩寵の状態(これこそ計り知れない賜物!)にあると、してきました。

しかし第二バチカン公会議以後は、天主からの賜物を全て人間の奉仕のために投資します。人間の価値は、自然な人間的な価値(役に立つか否か・有用か否か)だけで判断されるようになりました。

聖伝のカトリック教会は、人間が自分を忘れて、全く天主に立ち戻り讃美と礼拝をすることを教えてきました。全ては天主に向かっていました。

ところが、第二バチカン公会議は全ては人間に向かい始めます。人間は何と美しいことか、という新しい「自覚」をもって、人間に満足した眼差しを向けて、そこに留まります。ルチフェルの罪は、正に、自分の素晴らしさにうぬぼれて天主に従うことを拒否したことにあります。第二バチカン公会議も、今後、人間を信じ、人間に希望し、人間を愛し、人間に奉仕することを宣言します。

天主のカトリックの宗教はキリスト教と呼ばれるに相応しく、天主教とも呼ばれていました。これからは「ヒューマニズム(人間中心主義)」とかの名前で呼ぶのがますます相応しくなっていますし、民主教とも呼べるものになりつつあります。

【新しい福音宣教】

カトリック教会は、人間を崇敬する自分が何であるかを定義して、外部に対しては「秘蹟」であると定義します。

自分の内部に対しては、主に二つのキーワードを使います。その構成を意味する目的では「神の民」を使い、その機能を意味する目的では「コムニオ:交わり」を使います。
「神の民」は、教会憲章に出てくる表現です。「コムニオ:交わり」は、公会議後に使われ出した表現です。

ですから、新しい福音宣教は、人間を宣教することにあります。人間がより人間らしくなるために、この地上に生きる人間のことを宣べるのです。この世に、真の人間となるにはどうしたらよいかを宣べ伝えるとされます。

ですから、司教団は、教会内に向かっては、カトリックの霊性を宣べるかもしれませんが、しかし、教会の外に向かっては、マスメディアなどを使って、倫理と人間社会学を宣べる使命があるとされるのです。

人間が究極の目的となり、公会議は「人間を促進させる」ことを追求しました。パウロ六世は、公会議の閉会の講話でそう断言しました。カトリックの促進でもなければ、義人の促進でもありません。人間としての人間、尊厳ある人間の促進と高揚です。

パウロ六世はこう言いました。世俗の人間中心主義(ヒューマニズム)が公会議にぶつかると、「強大な共感」がわき起こった、と。

(この項、了)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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