Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「人々の為にこれほど愛する聖心を見よ。人々をこれほど愛した聖心は、この私はその御礼に、人類の大部分から、忘恩と冷淡と無関心と冒瀆とだけを受けている。」

2020年09月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月30日、聖霊降臨後第13主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨後第13主日で、福音では「10人のライ病患者が癒された。そしてきれいになった」という話を、史実を読みました。

そこで私の思った事は2つあります。もちろん、私たちは霊的に癒されて、そしてイエズス様から赦されて、罪の汚れから浄められた、霊的なライ病を持っていた者ですけれど、それが浄められた者です。

ですから、このサマリア人に倣って感謝したいと思いますが、まず第1点は、このサマリア人のした態度が、とても素晴らしいと思うのです。

まず、こう治った事が気付くと、それに感動して、大きな声で、「ああ、治った!わあ、嬉しい!ありがとうございます!」と言って、その道すがら天主様に感謝して讃美しつつ、イエズス様の前の所までやって来ます。

そして何をしたかというと、イエズス様の所に、ラテン語では“cecidit in fáciem ante pedes eius”「顔を地面にくっ付けて、平伏して、そしてイエズス様の足元の御前でそうやった」とあります。

まさにこれこそが、私たちが主イエズス・キリストに対して取るべき態度です。私たちもミサの時に、このような態度を取らなければなりません。私たちが受けた御恵みがあまりにも大きいので、あまりにも巨大な愛を受けているので、そのような愛、恩人の前で、感謝をどうしてもしなければなりません。

その感謝の為には、ただ声を大きな声を出して、「ありがとう!」と言うのみならず、態度でそれを示さなければなりません。そしてその態度は、全世界共通の態度です。日本でも、そしてイスラエルでも、そしてアフリカでも、フィリピンでも、中国でも、それは頭を地面に付けて、そして跪いて、「イエズス様、ありがとうございます」と申し上げる事です。

ですから、古代からカトリック教会ではいつも、御聖体、ミサの時にイエズス様に感謝する為に、私たちは跪いて、イエズス様を礼拝してきました。御聖体拝領する時にも必ず、跪いて、口で拝領してきました。感謝と礼拝の態度だからです。当然の事です。

今日のサマリア人は、私たちにそれを教えています。

第2に思った事は、感謝する人々はあまりにも少ない。

お願いをする時には、イエズス様をもちろん信じて、イエズス様の力を信じて、10人の人たちがお願いしました、「先生、イエズス様、私たちを憐んで下さい」と言ってきました。しかし10人の内で感謝したのは、たった1人。

『キリストに倣いて』においてもあります、「最後の晩餐に行ったのは12人だけれども、しかし十字架の下に行ったのは、ほんの1人しかいなかった。イエズス様と一緒に楽しい事をするなら、お願いをするならば、御恵みをもらう事ならば、皆でやるけれども、でも最後まで行くのは、ほんの少ししかいない」と。

昔から、そして今でもそうだったようです。

そしてイエズス様は、今から400年前にも、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに言いました、「この人類の為に、人々の為にこれほど愛する聖心を見よ。この聖心は、人々を愛する為に何も惜しまなかった。すべてを全く空にして与え尽くした。そして自分を燃え尽くして人類を愛した。そしてどれほど人類を、人々を愛しているかという事を見せたかった。そしてそのこれほど愛した聖心は、この私はその御礼に、人類の大部分から、その恩を受けた大部分から、忘恩と、冷淡と、無関心と、冒瀆とだけを受けている。」

つまり誰も、ほとんどの人から感謝もされずに、「ありがとう」とも言われずに、しかも悪い態度で、あたかも敵であるかのように、「あっちへ行け!シッシッ!」と言われて、大恩人がそのように取り扱われているという事を嘆いて、悲しんでいます。

イエズス様が仰るには、聖心が仰るには、「敵からそう受けているのではなくて、私に奉献された霊魂たちから特にそうされているので悲しい。カトリック信者のみならず、聖職者、司祭たちから、修道者たちから、そのような冷たい態度を取られているので悲しい」と、「だから少なくともお前は、私の心の聖心を慰めて欲しい。感謝して欲しい。礼拝して欲しい。償いを捧げて欲しい」と、お願いに来ました。

そしてイエズス様は今でも、それを仰っているに違いありません。

愛する兄弟の皆さん、是非イエズス様をお慰めする為に、イエズス様をお愛しする為に、イエズス様に感謝を申し上げる為に、私たちの当然あるべき態度を示す為に、聖伝のミサに与って下さい。

東京と大阪でミサが毎週捧げられています。どうぞこのミサに与って、跪いて、イエズス様を礼拝して下さい。イエズス様を、跪いて、口で聖体拝領して下さい。そして感謝と愛を見せるようにして下さい。

それのみならず、イエズス様にそうして当然の人たちから受けている冷淡や、冒瀆や、無関心、忘恩、恩知らず等を償う為に、そしてまた私も過去、どれほど冷淡だった事でしょうか。私の過去はどれほど無関心で、どれほどやり方が悪かった事でしょうか。イエズス様の事を感謝しようともせずに、「ありがとう」とも言わずに、また冷たくイエズス様に機械的にお祈りをしたり、「あぁ、義務だから」と言って冷たい態度を取ってきた事がどれほどあるでしょうか。

それを償う為にも是非、愛を込めてラテン語の聖伝のミサにいらして下さい。イエズス様はどれほどそれを見て、慰められる事でしょうか。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。






「助産婦の手記」46章 『結婚は、実に生命共同体ですよ……』

2020年09月09日 | プロライフ
「助産婦の手記」
 
48章
 
猛烈な住宅難の折柄、私は自分の小さな家の一部分を護ろうと決心した。私は、ほかの人々が、自分の家族のために巣を見つけることができないでいるのに、必要以上に広い場所を持っているということに気がひけた。私たちは、地階のふた部屋を片づけ、そして物置部屋を、水と流し口のついた料理のできる臨時台所に改造した。私は、いやしくも一家族が、正しく暮して行くためには、小さくてもいいから、誰ものぞき込まない自分自身の台所と居間とを持つことが必要であると見ている。
 
その住居(すまい)は、早くも一組の夫婦者に割り当てられた。もし、それが正しい人たちであり、そして、もし子供たちが生れるなら、私は彼らに対してさらに、屋根裏のふた部屋を漸次譲ってやりたいと思っていた。私と妹だけの老人二人は、もうその程度で甘んじることができる。
 
間もなく、その夫婦者のブミラーさんが引越して来た。正午頃に彼らは盛装して階段を上って来て、自己紹介をした。彼らは、何でも物事を適当に心得ているということをおおっぴらに示そうとした。しかし、私には彼らが階段を上って来るのに、女の方は新しい粗(あら)びろうどの外套をまとい、そして男の方は、シルクハットを被っていたのが滑稽に思われた。何分、子供たちを喜ばすのは、小さなことで足りるものではある……
 
『よく住み慣れなさると宜しいが。』と私は、その若い奥さんに言った。『とにかく、私たちのところは、非常に静かで平穏なんです……』
『私たちは、少しもお邪魔をしないでしょう。主人は鉄道に勤め、そして私も職業をつづけます。お昼には、私たちは職場の酒保で食事をします――または、多分ほかのどこかでも。そして晚には、非常にたびたび留守にします。ここでは実際、何も致しません。悲しい巣です。 というのは、私たちも、まあZ町の劇場、映画と音楽会、またはカフヘーに行くことができるように、鉄道の定期券を買うつもりだからです。』
『それでは、あなたは今後も、事務所に行こうと思っていらっしゃるのですか? 私は、女というものは、そんな精神のない仕事から抜け出すことを――自分の巣を作ることを喜ぶものだと考えていたのですが……』
『私は、何よりも私の個人的自由を、私の独立を護りたいんです。いつも夫に養われていなければならないということは、実に恐ろしいことです……』
『それでは、あなたは一体なぜ結婚なさったんですか? そういうことなら、私だったら、独身のままでいるでしょう。結婚と同時に、あなたは、あなたの独立の九〇パーセントは失ってしまったのですよ……』
『私たちは、そのことをちょうど今、お互いに試験しているんです……』
『その試験は、結婚については、そう簡単なことではないように私には思われますね。結婚は、実に生命共同体ですよ……』
『それは非常に古くさい観念ではありませんか? 生命共同体? そういう考えの人では、誰が朝になって、その共同体が、なお自分の気に入っているかどうかを言おうとするでしょうか? その共同体が、彼にとって朝でもなお、その性的欲望の満足のために適しているかどうかを言おうとするでしょうか? 人は、その見解を変えて行くものですよ……』
『で、もし子供が出来たら……』
『そんなことは、もちろん、ないようにするんですよ。私たちはそんなことに、かかわっていることは出来ません。私たちが若い限りは、私たちの生活から何ものかを得ようとしているのです。そして子供といったような負担は、真っ平です。恐らく十年間は……』
 
翌日、私は村長に、借家人を取りかえて下さるように依頼した。もともと私は、子供のある家族を希望すると、はっきり言っておいたのであった。
『ああリスベートさん、あんたは旧式な女ですな!』と、村長は言った。『家の中に子供の喧ましい騒ぎがないということは、喜ばしいことじゃありませんか。ほかの人たちは、そんなことは真っ平だと、極力ことわるんですよ。』
『それは、ほかの人たちの勝手です。で、今でもまだ子供を育てたいと思っている夫婦たちが、もう殆んど住居を見つけることができないため、仕方なしに浮浪生活をはじめているのです。私は、その責任を一緒に負いたくないんです。それよりか、家の中に子供の叫び声がある方が結構なんですーほかの人たちが、住宅難のために、不道徳なことをせねばならぬようになるその責任を、こちらで感じて、そのために良心の苦しみを受けているよりは。』
 
村長は、住宅課の課長さんを呼んだが、その課長とはシュテルン氏の自称するところであった。『ははあ、それはお助けできるでしょう。』と彼は言って、サタンのように歯をむき出して笑った。『ヘルマンの奥さんが、私の家に駈け込んで、自分のところの借家人を追い出したいと言うのです。なぜなら、間もなく四人目の子供が生れるからというわけです。だから、あなたは、その人たちと交換できますよ……』
ヘルマンさんの家には、きちんとした人たちが住んでいる。子供が生れる家の様子については、助産婦というものはよく知っている。そこで私は、その交換を承諾した。しかし、私のところの借家人は、それに反対して、事は急速には運ばないようだった……
 
地階の夫婦間の調和は、長くは続かなかった。というのは、そんな生活を長い間つづけてやって行くには、彼の給料は少なすぎるし、彼女の給料も十分多くはなかったのに、彼らは、お昼ごとにレストランで食べ、每晚、殆んど町に出かけたからだ。――やがて、ある時は一方が、ある時は他方が、ある時は両方とも、家にいなければならぬ時が来た。彼らは、別々の会計をやっていた。もし財布が空になると、面白くなくなった。そこで彼らは、支払日がまたやって来るまで、互いに改革案を提出した。ところが、その後は、また元の通りになった。さて、それから本当に間もなく、地階から異様な騒音が、上にいる私たちの方へはげしく聞えて来た。あたかも拳(こぶし)でテーブルをたたきドアをバタンと閉め、器物を投げつけるかのような騒ぎであった。間もなく、雷のような男の大きな声がひびいた。
『もし君が、僕の言うようにしないなら、僕は別れるよ! 餓死に瀕するなんて、もう沢山だ……』
間もなく、高いソプラノが、はげしく叫び立てた。『私は圧制を受けたくないわ! 私は、あなたの気まぐれを辛抱するのには、もう飽きあきしたわ! 結婚すれば、誰がお金の心配をするんですか、夫か妻か?……』
『誰が家事をやって、食事の世話をするんだよ、ええ?』
『では、断然別れましょう……』
このようにして、地階では、お互いに対する顧慮だとか、譲歩だとか、実情への順応だとか、相手の性格に対して善意をもって自己を適合させることとか、相手の弱点を親切に一緒に担ってやるとかいうことは、全然なかった。夫も妻も、どんな犠牲を払っても、自分勝手な要求をし、自己主張をするより外には、何も知らなかった。お互いに相手の中に性的満足を見るのみで、その外には何ものもなかった。
 
そして幾らも経たないうちに、いかなる彼らも、その官能的共同体には飽いて厭になって来た。一体結婚というものは、ただ情欲の満足以外に、何らかのより高い意義と目的とが、その背後に存在していなければ、本質上、この夫婦のようにならざるを得ない。自然を欺くあらゆる可能な手段が、それに結びつけられているところには、いつかは必ずそういう事態が来なければならぬのである。
 
自然というものは、罰せられることなしには、濫用を許さぬものである。もし濫用すれば、人々は互いに嫌い合うようになることは、いとも簡単な成り行きである。たとえ、彼らはそのことを白状はしないにしても、人々は、もはや互いに愛し合わないようになる。神経質になり、過度の刺激を受け、そして精神錯乱が起る。この神経質と嫌悪とが、ひとたび人間をとらえると、それはあらゆる生活問題に現われて来る、性の問題にだけではない。一体、禍(わざわ)いの根源はどこにあるかということを、人は全く明らかにしないことが稀れでない――その精神錯乱、その離ればなれの生活が、どこから始まったものであるかということを……
『私たちは、別々の生活をして来たのです。そして離婚するんです……』
私の借家人の女の方は、その二人が私の家から引越して行かないうちに、こう言った。『離婚は、双方の合意によって出来るというように、法律を変えねばいけないわ。で、私たちは、訴訟をはじめねばならないんです。』
起訴の理由は、すでにある。酒保のサービス・ガールが、挑発的に短い袖なしの黒い着物を着て、彼と静かな片隅に坐っていたとき、姦通への道が非常に急速に地ならしされた。そのような着物の自由というものは、悪魔の手先きとなって工兵の任務を素晴らしく果たし、そして悪魔をして、ちょっと襲撃しただけで、貞潔の城塞を征服し、汚させるのである。倫理、道徳を真面目に考えない人々は離婚をたやすく行うのである。――
 
今日、不幸な婚姻が沢山ある。それゆえ、離婚がもっとたやすく出来るようにされねばならぬという叫び声がますます高くなる。しかし、実際において、そのようにして救われるものであろうか? 確かに、すべての人が、私のところにいたあの借家人たちのように、物事を軽卒にする素質をもっているわけではない。そして誰もが、離婚の理由となるものを、そんなに非良心的に作りはしないであろう。また、多くの人は、そんな憐れむべき解消方法をとることを躊躇するものだから、破壊した婚姻共同体をも維持するのであろう。
しかしながら、全体的に一瞥すると、もし婚姻から、その生命共同体としての性格を原則として奪い去るならば、婚姻の絆(きずな)は、さらに一層弛(ゆる)まないであろうか? そうすると、もし気に入らなければ、またもや別れるまでだというような考えをもって、人々は、もっと『それをお互いに試験』して見ようとはしないであろうか? そうすると、勝手気ままとか利己主義というものは、もっと大きくなりはしないだろうか? 或いはまた、妻は、またもや夫を失うかも知れぬという心配のみからして、夫に対して全く不名誉な奴隷状態に陥らないであろうか? 私たち婦人は、夫婦間の一層強い結合は、常に私たちの側に責任があり、また今後もそうであろうということを忘れてはならない。
私たちは、結婚改革問題についてもまた、要点を誤っているように、私には思われる。私たちは、病んでいる樹木の根を治療する代りに、その尖端を切断する。私たちは、むしろ結婚に対して、より大きな尊敬と、より深い評価とを与えるように努むべきではなかろうか? 人間の心の中に、より高い責任感を呼び覚まし、彼らをして自然に則した生活のみが、結婚において永続的な幸福をもたらし得るものだということ、および、結婚前の正しい純潔は、結婚後において、濁りのない相互尊敬が存続するために必要であり、そしてこの相互尊敬からしてのみ、真の深い愛情と、親切な思いやりとが生じ得るものであるということを、確信させるべきではなかろうか?
 
私たちは、こう言ってはいけない――人間は、もはや理想のために努力しようとしないのだから、我々は理想の程度を引き下げねばならないと……私たちは、あえて人々にこう言わねばならない、『もしあなた方が、結婚の高い神聖な理想をば、しっかりと全力をもってつかみ、かつ実現しようと思わないなら、結婚から手をお引きなさい』と。
 
私は多くの破滅した結婚を見て来た。結婚を破滅させる最初の、かつ最も深い原因は、主として、子宝を防止すること、および婚約をする際において、すでに正しい相互尊敬が欠けていることとであった。相手の配偶者の責任によって不幸になった婚姻の数は、少なかった。こういう場合の離婚は、今日でも可能である――もし、しばしば起きるように、咎のない方の配偶者が、他方の落度にも拘らず結婚を持続しようと思わないならばである。
 
そこで、私は信じるのであるが、もし私たちが、物事の根本をつかみ、そしてまず婚姻取結びのための他の前提条件、すなわち婚姻に対する現在のとは違った態度を作るのでなければ、結婚生活の改革については何も達成することはできないのである。人々は、永続的生命共同体というものの深い全意義をつかみ、そして自分の生活を、それに従って形づくるように努めなければならない。 




ヴィガノ大司教「カトリック教会内部においても、イエズス様はその王冠を奪われている。」

2020年09月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月16日、聖霊降臨後第11主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆さん、昨日は聖母被昇天の大祝日でした。

私たちはマリア様が天に凱旋されて、そして遂にイエズス様から、王の王であるイエズス様から、女王としての、天地の元后としての王冠を得られて、天使たちそして聖人たちが、この天地の女王である元后であるマリア様を天国に迎えて、大歓迎して、そして大歓喜の内に喜んだ、という被昇天の玄義を黙想致しました。肉体と霊魂も天に上げられたマリア様のその栄光を黙想しました。

その翌日の今日、この続きで、マリア様がこの栄光を、女王としての元后としての権利と権威を受けた、その「誰から」受けたか、という事を黙想致しましょう。

実は、「イエズス・キリスト様から」受けました。何故かというとイエズス様は、「天主の本性」によって、そして「贖い」という征服によって、「悪魔に打ち勝った」という贖いの業によって、私たちの天地の王であるからです。王の王であって、そして信じる者のみならず、全人類の王として統治する権利と、その力を持っているからです。

これはカトリックの信仰のドグマです。ピオ十一世教皇様が、「この『イエズス・キリストが王である』という事を、必ず全国際社会が認めなければならない」と強く訴えておられました。

ところで、この「イエズス様が王である」という事は、現代忘れられてしまっています。

つい最近、イタリアのマルコ・トサッティというジャーナリストとのインタビューの時に、ヴィガノ大司教は、引退教皇様であるベネディクト十六世の書いた論文において、「今、聖職者たちの間で道徳的な基準の弛緩がある、道徳の基準が緩んでいる。そしてそれが教会中に広がっている」というのを見て、「これは、公会議の精神と関係がある」と、教皇様は指摘しました。

ヴィガノ大司教様は、「確かにその通りであって、なぜこのように道徳の弛緩があり、信仰の弛みが生じてしまっているかというと、何故ならば、イエズス・キリスト様が王冠を奪われているから、その王座から追い払われているからだ」と言います。

「現代社会の世俗社会においてのみならず、教会内部においても、イエズス様はその王冠を奪われている。王として認められていない」と指摘しています。

まさに、そこにこそ核心があります。まさにそこにこそ、私たちの問題の、究極の問題があります。何故かというとヴィガノ大司教によれば、例えば“Dignitatis Humanae”『人間の尊厳に関する宣言』等によって、「人間は天主から独立して、自立した空間を持つ事ができる、そんな権利がある」などと言っています。

被造物の分際で、「王から独立した自立的な空間を、私がエンジョイする事ができる」あるいは、「どのような宗教であっても、公にその自分の宗教を信じる事を表現する事を、例え悪魔を信じるものであったとしても、その他のどのようなものであっても、公権力によって妨害されない権利がある」と、カトリック教会の教えていなかった事を教えています。「人間の権利として。」

ですから、「イエズス・キリストを王座から追い払って、人間がその王座に付いている」と指摘するのは、確かにその通りです。

そればかりではありません。イエズス・キリストが唯一の君主として、王の王としてあるのであるから、その代理者である教皇様も、教会の王でなければなりません。教会は君主制として、1つの頭の下にあるものとして作られました。

しかし、司教団体主義によって、コレジアリティによって、「教会には今、頭が2つある」とされています。「教皇様」と、もう一つの頭は「教皇様を含めた司教団」です。この2つが、全教会に対する最高の権利を持っている、権威を持っている、統治権を持っている、とされています。

「これによって、イエズス様の王位は失われた。だからこれを、」ヴィガノ大司教は「回復しなければならない」と訴えています。

では、どうしたら良いでしょうか?

私たちのできる事は、このイエズス様の王位がまた、カトリック教会に戻るように、全世界に戻るように、償いの国際十字軍を継続したいと思っています。シュナイダー司教様が訴えて、そして始められたその十字軍を、私たちも更に続けていきましょう。

何をしたら良いでしょうか?3つあります。

⑴昔ながらの、聖伝のラテン語のミサに与って下さい。ここにこそ、カトリック信仰の真髄が、何も変わっていない本質が凝縮されています。日本では東京と大阪に、毎週主日にミサがあります。東京では午前中、大阪では午後の18時から。

⑵そしてロザリオを唱えて下さい。できれば家族で、ロザリオを唱えて下さい。

⑶最後に、ファチマで天使が教えてくれたお祈りを致しましょう。

そしてイエズス様が王としてその地位を確立しますように、マリア様が、天に上げられたマリア様が私たちを助けて下さいますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



【拡散希望】ヴィガノ大司教とタウシグ司教との二つのパレーシア(臆することなく発言すること):ヴィガノ大司教のサン・ラファエル教区の神学校の閉鎖に関する手紙

シュナイダー司教様は、天主を侮辱するこれらの罪の償いのため、ファチマの天使の祈りを祈ることを呼び掛けておられます。

Bp. Schneider: Join me in crusade of reparation for sins against Jesus in Holy Eucharist

Bp. Schneider: Join me in crusade of reparation for sins against Jesus in Holy Eucharist

In the current so-called COVID-19 Pandemic Emergency, horrible abuses ...

LifeSiteNews

聖ピオ十世会では聖伝のミサの後の感謝の祈りとしてファチマの天使の祈りを唱え続けます - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、恵みにあふれた2017年もあと一日を残すところとなりました。いかがお過ごしでしょうか。...

聖ピオ十世会では聖伝のミサの後の感謝の祈りとしてファチマの天使の祈りを唱え続けます - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】